先生が空けたドアから入って来た女の子は、少し小柄な体格ではあるものの、肩の辺りまで伸びた艶やかでさっぱりとした黒髪と、これがこのクラスの人たちとの初対面であると思わせない程の笑顔を見せていた。
その圧倒的なルックスに、クラスの誰一人として歓声を上げることなく、息を呑んで彼女が教卓の前で止まるのを、目で追っているように見えた。
かくいう僕も、他の人とは別の意味で息を呑んでいた。
なぜなら、その女の子は――昨日あの公園で少しばかり言葉を交わした、あの女の子だったからだ。
彼女から言われた「明日になれば分かるよ」、「よろしくね」という言葉の本当の意味が分かると、それまであった身体の内側に滞留していたモヤモヤが、この夏晴れの空のようにスッキリとしていくのを感じる。
「それじゃあ、早速自己紹介からしてもらおうかな」
先生は彼女ににっこりと柔らかいくほほ笑むと、彼女にそう促す。
「分かりました」
彼女は軽く頷くと、チョークを手にとって、黒板に自分の名前を大きく書き始める。
その様子を、僕含めクラスの全員が、固唾を呑んで見つめる。
転校生とは、最初はクラスの注目の的になる存在だ。
誰もが必死にその人のことを、限られた情報からなるべくたくさんのものを引き出そうとするから、その一挙手一投足にまで見逃すことなく観察されてしまう。
僕がその立場になることは、これまで一度もなかったけど、きっと誰でも例外なく緊張してしまうことだろう。
「――はい、書けました」
そうこうしているうちに、彼女が名前を書きえ終え、チョークを置いて手に着いた粉を落とす。そして前を向いて大きく息を吸う。
「初めまして。東京から転校してきました、涼野綾夏と申します。高校三年生のこの時期に転校するのはかなり不安ですが、みなさんと仲良くしていけたらと思っているので、短い間になりますが、よろしくお願いします」
彼女――涼野さんが深々とお辞儀すると、それにつられて僕たちもお辞儀を返す。
そんな光景に、先生が溜めていた笑いをこぼす。
「なんで同い年なのにそんな改まってるのよ~。もっとほら、涼野さんもみんなもリラックスリラックス。もうクラスメイトなんだから、もっとフラットにしないと。今のみんな見てると、何だか先生むずかゆくなってきちゃうよ」
「そうですか……じゃなくて、そっか」
涼野さんは少し俯いて考えるような仕草をしながらぼそっとそうつぶやくと、改めて僕たちの方に視線を向ける。
その瞳には、さっきのような固さは微塵も感じられず、僕たち四十人の視線すらも跳ね返してしまうかのような強さを感じた。
「え~では。改めまして。涼野綾夏です! みんな、よろしくね!」
白い歯を見せ、とびきりの笑顔でそう言われてしまったら、こちら側も黙ってはいられないようだった。
「うおぉぉぉお! めちゃめちゃ可愛いじゃん!」
田中くんを筆頭に、元気な男子たちが一斉に立ち上がり、両手にガッツポーズをして歓喜の声を上げ始める。
「っていうか、東京から来たって言ったよね?」
「うん、そうだよ」
「うわ、マジかよ! 東京だって東京。世界の東京だよ!」
男子の一部は、訳の分からないこと連呼しているようにも思えるけど、実は、その気持ちは僕にもわからなくはない。
なぜなら、このあたりに住んでいる人たちにとって、東京は次元の違う世界だと思っているからだ。
決して、僕たちが住んでいる地域が典型的な田舎町とまではいかない。けれども、コンクリートでできた建物よりも、森や林の方が割合としては多い気がする。
つまるところ、僕たちが住んでいるこの辺りは、いわゆる「郊外」というやつだろう。
むしろ、海に面していて、後ろは山々が控えていることを考えれば、人工的な建物が多く映るのも、景観としてはいまいちになってしまうかもしれない。
「やっぱり、スカイツリーとか東京タワーとかすごい?」
「う、うん……すごいよ」
「すげぇ! 涼野さん、どのくらい登った? でもやっぱり、東京に住んでたら何回も行けそうじゃない?」
「じ、実は私あんまりそういうところに行ったことなくて……」
「えっ、そうなの……?」
「ちょ、ちょっと色々事情があってね……あはは」
驚きの声を上げる男子に、涼野さんは申し訳なさそうに苦笑いする。
「じゃあさじゃあさ、綾夏ちゃん。東京にいたってことは、テレビに出てる人とかと街中で会えたりするの?」
「あ~それすっごく気になる! ねぇねぇどうだったの?」
一方の女子たちは、さすがに席から立ち上がるようなことはなかったけど、近くの友達同士で手を取り肩を取り、まるで大好きな芸能人が目の前に現れたようなリアクションをしている。声のトーンなどでは、男子に負けてはいないようにも見える。
