木陰の下に入った長月は女の子と向かい合って座った。

「姉ちゃんはなんの役がしたいの?」

「そうね。なんの役がいいのかな?おままごとはあんまり遊んだことがないから、教えてくれる?」

「そうなんだ。じゃ、姉ちゃんにびったりな役はやはり、冷蔵庫の中に冷凍されたお肉の役だけどね。きっとおいしいお肉になれると思うの」

「それはどうもありがとう。……私がお肉の役ならあなたはなんの役を演じるの?その隣にいるひき肉の役?」

「姉ちゃん、冗談がうまいよね。もちろん、ひき肉の役ではなくお肉を食べる役だよ」

言ってから、女の子は笑い出した。かわいい笑顔から洩れる笑い声は人の背筋がぞっとするほどのすごさがあった。

「でもまさか、こんなところで、あなたみたいな黒魂に出会えるなんて、私はついていると思うよね。探し求めていた強いやつに出会ったのだから、私はもしかして幸運に恵まれているかも」

「姉ちゃんの最後かもしれないけど、それでもついていると思っているの?これは幸運じゃなくて不幸じゃない?」

「それはどうかな。でも、よく考えてみると、ひき肉の役をやるより、あなたは私に食べられる黒魂の役の方がもっとびったりと思うよね」

女の子はじっと長月を見据えてから、再び話し出した。

「まぁ、そんなことで言い合うのをやめた。ほかに役者がいるから、呼んできてもいい?姉ちゃん」

「もちろん。お構いなく、どうぞ。多ければ多いほどにぎやかで楽しいから」

長月の返事を聞いてから、女の子は目をつぶって、唇を動かした。何を言っているのかは聞き取れないけど、大変なことが起こったのはわかった。なぜなら、女の子の体から、黒魂が出てきたから。黒魂は全部で三匹現れた。

女の子は目をあけて、黒魂を紹介してくれた。

「これは父ちゃんの役、これは母ちゃんの役、そして、これは弟の役。覚えたの、姉ちゃん?おままごとの基本は役に忠実することと、役者をちゃんと覚えることだよ」

「覚えたよ。つまり、この三匹の黒魂を全部食べないと、あなたには触れないってことだよね」

「姉ちゃん、そんな物騒な言葉は口にしないでよ。私はまだ子供だよ」

「あなたが先に話したのよ。……でも、本能って怖いよね。この時代に生きている黒魂は私の姿など知るはずないのに、一目みただけで、分かるんだから。やはり私たちは運命の糸で結ばれているのね。赤い糸ではなく黒い糸みたいな」

「私もそう思ってるよ、姉ちゃん。姉ちゃんの見た瞬間、心にある欲望が生き返ったような気がしたの。こんなにも何かを食べたいという衝動が私の心にあるなんてわからなかったもん。ただ、この黒魂達の楽しくおままごとをしながら残りの時間をつぶしたいと思っていたのに」

「しかしへまをしたんじゃない?昼だど、あなたの力も百パーセント使えないでしょう?力が減った状態で私を呼び止め、本当に大丈夫?夜に襲い掛かったほうがもっとよかったんじゃない?」

「大丈夫だよ。だって、今のままでも姉ちゃんに勝てる自信はあるんだから」

「そうなの。じゃ、姉ちゃんは手加減しないからね。覚悟しなさい」

「そういうことなら、私が手加減してあげるよ、姉ちゃん」

長月は立ち上がり、後ろに何歩下がった。周りを見ると、先までいた子連れの主婦もいつの間にか、いなくなった。周りに誰もいないほうがもっと、都合がいい。後で、記憶を消すのも面倒だから。

長月がまた何かを話そうとしたが、三匹の黒魂が自分の周りに駆けつけてきた。三匹の黒魂は同時に攻撃を仕掛けてきた。

長月はすぐ髪で三つの束をつくり、三匹の黒魂を攻撃に対応した。

黒魂たちの攻撃は鋭かった。だからと言って、長月の髪の防御を破るほどでもなかった。かといって、長月も簡単に黒魂たちの攻撃を突破できる状況でもない。思った以上の強さで長月は防御しつづけている。一見、不利の状況に置かれているようにも見えるのだが、長月は打開策をちゃんと考えている。

考えるうちに、黒魂たちの攻撃がますます激しくなってきた。

長月は、かわすチャンスも、反撃するチャンスも逃し、膝を抱え、髪で自分の身を包み、球を作た。防御の姿勢に入った。

三つの黒魂の攻撃はしばらく続いた。髪の球を打ち続けたが、長月はなんの反応も示さなかった。髪でできた球の中は安全だから。

髪が守っているから、長月が受けたダメージはゼロに等しかったけど、このまま攻撃を受けるだけだと、戦いが長引くことになるのに気付いた。

このままだと、埒が明かないので、長月は反撃を開始した。

何本かの髪を使って、三つの黒魂に向けて突き刺した。一部の髪を武器に使った代わりに、球に穴が開いて隙ができた。

三つの黒魂は思ったよりすばやい動きで攻撃を停止し、長月の髪の攻撃をかわした。そして、隙のできた球に拳を飛ばした。髪の球にある隙をこじ開けるように拳を押し入れた。長月はもちろん黒魂たちの腕が入るのをただみていたのではなかった。すぐ隙を縮めた。黒魂たちの腕はすぐ切断された。

痛みを感じない黒魂たちは、切断された腕をぼうっと見つめた。間もなく、切断面から黒い煙が上がり、新しい手が生えた。

「姉ちゃん、私の家族は丸ごと食べないと再生するよ。あんな甘い攻撃じゃ、ダメージはちっともないんだからね」

傍らで観戦している女の子の声が響いてきた。

「そうなんだ、いい情報ありがとうね。じゃ、さっそくあんたの言ったとおりにしてみるわ」

長月の髪の球にできた三つの髪束を足のように動きだし、弟役の黒魂に駆け寄った。一匹ずつ食べるつもりだ。

父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂は長月の動きを見て、すぐ妨害しに走ってきた。

しかし、一足遅かった。

父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂が近づく前に、弟役の黒魂は髪の球に食べられた。球の中にある長月が食べようと息を吸うと、弟役の黒魂は抵抗した。狭い髪の球の中で拳を上げ、長月の頭目掛けに振り下ろした。長月は手で軽く払いのけた。弟役の黒魂はそれ以上攻撃ができなくなった。無数の細い髪の毛が体を巻いたから。

「おいしくいただくね」

長月は外にいる女の子が聞こえるように、わざと大声で言った。それから、黒魂を吸い込んだ。弟役だからほかの二匹より弱かったのもあって、あっさりと決着がつけたのかもしれない。今、外で自分の髪の球を攻撃する二人の攻撃はますます激しくなった。まるで本当の子供を殺された親が暴れているようだ。

攻撃だけが上がった二匹の黒魂を真っ向から立ち向かうと決めた長月は髪の球を解けた。究極の防御を解けたが、勝てない相手ではない。

長月は髪を二分に分け、ドリルの形にし、黒魂たちの攻撃を攻撃で立ち向かった。黒魂は左右から攻めた。長月は二つの髪のドリルで黒魂たちの拳や蹴りを打ち払った。長月は力いっぱいで打ち払ったつもりだったけど、黒魂たちの腕や足を打ち砕くことはできなかった。やっぱり、弟役の黒魂とは違う。打ち砕くことができないなら、切断することしかない。

長月は髪が黒魂の体に触れるたびに巻きつく機会を狙ったんだけど、黒魂も長月の考えを呼んだかのように、そんなチャンスを与えなかった。

ぶつかり合った拳と髪、足と髪。長月はまきつこうとする。それを巧妙に避ける二匹の黒魂。

このすべてを、後方でじっと見ていた女の子は立ち上がり、戦っている長月に向かって歩き出した。

「姉ちゃん、余裕みたいね」

正直に言って、余裕まではいかなくても、長月は負けない。

「もちろんだよ。これしきの黒魂に私がやられるわけがないよ。さっさと終わらせてからあんたを食べるから、待っててね」

昨日の夜、十分寝たので、長月の体力回復はちゃんとできた。それに、今しがた吸収した黒魂の力も少しずつ体に溶け込んできた。

「じゃ、黒魂が増えても、姉ちゃんにとっては、なんの問題もないわけだよね」

「そうだよ。増えれば増えるほど、私的にはありがたいね」

長月の答えを聞いた女の子は笑った。

「それでは、家族をもっと増やすね。私の大家族を紹介する」

言葉が終ると同時に、女の子の体から、続々と、黒魂が出てきた。

「これは婆ちゃん、これは爺ちゃん、これは叔母ちゃん、これは叔父ちゃん、これは兄ちゃん、これは姉ちゃん、これは妹、これは従兄弟。これくらいなら、月の姉ちゃんをやっつけるのに、十分じゃない?」

数を数えてみるとちょうど十匹はある黒魂は、隙間がなく長月を取り囲んだ。長月はもう一度、髪の球で防御体勢に入ったのは、黒魂たちが一斉に攻撃をしかけた時だった。

たとえ黒魂を全部吸い込んだとしても、女の子はすぐ新しい黒魂を作り出すから、厄介なことになった、と長月は舌打ちをした。

女の体から出てきたたくさんの黒魂は、本体から切り離された黒魂なので、攻撃力はそんなにいないと思ったけど、そうでもなかった。父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂並みの攻撃力を持っている。本来、本体から分離された黒魂の力は数が多ければ多いほど、攻撃力も下がるのに、この黒魂たちは違うみたい。

長月はずっと髪の球の中に隠れていてもいいが、早く、片付けないといけないと思い始めた。

なぜだか、力が少しずつ失っていく気がした。その変わり、黒魂たちの攻撃の力が

「月の姉ちゃん、自分の立たされた立場が漸く分ったみたいだね」

「どういう事?」

「私の家族は月の姉ちゃんの力を少しずつ吸い込んでいるのよ。だから、月の姉ちゃんがあの髪でできた盾の中に隠れていたら、結局負けてしまうのよね」

そして、黒魂たちに声をかけた。

「私の家族のみんな、頑張って!」

女の子の言葉にこたえるかのように、黒魂たちの攻撃は一層、激しくなった。

長月は地面に足をつけた。そして、髪を四方に伸ばした。ちょうど、開かれた傘のようにみえた。伸ばされた髪は、伸縮しながら、周りの黒魂を攻撃した。長月の足を狙っても、頭のてっぺんを狙っても、全部、髪ではねかえした。

「なら、私も本気を出してもらうわ」

長月は髪の毛を何十本に作り、攻撃をしてくる黒魂たちの拳や足に対抗した。黒魂たちの体に突き刺さった髪は刺さったまま、抜けられなかった。黒魂がどんなに引っ張り出そうとしても、できなかった。

女の子は一番近くにある黒魂の前まで走り寄って様子をみた。

「わかった?私の髪っていいでしょう?」

よく見ると、長月の髪の先端は釣りフックの形になった。だから、黒魂がいくら引っ張っても抜けなかった。

「抜けないならそのままでいいの。これって月の姉ちゃんも逃げられないってことでしょう」

女の子がの話が終わると、黒魂たちは体を貫いた髪を気にもせず長月に向かって走った。円の中心にいる長月は逃げることはできなかった。髪の毛は長くないから黒魂たちはすぐ攻撃できる範囲まで近づいてきた。

