「――ごめん、言い過ぎた」
少し時間がたつと、自分がした行動を冷静に振り返ることができるというのは本当のことのようだった。
ただでさえ病状が安定していないのに、そこに追い打ちをかけるように責めるような言葉を発したら、精神的にも辛くなってしまうというのに。
「そんなに気にしないで……私も蓮くんだからっていって口走り過ぎちゃった。私の方こそごめんね……」
それっきり、二人の間で会話はなかった。
今は何か無理に話題を作ろうとしても、きっと気分が沈むことに話の流れが向いてしまいそうで、下手に口を開くことが憚られてしまった。
だから、沈黙という選択肢はあながち間違いではないのだと思う。
ただ、沈黙といっても、外からは相変わらずセミの声がうるさいほど聞こえてくるし、クーラーの風の音もあるから、完全に沈黙というわけではなく、人の発する言葉以外の音が場を繋いでいるように感じる。
それから数分後、静かな空間にノック音がやけに大きく響いた。
「――涼野さん、検査のお時間ですよ」
看護師さんがカートにパソコンや色々な検査器具を乗せてやって来た。
「じゃあ、僕はこの辺で……また来るよ」
僕がいたら検査の邪魔になってしまうだろうし、帰るタイミングとしてはちょうどいいのではないだろうか。
「それじゃあ……」
小さく手を振って、病室を後にする。
そのときの綾夏の無言の視線が、なぜか妙に脳裏に強く焼き付いた。
それから数日、僕は溜めに溜めた課題を片っ端から片付けていた。
高校三年生の夏なのだから、自分の好きなように勉強をさせてほしという気持ちがあるけど、そんな一般生徒ごときの文句で課題の量が半分になるわけでも、瞬く間に終わるなんていうことはない。
つまり、今僕はぶつぶつと独り言のように文句を垂れ流しながらシャーペンを動かしているのだ。
文集の方も初稿が完成し、推敲段階に入った。
顧問の先生や国語の先生と相談しながら、原稿に赤字を入れいていく。
もちろん最初は赤字がたくさん入っているのだけど、回数を重ねていくごとにそれがどんどんと減っていき、徐々に赤字がなっていくときの感動を、ぜひとも体験してみたい。
綾夏の初稿も完成したらしく、それを病院に取りに行って先生に渡したところ、とんでもないものが返って来た。
なんと、想像の遥か上をいくほどの赤字が入っていたのだった。
内容面に関しては、生徒の自主性と自由を尊重して踏み込まないというのが暗黙の了解ということらしいのだけど、綾夏のは、それを考慮しても明らかに常軌を逸するほどの誤字脱字があったらしい。
綾夏曰く、とにかく自分の思うがままに書きたくて、書きたいことを忘れないように、文法やら漢字についてはほとんど気にしていないとのことだった。
さすが綾夏といったところだろう。
逆にその間違いに赤を入れる先生はお気の毒だろう。
しかし、課題に追われながらもそれなりに充実した夏休み最終盤を迎えた、ある日の夕方だった。
一本の電話が、僕の携帯電話にかかってきた。
「ん? 一体誰だ……?」
画面に表示されている番号は身に覚えがないけど、なぜかそのときは自然と通話ボタンに指が伸びた。
「はい、もしもし――」
すると、通話口の向こうからは女性の声がした。
「――藤木くんですか?」
「はい、そうですが……」
「私は涼野……涼野綾夏の母です。綾夏が……綾夏が……。とにかく今すぐに病院に来れますか?」
その瞬間、彼女の焦って上滑りする声音から、何一つ具体的な単語は出てきていないにもかかわらず、僕はついにその瞬間が来てしまったのだとはっきりと自覚した。
「分かりました……今すぐに行きます」
叫びたくなるような気持ちを堪えて、通話を切った。
僕は広げていた参考書もそのままに、急いで着替えて家を飛び出す。
途中、母さんに行き先を聞かれたけど、何と答えたのかすら自分でもよく分からない。そのくらい目の前のことでいっぱいいっぱいだった。
近くのバス停から病院の最寄まで数分だったけど、たった数分が、そのときはものすごく長く感じた。早く行きたい。少しでも早く綾夏の下へ――。
