綾夏は自分のラーメンをスープまで飲みほしたかと思ったら、勢いそのままに僕が食べていた焼きそばやフランクフルトにも手を伸ばし始めた。
僕はびっくりしてお皿を引こうとしたけど、すでに綾夏の手でお皿が固定されてしまっていた。
だから僕は、なすすべなく目の前で自分が食べていたものが次々と綾夏の口の中に消えていくのを茫然としながら見つめるしかなかった。
分け合いっこを最終的には認めてしまっていただけに、それ以上は強く言うことはできなかったけど、それを食べている綾夏本人はちっとも悪びれた様子はない。
それよりも、綾夏は、一口一口を噛みしめるように、そして何より、このあたりに座ってご飯を食べている人の誰よりも幸せそうにしていた。
目の前に並んだご飯を全て食べ終わると、再び炎天下に向かって歩き出す。
一日の中で一番高いところに上った太陽から降り注ぐ熱は、午前中のそれとは比べ物にならないくらい強くなっていた。
きっとそのせいだろう。
最初は新幹線のように走り回っていた綾夏も、数時間も経たないうちにワンマン列車のように動きが鈍り始めていた。
もちろん僕は最初からそのくらいの動きだったから、綾夏がバテ始めくれたおかげで幾分かは楽になったような気がする。
「なぁ綾夏……」
「どうしたの蓮くん?」
お互いに鉛のように重くなってきているであろう脚をゆっくりと止める。
「もうそろそろ海で遊ぶのは終わりにしない?」
さっきまで真上にあって白く輝いていた太陽も、今では水平線に近づき、オレンジ色に変わりつつあった。
「たしかにね……さすがに疲れちゃったよ」
そういう綾夏は僕から見ても分かるくらいに肩で息をしている。
「綾夏、もう体力限界そうだしね」
僕なんかよりもずっと体力はあるはずなのに、ここまでになってしまうのは、相当な体力消費だったのだろう。
「そういう蓮くんは、最初からずっとバテバテだったじゃない」
「あはは……。綾夏があんなに走り回るからだよ」
「あれくらいは……普通よ」
綾夏は僕の後ろ――遠く広がる海岸線の方に向かってそうつぶやく。
「じゃあ着替えて海の家の前に集合でいいかな?」
「うん、わかった」
僕と綾夏はそれぞれ更衣室に入っていく。
砂を落とすためのシャワーは冷たい水しかなかったけど、今日一日あちこちを駆け回って火照っている身体を冷やすにはちょうど良くて、疲れも一緒に流れていくようだった。
着替えを済ませて集合場所に戻ってしばらくすると、綾夏も更衣室から出てきた。
「お待たせお待たせ~。結構待った?」
「まぁ……ちょっと」
「そこは待ってても『全然待ってない』っていうのがセオリーなのよ!」
「そ、そうなんですか……」
「この先、大人になっても、女の子と待ち合わせをするときはそう言うの。分かった?」
正直に言って、綾夏以外の女の子と遊ぶ機会なんてないのではないか。
それに、相手が綾夏だけなら別に――なんて思っていたら、目の前に綾夏の指先が迫ってきた。
「はい、そこ! 私のときにはそんなこと言わなくてもいいじゃないか、なんて思ってないでしょうね?」
「いや……えっと……ちょっとだけ」
「これだから蓮くんは……。この先大学生になったり社会人になったら私以外の女の人と仲良くなっていくんだから。私なんかを基準にしちゃだめなの」
ふと引っ掛かりを感じる。
綾夏の言っていることだと、まるで僕の将来の人生の中には綾夏がいないみたいに聞こえてしまうのはどうしてだろうか。
綾夏の目が冗談を言っているようにないくらいに真剣だから?