長月は焦った顔は見せなかった。

彼女の髪は持ち上げてから強く地面に叩き込んだ。これを何回か繰り返すと黒魂たちの動きも鈍くなった。

長月は、ゆっとりとした足取りで、女の子に近づいた。黒魂たちを空中に持ち上げたままで。

「あなたの家族をいくら出しても、結果は同じよ。だらか、大人しく私に食べられてはどう?」

「いやよ!」

女の子はまた家族という黒魂を呼び出そうとした。それより早く、長月は女の子の目の前について、髪で女の子の体を巻きつけ、持ち上げた。

「さあ、黒魂の本体はどうやら、あなたの執念によって、勝手にでられないみたいね」

「私を放して!」

女の子は抗ったが、髪から抜け出すことはできなかった。

「でもね、あなた。黒魂の本体を自分の心に閉じ込めて、その力を使うことができるってことは、あなたの精神力はとても強いってことよ。こんな、罪の塊みたいな黒魂とあそばなくてもいいじゃない?」

女の子は黙ったまま何も言わなかった。

「あなたに何があったのかは聞かないよ。でも、黒魂を食べることは確定だから、恨まないでね」

こういって、長月は一本の髪を女の子の額に刺した。黒魂の本体は何のダメージを受けていないので、息を吸うだけでは女の子の体から引き離すことは無理だ。

長月はその一本の髪に自分の力を注ぎ込んで、黒魂の力を弱まらせた。そして、ずいぶん弱まったところを狙って息を吸った。すると、女の子の体から、黒魂が現れ、長月に吸い込まれてしまった。

長月は女の子をそっと地面に置いて、残りの黒魂を全部吸い込んだ。

女の子は芝生に倒れて、しゃくり出した。

「みんな、私の事を嫌っているの。だから、一人でおままごとをするしかないの」

長月はしゃがみ、女の子の頭にそっと手を置いて、優しく撫でた。

「大丈夫。今は友達や家族がいなくても、この先にはきっと、あなたが望んでいる温かい人の心を感じれる未来が訪れるから。だから、その強い心で、前に進んで。……それにね、あなたが、黒魂を自分の心の中に閉じ込めなければ、私には勝算などなかったよ?」

「本当に?」

女の子は長月の慰めに、少しは気分を落ち着かせたようだ。時には嘘も方便。

「うん、本当。だから、家に帰ってね。そして、希望を捨てないで」

「うん」

女の子は目じりの涙を拭いて、たち上がった。

「月の姉ちゃん。ありがとう」

「お礼を言われるほどの事など、していないよ。あなたは十分強いだから、自分の事を信じて。たとえ、他の人に好かれなくても、自分が自分の事を大事にすればいい。いつかきっと、あなたの事を好きになってるくれる人はあらわれるよ」

女の子は力強く頷き、長月に別れの挨拶をして、どこかへ走り去っていった。

意外と、強力な黒魂を吸収できたことに、長月はすこし嬉しくなった。だから、気分がよかったので、優しい言葉をかけたのだった。

マスオは部屋のベッドに坐り、布団をかぶった。熱い夏の夕方なのに体はなぜか寒い。恐怖が人に与える影響がこんなにも強いものだとは、マスオは今はじめて感じた。

手にはアツコが作ってくれた折鶴を握っていた。アツコの顔を思いだすと、心がなんだか温かくなってきた。それに、折鶴からもなぜかぬくもりが伝わってきた気がした。

「マスオ、晩ご飯だよ」

フミヨの呼ぶ声がドアの向こうからした。マスオはベッドから降りてドアに向かった。ドアを開けるのが怖かった。開けたら昨日みた黒魂が現れるのが怖かった。

震える出てドアのノブを握り、少しずつ回した。ドアをちょっとずつ開けた。幸い、黒魂は見えなかった。目に入ったのは困惑した顔のフミヨだ。

「どうしたの?あんなドアの開け方は?」

マスオは不自然な笑顔を顔に浮かべた。

「なんでもないよ」

「ふ~ん、昨日からなんか変な真似をするね。何があったの?」

さすがに母親。子供の異変にすぐ気づく。

「な、何でもないよ!早く晩ご飯を食べよう」

マスオはさっさと食卓の前に坐って晩ご飯を食べ始めた。

家に帰ってからずっと緊張していたせいか、食欲はとても旺盛だった。

「ご馳走さまでした」

晩ご飯も食べ終わって自分の部屋にこもったマスオはまた布団で自分の身を包んだ。時間がこのまま止まってくれと、心のなかで何度も何度も神様に願ったけど、願いは叶わなかった。恐怖が来たり行ったり、心が持ちそうになかった。

宿題もやらず目をつぶっているとフミヨの呼び声が聞こえてきた。

「マスオ、お風呂に入っていいよ」

恐怖が一遍に全身を駆け巡ることを味わった。このままここにいたら、黒い影はこっちにきて、むりやり、服をはがすに違いないと思ったマスオは、昼間、アツコから貰った折鶴のお守りだけしっかりと握ってベッドから降りた。今朝、引き出しに隠した小さいハンマーもズボンのポケットに隠して風呂場に入った。

マスオは服を脱がずに、黒い影がくるのを待っていた。マスオは左手に折鶴を、右手にはハンマーを。

でも、なぜか、いくら待っても、黒い影は風呂場に現れなかった。

最初は喜んだけど、すぐに、顔は曇ってしまった。もしかしたら、別の部屋で自分の待っているかもしれないと思ったからだ。

お風呂場を出て、自分の部屋のドアを少し開いて、中を覗きこんだ。

中には誰もいない。

そして、フミヨの部屋に歩いていってノックした。

「入っていいよ」
ママの声から、何の異変も起こってないことがわかった。

「どうした?マスオ」

「お休みなさいを言いに来ただけなの」

「そうなの。お休みなさい」

ドアを閉めようとしたマスオをフミヨは呼び止めた。

「ちょっと待って!」

「どうしたの?」

「お風呂、まだだね?」

「今から入るの」

「今まで何した?」

マスオは答えずもう一度、挨拶をしてドアをしめた。

ママの部屋のドアを閉めてから、マスオは自分の部屋に戻った。

どうやら、今のところ、黒い影は来ていないみたい。

マスオは再び布団で自分の身を包んだ。

もしかして、本当にアツコのお守りのお陰かな?マスオは本気でこう思い始めた。

でも、今時に巫女なんて、ありえないじゃない?肯定の思いが浮かぶと、なぜかすぐ否定の思いも駆けてくる。

いやいや、僕がみたあの黒い影のほうがもったありえない。つまり、アツコが作ったお守りは本当に力があって、アツコは本当に巫女ってこと?

マスオはどうすればいいか、思い悩んでいる。

もしかしたら、あの黒い影は今夜ここに来ることを忘れたから、来なかったのかもしれない。もしくは、遅くくるかもしれない。ネガティブな考えが頭の中で徘徊した。やっぱり、人は崖っぷちに立たされると、ポジティブよりネガティブの方が有利な立場に立つ。

そうしている内に、瞼が段々重くなってきた。マスオは眠りに入った。
目的もなく、長月は行き先を足に任せて、街を歩いた。周りに並ぶ店や建物を眺めながら歩くのも楽しいもんだ。

さすがに、強い黒魂だけあって、力を全部吸収するには、時間がかかる。しかし、この黒魂を吸収し終えたら、戦いの時、髪はもっと長く伸びられる。攻撃範囲も今よりもっと広くなれる。強くなった姿を想像したら、長月の顔には自然と笑顔になった。

どれほど歩いたかわからなかった。長月には時計がないから時間が計れなかった。事故は前触れもなく起こるように、長月は急に襲ってくる空腹感を感じた。

早く何かを食べないと、と思いながらも、どうすることもなかった。まず、長月にはお金がない。それに、黒魂がない(弱いやつはいるが、長月の目には入らなかった)。強い黒魂を吸収してるせいか、力の消耗が激しい。

お腹がすいて、歩く力もなくなったので、近くにある椅子に坐った。よく見ると、椅子はラーメン屋が店外で待つ人に儲けられた椅子だった。待ってる人がいない椅子に長月だけ座っている。なので、ここに坐って、少し休んでも大丈夫と長月は思った。店内から洩れるラーメンのいい匂いが長月のお腹をもっと刺激した。

その時、店内から男性従業員が出てきた。

「お客様、店内に席が空いていますので、ご案内しましょうか?」

自分を客と勘違いしたようだ。明るい声で長月に話しかけた。

お金がないのに、案内されても食べれないよ、と長月は心の中でつぶやいた。

「あっ、すみません。ここに坐って休むだけです。いけなかったんでしょうか?」

「いいえ、いいえ。かまいません。では、ごゆっくりと」

従業員は長月がお客でないことを知ってても、最後まで笑顔を崩さず、店内に引っ込んだ。店の自動ドアが開き、また閉じながら、ラーメンのいい匂いが波のように長月に向かって押し寄せた。ラーメンの匂いを胸いっっぱい吸い込んだ。

長月は消えた従業員の後姿をみながらつぶやいた。

「顔にはあんなにも明るい笑顔を浮かべているのに、心の中にはあんなにも醜い黒魂を宿らせているなんて、人間って本当に怖い。でも、怖い人間があるから、私が黒魂を食べれるからありがたいと思うべきかな」

脳を動かすと、なぜだか、もっと腹減った感じがした。

従業員の心の中にある黒魂は、公園で出会った女の子の黒魂より弱いので、今すぐ食べようとはしなかった。今すぐ食べなければならないのは、食べ物である。

もっと休みたかったけど、ラーメンを食べようとするお客が、長月の傍にある椅子に坐って待っているので、気まずくなって、立ち去った。

長月はそのまま歩き続けた。

気がつくと、太陽と入れ替わりに、月が夜空で輝いていた。まぁ、夜がなるのを気づかないほど気が遠くなったわけでもなかったのだが。

歩いていると、向こう側にあるアパートから覚えのある黒魂の匂いがした。弱い黒魂の匂いだ。少しは興味を持った黒魂だったので、何が起こるかを身に行こうと、長月は決めた。

長月は獲物を見つけた肉食動物のように素早く走りだした。黒魂が見える所まで来た長月の目に映ったのは、昨日と似てる様子だった。あの黒い線で主とつながっている黒魂が見えた。力は相変わらず弱い。ただ、黒魂の動きが変わっているので、長月は何ことかと近寄った。

