一日の授業の終わりを告げるチャイムが、午後の弛緩した空間に響き渡る。

 「あぁ、もうこんな時間かぁ……」

 「よしっ、部活だ部活!」

 ある者は突っ伏していた顔をあげて大きく伸びを、またある者は大きな鞄を肩に背負って教室を後にしようとしている。
 そんな、もう何度見たか分からないほどの光景を、声の数々を、僕は教室の後ろからただ眺めていた。

 それからしばらく時間が経つと、クラスメイトのほとんどは教室からいなくなっていて、残っているのはゆっくりと帰る支度をしていた僕くらいだった。
 他の誰もいない、僕だけがいる教室は、初夏の西日と相まって、どこか儚げな雰囲気に包まれる。

 でも、僕はこの時間が意外と好きだったりする。
 喧騒に包まれていても、こうして待っていれば、さっきとは打って変わって静寂に支配されるから。
 この時間を知っているのは、きっとクラスでも僕一人だけだろう。そう思うと、どこか優越感が湧き起こってくる。
 何となく、自分一人で独占したい。何故だかそう思っていた。

 とは言ったものの、いつまでもここにいては、最終下校の時間を過ぎてしまい、ギリギリまで部活動をしている活発な人達と一緒に駅を歩く羽目になってしまう。
 せっかく心が落ち着けたのに、それではここにいた意味がなくなってしまう。
 僕は腕時計を確認すると、気持ち歩幅を広くして歩き始める。

 幸いにも、まだ他の人はグラウンドで大きな声を上げて練習をしているようで、僕はほっと胸を撫で下ろす。
 校門を抜け、駅に向かおうと足を向けたけど、何故か急に『あそこ』に行きたくなって、一歩を踏み出したところで立ち止まる。

 どうしてだろう。自分でもよく分からない。
 しかし、そう頭の中で考えを巡らせようとしたときには、身体はもう既に駅とは反対の方向に向かって歩き始めていた。

 『あそこ』は、学校から歩いて10分くらいのところにある。
 途中、目が眩むような坂道が待ち構えている。それでも、そこを歩いて行くしか他に道はない。だから、僕は脚に力を入れて登る。

 冬場はここを登ることで身体がポカポカ温まってくるからいいだけど、夏場はそうはいかない。
 脚を踏み出すたびに額から吹き出すような汗は、すぐに制服のシャツを湿らせる。

 坂道の脇にひっそりと伸びている、ほとんど舗装もされておらず、砂利が剥き出しになっている、道と呼べるのか分からないほどのところをさらに進んでいくと、ようやく『あそこ』、目的地である公園に辿り着く。

 樹齢が何百年もありそうな巨木のすぐ下にあるとはいえ、お世辞にも、決して大きな場所とは言えない。木製の簡易的なベンチが並んでいるだけの、小さな公園。
 本当に公園といえるのかは微妙なラインだけど、そこが僕の『秘密の場所』だ。

 この木のおかげで、この小さな公園全体に影ができているから、夏の灼熱の日差しがあっても、幾分かは快適に過ごすことができる。
 さっきまでの身体の火照りが、まるでなかったかのように引いて行く感じがする。

 僕は、学校みたいに色々な人が集まったりワイワイと話をしたりすることが昔から苦手だった。小学校、中学校、高校に入っても、うまくクラスに馴染むことができないでいた。

 だから、こうして一人でいる時間が長くなっている。
 でも、今となっては、誰かといるよりもこうして一人でいる方が気持ちも楽で、ずっと心地よい。
 そんなことを思いながら、いつものようにベンチへ向かっていた。

 しかし、僕はある違感を覚える。
 いつもの時間、いつもの場所。それなのに、なぜこんなにもおかしな感じがするのか――。
 それは、僕の視線の先に人影を捉えたからだった。

 その人は、落下防止のために設置されている柵に手を置き、眼下に広がる相模湾を見つめているようだった。
 後ろ姿しか見えないから、一体どこの誰なのかは皆目検討が付かなかった。
 それでも、夕日に照らされて煌めいた、肩先まで伸びたその美しい髪の毛を見て、それが『彼女』であると認識する。

 「ど、どうしよう……」

 僕は内心かなり焦っていた。
 これまで、ここに来た時は誰にも会うことなんて一度もなかったから、こんなときどうやって切り抜けばいいのかも分からない。それも、相手が女の子であれば尚更だ。

 何か挨拶をした方がいいのだろうか。それともただ黙ってベンチに向かえばいいのだろうか。段々と頭の中が混乱してきてしまう。

 きっと、そんなことを考えるのに必死になり過ぎていたからだろう。僕は目の前に落ちている枝を踏んでしまった。
 僕と彼女しかいない静かな空間に、枝の折れる乾いた音が響く。
 日常の音にかき消されるような音でも、今この瞬間では一番の存在感を放っていた。
 冷や汗と恥ずかしさを必死に堪えながら、僕は慌てて正面を向き直す。

 「え、えぇと、あの……すいま――」

 ちょうどそこで、こちらに振り向いた彼女と目が合う。
 しかし、次の瞬間。
 僕の言葉は途中で止まる――いや、止まってしまった。

 振り向いた彼女の瞳から涙が流れ、細く頬を伝っていたからだ。
 思いがけない状況に呆然と立ち尽くす僕を見て、彼女はハッとした表情を浮かべる。

 「――あれ、なんで私……」

 彼女は両手でゴシゴシと目を擦り、改めて僕を見つめ返す。
 その瞳からこれ以上雫が流れ落ちてくることはなかったけど、擦った後がほんのりと赤くなっているのが、さっきまで涙を流していたことの証左でもある。

 「あ、あはは……。泣いてるところなんて見せてごめんね……びっくりしたでしょ」

 「ま、まぁ……」

 控えめに答えだけど、内心ものすごくヒヤヒヤしていた。まるで僕が泣かせてしまったような気がしたから。
 それに、初めて顔を合わせた時から、僕は彼女に違和感を覚えていた。
 どこか寂しげで、儚げで。それでいて、どこか覚悟めいたものをその瞳の奥に宿しているような。そして、大きな何かを抱えているような――。

 「――あれ、その制服……もしかして君、すぐそこの岸浜高校?」

 「え? う、うん……そうだけど」

 そんな僕の思考を途切らせるかのように、彼女は口を開いた。

 「そっかそっか……」

 さっきまでとは打って変わり、彼女は柔らかく微笑む。

 「君はどこの高校なの……?」

 僕は私服姿の彼女にそう尋ねる。
 実のところ、制服だけでどこの高校に通っているかなんてそう簡単には分からないだろうし、少なくとも僕にはどれも同じようにすら見えてしまう。

 「それは……」

 彼女は少し考えるように顎に指を当てると、片目を小さく瞑る。

 「明日になればわかるよ、きっと」

 「明日……?」

 彼女の言葉が理解できず、僕は思わず聞き返してしまった。

 「うん、明日。……よろしくね」

 彼女は謎めいた言葉を残すと、そのまま公園を去っていった。

 「何だったんだ、さっきの人は……」

 僕はひとりつぶやきをこぼす。
 しかし、颯爽と僕の前から姿を消した彼女の耳には届いていないだろう。

 どこからか日暮らしの鳴く音が聞こえてきたところで、僕もさっき登って来た道を、今度はゆっくりと下り始める。

 僕と彼女の、夕暮れ時の不思議な出会い。
 少しだけ、明日の学校に期待を寄せている自分がいることに、僕自身も驚いていた。