いつもの病棟に着くと、もう一部の看護師さんには顔を覚えられているのか、何も言わずに先に通してくれた。
綾夏の病室の辺りでは、人の出入りが忙しなく、白衣を着た医者らしき人が入れ代わり立ち代わりで出入りしていた。
「す、すいません……」
その人たちの邪魔にならないようにうまく間を見計らい、僕は病室へと駆けこむ。
「あっ……藤木くん。……ほら、綾夏、藤木くんも来てくれたわよ」
綾夏のお母さんが僕を手招きしている。その横には永田の姿もあった。
「遅くなってしまってすいません。それで……」
僕はベッドに目を向けて、そして身体が固まってしまった。
昨日よりも増えている点滴の管、酸素吸入器、そして妙に存在感を放っている、波形の様子を示している大きな機械――その中に、綾夏は横たわっていた。
「蓮……くん」
綾夏は僕が近づくと、僕の名前を呼んだ。
その声は小さく、あの綾夏が発しているのだと思えないほどだった。
「あぁ、僕だよ」
「よかった……まだ君とは……話し足りなくて……」
弱々しい声は、酸素吸入器に遮られて、さらにこもって聞こえる。
だから、僕はめいっぱい顔を近づける。そうしないと綾夏の言葉の一つ一つを聞き取ることができなかったから。
「私、楽しかった。学校に行けて、友達も作れて、部活にも入れて……本当に本当に色々なことをすることができた」
「うん……」
「でも……文集……文集を完成させたかった。私の目標……」
綾夏の顔はもうほとんど動いていない。
かろうじて動いているのは瞳とその小さな口元だけだった。
「もし……もしこのまま私が目覚めなかったら……。そのときは……藤木蓮くん……君に……私の分まで完成させてほしい」
じわじわと溜まった雫が、綾夏の瞳から流れていく。
「――あぁ、任せておけ。世界に一つだけしかない、僕たちの最強の文集を作って見せるから」
おどけて笑って見せる。
視界がぐにゃりと歪んで、綾夏の顔がはっきりと見えなくなっても、僕は笑い続けた。
少し時間がたつと、自分がした行動を冷静に振り返ることができるというのは本当のことのようだった。
ただでさえ病状が安定していないのに、そこに追い打ちをかけるように責めるような言葉を発したら、精神的にも辛くなってしまうというのに。
「そんなに気にしないで……私も蓮くんだからっていって口走り過ぎちゃった。私の方こそごめんね……」
それっきり、二人の間で会話はなかった。
今は何か無理に話題を作ろうとしても、きっと気分が沈むことに話の流れが向いてしまいそうで、下手に口を開くことが憚られてしまった。
だから、沈黙という選択肢はあながち間違いではないのだと思う。
ただ、沈黙といっても、外からは相変わらずセミの声がうるさいほど聞こえてくるし、クーラーの風の音もあるから、完全に沈黙というわけではなく、人の発する言葉以外の音が場を繋いでいるように感じる。
それから数分後、静かな空間にノック音がやけに大きく響いた。
「――涼野さん、検査のお時間ですよ」
看護師さんがカートにパソコンや色々な検査器具を乗せてやって来た。
「じゃあ、僕はこの辺で……また来るよ」
僕がいたら検査の邪魔になってしまうだろうし、帰るタイミングとしてはちょうどいいのではないだろうか。
「それじゃあ……」
小さく手を振って、病室を後にする。
そのときの綾夏の無言の視線が、なぜか妙に脳裏に強く焼き付いた。
それから数日、僕は溜めに溜めた課題を片っ端から片付けていた。
高校三年生の夏なのだから、自分の好きなように勉強をさせてほしという気持ちがあるけど、そんな一般生徒ごときの文句で課題の量が半分になるわけでも、瞬く間に終わるなんていうことはない。
つまり、今僕はぶつぶつと独り言のように文句を垂れ流しながらシャーペンを動かしているのだ。
文集の方も初稿が完成し、推敲段階に入った。
顧問の先生や国語の先生と相談しながら、原稿に赤字を入れいていく。