黒魂はとある部屋に入ろうとしているが、入らずただ外でうろうろしている。よく見ると部屋は結界によって守られていた。

長月の興味は黒魂から結界に映った。今の時代に結界を作る人がいると思っていなかったからだ。

長月はさっそく結界に守られた部屋に向かって走った。

結界に近づいてみると、まだ未熟ではあるが、今、そこにいる黒魂を防ぐには十分であることはわかった。もちろん、ばか強い黒魂はすぐ破ることができる。

好奇心で長月は結界に触ってみると、弾き返された。無理やり壊すこともできるけど、これを壊しても、何のメリットもないので、やめといた。

黒い線で繋がれた黒魂は少し離れた場所で、 長月をじっと見つめた。長月が近寄ってくるのを感じてとっくに間合いを置いた。攻撃されずにすぐ逃げる距離だ。

「どんなに見ても、勝てないのは勝てないよ」

長月の言葉に賛同するかのように、黒魂は逃げ始めた。

「しかしね、昨日は見逃したけど、今日は見逃さないよ。悪いことをしてるところを見てしまうと、見なかったふりはできないからね。弱くても食べちゃうよ」

長月はすぐ、黒魂の後を追った。

黒魂は走って逃げているより、掃除機の本体をボタンを押せば、自動的に巻かれるコードのようにどこかにある本体に吸い込まれていた。

「力が弱い割りに、逃げ足だけは速いってわけね」

黒魂は長月の冷やかしに気にせず、逃げ続けた。

黒魂との距離が段々縮んだその時、長月のお腹がいきなり腹が減っていることを訴えた。突然と蘇った空腹感に長月は足をつまずいてしまった。

長月はそれ以上走れることができず、その場に立ち止まって遠ざかっていく黒魂の姿を眺めた。

黒魂はこのチャンスを逃さずスピードを上げて遠くへ逃げてしまった。

長月はしゃがみこんで、飢餓をやわらげようとすると、頭の中にあの部屋に誰が住んでいるかが、急に気になってきた。

あのアパートとの距離は遠かった。付近には料理屋が何軒かあって、そこから時折に漂ってくる食べ物のにおいは長月のお腹を苦しませた。いっそうのこと、誰かに食べ物を乞ってみようとも思ったが、結局やめた。

長月は来た道から後戻りして例の部屋へ向かって走りだした。あの部屋のあるアパートの下につくと、跳びあがり、髪の毛で壁を掴み結界の中心となる部屋の窓まで登っていった。

長月は顔をちょっとだけ窓に出し、中の様子を伺った。

中学生ぐらいの男の子がベッドで寝ている。男の顔は見えないが、雰囲気が懐かしかった。もしかして、この男の子が今回、自分が捜しだして守るべきあの人なのかな?

長月は迷った末、一か八かに当たってみることにした。

長月は壁から降りて正門からアパートの中に入って男の子が住む家の前まで来た。

なぜだろうか、長月の胸が激しくときめいた。胸のときめきで、長月は確信しはじめた。呼び鈴を押そうとして伸ばした手さえ震えだした。結界が長月を遮っているので、髪を伸ばし横に払った。結界はガラスのように砕けた。

長月は深呼吸をしてから手を伸ばし、呼び鈴を押した。「ピンポン」の音が何回鳴ってから、ドアが開けられた。

女の人が出てきた。直感で男の子の母さんだと長月は判断した。

「こんばんは」

フミヨが先に口を開いた。

「こ、こんばんは」

長月は、言葉がつかっている自分が少し恥ずかしかった。挨拶の言葉以外に何を話せばいいかわからず、長月は黙ってつったていた。

その様子を見たフミヨは優しく問いかけた。

「マスオのお友達?」

フミヨは笑顔を浮かべた。そんな笑顔を見た長月は勇気をもらった気分になった。

「は、はい。友達、です」

長月は自分でも信じられないほど、小さな声で答えた。

「ちょっと待ってね、今すぐマスオを呼ぶから。……入ってきて。あっちのソファに座って待っていてね」

「い、いいえ。ここで待っていればいいです」

なに照れているんだろう!長月は自分の顔が火照るのを感じた。

「じゃ、すぐ呼んでくるね」

長月が玄関口で待つといったので、フミヨも無理強いはしなかった。

これから会えるあの人に期待の気持ちを抱きながら、長月は待っていた。先は窓越しに後ろ姿
しか見ていなかったから、どんな顔なのか期待もした。

しかし、ドアに戻ってきたのは、フミヨだけだった。

そうだ!窓から見たとき、男の子は横になってていた。無理やり起こすわけにも行かないみたいだ。

フミヨは困った顔で長月に向かって話し出した。

「ごめんね。あの子を呼んでみたんだけど、起きないの。困ったね。何か急用でもあるの?」

「い、いいえ、大丈夫です。また伺いします」

長月が踵をかえし、帰ろうとしたその時、情けなくも、お腹が鳴り出した。うしろから伝わってくるフミヨの軽い笑い声が聞こえた。

「よかったら、ご飯でも食べていかない?」

フミヨの言葉が福音のように聞こえてきた。長月はすぐ体の向きをフミヨに向けて、上目遣いで確かめた。

「本当にいいんですか?」

「いいよ。入って来て」

「そ、それでは、お言葉に甘えて」

家の中に入ったら、フミヨは長月を厨房まで案内した。

「椅子に坐って待っていてね。すぐご飯を出してあげるから」

フミヨはご飯とおかずを温めた。美味しい香り漂って長月の鼻を刺激した。

長月の目の前に美味しそうな料理が並べられた。手を合わせ、いただきます、と言ってから、長月は食べ始めた。

フミヨが作った料理は美味しい。飢餓の時には本当の味を味わえずただただおいしく感じるけど、フミヨが作った料理は本当に美味しい。店に出してもいいくらいだ。

お代わりを二回して、ようやくお腹がいっぱいなった。

長月はフミヨに礼を言って、このままかえったほうがいいのか?それとも、食器を洗ったほうがいいか?迷ってしまった。

それをみたフミヨは微笑みながら話しだした。

「洗い物は気にしなくていいの」

フミヨうは長月の心を読んだようだ。フミヨの言葉を聞いて長月は安心すると思ったが、もっといづらくなった。これからどうすればいいか全然、めどがつかなかったから。このまま家を出てもいいか、よくわからなかった。好きな人が隣の部屋で寝ていることを考えると、長月の性格は小心者になってしまった。

「お風呂に入る?」

長月が一人で悩んでいるのを見たフミヨが声をかけた。

「えっ?!いいですか?」

「いいよ。よろしかったら、今夜、うちで止まるってもいいよ。ほら、夜もだいぶ深まったから」

「でも……。もし、私が悪い人だったらどうするんですか?」

「私ね、人を見る目には結構自信があるのよ。あなたは悪い人には見えない。それに、何か事情があるみたいだから」

長月はどうしようか迷ったが、フミヨの顔を見ると、人を安心させる雰囲気を感じ、泊まることにした。

「ありがとうございます」

「お礼など言わなくていいよ。大したことをしたわけじゃないから。ただ、私ができる事をしたまでだから」

フミヨの心には黒魂がないことを、今更のように気付いてしまった。確かにない。黒魂がいた形跡さえもいない。地球に、黒魂を持たない人が本当にいるなんて、長月は信じられない気持ちだった。

「あら、私の顔に何かついているの?」

自分の顔をじっと見つめる長月に、フミヨは声をかけた。

「あっ!いいえ、何でもありません」

厨房をでてリビングルームに入った長月は、ソファに坐った。

「私、ここで寝ます。いいですか?」

フミヨは頭を左右に振った。

「私の部屋で眠っていいよ。今、布団を取り替えてあげるね」

「いいえ、とんでもありません。ソファでいいんです」

「大人の言う事は正直に聞きなさいね」

こう言って、フミヨは自分の部屋に向かった。部屋に入る前に、立ち止って、長月に話しかけた。

「私は後で入るから、先にお風呂はいってね」

「あっ、は、はい」

「着替えなら心配しないで。私の服があるの」

お風呂に入るのは断ろうとしたげ、やめた。

あの人と同じ空間で泊まると思うと、長月の心に温かい血が流れた。

フミヨはすぐ部屋から出てきて、綺麗なピンク色のワンピースを持ってきた。

「これを着てみて。すごく似合うと思うよ」

「いろいろとすみません」

「大丈夫なの。早くお風呂入って。顔がとても疲れているよ」

長月はもう一度礼をいって、風呂場に入った。

熱い日にこそ、お風呂に入って、いっぱい汗を流すべきだと、長月は信じている。

極上の時間をすごし、フミヨが準備してくれた新しい服を着た。

「うわ~、とても似合っている」

お風呂場から出てきて、ピンク色のワンピースを来た長月をみて、フミヨは感嘆した。

「娘さんもいるんですか?」

フミヨは顔を横に振りながら笑った。

「ないの。ただ、服をつくるのが私の仕事なの。家には、女の子が着れるの服がいっぱいあるよ。サンプルだけどね。もちろん、マスオの服も手作りにしてる」

「すごいですね。こんなきれいな服が手作りだなって」

長月は素直に感心した。

「そのことはさておいて、疲れたでしょう。布団も敷いてあったから、今夜はゆっくりと休んでね」

「はい、おやすみなさい」

長月は大人しくフミヨの部屋に入った。

ベッドに敷かれたふかふかそうな布団を見ると、つい飛び上がりたくもなったが、ぐっと堪えて、品よく布団の中にもぐった。

ご飯もいっぱい食べたし、風呂も入ったし、あったかい布団もある。長月は天国にでもいるような感覚に落ちた。
はっと目が醒めたマスオは自分の部屋を見回した。結局、一晩中、黒い影は来なかったようだ。窮屈な体勢で眠ってしまったので、体がうずうず痛んできた。マスオは猫みたいに背伸びをして体の筋肉を和らげてからベッドから降りた。

時計を見ると、もう六時になっている。まだ六時と思ったほうがいいかも。

外からは食材を炒める音がかすかに聞こえてきた。母はいつも朝が早い、と感心しながらマスオを部屋を出て厨房へ行き、フミヨの後ろ姿に向かって「おはよう」と言った。いまさらながら、マスオは世界中の母はなんで一年中、早起きできるんだろう?と不思議に思った。やっぱり、家族を思う気持ちが強いからじゃないかな。

「おはよう、マスオ。……そうだ、昨日の夜、マスオのお友達が来たよ」

フミヨは振り向きもせずに話した。

「友達って誰?」

マスオは『友達』という単語に疑問を感じた。友達と呼べる人はアツコしかいないからだ。アツコはくるなら絶対前もって知らせてくれる人なので、昨夜、訪れた人が誰なのか、さっぱり見当がつかなかった。

「綺麗な女の子だよ」

この言葉にマスオはますます五里霧中になった。アツコはきれいなタイプの女の子ではないからだ。どっちかといえばかわいい方の女の子。

「名前は?」

「あら、名前を聞くの忘れてた。でもね、とっても綺麗で長い髪を持っているの。あんなに長い髪をみたのは生まれて初めてなの。今まで一度も切ってないみたいなきれいな髪なの。あんな髪の毛をみたら、私も髪を伸ばしたくなっちゃった」

マスオは記憶の中で自分の知っている髪の長い女の子を捜してみた。しかし、ママの言ったとおりの一度も切ってないと思われるほどの髪を持つ女の子はいなかった。一体どんな人なんだろうと気になった。

「髪の長い女の知り合いなど、いないけど……」

「でも、すぐ分るよ」

「えっ!どうして?」

「だって、うちに泊まったから」

どんな人なのか、気になった同時に、怪しい人じゃないかとも心配し始めた。ぎょとんとしているマスオの顔をみたフミヨは話し出した。

「大丈夫。とてもいい子だよ」

「でも、いい人かわるい人かは見るだけでは分らないじゃない、母さん。もうちょっと人を疑ってよ」

マスオの不満にフミヨは聞かないふりをした。

「母さんには分るの。人を見る目は今まで間違ったことは一度もなかったから。だから、マスオのお父さんと結婚して、マスオを産んだんじゃない。母さんの見る目は確かでしょう?」

