見上げれば、雲ひとつない穏やかな空が頭上に広がっている。じっと見ていると、風が私のベールをふわりと揺らした。
森に囲まれた厳かな石の教会は、侯爵家の領地内に古くから存在している伝統ある建物。
教会の入り口には薔薇が咲いていた。その、すべての薔薇は初々しく美しい無垢な花嫁のためだけに丹精込めて育てられた極上の品。
――薔薇の色は、すべてが白。
少し離れた場所には、長身の男性でも中に入れば見えなくなる迷路のようなノット・ガーデン。白い薔薇と木々で造られたそれは、両家の結びつきを込めた言葉で表されている。
形は上から全体を見ると、両家の紋章が合わさっている複雑な構造。
今日という日を祝うために訪れた人々は、そのガーデンの前に用意されたスペースで、軽い食事やおしゃべりを楽しみ、今日の主役達の登場を待っていた。
その輪から少し離れた場所にいる令嬢の様子を伺いながら。
――すべての視線が目障りだった。なぜなら、私のことを皆が知っているから。
椅子に座り、祝いの場に相応しくない黒いドレスとベールを身に纏い、葡萄酒をひたすら呑んでいても苦味だけが口に広がる。
「メリロット……」
グラスを空にして、さらに葡萄酒を要求しようとしていた所に、咎めているような、だけど泣きそうな声で私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、淡い若草色のドレスに身を包んだ女性――ラフィラム家の三つ子の長女、私の姉にあたるリンデンが、痛ましげに私を見ていた。
「……なぁに、リンデン? まだ式まで時間があるわ。それとも、あなたまで私にお説教でもするのかしら?」
グラスに向き直り、控えていた侍女に新しい葡萄酒を頼む。
「……もう止めなさい。皆様が見ているわ。それに、そのドレス……メリロットお願いだから着替えて来て」
「着替える? ……良いわよ。色は白で良くて?」
立ったままのリンデンを見ると顔が悲しそうに歪んだ。
気まずい空気が流れる中、侍女が葡萄酒をテーブルに置きそそくさと離れて行く。
「メリロット。あなたも納得したじゃない。お願いだから着替えて。ドレスも用意してあるわ。このままじゃ……お母様とシスリーが悲しむわ」
リンデンが跪き、私の手を取ると「お願い」と懇願する。
その時、ふわりと甘い茶葉の香りが漂った。そうかと思うと、塩の香りも混じっている。
周りへの気配りを忘れないリンデンだからこそ、二つの香りを巧みに合わせその身に纏う。
その優しさが辛くて、逃げるようにふと顔を上げると、こちらを興味深げに眺めていた招待客と薄いベール越しに目が合った。
目が合った途端に逸らされ、何事もなかったかのように、また、それぞれが談笑を始める。
苛立ちだけがつのった。
「……わかったわ。着替えて来るわ」
苦々しい思いを胸に閉じ込め立ち上がると、リンデンもほっとしたように立ち上がる。
「ありがとう。メリロット」
「お母様のためよ。シスリーのためじゃないわ」
苦々しく吐き捨てると、リンデンから笑顔が消えた。
表情を固くするリンデンから手を振り払いのけ、背を向けて歩き出す。
離れると空を見た。
雨が降ればいいのに……。暗い雲から絶望が降り注げば私の気も晴れるかも知れない。
石とステンドガラスで作られたアーチ状の天井から、太陽の光がきらきらと礼拝堂を照らしていた。石壁にはツタが生い茂り、光に当たると幻想的な雰囲気が辺りを包み込む。
人々は厳かな雰囲気に緊張しながらも、中心にいる若い二人に視線を注いでいた。
柔らかなくせっ毛のあるブロンドに濁りのない青い瞳で花嫁を優しげに見つめている男性はアルバ・マーシュウッド。