それに、女子の一部からは、すでに涼野さんを下の名前で呼んでいる。
このほんの数分の間で個人的に会話をたくさんしたというわけでもないのに、下の名前で呼ぶことによって、心の距離は一気に縮まって行く。
いくらノリで乗り切るような男子であっても、女子の間の打ち解けるスピードの速さには到底太刀打ちすることができないようだった。
「え、えっと……それもないんだよね……。で、でもさ! 芸能人とかに頻繁に会っちゃってもさ、それもそれでレア度が落ちるというかなんというか……」
涼野さんは、盛り上がりを見せるこの場を何とか冷やすことのないように、どうにかして言葉を繋いでいく。
「そっかそっか~。まぁ、そんな簡単に会えないからこそ会えた時にめっちゃ嬉しいんだよね~」
「そ、そうだよね!」
涼野さんは半分申し訳なさそうに頷きを返しているけど、彼女の言っていることは何もおかしいことではない。
まず、涼野さんが住んでいたのが東京に住んでいるからといって、必ずしもスカイツリーや東京タワーのすぐ近くに住んでいるわけではない。
東側にこそ高層ビル群が立ち並んでいて、僕たちのような人からして想像する東京の景色が広がっていたりするけど、西側は実際そうでなかったりする。
それに、芸能人だって、東京にいても見れないことだってあるし、東京にいなくたってたまたま会えることだってある。
人間は誰しも、目の前にないものに夢をみがちであるから、都会の生活や自分の理想というものに憧れを抱く人は、少なくはないだろう。
でも、だからといって「東京にいるなら、きっとこうに違いない」という自分の価値観を相手に押し付けるようなことをしてはいけない。
涼野さんは、こういった想像に身を任せた人の夢を壊さないように、必死に取り繕ってくれているのかもしれない。
そうだとしたら、涼野さんの器の広さには頭が上がらないし、それを知らずにどんどん質問を投げつけてしまう僕たちの無知さにも、ある意味では頭が上がらない。
初対面同士ということもあって、なかなか開口一番でフラットに接することが憚れてしまうような、そんな一定のリミットがあったけど、今の先生の言葉で、それが完全になくなってしまった。
そうなってしまったら、日々有り余って蓄え続けられて限界を超えるほどに膨れ上がった高校生の元気パワーは、大きく大きく破裂してしまうのは自明のだった。
もはや今の教室はお祭り騒ぎ状態で、生徒同士で抑えることなど、もうできそうにはなかった。
その圧倒的なルックスに、クラスの誰一人として歓声を上げることなく、息を呑んで彼女が教卓の前で止まるのを、目で追っているように見えた。
かくいう僕も、他の人とは別の意味で息を呑んでいた。
なぜなら、その女の子は――昨日あの公園で少しばかり言葉を交わした、あの女の子だったからだ。
彼女から言われた「明日になれば分かるよ」、「よろしくね」という言葉の本当の意味が分かると、それまであった身体の内側に滞留していたモヤモヤが、この夏晴れの空のようにスッキリとしていくのを感じる。
「それじゃあ、早速自己紹介からしてもらおうかな」
先生は彼女ににっこりと柔らかいくほほ笑むと、彼女にそう促す。
「分かりました」
彼女は軽く頷くと、チョークを手にとって、黒板に自分の名前を大きく書き始める。
その様子を、僕含めクラスの全員が、固唾を呑んで見つめる。
転校生とは、最初はクラスの注目の的になる存在だ。
誰もが必死にその人のことを、限られた情報からなるべくたくさんのものを引き出そうとするから、その一挙手一投足にまで見逃すことなく観察されてしまう。
僕がその立場になることは、これまで一度もなかったけど、きっと誰でも例外なく緊張してしまうことだろう。
「――はい、書けました」
そうこうしているうちに、彼女が名前を書きえ終え、チョークを置いて手に着いた粉を落とす。そして前を向いて大きく息を吸う。
「初めまして。東京から転校してきました、涼野綾夏と申します。高校三年生のこの時期に転校するのはかなり不安ですが、みなさんと仲良くしていけたらと思っているので、短い間になりますが、よろしくお願いします」
彼女――涼野さんが深々とお辞儀すると、それにつられて僕たちもお辞儀を返す。
そんな光景に、先生が溜めていた笑いをこぼす。
「なんで同い年なのにそんな改まってるのよ~。もっとほら、涼野さんもみんなもリラックスリラックス。もうクラスメイトなんだから、もっとフラットにしないと。今のみんな見てると、何だか先生むずかゆくなってきちゃうよ」
「そうですか……じゃなくて、そっか」
涼野さんは少し俯いて考えるような仕草をしながらぼそっとそうつぶやくと、改めて僕たちの方に視線を向ける。
