「――私って、色々なことが初めてって言ってたでしょ?」
少しの沈黙の後、綾夏はこんなことを言いだした。
「うん……海も夏祭りも花火も。いつも初めてっていってはしゃいでいたよね」
「そうなの。私、生まれてすぐに病気が発覚して、そのままずっと病院のベッドの上で育ってきたの。だから、物心ついたときから白いシーツの上の記憶しかなくて。自分の家のこともあんまり覚えていないし、指で数えるくらいしか行ったことすらないの……」
「そんな……」
段々と綾夏の言葉を信じられなくなってきている自分がいた。だって、あまりにも現実離れしているような事実だから。
たしかに、今までの生活が全て病室のベッドの上だったということなら、色々なことに興味を示して、無邪気な子供のように遊びまわっていたことに納得することができる。
でも、自分の家にいるときの記憶よりも病室の記憶の方が強いなんて、そんなことがあっていいのだろうか。
僕と綾夏との間の距離は一メートルにも満たないけど、見たり聞いたり感じたりしてきたことの差が歴然と現れているように思えてきた。
「だから、幼稚園にも行ったことないし、小学校、中学校にももちろん……」
「じゃあ、転校してきたって言うのも……」
「東京から来たって言うのは本当だよ。でも、本当は東京の病院から、こっちの病院に転院してきただけで、東京のことなんてちっとも知らないの」
だからあのとき、綾夏はクラスメイトからの質問にあたふたとしていたのか。
僕たちは無責任に自分の言いたいことをずっとぶつけ続けていた。
綾夏はほとんど何も知らないことを問われ続けても、嫌な顔一つせずに何とかそれに答えようとしていた。
そのときは知らなかったのだから仕方がないけど、今思えば、僕たちは綾夏の心の隙間に針を刺すようなことをしていて、あまつさえそれがコミュニケーションなんだとさえ思っていたのだった。
「――でも、ある日。私に転機が訪れたの」
「転機……?」
「そう。お医者さんに相談されたの――今後も治療を続けますかって」
「そ、それって……」
「うん。お医者さんは、私に助かる見込みがないのが分かっていたから、最期くらい私の好きなようにしてみませんかって。もちろん直接的な表現は避けているみたいだったけど、私にはそう聞こえた」
「それで、綾夏は……」
「もちろん、楽しむことに決めたの。だって、病院のベッドに寝続けていたとしても、病院の外で楽しんでも、最期の結果は変わらないんだもん。だったら最期の最期まで全力で楽しんだ方がいいと思わない?」
「あ、綾夏……」
そんなことを伝えられるなんて、なんて残酷な現実なのだろうとすら思ってしまう。
僕は涼野綾夏という女の子の強さをこれでもかというほどに痛感した。
余命宣告を受けたのであれば、きっと誰しも先のない未来に絶望し、再び何かしようとする気力なんて起きないはずだ。
それも、何十年も生きてきた大人ではなく、未来の自分を思い描いている最中の子どもであればあるほど。
しかし、彼女――涼野綾夏は違った。
たとえ自分の将来が閉ざされてしまうことが分かったとしても、それまでの短い時間を全力で駆け抜けたいと。
「だから、私は退院することにしたの。最初はもちろんすっごく反対された。長生きしてほしい。治療を続けていたら、いつかは治るって。でも……病気が治るなんていうのは嘘で、私を励まそうとしているんだっていうことくらい分かるっての」
綾夏は笑っているけど、瞳から涙が溢れている。
それでも、彼女の言葉は途切れない。
「あと何日生きられるか分からないなら、その日が来るまで、私は今までできなかったことをしようって、そう決めた。グズグズなんてしていられない。一分一秒が、私にとっては貴重なものだったから」
そこで、綾夏はポケットから見覚えのある手帳を取り出した。
「これ、蓮くんがさっき見たやつ」
「う、うん……本当にごめん」
「もういいよ。だって全部話すって決めたから、これについても話さないと、今度は私が嘘をつくことになっちゃうもの」
綾夏はその手帳を大事そうに両手で包み込む。
「これは、楽しむことを決めた日にお母さんに頼んで買ってもらったもので、私がこの世にいる間にしたいことをリストアップしてみたの」
最初のページから綾夏は僕にそれを見せてくれた。
――病院の中を、点滴を付けずに歩きたい。
――大好きなご飯を好きなだけ食べたい。
さっき同じものを目にしたけど、そのときとは見え方が違っていた。
横に付いているチェックマークは、それが達成できたということだ。
さらにハートマークも添えられている。
よほど嬉しかったのだろう。それを書き込んでいる綾夏の様子は簡単に想像することができてしまう。
最初は本当に些細なことだった。
でも、ページが進むごとにその様相は変化を見せ始める。
――学校に行きたい。
――可愛い制服を着たい。