例えられないこととマスオは思った。でも、あえて反論はしなかった。お父さんの事を口にしながら、母の顔がぼうっと、幸せの色に染まったからだ。

そもそも、母さんのこの自信ぶりはどこから来ているのか、マスオには分らない。ただ、母さんがそういうからには、問題ないと、自分を納得させた。今のどころ、なにも事件が起こらなかったからよしとしよう。

「あの女の子、今どこで寝てるの?」

言ってからマスオはバカな質問をしたと思った。ソファーにいない、自分の部屋にはいるはずがない、なら残った部屋は母の部屋だ。

「母さんの部屋で寝てるの。まだ起きてないと思うけど」

マスオはわかったとうなずいてから厨房を出た。

そんなマスオを待っていたかのように、母の部屋から長月が出てきた。二人はしばらくお互いを見つめあっていた。

マスオは目の前に立っている長月を見つめた。確かに悪い人には見えない。それに、母が言っていた長くてきれいな髪をしている。

先に沈黙を破ったのは長月だ。マスオを見た瞬間、長月は確信した。目の前にいるこの人が、今回の運命の人だってことを。

「やっと会えた!」

マスオは何事かと戸惑っているが、長月はそんなマスオにかまわず、彼の前までまっすぐ歩いていった。もうすぐでぶつかりそうになった。

「顔は変わったけど……生まれ変わったから当たり前なのね、でも、私にはちゃんと分る。だって、同じ香りがするんだから。私の一番好きな香り」

こう言って、長月は鼻で香りを吸って、じっくり味わっている表情を顔に表した。マスオから見れば、変人に見えるのも同然でしょう。慌ててフミヨを呼んだ。

「母さん!母さん!早く出てきて!」

マスオの叫びにびっくりしたフミヨは、すぐ厨房から姿を現した。

「どうしたの?」

フミヨは厨房から出てきながら尋ねた。

「何があったの?マスオ。あんな大きな声を立てて」

マスオは段々自分に近寄ってくる長月を避けながら、話し出した。

「僕、この人のこと全然知らないよ。うちのクラスの人じゃないし、うちの学校にもこんな人いないよ。そもそも、見たこと全然ないよ。学校にこんな人がいたら絶対忘れないんだもん」

マスオは器用に長月を避けながら、最後の砦であるフミヨの背中に身を隠した。

「あらっ、そうなの!でも、これから友達になったらいいんじゃない?」

マスオはフミヨの言葉を聞いて一瞬、自分の耳が信じられなった。母の口からこんなにも楽観的な言葉がでてくるとは思わなかった。

「母さん、そんなのを簡単に口にしないでよ。素性も全然知らない人と友達になれるわけないでしょう。しかもいきなり僕の体を嗅ぐんだから。絶対変だよ」

こんなマスオの文句を聞いてもフミヨはいやな顔をせず、微笑みながら話し出した。

「みんなそうでしょう。知らない人から知り合いになるんだから、問題など何もないよ。それに……ごめんね、まだ名前を聞いてなかった」

長月はかしこまった態度で自分の名前を教えた。

「長月ね。きれいな名前ね。もしかして九月生まれだから?」

「あっ、は、はい。そういうものです」

フミヨはマスオを自分の前に引っ張り出した。

「ほらマスオ、今は名前も分ったから、友達になれるでしょう」

そして、フミヨは長月に向かって言葉を続けた。

「この子ね、とても人見知りなの。中学校に通っていても、友達といえる人はアツコという女の子しかいないの。だから、とても心配したんだけど、長月も友達になってくれるんだから、少しは安心したね、マスオ」

「母さんがそういうと、僕の人間関係がとても、悲しく聞こえるよ」

「だって、それは事実でしょう」

フミヨの話は事実なので、言い返す言葉を失ったマスオはやつあたりを長月にぶつけた。声は厳しかった。

「長月と言ったよね」

フミヨは長月の事を完全に信用していると知ったマスオは、自分だけでもしっかりするべきと思って、長月に対する警戒をすこしも緩めなかった。

「うん、そうだよ」

「あなたはなぜうちに来たの?」

「あなたに会いに来たよ」

「だって、私達は今日始めて会ったよね。それなのに、僕に会いに来たって、やはりどこかおかしい」

マスオは今の言葉が長月の怪しさを証明したと思いフミヨの顔を伺ったのだが、フミヨは別に気にもしていない様子だった。

「おかしくない。あなたと私は運命の糸で結ばれているから、めぐりあうのは決まっていたの」

長月は聞いている人側が恥ずかしくなる『運命の糸』という言葉を平気で言った。

運命なんか信じないし今まで思ったことさえなかったマスオがそれについて冷やかそうとしたところ、フミヨが割り込んだ。

「運命ね!とてもいい響きよ。……マスオ、長月によくしてあげてね。運命の人を見つけることはなかなかできないことだよ」

「もしかして母さん、この情況を楽しんでいる?」

マスオは母のこんな対応に機嫌を害された。顔にすぐ感情が現れた。

「もちろんよ。だって、マスオに新しい友達ができて、母さんはとても嬉しいんだから。……それより、朝ごはんの準備がまだだった。二人で仲良くしてね」

フミヨはすぐ、厨房へ入った。

気まずい空気がマスオと長月の間に漂っている。そもそも、気まずいと感じているのはマスオだけで、長月はやっとであった運命の人であるマスオをじっと見つめている。愛情が込めた両目で。

その場にいづらくなったマスオは洗面所へ行った。まず顔を洗ってこれから取るべき行動を考えようとしたが、いいアイデアが浮かばなかった。

マスオは自分の後ろに立っている長月を見ぬふりをして厨房に入った。

「はい、朝ごはんだよ」

食卓の上には朝ごはんが置いてあった。

「あっ、そうだ。新しい歯ブラシとタオルを用意したから、長月はそれを使っていいよ」

「はい、ありがとうございます」

「早く済ませてご飯食べましょうね」

フミヨの声を聞いた長月は『はい』と答えてから洗面所に行った。

長月の姿が見えなくなって、マスオは声を低くしてフミヨにきいた。

「母さん、少しは疑ってよ!あの姿のどこがいい人なのよ。絶対怪しいって」

「マスオ。母さんを信じて。大丈夫だから」

フミヨは真剣な顔で言った。

これ以上何かを言っても、ママの耳には入らないと思って、マスオはやめた。

歯ブラシを持っている長月の手は震えていた。やっとあの人に会えた興奮からだ。

顔立ちは毎回違うけど、香りですぐ見分ける。これこそ、運命だ。何度生まれ変わっても、二人は強い赤い糸でむすばれているので、必ず出会える。

厨房に入ると、マスオはもう食べ終わって席からたっているところだった。

「ご馳走様でした」

「ゆっくり食べてもいいのに、なぜそんなに急ぐの?」

「学校に早く行かないといけないから。……それでは、行ってきます!」

こう言って、マスオは厨房を飛び出し、ソファに置いたカバンを掴んで家を飛び出した。正直のところ、長月という女の人から逃げたかった。運命の人だとと言って変な視線でみられるのが、いやだったから、マスオは家から逃げ出したのも同然だ。
「そういえば、長月はどこの学校の生徒?」

フミヨはマスオを茶碗を片付けながら尋ねた。

「わ、私は……」

長月は正直、どう答えればいいかわからなくなった。嘘をついてもいいけど、フミヨにだけは嘘の事を話したくはなかった。なので、言葉を濁すことしかできなかった。

迷っている長月を見て、フミヨは優しく話しかけた。

「話したくないなら、話さなくてもいいよ。きっと事情があるのね。人それぞれ、心の中に秘密を持っているんだから。だとえ、その秘密がいいものでも、わるいものでも、誰にも分らないように、ちゃんと隠しておけばいいのよ」

長月は思わず目を見張ってしまった。だって、最後の言葉がフミヨの口から流れ出てきたこと自体が、信じられなかった。まるで、自分の秘密を知っているかのような言い方だったから。

「あら、どうしたの?」

驚いた長月の顔を見たフミヨは心配そうに言った。

長月はすぐ顔を横に振り、朝ごはんを食べ始めた。

朝ごはんを食べてから長月はフミヨに手伝って皿を全部洗った。それから、二人はリビングルームのソファに坐って、テレビの電源を入れた。

「長月はこれからどうする?ここでマスオがくるのを待つ?それとも、いったん家に帰ってみる?」

「私に、家はありません」

長月の言葉に、今度はフミヨはびっくりした。そして、同情の目で長月を見つめた。

「これからどうするつもりなの?よかったら、ここに泊まってもいいけど。見たとおり、家はそれなりに広いし、寝る所なら用意できるよ。……しばらくここに住むだけなら、かまわないよ」

「いいえ、そんな事はできません」

「どうして?」

「家はありませんけど、帰る場所ならあります」

「そう……。それなら、安心できるね」

フミヨは本当に安心したような笑顔を見せてくれた。

これ以上、お邪魔したら悪いと思ったので、長月はフミヨに別れの言葉を告げた。

「あら、でも、もっとここにいてもいいのよ。そんなに急がなくてもいいじゃない?」

「いいえ、そういうわけにも行きません。十分お世話になりましたので、ここで、失礼させていただきます」

「そこまでいうなら、私も無理に止めないけど、たまには遊びに来てね」

「はい」

長月は元気よく答えてから、家を出た。たまにここを尋ねるのではなく、しょっちゅう、お邪魔するかもしれない。それでも今週の日曜日までだけど。

マスオが運命の人だってことを知ったから以上、もっともっと頑張って、黒魂を食べることを長月は心の中で決めた。

建物から出てた瞬間、長月は小さい歓声を上げた。一晩のゆっくりとした休みで、体もすっかり回復したし、今まで食べた黒魂の力も完全に吸収できた。これなら、髪ももっと長くなれる。

マスオの家を出た長月はまず周りに黒魂の気配がいないか下がってみたが、気になる黒魂がいなかったので、勘に頼って街を歩くことにした。

今、長月の頭の中はマスオの事でいっぱいだ。もちろん、黒魂の事も考えている。もし、自分があの結界に興味がなかったら、今頃も、マスオを捜しながら、黒魂と戦っているところだろう。とりあえず、マスオを見つかったから、今は黒魂食いに集中できる。

それにしても昨日、マスオの家に入ろうとした黒魂はいったい何なんだろう。今夜もマスオの家に侵入しようとするかもしれないから、見張りにでもいくと決めた。

マスオには結界のお守りがある。でも、あのお守りの結界でどれくらいの黒魂を防げるだろう。それに、結界は自分の手によって壊されてしまった。そもそも、あの結界は長くもたないから。やはり、今夜は行った方がいいと思う。

いろいろと考えながら歩いていると、いつの間にか、商店街に入ってしまった。

特色のある店が軒を連なっているが、入って何かを買うお金など持ち合わせていない。

ショーウィンドーから中の商品を眺めながら、長月は道を進んだ。

商店街の端まで来たところ、雨が降り出した。

近くの屋根の下にもぐって雨宿りをした。すると、同じく雨宿りをする男性一人が入ってきた。

男性が長月の傍に立つとたん、長月の胸はどぎっとした。恋などの甘ったるい胸騒ぎではなく、本能的に感じ取った危険のにおいだ。

長月は、今の自分は勝ち目などないことを十分承知した上で、逃げようとした。

「どこへ逃げるつもりなの?」

長月の考えを読みとったらしく、男性は明るい声で呼びかけた。が、長月は何も言わなかった。男性を声を聞いただけなのに、体はもう自分の言う事を聞こうとしない。心の中でどんなにもがいても、四肢は固まってしまった。