マーシュウッド侯爵家の次男として生まれ、現在は王宮付きの天文学者、地質学者としてその才能を発揮していた。
その隣には、可憐な女性が本日の主役とばかりに、白い肌をほんのり赤く染め男性を見上げていた。
蜂蜜色の腰まである長くしなやかな髪は、普段とは違い、ゆるやかに結い上げられ真っ白な絹のベールに覆われている。大きな澄んだ瞳は、髪の色より少し暗い飴のような琥珀色。その瞳が、隣に寄り添うアルバを恥ずかし気に見つめている。
誰もが羨む花嫁は、伯爵家の三つ子、三番目のシスリー。
招待客の間からは絶え間なくため息が漏れる。
それも、そうだろう。可憐で初々しい花嫁と、凛々しく頼りがいのある花婿は絵に描いたように美しい。
花嫁の親族席で、長女、リンデンより少し深い森を思わせるドレスを身に纏い見ている私には拷問のような光景だった。
ベールで顔が見えないのが唯一の救い。私はこの幸せな空間で一人、声を押し殺して泣いているのだから。
悔しさや、やるせなさだけが募る。
なぜなら、シスリーの場所に立っていたのは、本来なら私だったから。
「……メリロット」
膝に置かれていた手は、気づかない内にドレスを握り締めていた。隣に座っているリンデンが慰めるように自分の手を重ねた。
びくりと体を震わせたあと、周りに見られないように手を払う。瞳は二人を捕らえたまま決して逸らしはしなかった。
焼き付けておきたかった。人生で一番最悪な日を。
絶え間なく頬を流れる涙は、ぽたぽたと手袋とドレスに落ちて染みを作る。
耐えられると思ったのに無理だった。大丈夫だと何度自分に言い聞かせただろう。この式が決まった三ヶ月前からずっと、この日が来なければいいと、破談になればいいと何度願ったか。
妹の幸せを壊したかった。私が壊されたように同じ思いを味わせたかった。
ある日突然、将来何があっても結婚すると信じていた婚約者のアルバに、シスリーと結婚したいと言われた絶望は今も忘れることが出来ない。
変だと思ったんだ。
タイミング悪く私の留守の時ばかりに訪れていたアルバは、シスリーと話をして帰ったと、顔が引きつったまま私と目を合わさない侍女から聞いたその時から。変だと思ったんだ。
シスリーも曖昧に話を逸らし、私に会わないようにしていたような気がする。
今思えば後ろめたかったのだろう。
アルバも、私と話す時よりもシスリーと話す時の方が楽しそうに見えたのは、いつからだったのだろう?
気付いた時には遅かった。違う、本当は気付きたくなかっただけだ。
「ごめん」と謝るアルバにもシスリーにも怒らず罵倒することもなく、泣くことさえもしなかった。
ただ……頷いて耐えたんだ。だって、そうしないと皆が困るから。
伯爵家としては、三人の中の誰が侯爵家のアルバと結婚しても良かったのだから。
格式ある家柄と強力な力を得るため、結びつきが強くなれば誰でも良かった。ただ、アルバが私よりシスリーを選んだ。
ただ、それだけのこと。
素直に頷く私にお父様もアルバもシスリーも安堵した。あの時の光景は忘れない。ただ、リンデンだけが辛そうに私を見ていた。リンデンは私の気持ちを知っている。だから、こんなに心配してくれている。
私が昔からアルバを大好きだった事実はリンデンしか知らない。
アルバ本人も気付いてくれなかった。
十年も婚約者として一緒にいたのに、夜会や舞踏会には常にアルバが隣にいてくれた。それが当たり前だったのに、気持ちが通じ合うことなど一度もなかったのだ。
私だけが一方的に好きだった。その事実が胸を締め付ける。
幸せそうな二人を、わっ――と歓声が沸き起こった。
その瞬間、アルバの香が私を包み込んだ気がした。
大好きだった秋の空のように澄み切ったフルーティーなラスト・ノートが。