――友達を作りたい。
――部活をしたい。
それは青春時代を自由に過ごすことができなかったことへの悔しさと、それに対する強い、誰よりも強い切望を滲ませていた。
「学校に行けるようになって、制服も着れることになったはいいんだけど……。でも、やっぱり死ぬのが怖くなってきちゃって。どうすればいいのかなって、退院してすぐに一人で歩きながら考えていたら……気付いたらここに来てたの」
綾夏は大きく伸びをして、体中に酸素を送り込む。まるで重くなった空気までをも吸い込むように。
「そしたら、こんなに綺麗な景色があったんだって。そんなこと思ってもいなくて、不意打ちをされちゃったみたいな感じで……そしたら……涙が溢れてきて……」
瞳から零れた雫が、夕日に反射してきらりと輝く。
「もう止まらなくて……でも、そんなときに――」
「僕が来た、と」
「そういうこと……」
さらに綾夏は紙をめくっていく。
――文集を作りたい。
――海で遊びたい。
――夏祭りに行きたい。
――花火を見たい。
――合宿をしたい。
「ここに書いてあるのは、今まで私が無理を言ってまでやってきたこと」
今見えているもののほとんどすべてにチェックが付いている――残り二つを除いて。
「蓮くんならもう分かってると思うけど、私はここに書いてあることに全てチェックが付くまでは全力で駆け回るよ」
それは今まで以上に強い言葉だった。強い意志を感じる言葉だった。
誰に何を言われようとも、鉄の如く固い覚悟が見える。
「嬉しいことに、今のところ体調は良好だから、合宿は必ず行きたい。そして、文集を完成させるの。やり遂げるの。それが、私からの最後のお願い。私が生きているうちに、私がこの世界にいたんだっていうことを証明するの。証を作るの!」
綾夏は、僕の手を握ってきた。
震える手を必死に抑え、言葉を絞り出す。
「蓮くんと出会って、私の中のすべての初めてを、君と一緒にしていきたいって、出会ったあの瞬間からそう思ったの。だから、最期まで、最期まで――」
顔を俯け、泣き崩れる綾夏を見て、全てが繋がる感覚を覚えた。
あの日あのとき、僕と綾夏が出会った理由が、彼女が泣いていた理由が。
徐々に綾夏の心の鍵が開き始め、内に秘めていたものが見え始めて来た。
点と点で表れていた綾夏の言動が、その根源にあったものが、全て繋がった気がした。
「大丈夫。綾夏の願いを、必ず叶えさせてあげるから――」
僕は綾夏の手を強く握ってそう約束した。
少しの沈黙の後、綾夏はこんなことを言いだした。
「うん……海も夏祭りも花火も。いつも初めてっていってはしゃいでいたよね」
「そうなの。私、生まれてすぐに病気が発覚して、そのままずっと病院のベッドの上で育ってきたの。だから、物心ついたときから白いシーツの上の記憶しかなくて。自分の家のこともあんまり覚えていないし、指で数えるくらいしか行ったことすらないの……」
「そんな……」
段々と綾夏の言葉を信じられなくなってきている自分がいた。だって、あまりにも現実離れしているような事実だから。
たしかに、今までの生活が全て病室のベッドの上だったということなら、色々なことに興味を示して、無邪気な子供のように遊びまわっていたことに納得することができる。
でも、自分の家にいるときの記憶よりも病室の記憶の方が強いなんて、そんなことがあっていいのだろうか。
僕と綾夏との間の距離は一メートルにも満たないけど、見たり聞いたり感じたりしてきたことの差が歴然と現れているように思えてきた。
「だから、幼稚園にも行ったことないし、小学校、中学校にももちろん……」
「じゃあ、転校してきたって言うのも……」
「東京から来たって言うのは本当だよ。でも、本当は東京の病院から、こっちの病院に転院してきただけで、東京のことなんてちっとも知らないの」
だからあのとき、綾夏はクラスメイトからの質問にあたふたとしていたのか。
僕たちは無責任に自分の言いたいことをずっとぶつけ続けていた。
綾夏はほとんど何も知らないことを問われ続けても、嫌な顔一つせずに何とかそれに答えようとしていた。
そのときは知らなかったのだから仕方がないけど、今思えば、僕たちは綾夏の心の隙間に針を刺すようなことをしていて、あまつさえそれがコミュニケーションなんだとさえ思っていたのだった。
「――でも、ある日。私に転機が訪れたの」
「転機……?」
「そう。お医者さんに相談されたの――今後も治療を続けますかって」
「そ、それって……」
「うん。お医者さんは、私に助かる見込みがないのが分かっていたから、最期くらい私の好きなようにしてみませんかって。もちろん直接的な表現は避けているみたいだったけど、私にはそう聞こえた」
「それで、綾夏は……」
「もちろん、楽しむことに決めたの。だって、病院のベッドに寝続けていたとしても、病院の外で楽しんでも、最期の結果は変わらないんだもん。だったら最期の最期まで全力で楽しんだ方がいいと思わない?」