もちろん最初は赤字がたくさん入っているのだけど、回数を重ねていくごとにそれがどんどんと減っていき、徐々に赤字がなっていくときの感動を、ぜひとも体験してみたい。
綾夏の初稿も完成したらしく、それを病院に取りに行って先生に渡したところ、とんでもないものが返って来た。
なんと、想像の遥か上をいくほどの赤字が入っていたのだった。
内容面に関しては、生徒の自主性と自由を尊重して踏み込まないというのが暗黙の了解ということらしいのだけど、綾夏のは、それを考慮しても明らかに常軌を逸するほどの誤字脱字があったらしい。
綾夏曰く、とにかく自分の思うがままに書きたくて、書きたいことを忘れないように、文法やら漢字についてはほとんど気にしていないとのことだった。
さすが綾夏といったところだろう。
逆にその間違いに赤を入れる先生はお気の毒だろう。
しかし、課題に追われながらもそれなりに充実した夏休み最終盤を迎えた、ある日の夕方だった。
一本の電話が、僕の携帯電話にかかってきた。
「ん? 一体誰だ……?」
画面に表示されている番号は身に覚えがないけど、なぜかそのときは自然と通話ボタンに指が伸びた。
「はい、もしもし――」
すると、通話口の向こうからは女性の声がした。
「――藤木くんですか?」
「はい、そうですが……」
「私は涼野……涼野綾夏の母です。綾夏が……綾夏が……。とにかく今すぐに病院に来れますか?」
その瞬間、彼女の焦って上滑りする声音から、何一つ具体的な単語は出てきていないにもかかわらず、僕はついにその瞬間が来てしまったのだとはっきりと自覚した。
「分かりました……今すぐに行きます」
叫びたくなるような気持ちを堪えて、通話を切った。
僕は広げていた参考書もそのままに、急いで着替えて家を飛び出す。
途中、母さんに行き先を聞かれたけど、何と答えたのかすら自分でもよく分からない。そのくらい目の前のことでいっぱいいっぱいだった。
近くのバス停から病院の最寄まで数分だったけど、たった数分が、そのときはものすごく長く感じた。早く行きたい。少しでも早く綾夏の下へ――。
いつもの病棟に着くと、もう一部の看護師さんには顔を覚えられているのか、何も言わずに先に通してくれた。
綾夏の病室の辺りでは、人の出入りが忙しなく、白衣を着た医者らしき人が入れ代わり立ち代わりで出入りしていた。
「す、すいません……」
その人たちの邪魔にならないようにうまく間を見計らい、僕は病室へと駆けこむ。
「あっ……藤木くん。……ほら、綾夏、藤木くんも来てくれたわよ」
綾夏のお母さんが僕を手招きしている。その横には永田の姿もあった。
「遅くなってしまってすいません。それで……」
僕はベッドに目を向けて、そして身体が固まってしまった。
昨日よりも増えている点滴の管、酸素吸入器、そして妙に存在感を放っている、波形の様子を示している大きな機械――その中に、綾夏は横たわっていた。
「蓮……くん」
綾夏は僕が近づくと、僕の名前を呼んだ。
その声は小さく、あの綾夏が発しているのだと思えないほどだった。
「あぁ、僕だよ」
「よかった……まだ君とは……話し足りなくて……」
弱々しい声は、酸素吸入器に遮られて、さらにこもって聞こえる。
だから、僕はめいっぱい顔を近づける。そうしないと綾夏の言葉の一つ一つを聞き取ることができなかったから。
「私、楽しかった。学校に行けて、友達も作れて、部活にも入れて……本当に本当に色々なことをすることができた」
「うん……」
「でも……文集……文集を完成させたかった。私の目標……」
綾夏の顔はもうほとんど動いていない。
かろうじて動いているのは瞳とその小さな口元だけだった。
「もし……もしこのまま私が目覚めなかったら……。そのときは……藤木蓮くん……君に……私の分まで完成させてほしい」
じわじわと溜まった雫が、綾夏の瞳から流れていく。
「――あぁ、任せておけ。世界に一つだけしかない、僕たちの最強の文集を作って見せるから」
おどけて笑って見せる。
視界がぐにゃりと歪んで、綾夏の顔がはっきりと見えなくなっても、僕は笑い続けた。