その瞳には、さっきのような固さは微塵も感じられず、僕たち四十人の視線すらも跳ね返してしまうかのような強さを感じた。
「え~では。改めまして。涼野綾夏です! みんな、よろしくね!」
白い歯を見せ、とびきりの笑顔でそう言われてしまったら、こちら側も黙ってはいられないようだった。
「うおぉぉぉお! めちゃめちゃ可愛いじゃん!」
田中くんを筆頭に、元気な男子たちが一斉に立ち上がり、両手にガッツポーズをして歓喜の声を上げ始める。
「っていうか、東京から来たって言ったよね?」
「うん、そうだよ」
「うわ、マジかよ! 東京だって東京。世界の東京だよ!」
男子の一部は、訳の分からないこと連呼しているようにも思えるけど、実は、その気持ちは僕にもわからなくはない。
なぜなら、このあたりに住んでいる人たちにとって、東京は次元の違う世界だと思っているからだ。
決して、僕たちが住んでいる地域が典型的な田舎町とまではいかない。けれども、コンクリートでできた建物よりも、森や林の方が割合としては多い気がする。
つまるところ、僕たちが住んでいるこの辺りは、いわゆる「郊外」というやつだろう。
むしろ、海に面していて、後ろは山々が控えていることを考えれば、人工的な建物が多く映るのも、景観としてはいまいちになってしまうかもしれない。
「やっぱり、スカイツリーとか東京タワーとかすごい?」
「う、うん……すごいよ」
「すげぇ! 涼野さん、どのくらい登った? でもやっぱり、東京に住んでたら何回も行けそうじゃない?」
「じ、実は私あんまりそういうところに行ったことなくて……」
「えっ、そうなの……?」
「ちょ、ちょっと色々事情があってね……あはは」
驚きの声を上げる男子に、涼野さんは申し訳なさそうに苦笑いする。
「じゃあさじゃあさ、綾夏ちゃん。東京にいたってことは、テレビに出てる人とかと街中で会えたりするの?」
「あ~それすっごく気になる! ねぇねぇどうだったの?」
一方の女子たちは、さすがに席から立ち上がるようなことはなかったけど、近くの友達同士で手を取り肩を取り、まるで大好きな芸能人が目の前に現れたようなリアクションをしている。声のトーンなどでは、男子に負けてはいないようにも見える。
それに、女子の一部からは、すでに涼野さんを下の名前で呼んでいる。
このほんの数分の間で個人的に会話をたくさんしたというわけでもないのに、下の名前で呼ぶことによって、心の距離は一気に縮まって行く。
いくらノリで乗り切るような男子であっても、女子の間の打ち解けるスピードの速さには到底太刀打ちすることができないようだった。
「え、えっと……それもないんだよね……。で、でもさ! 芸能人とかに頻繁に会っちゃってもさ、それもそれでレア度が落ちるというかなんというか……」
涼野さんは、盛り上がりを見せるこの場を何とか冷やすことのないように、どうにかして言葉を繋いでいく。
「そっかそっか~。まぁ、そんな簡単に会えないからこそ会えた時にめっちゃ嬉しいんだよね~」
「そ、そうだよね!」
涼野さんは半分申し訳なさそうに頷きを返しているけど、彼女の言っていることは何もおかしいことではない。
まず、涼野さんが住んでいたのが東京に住んでいるからといって、必ずしもスカイツリーや東京タワーのすぐ近くに住んでいるわけではない。
東側にこそ高層ビル群が立ち並んでいて、僕たちのような人からして想像する東京の景色が広がっていたりするけど、西側は実際そうでなかったりする。
それに、芸能人だって、東京にいても見れないことだってあるし、東京にいなくたってたまたま会えることだってある。
人間は誰しも、目の前にないものに夢をみがちであるから、都会の生活や自分の理想というものに憧れを抱く人は、少なくはないだろう。
でも、だからといって「東京にいるなら、きっとこうに違いない」という自分の価値観を相手に押し付けるようなことをしてはいけない。
涼野さんは、こういった想像に身を任せた人の夢を壊さないように、必死に取り繕ってくれているのかもしれない。
そうだとしたら、涼野さんの器の広さには頭が上がらないし、それを知らずにどんどん質問を投げつけてしまう僕たちの無知さにも、ある意味では頭が上がらない。
初対面同士ということもあって、なかなか開口一番でフラットに接することが憚れてしまうような、そんな一定のリミットがあったけど、今の先生の言葉で、それが完全になくなってしまった。
そうなってしまったら、日々有り余って蓄え続けられて限界を超えるほどに膨れ上がった高校生の元気パワーは、大きく大きく破裂してしまうのは自明のだった。
もはや今の教室はお祭り騒ぎ状態で、生徒同士で抑えることなど、もうできそうにはなかった。