「逃げる必要はないよ。俺はね、あなたなどに興味ないから。今回、この世に現れてから、まだそんなに時間が経ってないでしょう?俺はね、戦いに全然興味がない。この黒魂の力を手に入れた瞬間から、俺は自分のほしいものも手に入れたから。だから、俺の邪魔をしないとここで約束すると、見逃してもいいよ」

男性の口調は穏やかだったが脅しだってことは長月もわかっていたた。それより、情けないことに、体はまだ動こうとしない。男性の圧倒的な力によって、完全に体の支配権を奪われてしまった。

「どう?約束する?」

悔しいけど、ここで反抗し、戦って死ぬわけにはいけない。マスオを見つけなかった昨日だったら自尊心でこの男と戦ったかもしれない。しかし、今は運命の人であるマスオも見つけた。来週から始まる戦争に参加して勝つために、ここで我慢するしかない。

長月は力を振り絞って、軽く頷いた。瞬間、長月の体を覆っていた男性の威圧が跡もなく消えてしまった。

この時にやっと、長月は男性の顔を見ることができた。

驚いたことに、あんなに恐ろしい黒魂の力を手に入れた男性の顔はとても優しかった。イケメンではないが、顔立ちが悪いほうでもない。何より、体から自然と溢れてる一種の魅力がある。

「約束してくれてありがとう。俺はね、戦いがとても嫌いだから、できるだけ、穏便に物事を運ぼうとするの。でも、いざとなると、何をするのか分らないからね」

長月は今まで反抗できなかった恥から少しでも威厳を取り戻そうとして、胸を張って、力強い声で反し出した。

「私があなたと戦わないと約束しても、他のみんながあなたと戦わないとは限らないよ。それに、その中でも、あなたの手におえない存在が一人いる」

「そんなこと知っているよ」

「ならいいけど」

「でも、あなた達が俺を狩りにくるまで、俺は何もしないでただ待っているとでも思っているの?」

「あなたがどんなにあがいても、あの人には勝てないよ」

男性は軽く笑い出した。

「何がおかしいの?」

長月は自分がバカにされたと思い、少しむっとした。

「いやいや、俺のいった準備は戦いの準備ではないよ。先も言ったとおり、俺は戦いが嫌いだから」

「逃げるつもりでいるの?でも、どこへ逃げても無駄よ。絶対見つけられるから」

「そうね……」

男性はここまで言って、言葉を一回切った。小雨を零す曇りの空を見上げながら、また話し出した。

「でも、あなた達も俺を捜すほど、暇ではないこともちゃんとわかっているよ。あなたたちには俺を追うことより、もっと大事なことがなるから」

長月は男性が言いたいことが分った。

確かに、かぐや姫の分身たちはこの世界に長くは残れない。運命の人を探しだし、ほかの分身と戦う事がなにより大事だから。

「でも、一人くらいは残れるよ。そして、あなたを見つけ出して食う事だってできる」

このまま何も言い返さないと、自分が負けたような気がして、長月は言葉を発した。

「そのとおりだけど、残った一人は俺なんかにかまう暇があるのかな?俺だって、もしもの時には彼女の運命の人に手を出すかもしれない」

男性は長月を見下ろしながら言葉をつづけた。

「それでも、俺を殺しに来るだろうか?」

「な、ないと思う」

「そうでしょう?好きな人と幸せな暮らしをするためには黒魂狩りをやめないといけないじゃない。それに、残った『月』があのつよい『月』に限らないじゃない?」

悔しいけど、自分の負けを認めざるをえなかった。最後に残った一人も、この男性を追うことなど、到底ない。

「運命の人を見つかったでしょう?」

沈黙が続くと思ったら、男性がいきなり話し出した。それに、一番敏感な話題だ。答えたくないので、長月は黙っていた。

「その様子だと、図星だね」

「そうよ!それで、何が?もしあの人に手をだしたら、絶対に許さないからね。死んでも道連れにするから」

男性は子供をなだめるような口調で話し出した。

「俺はあなたの運命の人なんかに興味はないよ。ただ、すんなりと約束してくれたあなたの様子から、察したわけだ。もし、運命の人が見つからなかったら、ここは修羅場になったかもしれない」

長月は答えたくなかった。今の自分が男性と戦ったところで、すぐ結果が分る。周りに及ぶ被害は殆どゼロに等しいほどで負ける。

「あなたはこんな無口な性格なの?」

男性が訊いた。しかし、長月は口を噤んだままだ。

「わかった。黒魂とあんまりはなしたくないのね。でも、あなたたちは自分の運命が、どんでもない悪戯には思えない?」

長月はぱっと顔をあげ、男性を見据えた。目からは怒りが見えた。

「嘲るつもりはないよ。俺はただ、あなたたちの運命が切ないと思うだけ……」

「黒魂に哀れむほど、私たちは自分の運命を嘆いてはいない」

「当事者がそういうなら、俺にもこれ以上何も言えないが、そんな運命を変えてみようと思ったことはない?だっで、何回繰り返しても、幸せになる者は誰一人いないってことは、ちゃんと知っているでしょう?」
長月は顔を俯いた。確かに、男性の言ったとおりだ。今まで何回か繰り返したかぐや姫の分身たちの戦いのなかで、本当の幸せを貰った人は誰もいなかった。最後に勝ち残った最後の人の幸せさえも、目の前で粉々に潰されたから。

「でも、あなたはなぜそんなことまで知っているの?!」

男性は軽く笑ってから話し出した。

「俺はね、黒魂から知ったんだよ。俺が吸収した黒魂は長い間、この地球で漂流してたから、物知りだ。いろいろ教えてもらったんだ」

「今まで逃げてきたなんて、本当にすごいね。逃げ足だけは一流のようね」

「敵意のある口調ではなくなったね」

「あなたは敵じゃないみたいから。でも、警戒はしているから、少しでも変な動きがあったら、私は命をかけても、戦うんだから」

「安心して、そんな事はしない」

「それで、あの黒魂は全部みたって言うの?今までの私達の運命を」

「そう言っている」

「言っている?完全に吸収できたわけではなにね」

「吸収したのはあの黒魂の力だけ。消してはいない。生きる歴史はまさにあの黒魂だから、殺すわけにはいかない」

長月は小さな溜息をついた。

「確かに、あの黒魂があなたに教えたとおり。私たちは今まで、誰も幸せになったことはない。でも、今度こそ幸せになれると強く信じているから、必死になって戦える」

男性は何も言わなかった。

長月もこの沈黙が好きになった。

聞こえるのは雨が大地を叩く音だけ。悲しリズムに聞こえたのが、悲しい話をしたからかもしれない。

しばらくしてから、男性が先に話した。

「雨もそろそろ上がるところだ」

そして、長月を見つめた。顔には微笑みを浮かべた。

「また会えるといいね」

男性は長い知り合いにでも挨拶るす口調だった。

長月はすぐ言い返した。

「私はあんまりあなたに会いたくはないけど」

男性は微笑みながらまた言い出した。

「俺はまたあなたに会いたいよ。そして、あなたたちにも会いたい。今度の戦いで誰が幸せになれるか、最後まで見届けたいから。こんなことを言っちゃ変なのかもしれないけど、俺はあなたたちがみんな幸せになってほしいんだ。そのために再び地球に戻ってきたのでしょう?」

男性の言ったことは正しい。かぐや姫は分身たちが全部幸せになってほしかった。しかし、ことはかぐや姫の予想とおりにはいかなかった。幸せになれる人は一人しかいない。

「今回の戦いも楽しみにしているから」

「あなたものんびりだね。でも、私たちだけでもなく、あなたを狙う黒魂だっているはず。あなたは一生、戦いから逃げられると思っているの?」

「そうね。……逃げれるところまで逃げたい。今まで逃げたんだから、これからも逃げられる自信だけはあるから」

「猿も木から落ちるって諺、聞いたことがないの?でも、それがあなたの答えなら、別にいいけど」

ちょうどこの時、雨がやんだ。暗雲は風に吹かれてどこかに流れていく。

「じゃ、またいつか」

男性はこう言って、振り向かずに前を向いて歩き出した。

「会いたくないといったでしょう」

長月は男性の背中にむけて叫んだけど、男性は何も言わなかった。
マスオは教室に入った。登校する途中、長月のことが頭から離れなかった。『運命の人』っていう言葉もなんか、現実味がなかった。今までそんなことを信じたことがないマスオだったから。

アツコはとっくに席についていた。マスオは少し迷ったけど、アツコの隣までいって、ぎこちなく礼を言った。

「き、昨日のお守りは、どうも、ありがどう」

いちおう、何事も起こらなかったお礼として言ったまでだ。

「私のお守りはすごいでしょう!」

アツコは勝ち誇ったように微笑みを見せた。お守りが効力あることに疑いのない笑顔だ。

「でも、完全に認めたわけではないよ。昨日はたまたま、変なことが起こらなかっただけなのかもしれないんだから」

マスオは自分の負けをみとめたくなく、すぐ否定した。

そんなにむきになったマスオを見まもるアツコは、自分は大人だから分るよ、というような眼差しで何度か頷いた。

「それって、何が変なことが起こっているってわけ?!」

話してからアツコはいきなり起き上がり、顔をマスオにぐいっと近づかせた。

「な、なにもないよ。あるわけないでしょう」

マスオはアツコから目をそらした。口を滑ったのが間違いだったと悔やんでも仕方がない。アツコの質問攻めをどうやってかわしたらいいか考えた。なのに、アツコはそれ以上追求することはなかった。

「わかった。でも私のお守りの効果を否定していいの?今日の分はほしくないかな?」

マスオは言い返す言葉を失った。効果は信じない。でも、心に勇気を与えるものとしてはお守りが欲しがった。


「安心して、今日の分もちゃんとあげる。でも、お守りを作るのって、すごく霊力を使うのよ。お礼は口だけだと、ちょっと……ねぇ?」

俯いて悩んでいるマスオを見ながら、アツコは言った。

マスオはアツコの話したがっていることをすぐ分った。

「今日の帰りにデザートおごってあげるよ」

「その言葉を待っていました!駅前のデザート屋に新しい商品が出てきたの。とても人気らしいの。それが食べたがったよね」

「分ったよ。それをおごればいいでしょう」

アツコとたわいのないと話をしていると、授業のチャイムが鳴った。マスオは自分の席に戻ると、また、長月の事を思い出してしまった。

よく考えれば、自分の事を長月と名乗るあの女の子は一体なにものなんだろう。僕の事をずっと探していたとか、生まれ変わってもすぐ分るとか、分けのわからないことを話して。もしかして、頭がおかしい人なんじゃ?!それなら、ママが危険かも。

だが、長月っていうあの子は変人には見えない。何だろう、不思議だけど、長月とどこかでであったような気がする。それに、心の中に温かい気流が溢れる。確かに、少しは懐かしい気持ちもなったけど、なぜだろう。もしかして僕は本当に彼女の運命の人?ってくだらないことも考えながら、黒板に視線を向けた。