そうして、夫婦になった二人の記念すべき日は、私にとって人生で一番最悪な瞬間として脳裏に刻まれた。
森に囲まれた厳かな石の教会は、侯爵家の領地内に古くから存在している伝統ある建物。
教会の入り口には薔薇が咲いていた。その、すべての薔薇は初々しく美しい無垢な花嫁のためだけに丹精込めて育てられた極上の品。
――薔薇の色は、すべてが白。
少し離れた場所には、長身の男性でも中に入れば見えなくなる迷路のようなノット・ガーデン。白い薔薇と木々で造られたそれは、両家の結びつきを込めた言葉で表されている。
形は上から全体を見ると、両家の紋章が合わさっている複雑な構造。
今日という日を祝うために訪れた人々は、そのガーデンの前に用意されたスペースで、軽い食事やおしゃべりを楽しみ、今日の主役達の登場を待っていた。
その輪から少し離れた場所にいる令嬢の様子を伺いながら。
――すべての視線が目障りだった。なぜなら、私のことを皆が知っているから。
椅子に座り、祝いの場に相応しくない黒いドレスとベールを身に纏い、葡萄酒をひたすら呑んでいても苦味だけが口に広がる。
「メリロット……」
グラスを空にして、さらに葡萄酒を要求しようとしていた所に、咎めているような、だけど泣きそうな声で私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、淡い若草色のドレスに身を包んだ女性――ラフィラム家の三つ子の長女、私の姉にあたるリンデンが、痛ましげに私を見ていた。
「……なぁに、リンデン? まだ式まで時間があるわ。それとも、あなたまで私にお説教でもするのかしら?」
グラスに向き直り、控えていた侍女に新しい葡萄酒を頼む。
「……もう止めなさい。皆様が見ているわ。それに、そのドレス……メリロットお願いだから着替えて来て」
「着替える? ……良いわよ。色は白で良くて?」
立ったままのリンデンを見ると顔が悲しそうに歪んだ。
気まずい空気が流れる中、侍女が葡萄酒をテーブルに置きそそくさと離れて行く。
「メリロット。あなたも納得したじゃない。お願いだから着替えて。ドレスも用意してあるわ。このままじゃ……お母様とシスリーが悲しむわ」
リンデンが跪き、私の手を取ると「お願い」と懇願する。
その時、ふわりと甘い茶葉の香りが漂った。そうかと思うと、塩の香りも混じっている。
周りへの気配りを忘れないリンデンだからこそ、二つの香りを巧みに合わせその身に纏う。
その優しさが辛くて、逃げるようにふと顔を上げると、こちらを興味深げに眺めていた招待客と薄いベール越しに目が合った。
目が合った途端に逸らされ、何事もなかったかのように、また、それぞれが談笑を始める。
苛立ちだけがつのった。
「……わかったわ。着替えて来るわ」
苦々しい思いを胸に閉じ込め立ち上がると、リンデンもほっとしたように立ち上がる。
「ありがとう。メリロット」
「お母様のためよ。シスリーのためじゃないわ」
苦々しく吐き捨てると、リンデンから笑顔が消えた。
表情を固くするリンデンから手を振り払いのけ、背を向けて歩き出す。
離れると空を見た。
雨が降ればいいのに……。暗い雲から絶望が降り注げば私の気も晴れるかも知れない。
石とステンドガラスで作られたアーチ状の天井から、太陽の光がきらきらと礼拝堂を照らしていた。石壁にはツタが生い茂り、光に当たると幻想的な雰囲気が辺りを包み込む。
人々は厳かな雰囲気に緊張しながらも、中心にいる若い二人に視線を注いでいた。
柔らかなくせっ毛のあるブロンドに濁りのない青い瞳で花嫁を優しげに見つめている男性はアルバ・マーシュウッド。
マーシュウッド侯爵家の次男として生まれ、現在は王宮付きの天文学者、地質学者としてその才能を発揮していた。