「あ、綾夏……」
そんなことを伝えられるなんて、なんて残酷な現実なのだろうとすら思ってしまう。
僕は涼野綾夏という女の子の強さをこれでもかというほどに痛感した。
余命宣告を受けたのであれば、きっと誰しも先のない未来に絶望し、再び何かしようとする気力なんて起きないはずだ。
それも、何十年も生きてきた大人ではなく、未来の自分を思い描いている最中の子どもであればあるほど。
しかし、彼女――涼野綾夏は違った。
たとえ自分の将来が閉ざされてしまうことが分かったとしても、それまでの短い時間を全力で駆け抜けたいと。
「だから、私は退院することにしたの。最初はもちろんすっごく反対された。長生きしてほしい。治療を続けていたら、いつかは治るって。でも……病気が治るなんていうのは嘘で、私を励まそうとしているんだっていうことくらい分かるっての」
綾夏は笑っているけど、瞳から涙が溢れている。
それでも、彼女の言葉は途切れない。
「あと何日生きられるか分からないなら、その日が来るまで、私は今までできなかったことをしようって、そう決めた。グズグズなんてしていられない。一分一秒が、私にとっては貴重なものだったから」
そこで、綾夏はポケットから見覚えのある手帳を取り出した。
「これ、蓮くんがさっき見たやつ」
「う、うん……本当にごめん」
「もういいよ。だって全部話すって決めたから、これについても話さないと、今度は私が嘘をつくことになっちゃうもの」
綾夏はその手帳を大事そうに両手で包み込む。
「これは、楽しむことを決めた日にお母さんに頼んで買ってもらったもので、私がこの世にいる間にしたいことをリストアップしてみたの」
最初のページから綾夏は僕にそれを見せてくれた。
――病院の中を、点滴を付けずに歩きたい。
――大好きなご飯を好きなだけ食べたい。
さっき同じものを目にしたけど、そのときとは見え方が違っていた。
横に付いているチェックマークは、それが達成できたということだ。
さらにハートマークも添えられている。
よほど嬉しかったのだろう。それを書き込んでいる綾夏の様子は簡単に想像することができてしまう。
最初は本当に些細なことだった。
でも、ページが進むごとにその様相は変化を見せ始める。
――学校に行きたい。
――可愛い制服を着たい。
――友達を作りたい。
――部活をしたい。
それは青春時代を自由に過ごすことができなかったことへの悔しさと、それに対する強い、誰よりも強い切望を滲ませていた。
「学校に行けるようになって、制服も着れることになったはいいんだけど……。でも、やっぱり死ぬのが怖くなってきちゃって。どうすればいいのかなって、退院してすぐに一人で歩きながら考えていたら……気付いたらここに来てたの」
綾夏は大きく伸びをして、体中に酸素を送り込む。まるで重くなった空気までをも吸い込むように。
「そしたら、こんなに綺麗な景色があったんだって。そんなこと思ってもいなくて、不意打ちをされちゃったみたいな感じで……そしたら……涙が溢れてきて……」
瞳から零れた雫が、夕日に反射してきらりと輝く。
「もう止まらなくて……でも、そんなときに――」
「僕が来た、と」
「そういうこと……」
さらに綾夏は紙をめくっていく。
――文集を作りたい。
――海で遊びたい。
――夏祭りに行きたい。
――花火を見たい。
――合宿をしたい。
「ここに書いてあるのは、今まで私が無理を言ってまでやってきたこと」
今見えているもののほとんどすべてにチェックが付いている――残り二つを除いて。
「蓮くんならもう分かってると思うけど、私はここに書いてあることに全てチェックが付くまでは全力で駆け回るよ」
それは今まで以上に強い言葉だった。強い意志を感じる言葉だった。
誰に何を言われようとも、鉄の如く固い覚悟が見える。
「嬉しいことに、今のところ体調は良好だから、合宿は必ず行きたい。そして、文集を完成させるの。やり遂げるの。それが、私からの最後のお願い。私が生きているうちに、私がこの世界にいたんだっていうことを証明するの。証を作るの!」
綾夏は、僕の手を握ってきた。
震える手を必死に抑え、言葉を絞り出す。
「蓮くんと出会って、私の中のすべての初めてを、君と一緒にしていきたいって、出会ったあの瞬間からそう思ったの。だから、最期まで、最期まで――」
顔を俯け、泣き崩れる綾夏を見て、全てが繋がる感覚を覚えた。
あの日あのとき、僕と綾夏が出会った理由が、彼女が泣いていた理由が。
徐々に綾夏の心の鍵が開き始め、内に秘めていたものが見え始めて来た。
点と点で表れていた綾夏の言動が、その根源にあったものが、全て繋がった気がした。
「大丈夫。綾夏の願いを、必ず叶えさせてあげるから――」
僕は綾夏の手を強く握ってそう約束した。