翌日、僕は目覚ましよりも早くに目が覚めてしまった。
 単に昨日眠りにつくのが早かったからだけなのか。それとも、昨日彼女が発した、あの信憑性の「し」の字もないような言葉を信じているのか。
 もし後者であろうものなら、きっとそれは何か盛大な思い違いをしていると言えるかもしれない。

 そんな複雑な心境の中、いつものように昇降口で上履きに履き替えていると、近くで声が聞こえてくる。

 「なぁなぁ聞いたか? 今日三年に転校生が来るみたいだぞ!」

 「何だよそれ! 俺初めて聞いたぞ」

 僕の前を通り過ぎていくその二人組は、どこから聞いたのか、それとも耳にしたのかわからない情報を、見事なほどの興奮っぷりで語っていた。
 僕は根拠のない噂話に傾倒するほど判断力が鈍っているとは思わないし、思いたくもない。
 足先を床に軽く打ちつけて踵を整えると、僕はそそくさと教室に向かった。

 しかしなぜだろう。気にしないでおこうと思っていたあの二人組の会話が、頭の中をぐるぐると行き交って離れない。
 昨日から今日にかけて、どうもモヤモヤすることが続くみたいだ。

 僕が席につくと、やはりやっきの男子二人組と同様に、周りの人たちは、どこから聞きつけたのか知らない噂話に華を咲かせていた。

 そんな周りの盛り上がりとは対照的に、僕はその空間に入るはずもなく、かといって何をするでもなかったから、鞄にしまっていた文庫本を静かに取り出した。

 随分と前に買ってもらった革のカバーに包まれていて、かなりの年季を感じる。
 人によっては古いとも言われそうだけど、僕個人としては、時間の経過とともに馴染んでくる感触が好みだったりする。
 だから、破れたりして使えなくなるまでは、この感触を楽しみながら読んでいこうと思う。

 革が持つ硬さの中にじんわりと感じる柔らかさに、ページをめくるペースが上がってきて、物語の世界にのめり込み始めたとき、ちょうどホームルームの時間を知らせるチャイムが、僕を現実世界に引き戻した。

 文庫本に栞を挟んで閉じて机に置いて、教室前方に視点を向ける。すると、出席簿を抱えて入ってきた先生は、どこか嬉しそうに軽やかな笑みを浮かべていた。

 「せんせー、どうしてそんなに楽しそうなんですかー?」

 そう大きな声をあげたのは、クラスでいつも集団の中心にいる田中くんだった。
 毎日いつでもどんなときでも元気いっぱいで、彼が落ち込んでいるところを見た人はいないのではないかと思ってしまうほどだ。

 「あれ、先生そんな風に見えてた?」

 先生は自分の緩んだ表情をごまかすようにそうおどけてみせる。
 しかし、相手は高校生。人生の中で最も多感な時期の真っただ中と言っても過言ではない。
 だから、自分だけでなく、他の人の一つ一つの言動に対しては特に敏感になってしまうのだ。

 それが良い方向であろうと悪い方向であろうと、制服に身を包んでここに座っている四十人近くの生徒は、その中に僕が含まれているかはひとまず別として、そのパロメーターはずば抜けているのだ。

 「ってことは、やっぱり転校生なんですか~?」

 またまた田中くんが、今度は右手を高らかに掲げながら、今ここにいるおそらく半分以上の人が内心抱いているであろう疑問を代弁するかのように問いかける。

 「えっと……ちなみに、その話はどこで聞いたのかな?」

 先生は田中くんの質問に直接答えることなく、少し遠回りしたような返事をする。

 「え~、どこって言っても、みんな話してたし」

 そう言いながら、田中くんは周りに同意を求め始める。それに呼応するかのように、頷きの連鎖が巻き起こる。

 「それに、その転校生って、銀髪ロングのロシア人ハーフの超絶美少女なんでしょ?」

 田中くんは、それが本気で言っているのか、それとも冗談半分で受けを狙いに行っているのか分からないくらいの真顔だった。
 そんな彼の様子を見て、一瞬静まり返った教室が、どっと笑いに包まれる。

 クラスの主導的な立場にありながらも、自分の思ったことを恥ずかしがることなく堂々と、そしてストレートに口にすることができるのは、紛れもなく田中くんの能力であると思うし、ある種の才能でもある。

 普通であれば、いくらクラスでの人気を集めていたとしても、思ったことを正直に嘘偽りなく言葉にするのは難しいだろう。
 きっと、クラスの人たちに良い反応を貰おうとして、その言葉に少しばかりの着色を加える。
 そして、誰からの反感を買わないように、慎重に、丁寧に、細心の注意を払ってしまうことだろう。 

 「ちょ、ちょっと田中くん、何言ってるのよ……」

 先生はいまだ冷めやらぬ笑いの間をすり抜けるかのように、田中くんに声をかけている。
 でも、やはりみんなの雰囲気に引っ張られているのだろうか。僕が今座っている後ろの席からでも、身体を小刻みに震わせながらも、必死に笑いを堪えているのが見て分かる。

 それでも、さすがは先生だ。深呼吸と咳払い一つしただけで、元の凛とした姿の先生に戻っていた。
 そこには、先生と生徒という目に見えない大きな壁が、その明確な違いというものを創り出しているように感じる。

 先生と僕たちの年齢差は、わずか数年。その数字だけをみればそう言えなくもない。
 それでも、その数年の間に培われていった知識や経験というものは、僕たち高校生が想像できるほど簡単で、それでいて小さく単純なものではないのだろうか。
 少なくとも、今の僕にはそれくらいにしか分からないようなことだった。

 「本当はね、みんなが何も知らないところに、サプライズみたいにして驚かせようかなと思ったんだけどね」

 「何ですかそれ~」

 田中くんはすかさずそれに反応する。

 「だって、先生まだ教師生活が数年しかなくて、今まで転校生の紹介とかしたことなかったからね。その話を聞いたときに、もう嬉しくて嬉しくて……。今日どんな風に紹介しようかなってずっと考えてたの!」

 この高校で最も若手の先生は、僕たちと一番年が近いから、高校生トークにもついてこれたりもするし、どうもそういった感覚もまだ残っているらしい。それは今の先生の口調やら表情やらを見れば一目瞭然だった。

 「でも、もうみんなにバレちゃってるんだったら、これ以上演技してもダメみたいだね……」

 密かに計画していたものが結果的に不発に終わってしまって、先生は少し残念そうだった。でも、気を改めて、前方のドアに身体ごと視線を向ける。

 「まぁ、田中くんが言ってたみたいに、ロシア人ハーフではないけど、あながち間違ってはいないかもよ……?」

 何やら意味深な言葉を残すと、先生は自らそのドアに手をかけて、そのままその手を引いた。