その隣には、可憐な女性が本日の主役とばかりに、白い肌をほんのり赤く染め男性を見上げていた。
蜂蜜色の腰まである長くしなやかな髪は、普段とは違い、ゆるやかに結い上げられ真っ白な絹のベールに覆われている。大きな澄んだ瞳は、髪の色より少し暗い飴のような琥珀色。その瞳が、隣に寄り添うアルバを恥ずかし気に見つめている。
誰もが羨む花嫁は、伯爵家の三つ子、三番目のシスリー。
招待客の間からは絶え間なくため息が漏れる。
それも、そうだろう。可憐で初々しい花嫁と、凛々しく頼りがいのある花婿は絵に描いたように美しい。
花嫁の親族席で、長女、リンデンより少し深い森を思わせるドレスを身に纏い見ている私には拷問のような光景だった。
ベールで顔が見えないのが唯一の救い。私はこの幸せな空間で一人、声を押し殺して泣いているのだから。
悔しさや、やるせなさだけが募る。
なぜなら、シスリーの場所に立っていたのは、本来なら私だったから。
「……メリロット」
膝に置かれていた手は、気づかない内にドレスを握り締めていた。隣に座っているリンデンが慰めるように自分の手を重ねた。
びくりと体を震わせたあと、周りに見られないように手を払う。瞳は二人を捕らえたまま決して逸らしはしなかった。
焼き付けておきたかった。人生で一番最悪な日を。
絶え間なく頬を流れる涙は、ぽたぽたと手袋とドレスに落ちて染みを作る。
耐えられると思ったのに無理だった。大丈夫だと何度自分に言い聞かせただろう。この式が決まった三ヶ月前からずっと、この日が来なければいいと、破談になればいいと何度願ったか。
妹の幸せを壊したかった。私が壊されたように同じ思いを味わせたかった。
ある日突然、将来何があっても結婚すると信じていた婚約者のアルバに、シスリーと結婚したいと言われた絶望は今も忘れることが出来ない。
変だと思ったんだ。
タイミング悪く私の留守の時ばかりに訪れていたアルバは、シスリーと話をして帰ったと、顔が引きつったまま私と目を合わさない侍女から聞いたその時から。変だと思ったんだ。
シスリーも曖昧に話を逸らし、私に会わないようにしていたような気がする。
今思えば後ろめたかったのだろう。
アルバも、私と話す時よりもシスリーと話す時の方が楽しそうに見えたのは、いつからだったのだろう?
気付いた時には遅かった。違う、本当は気付きたくなかっただけだ。
「ごめん」と謝るアルバにもシスリーにも怒らず罵倒することもなく、泣くことさえもしなかった。
ただ……頷いて耐えたんだ。だって、そうしないと皆が困るから。
伯爵家としては、三人の中の誰が侯爵家のアルバと結婚しても良かったのだから。
格式ある家柄と強力な力を得るため、結びつきが強くなれば誰でも良かった。ただ、アルバが私よりシスリーを選んだ。
ただ、それだけのこと。
素直に頷く私にお父様もアルバもシスリーも安堵した。あの時の光景は忘れない。ただ、リンデンだけが辛そうに私を見ていた。リンデンは私の気持ちを知っている。だから、こんなに心配してくれている。
私が昔からアルバを大好きだった事実はリンデンしか知らない。
アルバ本人も気付いてくれなかった。
十年も婚約者として一緒にいたのに、夜会や舞踏会には常にアルバが隣にいてくれた。それが当たり前だったのに、気持ちが通じ合うことなど一度もなかったのだ。
私だけが一方的に好きだった。その事実が胸を締め付ける。
幸せそうな二人を、わっ――と歓声が沸き起こった。
その瞬間、アルバの香が私を包み込んだ気がした。
大好きだった秋の空のように澄み切ったフルーティーなラスト・ノートが。
そうして、夫婦になった二人の記念すべき日は、私にとって人生で一番最悪な瞬間として脳裏に刻まれた。