マスオはいろいろと悩みながら、頭を抱えた。

そんなマスオの姿に、先生は自分の講義がむずかしいため、マスオが苦悩していると、勘違いをしてしまったらしい。

「マスオ君」

いきなり、名前を呼ばれたので、マスオははっとたち上がった。

「は、はい!」

「どこが難しい?」

「えっ?」

先生の言っていることがよく飲み込めなかった。けど、こんな時、正直にはなすとと、後が大変になるので、マスオはでとぼけることにした。

「すみません、全部難しいです」

「そう。分った。……じゃ、もう一度説明するね。マスオ君は坐っていいよ」

「はい」

椅子に坐ると、前に坐っているアツコがメモをこっそりと、渡した。

何か悩みがあるの?と書いてあった。

マスオは、何でもないよ、と書いて渡した。

長月のことを考えれば考えるほど、いとしく感じてきた。自分のこんな心の変化にマスオもびっくりして、考えないように試みたけど、無駄だった。これがもしかして『好き』という気持ちなのかな。

長月の姿が頭に焼きつかれたように、消せない。

マスオは、自分がおかしくなったと思ったその時、誰かが、自分の頭を軽く触るのに気付いて顔を上げてみた。

アツコだ。

「なにぼうっとしているの?やっぱり、悩みがあるのよね。この巫女の目は誤魔化せないよ。正直に話してみて、力になってあげるから」

昨日は、百歩譲って、アツコのお守りのお陰で何も起こらなかったかもしれないけど、アツコの力を完全に信用しているわけでもない。でも、自分のことを巫女と呼んでいるんだから、あの黒い影の不思議なこともきっと信じてくれるだろう、とマスオは思い始めた。

アツコはマスオの顔から心の微妙な変化を察して話し出した。

「話してみてよ。私はマスオの言う事を信じるから」

マスオはアツコのこの言葉を聞いて、自分が見たことを話してあげることに決めた。

「昼休みの時間に、どこか人のないところで話してあげる」

「うん、分った。そうしよう」

アツコの顔はぱっと明るくなった。マスオが秘密を共有することが、何より嬉しかった。秘密共有はとても親しい人じゃないとできない事だから。例えば恋人同士のような関係?こんな事を考えながら、アツコは椅子にちゃんと坐って、先生が入ってくるのを待った。

長月は男性と別れてから、当てもなくうろうろしてはいけないことを切実に感じた。力の強い黒魂はどこかにある。今まで出会うことができなかっただけ。

今まで弱い黒魂と相手をしたから、ちょっとだけ浮かれていたのかもしれない。長月はしっかりと自己反省をした。

もっと急いで沢山の黒魂を吸収し、力を上げないと。

なのに、長月が焦っていらば焦るほど、事は思うとおりにならないものだった。長い時間歩き回っているけど、黒魂の気配はどこにもいなかった。一体どうしてだろう、と長月は疑い始めた。街にはあてもなく歩いている人がこんなにもいるのに、黒魂が感じ取れないなんてありえないからだ。この人たちの心の中にはきっと黒魂があるはずなのに。いない方がおかしい。

そういえば、手掛かりは確かに一つはある。長月は思案しながら歩き続けた。目的地はなかった。

手掛かりはマスオの家に会った結界だ。結界があるっていことは、この町には呪力を使える人がいるってことになる。なら、その人が黒魂を狩るのもむりはない。あの人たちは昔から馬が合わなかった。今回の戦いはツイてない。最初にいやな奴らとも出会うなんて。

こうなった以上、その人たちより早く黒魂を見つけて食べないと。そうしないと、黒魂が全部、その人たちによって消されてしまう。

気が付くと、長月はいつの間にか、最初にこの大地に足を踏んだ山のふもとに来てしまった。午後なので、人の姿はみえない。平日の昼はこんなもんだ。時にしては、夜より、昼のほうが、犯罪に向いている。特に、昼にはあんまり人が来ない山とか。

このまま踵を返して町に戻るのはここまで来た体力にもうしわけないと思ったので、長月は目を閉じて精神を集中した。そして、山の中に黒魂がいないか探った。

しばらくしてから、黒魂の弱い力を感じ取った。弱いから、見逃そうと思ったけど、これを見逃したら、いつまた黒魂を見つけられるか知らない。それに、ないよりましだ。チリも積もれば山ってわけだ。

長月は黒魂のいる場所に向かって歩き出した。

黒魂も近づいている長月に気付いたのか、距離をとろうとしたが、また元の場所に戻ってじっとしていた。観念したのか?

長月はゆっくりと山を登った。 向こうが逃げる気がないなら、こっちから急ぐ必要がないと思った。長月は草むらのなかで黒魂を見つけた。

見たとたん、長月は息を吸ってしまった。黒魂の正体はこの間、この山で自分が助けた女だった。

女は長月が来たのを見て、ゆっくりと立ち上がり、気味悪い笑顔を見せた。

「久しぶり、でもないけど、久しぶりと言わせて。なんか、そんな気分なの」

「あなた、どうして?」

長月は目の前の女の姿が信じられなかった。でも、女は別に気にもせず、明るい顔でいた。

「顔、変だけど。あっ、わかった。どうしてこんな姿になったかと?」

女はその場で体を一周りして長月に見せた。裸の体に、黒魂が三つの黒くて短い棒になって、大切な部位だけ、隠している。

「全部あなたのお陰じゃない?私がこんなふうになったのは」

「私?」

長月は驚いた。あの日、確か目の前にいる女を助けたと思ったが、一体何があって、こんなふうになってしまったのか、知りたくもなった。ましえてや、自分のお陰と話している。

「そうよ。全部あなたのお陰。あの日ね、そのままあなたが行かなかったら、私はこんなふうにはなれなかったよ」

「どういうこと?あの日、確かにあなたを助けたと思ったけど……。黒魂も殺したし」

「確かに、あのクズ男からは私を助けたよ。でも、それで私はまた救いの手をうしなってしまったことになったのよ」

「何を言っているか、全然分らないけど」

「そうね、わからないよね」

女はケラケラ笑ってから話をつづけた。

「中途半端なところで、あなたがあのクズ男の黒魂を消したから、私はあの時から、続きを求め続けたの。どんなことをしても、こころの欲望を抑えることができなかった。その時、欲望が新しい黒魂を生み出し、この黒い棒となったわけよ。だから、わかった?」

「わからないけど」

「わからないだろうね、私が何を考えているのか!」

女は言葉を止めて、自分の胸の前に浮かんでいる二つの棒の中の一つを手に取って、口元に運んだ。そして、舌を出して、舐めた。

「ご覧のとおり、私はもう、性欲なしには生きていけないよ。一秒でも刺激しないと、心が痛くなるの。これは全部あなたのせいよ」

「それじゃ、あの男は?」

「もちろん、もう使え物にならないほど、遊びまくって、処分したよ。だって、あんの屑男がこの世に生きていても、何の得もないでしょう?……最初に欲望が襲ってきたとき、あの男で体が満たされると思ったけど、黒魂のとは比べ物にもならないのよ。だから、おもちゃとしてちゃんと使ったの」

女は笑い出した。悲しく聞こえてきた。おかしくなった自分の人生を悲しんでいるのだろうか。

あの日、長月は女から服を脱ぎとった時、確かに、後始末はちゃんとしたと思うけど、今の様子からみれば、そううまくいかなかったみたいだ。

「じゃ、今回、私がもう一度、あなたを黒魂から助けてあげる」

「無理だよ。だって、私ね、こんな状態が段々気にいってきたの。いつも絶え間なく、性欲を感じることも悪くないと思い始めたの。だから、このまま戦わずに私のことを見逃しては駄目?」

長月は少し戸惑った。女がこうなったのは自分のせいだと思ったから。だから、黒魂から女を解放すると、女は救われると思った。

こう結論をつき、女に訴えようとした時、空から、竹のような棒が飛びついてきた。

長月はこんな思いがけない攻撃を間一髪でかわした。そして、驚いたような眼差しを女に向けた。

「はっはっはっ。あなたは意外とバカだよね。黒魂を操る人の話を真にうけるなんて、本当にバカだね。私があのクズ男の黒魂が中途半端なところでやめたから、こうなったと思っているの?私は、最初からこうなの。あなたが最初に現れたときから、私は欲望に飢えていた。そして、あのクズ男にわざとさらわれたの。その前にも、たくさんの男と関係をもったよ。私は最初からこんな乱れな女の子なの。だから、救うなんてことは考えないで」

女が話しを続けている間も、三本の棒はずっと長月を攻撃した。

長月はかわしながら、髪で反撃をした。しかし、棒は思ったより丈夫だ。長月の髪が黒魂の棒を砕くことができなかった。

ちらっと、女を見ると、女の体の前にまた棒が現れた。女はその棒で攻撃をするのではなく、弄くり始めた。

今の女は黒魂と一つになった。黒魂を吸収すると、女は絶対に死ぬ。

もし、あの男性に出会わなかったら、こんな黒魂は見逃してもいいけど、自分より強い黒魂がある事を知った以上、どんなに弱い黒魂でも、食べることにした。戦ってみたら、思ったよりは強いが。

三本の棒が一斉に長月に向かって飛びついてくると、長月は長い髪を使って、三本の棒を包んだ。そして、棒の力を吸収した。

「あら、あなたの髪はそんなふうにも使えるの?便利だよね。……でも、一体、何本の棒が包められるか、試してみたくなったね」

言い終わると、女の前にいくつかの棒が現れた。

「まず、二十本で試してみようか?」

棒はたちまち竹のようになって、長月に飛びついた。

長月は髪で易く、二十本の棒を包んで吸収した。

「次は四十本行くよ」

棒はいきなり長月の目の前に現れた。

長月は先ず髪で自分の周囲を囲み、そして、一部の髪を使って髪の壁を叩く四十本の棒を全部吸収した。

「すごいね。じゃ、次は百本行くよ」

長月は女の黒魂が弱いからと言って、見くびった自分を恥ずかしく思った。黒魂の力は確かに弱い。でも、女の絶え間ない欲望が黒魂に力を与えている。一言でいうと、棒はいくらでも出せる。

