それから数日。
 僕たち三人は合宿場所を決めるべくインターネットのあちこちを探し回った。
 なるべくここから近くて、でも楽しめそうな場所という条件を付けて。

 でも、夏休みというシーズンもあってか、どこのホテルもかなり前からの予約客でいっぱいで空きはないようだった。

 しかし、唯一空きがあって綾夏自身も「ここがいい!」と言ってくれたのが、小中学生がよく利用するような体験型宿泊施設だった。
 目の前に海があり、少し歩けば山に行くことができるという絶妙な場所にあるらしく、よく考えてみれば普通のホテルよりもいいのではないかとすら思えてきたのだ。

 そして今日。
 僕と綾夏と永田の三人は学校の最寄り駅に集合していた。

 「みんなおはよ~! ついにこの日がやって来たよ!」

 綾夏は両手を大きく広げて、駅前ロータリーで声を張り上げる。
 つい先日までのあの雰囲気がまるで嘘だったかのように、笑顔元気ともに満点だった。

 「おい、綾夏。そんなにはしゃぎすぎるなよ。他の人の視線がちょっと痛くなってきちゃったから」

 「そうね……ちょっとボリュームを押さえてくれると私も嬉しいかも……」

 永田は被っている麦わら帽子を深くかぶり直している。

 「分かったよ分かったよ! それじゃあ早速出発だ~!」

 口だけではそう言うが、さっきよりも声量が落ちているというよりもむしろ大きくなっているように聞こえるのは僕だけなのだろうか……。

 鼻歌交じりに泊まっているバスの方へ歩き出そうとすると、永田が僕の肩を静かに掴んで引き留めた。

 「どうしたの……?」

 「『どうしたの?』じゃないわよ。あなた、分かってるわよね。昨日話して決めたこと」

 永田は低く鋭い口調で僕に囁く。

 「も、もちろん分かってるよ」

 「それならよかったわ」

 今日から文芸部の文集作成のための最後の取材活動の合宿が始まる。
 もちろん楽しみしていて、それはみんな同じだと思う。

 しかし、綾夏の病気のことを決して忘れているわけではない。むしろ、僕と永田はそのことが頭の大半を占めているのだ。

 楽しみたいは楽しみたいけど、心のどこかで綾夏のことを気にしてしまって、本気で楽しむことができないかもしれないという心配が少なからずある。
 だから、前日、僕と永田は綾夏と駅で別れた後、二人で話し合いをした。

 綾夏の病気が心配で、手を貸してあげたくなったり、無理をしないように動いたりすることがあるかもしれないけど、それは最低限にしようと。可能な限りで綾夏の自由にさせてあげようと。
 その上で、僕たちも綾夏に負けないくらいに全力で楽しむと。

 正直に言ってこれを両立することは簡単にできるとは思っていない。
 でも、これができなければ、どこかでそういう気持ちが綾夏に伝わってしまうかもしれない。

 そうなってしまえば、お互いにお互いを察し合い、気を遣い、言いたいことも言えなくなっていくだろう。
 それは綾夏の望んだものではない。全力で楽しむことではない。

 「――蓮くんと真澄ちゃ~ん! 何してるの? 早くしないとバス行っちゃうよ!」

 バス乗り場から綾夏の声が聞こえる。

 「今行くよ! ほら、永田も急いで」

 「わ、分かったわ」

 バスの最後尾の長椅子に、僕たちは並んで腰を下ろした。

 「ついに始まるね、合宿」

 「そうだな。綾夏は決まってから今日まで毎日毎日あれしたいこれしたいって言ってうるさかったもんね……駄々こねて、本当に赤ちゃんみたいだったよ」

 「あらあら……綾夏ちゃん可愛いわね」

 僕の煽りに珍しく永田が声を合わせてくる。
 いつもの永田ならバスに乗るや否や、窓の外の景色を一人で見入ってしまうだろうに。

 僕と永田のダブルパンチを喰らった綾夏は、顔を真っ赤に染め上げる。

 「ふ、二人ともっ! 私は赤ちゃんじゃないし、今の可愛いは全然嬉しくないよっ!」

 嬉しくないと拳を上下左右に暴れさせているけど、その言葉とは全く逆の感情がちらちらと瞳の奥から僕たちを見ている気がした。

 バスに揺られること二十分。
 道路の不規則な振動が眠気を誘ったのか、綾夏は舟を漕ぎながら僕と永田の肩を行き来していた。

 でも、宿泊施設の最寄のバス停に降り立ったときには睡魔は完全に去って行ったようで、目の前に見える建物に目を輝かしていた。

 「着いたぞ~! 早く、早く行こうよ!」

 「まぁまぁ焦らなくても時間はたっぷりあるから大丈夫だよ」

 目を離したら敷地のどこかで迷子になってしまうかもしれない綾夏を永田に見てもらいながら、僕は受付を済ませる。

 受付が終わって中に進むと、広い芝生の広場が目に入る。

 「広~い!」

 綾夏は広場の真ん中めがけて走り出す。

 「ちょっと綾夏ちゃん!」

 リードを離してしまった飼い主のように手を伸ばす永田を、僕は止めた。

 「ここなら迷子にはならないだろうし、少しくらいいいんじゃないか?」

 永田の側から駆け出す綾夏は、今だけは何の縛りもなく好きなことを好きなように出来ているようで、その姿を僕は見ていたいと思っていた。

 「それに、僕たちは小学生のときにここに来たけど、僕たちが楽しんでいるときに、綾夏は病院にいて、きっと辛い思いをしていたんだと思うんだ。だから、綾夏は今日その楽しさを五感で味わってほしい」

 「そうね……。あなた、今までの藤木蓮とは人柄が変わったように見えるのは気のせいではないのでしょうね」

 「以前の僕はそんなにひどいものだったのかな……?」

 「えぇ、もう手を付けられないくらいに……」

 永田の頬が緩んでいるから、それが冗談であることはすぐに分かったけど、人柄が変わったというのは、あながち間違えではないのだと思う。

 人間が変わるきっかけとなるのは、何も大きな出来事だけではなくて、ほんの小さな、些細な出来事でも変わり得るのだ。
 例えば、僕みたいに。

 自分では自分がどのように変わっていったのかなんてこと細かくは分からない。
 それでも、たしかに何かが変わったということははっきりと自覚している――涼野綾夏という存在が、僕の何かを変えてくれたということを。

 僕は大きな声を発しながら人目も気にすることなく走り回る彼女を眺めながら、ふとそんなことを思った。