女を直接に攻撃しないと、この棒は消えない。

百本の竹のような棒は空中で待機している。長月の隙を狙っているようだ。

長月は髪を傘のようにし、女の子に向かって走り出した。

すると、急に棒が長月の真正面に現れ、長月に向かって飛びついた。

以外なところで棒が現れたので、長月は髪で防ぐことはできなく、まともに攻撃を食らっていまった。

棒に突かれ、後ろに倒れると、空中の棒はこの瞬間を待っていたかのように、一斉にして、長月に向かって落ちた。

百本の棒の攻撃で、大地は揺れ、轟きが響き渡った。

埃があたり一面に立ち込めた。長い棒だけが埃の中から姿を突き出している。

こんな情景を見た女は自分の勝ちを確信したように微笑んだ。しかし、その微笑みもすぐ消え去った。

竹のような棒が次ぎから次へと消えている。

女はまた棒を作り出した。新しく作られた棒は長月が倒れた場所に向かって飛びついた。

地面に突き刺した棒は著しい速さで消えている。

埃が森の中の風に全部吹かれて消えた。

すると現れたのは、長月の身長の三倍はある髪があちこちに突き刺したある棒をひっくるめている情景だった。

長月の長い髪に巻かれた棒はすぐ消えてしまった。

女は長月の変化に驚いて一瞬だけ動きを止めたけど、すぐ気を取り直して、棒を作りだした。しかし、新しく作った棒も、長月の髪の前では歯を立てなくなった。

女は棒を作り続けていると、もう、長月の吸収の早さにはかなえなくなった。気がづくと、長月はもう自分の目の前についたことを、女は知った。

「やっぱり、私はあなたにかなえないのね。最初からしってたから逃げなかった。もしかして勝てるかもって思ったんだけど、やっぱり無理だった」

長月は髪で女の子を体を隙間なく包んだ。

「でも、少しだけ、楽になれるかも」

「楽にしてあげる」

長月の話が終わらないうちに、後ろから黒魂の棒が飛び込んで、長月の背中を狙った。でも、刺される前に髪に巻かれた。

「こうなったら最後。もう助かる方法がない」

長月は冷たく現実を告げた。

女は力なく笑った。そして、長月を見つめながら言った。

「本当のようだね」

女は体から黒魂が消えていくのを感じた。

「私がこんなふうになったのはあなたのせいじゃないから、気にしないで。気にしていないかもしれないけど言わせて。黒魂が吸われたら、自分が死ぬことくらいは知っている。私の死体をこのままここにおいて。後始末はあなたがやらなくてもいいから」

「分った」

こういった長月は女の頭も髪で包んだ。

黒い煙のようなものが、長月の髪を伝って、段々長月の体の中に流れ込んだ。

女の願いどおりに、長月は死体をそのままそこにおいて、山をおりた。
昼休みになって、マスオはアツコと一緒に学校の屋上に来た。

「昼休みなのに、屋上にいる人は私たち二人だけなんて、以外だよね」

アツコは嬉しそうな声で言った。生徒たちがあっちこっちで弁当を食べるのを想像したみたいだ。

空はとても青く、そよ風も吹いているので、本当に弁当日和と言ってもいい。

マスオはアツコがなぜうれしがっているか、知らない。人がいないから嬉しい?それとも、これから聞ける秘密があるから嬉しい?それとも、また別の何かが?もちろん、アツコはマスオと二人きりになったことに喜んでいる。二人きりの秘密基地を見つけたような気分だ。秘密を共有している二人の関係が急接近することも、アツコは期待している。

「ねぇ、なにぼうっとしているの?」

アツコの声に、マスオは我に返った。

「いや、別に」

「じゃ、早速ご飯を食べながら教えてね」

「う、うん。分った」

二人は鉄網により掛かって坐り、弁当箱の蓋を開けた。食べ物のいい香りがした。

「いつものことだけど、マスオのお母さんの料理の腕は本当に上手よね。すっごくいい香りがするんだから」

「食べる?」

「その言葉を待っていました!」

アツコはそういってすぐ、マスオの弁当の中身を狙った。アツコのお箸の裁きがすごかった。あっというまに、マスオの弁当のおかずが減っていった。

「アツコの目的はこれだったか」

「ばれた?」

アツコはマスオの弁当から貰った料理を口に入れながら話し出した。

「それで、マスオの悩みは何?すっごく真剣な顔だったから心配してたんだよ」

表情と口調からは少しもの心配気味が感じられないが。

正直、どうやって話し出せばいいか、全然分らない。マスオを戸惑っているところをみたアツコは、急かすのではなく、マスオが話し出すのをじっと待っていた。

「あれはさ、一昨日のことなんだけど……」

秘密を誰かにあかすのって、初めてなので、最初は胸がどきどきしたし、声も震えていたが、やっと落ち着いたところで、マスオは話し出した。

「放課後にね、家に向かっていると、空から巨大な白い球が現れたの……」

マスオは一昨日から見た異変を全部アツコに打ち明けた。しかし、長月の事だけは口に出さなかった。なぜ言わなかったか、マスオ自身もわけをしらない。

マスオの話を聞いたアツコは深刻な顔になった。そんな顔をみて、マスオは少し怯えてきた。だってアツコは、今まで見たことのない顔をしているから。

「マスオ、これから私の言っている事は絶対秘密にしてね。それに、私に話したことも、他の人に話してはいけないよ。絶対だよ、約束できる?」

アツコの真剣なまなざしに見つめられたアマスオは少し怯んだ。

「う、うん。誰にも言わないよ。言ったところで信じてくれないに決まってるんじゃない」

「ここで誓って!」

アツコの声には逆らえない威厳があった。びっくりしたマスオはおろおろしながら、両手を合わせ、誓い始めた。

「私、マスオは、この事を絶対誰にも言いません。もし、言ってしまったら、しまったら……」

後をどうやって続けばいいか分らなかったので、助けの目でアツコを見た。アツコは仕方ないという顔でマスオを見つめた。

「誓いは言葉だけで済ますものではないよ。一番大事なのは気持ちの問題だよ」

アツコの話を聞いて、マスオは分ったふうに頷いた。気持ちの問題なら大丈夫と自信があるから。

マスオはもう一度手を合わせた。今度は心の中で誓った。

誓いが終ってから、目を開きアツコを見た。

アツコは自分の膝に乗せた弁当箱に蓋をしめて脇の地面に移した。

「マスオが見た黒い影、私たちは黒魂と呼ぶの」

「私たち?」

マスオは訊いた。

「もちろん、マスオと私の私たちではなく、私の家族のことよ。大の昔から巫女をやってきたから、そんなことは知っていて同然よ。あの黒魂がこの世に現れたってことは戦いの嵐がもうすぐだという証なの」

「戦いの嵐ってなに?」

「それについては後で話す。それより、知らない女があなたを会いに行かなかったの?」

アツコが言っているのはきっと長月だ。

「そんな人、まだ、来てないよ」

「本当?」

アツコの疑いの視線を直面するのが怖くてマスオは目をそらそうとしたが、そうすると嘘だってことがばれると思った。

アツコの目にはびくっとしたが、マスオは平然を装って力強く頷いた。

「本当だよ。そんな女、みたことがない」

アツコは少し安心した顔になった。マスオはあの女がどんな人なのか気になって、おそるおそる尋ねた。

「知らない女が尋ねてきたら、何かまずいことでも起きるの?その女はどんな人なの?」

「うん。私もついこの間に、お母様から聞いたんだけど、黒魂は、戦いの嵐がくる前触れだって。黒魂は私にはまだ見えないけど、お母様のようなすごい巫女には見えるらしいの。そして、見つけた黒魂を消滅するの」

「じゃ、あの知らない女も黒魂なの?」

「違う。女も黒魂を消滅しに来たの」

これを聞いたマスオは少し安心した。黒魂を消す人なら悪い人ではない、っていう事を知っただけで、よかったと思った。

「なら、いい人じゃない?」

「違う。女はいい人じゃない。そもそも、女は人ではない。黒魂を食べて、その力を自分の物にする。そして、黒魂の力によって人の形になる、ただの化け物よ」

「化け物?でも、黒魂を消すでしょう?」

「それは全部自分が強い力を得るためだけなの」

「女は力を得てどうするつもり?」

「最後の戦いで勝って、自分の運命の人と一緒にいるためなの」

運命の人、この単語を長月は確かに口にしたのをマスオは覚えている。なら、長月は自分と一緒にいるために黒魂を食べ、強くなるのかなって、マスオは一人、考えた。

「それなら、別に悪い人でもないじゃない。自分の運命の人と一緒にいるために戦うなんて。なんか、切なくていいんじゃない?」

マスオは自然にも、長月の肩を持つような発言をした。

「全然よくないよ。マスオはまだ何も知らないからそんな事が言えるの」

「女が戦う相手は黒魂なの?それとも、アツコのような巫女なの?」

「黒魂と女は同類なの。私たち巫女はただ、人間に危害を与える物を消滅するだけ」

「なら、女とは敵じゃないじゃない。なぜ嫌っているの?一緒に黒魂を消滅すればいいんじゃない」

アツコはマスオの言葉を聞いて、困った顔になった。

「女が現れると、人間の死亡率は急速に上がるから」

「でも、女は人間を襲わないじゃない?」

「女は人間を襲わないけど、人間の心の中にある黒魂を誘き出す力があるの。黒魂を心の中から抜かれた人間は、死ぬか、もっと強力な黒魂を生み出す、この二つの選択しか残されていない」

マスオを言葉を失った。言ってる意味がよく分からないので、消化するのに時間がかかった。

「だから、女が現れると私たち巫女はあちこち歩き回りながら、黒魂を消し、黒魂に傷づけられた人を癒し、黒魂に支配された人の救助にとりかからなければならないの」

「黒魂に支配された人?」

「そう。女が現れて、一部の人間は自分の心に潜んだ黒魂の存在を知り、強い精神力で黒魂を支配し、黒魂の力を使って悪事をするの。もちろん、人間の体をのっとる黒魂もある。……一言で言って、女は災いの導火線となってこの世界に現れるってわけ。だから、本当に大変。うちのお母様も最近、忙しくなってよく顔も見れなかったの。私はまだ一人前になってないから連れていってくれないけどね。私としてはもう立派な巫女になったと思うけどな」

アツコはお茶を一口飲んで、マスオをを見ながらまた何か聞きたいことがある?というふうな眼差しを向けた。

「あっ、そうだ。先アツコは女は自分の同類とも戦うといったよね。女のように、黒魂を食べる人はまたほかにいるってこと?」

「そう。またいる。その事についてはまだ聞いていないの。なら、今夜うちに来ない?お母様がもっと詳しく教えてくれるはずよ」

「でも、忙しいって言ってだじゃない?」

「大丈夫。事情を説明すればきっと家に残るって。それに、マスオが黒魂の姿が見えるってことはとても珍しいから、お母様も理由がわかるかもよ」

マスオはその理由をなんとなくわかっているような気がした。長月という女の子が自分を運命の人って呼んでだから、なんとなく関係があるのではないかと。

いきなりアツコの家を訪れるのは緊張するが、マスオは長月の事をもっと知りたくなって、訪問することに決めた。

「決まりね。じゃ、そろそろ午後の授業が始まるから、教室に戻ろうか」

「うん。戻ろう」

アツコとマスオは立ち上がって教室に向かった。

この時、マスオの頭にふと母さんの面影が浮かんだ。

「アツコ、黒魂が抜かれても死ななかった人は、もっと強い黒魂を生み出すといったよね」

「そうよ。どうした?」

マスオの顔が急に暗くなった。明るくふるまっても、今のマスオに元気付けられることではないと、アツコはなんとなく知った。

「母は今も生きている。ってことは、今、母の心の中には前よりも強い黒魂がいるってことになるの?」

アツコはどう答えればいいか、分らなくなった。

「でも、アツコの母さんは、黒魂を抜かれなかったかもしれないじゃない?だから、今のままだよ。だって、黒魂がつよくなったら、絶対大変な事になったよ。このまま平和にいられるはずないよ」

「本当?」

「本当本当。黒魂を抜かれなくて、そのまま今までの生活をする人間だっていっぱいいるんだから」

現に、黒魂のことを知らずに生活を続く人がいっぱいいるから。

アツコの言葉を聞いて、マスオは少し安心した。しかし心にかかった雲は消えていなかった。

二人は階段をおりながら教室に向かった。

アツコはマスオの母さんの事をずっと考えた。黒魂がもし抜かれなかったら、きっともっと強力な黒魂が生まれるかもしれない。この事をお母様に話して、何か対策しないと。マスオが悲しむ顔が見たくない。黒魂が目覚めず、ずっと心の中で眠ったままになる確率の方が高いが、万が一っていうこともあるから、絶対お母様に頼むことにした。
放課後、マスオはアツコと一緒に、彼女の家に向かった。

アツコと友達になって以来、一度も家に行ったことはなかった。アツコはしょっちゅう自分の家に遊びに来たけど、誘ったのはこれが始めてだ。アツコの家族が巫女の一家であることだから、やすやすと他人を家に招かないだろう。

歩きながら、マスオはアツコの家はどんな形だろうか?と勝手に想像した。昔風の日本の家屋?ならば人に近寄せられない厳かな雰囲気があるかもしれない。でも、巫女だから神社に住んでるとか?

アツコの家に向かっている途中、二人は何も言わなかった。

地下鉄に乗り、バスを乗り、1時間はたっぷり使ってようやくアツコの家の近くに来た。アツコの家はマスオを今まで勝手に想像してたのとはまったく違った。二人は今とっても高いマンションの前に立っている。マンションは雲にまで届きそうに高かった。

目の前にあるマンションは立派な建物だ。ただ、自分の想像してた古風の家とは全然違ったので、
顔のどこかに落胆の影がかすった。それをアツコは見逃さなかった。

「何か、大変な建物を想像していたでしょう」

マスオは正直に頷いた。

「確かに、巫女というと、ドラマや映画、アニメの中に出てくるすごい木造の建物に住んでることを想像するけど、それじゃ、自分が巫女ですってことをばらしているのと同じだから、余計な争いが起こるの。だから、こうやって、普通に暮らすのが一番ってこと」

「なるほど」

「一般人向けの巫女や神社は隠す必要なく堂々としてればいいけどね」

マスオは少し感心した。

二人はマンションに入り、エレベーターに乗って、最上階にあがった。

「最上階の家なんだね」

エレベーターから出て、マスオは言った。

「高いところだと、町の様子がすべて見えるから。それに、危険がどこにあるかもすぐわかるから行きやすいの…ていうのをお母様から聞いたの」

アツコの家はエレベーターを出て正面の家だった。

アツコが鍵を出してドアを開けた。

「ここが、アツコの家なの?」

「うん。でもここだけじゃなく、この階の部屋は全部私の家だよ。ちなみに、屋上も私の家族以外は立ち入り禁止になっている」

「すっごい!」

こんなにも高そうなマンションのワンフロアが全部アツコの家だなんて、びっくりするのも無理はない。でも、巫女ってこんなにも儲かる仕事なのかな?

「儲かるわけではないけど、街を守っているんだから、政治家から金はたっぷりもらえるよ。いろいろと相談もしてるからね」

マスオは自分の考えがアツコにばれたと思い、顔が熱くなってきた。

「私に、読心術があるわけではないよ。ただ、普通なら、そう考えても仕方ないとおもったから」

アツコのこの話をきいて、マスオは少し安心した。もし、読心術が使えるなら、自分には秘密がいなくなる。それはそれで困ることだ。

アツコの家に入ると、アツコのお母さん、寒麗スズノが迎えてくれた。すらっとした体、腰まで長く伸びた真っ黒な髪。

スズノは、アツコと一緒に家にはいるマスオを見て、戸惑った様子を見せた。

「お母様、この人がマスオなの」

「あら、あなたがマスオなの。アツコがいつもあなたの話をしていたよ」

綺麗、と思ったのが最初の印象だ。よく見ると、アツコと似ているところもある。それもそうだ。親子だから。

スズノは嬉しそうな声でマスオに話しかけてから、とがめるような目でアツコを見た。

「お母様、マスオは黒魂と関係があるの」

黒魂と関係があると聞いて、アスズノのとがめる視線の変わりに、悲しいような視線でマスオを見つめた。

マスオはもう一回、スズノを見た。

スズノもいかに普通な格好をしている。これがアツコ家の現代式の巫女かもしれない。

マスオはリビングルームに案内され、ソファに坐らせた。

インテリアがとても綺麗。どれも高級感がある家具ばっかりだ。

アツコはマスオの傍にすわった。スズノは飲み物を三つもってきて、二人の向こうに坐った。

コップを受け取って礼を言ったマスオは気ごちなく啜った。

「アツコ、簡単に説明してくれない?」

スズノの問にアツコは早速、昼休みにマスオから聞いた事を話した。

話を全部聞いてから、スズノは話した。

「マスオ君。隠してることがあるんじゃない?」

マスオは瞬間、びくっとした。でも、何もいわず、ただ頭を横に振っただけだった。

「知らない女と出会ったよね」

マスオは少し焦った。なぜ、アツコのお母さんがそんな事を知っているか、不安になり始めた。

「ど、どうして、知ってるんですか?」

マスオは段々消え入るような声で尋ねた。

「マスオ!何で私には正直に話してくれなかったの?」

アツコが怒った声で、さらにマスオにまくし立てようとしたが、お母さんに止められた。

「マスオ君の体から月の匂いがする」

「月の匂い?」

マスオはわけが分らなくなった。

「『月の匂い』と言っても抽象的だよね。私たちもあの独特の感じを『月の匂い』と呼んでいる」

「じゃ、彼女は月ってことですか?」

マスオの言葉を聞いて、スズノは軽くうなずいた。

「そう、あの女の正体は月……」

スズノは黒魂とあの謎の女にまつわる話と淡々と話してくれた。

大昔、かぐや姫が月に行ってから、好きな人と恋をしなかったことをずっと悔やんでいた。でも、月に来た以上、二度と地球に戻れないことを分ったかぐや姫は、方法をずっと考えていた。

それで、思いついた方法が十二個の分身に分けて地球に送ることだった。悲しいことに分身は二度と一つに戻れない。

かぐや姫の分身が地球に来て運命の人と出会い恋をし、死ぬまで一緒になる。運命の人が死んだら、分身は月に戻ってつぎの機会をまつ。

このままならとても暖かい話なのだが、そう簡単に運命の人と一緒になれない。

かぐや姫と一緒に地球に現れたのは人々の心から生まれた黒魂だ。分身たちは黒魂を餌にし、力を強める。運命の人を捜し守りながら、ほかの分身と戦う。なぜなら、最後に残った分身だけ、運命の人と一緒に生きる資格を持らえる。負けた分身はすぐ月に戻ってしまう

しかし、今まで、何回も繰り返したけど、殺し合いで勝った魂にも運命の人と暮らしていけることはできなかった。

これが、アツコのお母さんが話してくれた女の正体だ。

「でも、僕とどんな関係があるんですか?」

「巫女に黒魂が見えるのは、厳しい修行の結果だけど、普通の人に黒魂が見えるって事は、あの女の運命の人という証なの」

まだ事情を飲み込めていないマスオを見て、アツコはいらいらしながら、話した。

「つまり、死んでしまうことよ。それも、殺されてしまう!黒魂、もしくは他の分身にね!」

アツコの話を聞いて、マスオは怯え始めた。殺されてしまう?自分は今まで悪い事もしなかったし、母さんとも別れたくなかった。

「僕はこれからどうすればいいですか?彼女はもう僕の居場所を知っているし、母さんはなぜか彼女が気に入ってるらしいんです」

スズノは高ぶるマスオの感情を落ち着かせるため、なだめるように話し出した。

「私がお守りを作ってあげる。このお守りなら一ヶ月はもつ。黒魂もあの女も近づけない」

「その後はどうすればいいですか?」

「魂たちの殺し合いが始まったら、ここに来なさい。戦いが終るまで、守ってあげる」

この言葉を聞いて、マスオは少しはほっとした。殺されずにすむから。母さんと別れずにいられる。

「そう、お母様。マスオのお母さんは今も普通に暮らしているそうです。それはどうしてですか?」

「黒魂を抜かれた人は、その夜、『月引症』という病に襲われる。その病に襲われた人は、死ぬか、生き延びるかにわかれる。生き延びた人の心の中からは段々、前よりも強い黒魂を生み出すことになっている。新たに生まれる時間は人それぞれだから、正確にわからない。でも、黒魂の存在を知らず、普通に暮らす人も沢山あるから、多分、マスオのお母さんの場合もそうかもしれない。心配する必要はないよ。たとえ、前より強い黒魂が心の中に宿っても、自制心があれば、大丈夫。それより、マスオの体の中には黒魂がないよね」

「えっ!分るんですか?」

「巫女になると、そんな事も知るようになるよ。でも、マスオ君の心の中の黒魂はどうやって消されたんだろう」

「わかりません」

マスオは頭を下げた。それを見たスズノは微笑みながら、言葉を続けた。

「黒魂がない人はこの世界にいないの。私たち巫女も、定期的に自分の心の中の黒魂を消すから。……もしかしたら、誰かが、あなたの黒魂を消しているのかもしれないね」

「でも、僕はそのような人を知りません。巫女が本当にあるってことも、知ったばかりなので。もしかして……」

ここまで言いかけたマスオの頭の中に長月の影が浮かんできた。

「アツコにはまだ黒魂を見つけ出して消す力はないから、違う。やはり、あの女がマスオ君にあった時に消したとしか考えられないね」

「やっぱりあの女かもね」

アツコが傍らで小さくつぶやいた。

マスオは自分の知りたいことが全部分ったので、この辺でお暇しようと、立ち上がった。これ以上お邪魔するのも気が引ける。それに母さんのことも心配だ。

「もう帰るの?」

アツコが訊いた。

「うん、もう十分お邪魔したよ」

こう言ってマスオはスズノに向かって頭を下げながら礼を言った。

玄関で靴を履ぎ、マスオは見送るスズノに向かってもう一度確かめた。

「母さんは本当に大丈夫でしょうか」

「大丈夫とはいいきれない。……なら、一回会ってみよう。そうすると直に判断できるから。どう?」

「本当ですか?ありがとうございます」

家を出ようとしたマスオは急に思い出したように立ち止まった。

「でも、あの日、僕の体からは黒魂が出てこなかったのはどうしてですか?」

マスオのこの言葉を聞いてフミヨは驚いた。

「黒魂が出てこなかったと?それは本当なの?」

「は、はい」

スズノの鋭い声に、マスオはおどおどしながらこたえた。

「そうすると、だれかがずっとマスオの黒魂を消滅しているってことになるね。あの女のはずはないから。……マスオの一番近くにいる人はあなたのお母さんしかいないよね。定期的に誰かにあうこともないね?」

マスオは頷いた。

「マスオのお母さんにさっそくあってみたほうがいいね。運命の人だから黒魂がないという記載もなかったし……」

スズノはここまで言って口を噤んだので、マスオは余計に気になったが、スズノはそれ以上何もはなさなかった。

マスオは腕時計を見た。もうすっかり遅くなったので、急いで家から出ようとすると、アツコが呼び止めた。

「お母様、お守りを忘れていました」

「あっ、そうね。今から作るから、もう少し待っていてね」

マスオはすぐお礼を口にした。