でもそしたらどうしてそんなことを僕に――
「――っと、まぁ蓮くんへのお説教はここまでにしよっか」
「う、うん……」
どこかモヤモヤが残るけど、これ以上の詮索はよした方が良いだろう。
「よし、それじゃあもう帰ろうか」
「――待って、蓮くん」
僕が海に背を向けて帰り道に向けて一歩踏み出した時、綾夏に呼び止められた。
振り向くと、海を背景に夕日に照らされた綾夏が僕のTシャツの裾をキュッと掴んでいた。
「ど、どうしたの?」
「あ、あの……」
珍しく綾夏は口ごもっていて、なかなかその手を離そうとしない。
「綾夏……?」
「そ、その――散歩しよ?」
「散歩……?」
綾夏の口から出た珍しい単語だっただけに、僕は思わず聞き返してしまう。
「そ、そう散歩! なんかこのまま帰るのって味気ないな~って思って! 今ならほとんど人いないし……。夕暮れ時に波打ち際とか歩くのにちょっと憧れてたの!」
「純愛ドラマの見すぎか?」
「べ、別にいいでしょ? これでも私はロマンチストな乙女なのよ」
「へぇ……ロマンチストねぇ……」
次々と繰り出される綾夏らしからぬ発言に、僕は思わず頬が緩んでしまう。
「ちょ、なんで笑うの?」
「いや、だって今の綾夏、普段の綾夏とは別人みたいなんだもん」
「そ、それはっ……」
強気で一直線な綾夏は、いつもは僕の言う事なんてコンクリートの壁のように跳ね返してしまう。
だけど今この瞬間は、スポンジのように彼女に言葉が吸い込まれていく。
「ごめん、少し言い過ぎたかな……」
「本当だよ。蓮くんのいじわる……ほら、行くよ」
綾夏は風船のように頬をめいっぱい膨らませているけど、どこか嬉しそうな雰囲気が漂っている。
そんな綾夏の後ろを、僕は歩き始めた。
「――ねぇ、蓮くん」
波打ち際を端から端まで歩き、今は海水浴場の隣にある堤防に二人並んで腰かけている。
夕日が水平線に接し始めていて、さっきよりも色が濃くなっている。
その光が揺らめく水面に反射することで、まるで海一面に宝石が漂っているように見えてくる。
こんな幻想的な空間にいるからだろうか。綾夏の声音もそれに合わせるように落ち着いたものだった。
「私ね、今日一日とっても楽しかった」
「それは良かったよ。初めての海だったもんね」
「うん! 海水はしょっぱいし、海の家のご飯はどれもおいしかったし、蓮くんはぜんぜん体力ないし……色々な初めてがあったの」
「最後の一言は余計だ」
「ふふふ……でも自分では分かってるんだね」
「ないわけではないけど、その事実からは全力で逃避しているよ」
「何それ~ただ背を向けて――」
そのとき、綾夏が急に咳き込み始めた。
きつそうに胸を押さえて身体を丸める。
「綾夏、大丈夫……?」
「う、うん……ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな……」
「綾夏は自覚ないかもしれないけど、はしゃいでるってレベルを超えていたかもね」
「そ、そうなんだ……」
咳が止まらない綾夏が心配だったけど、しばらくたつとだいぶ落ち着いてきたようだった。
「ふぅ……びっくりした~」
「それはこっちのセリフだよ。まるで発作みたいだったじゃないか」
「ま、まぁね……あはは」
「帰ったらしっかり休みなよ。無理は大敵だから」
「そうするね……ありがとう」
すると、綾夏は鞄からいつものメモ帳を取り出して、また何かを書き込んでいる。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
僕がメモ帳を指さすと、綾夏は小さく頷く。
「うん。なんて言うか……お守り? みたいな」
「でもそれって日記じゃなかったっけ?」
「そう、だね……」
僕の質問に答えた綾夏の声は、流れ込んでくる風でわざと消されてしまうようなくらいの弱々しいものだった。
「確かにこれは日記みたいなものなんだけど……。その日に書いたものは、どんなに些細なことでも、私の中ではとっても大切な思い出なの。決して忘れたくないくらいに大切な――」
綾夏の瞳が小刻みに震える。
何か口を挟めば、簡単に崩れ落ちてしまうような脆さを彼女に感じる。
「こうして蓮くんと何気ない会話をしていても……私にとっては一生忘れたくない大切な時間……だから、ここに書き記すの」
僕の方に振り向くと、小さく雫が溢れだす。
でも、綾夏はそれを拭うことなく言葉を続ける。
「ねぇ、蓮くん。この一瞬一瞬を絶対に忘れないでね。私といる時間を絶対に忘れないでね――」
このときの僕は、一体綾夏がどんな意図で、何を思って、僕に何を求めているのかなんて、少しも理解することができないでいた。
僕はびっくりしてお皿を引こうとしたけど、すでに綾夏の手でお皿が固定されてしまっていた。
だから僕は、なすすべなく目の前で自分が食べていたものが次々と綾夏の口の中に消えていくのを茫然としながら見つめるしかなかった。
分け合いっこを最終的には認めてしまっていただけに、それ以上は強く言うことはできなかったけど、それを食べている綾夏本人はちっとも悪びれた様子はない。
それよりも、綾夏は、一口一口を噛みしめるように、そして何より、このあたりに座ってご飯を食べている人の誰よりも幸せそうにしていた。
目の前に並んだご飯を全て食べ終わると、再び炎天下に向かって歩き出す。
一日の中で一番高いところに上った太陽から降り注ぐ熱は、午前中のそれとは比べ物にならないくらい強くなっていた。
きっとそのせいだろう。
最初は新幹線のように走り回っていた綾夏も、数時間も経たないうちにワンマン列車のように動きが鈍り始めていた。
もちろん僕は最初からそのくらいの動きだったから、綾夏がバテ始めくれたおかげで幾分かは楽になったような気がする。
「なぁ綾夏……」
「どうしたの蓮くん?」
お互いに鉛のように重くなってきているであろう脚をゆっくりと止める。
「もうそろそろ海で遊ぶのは終わりにしない?」
さっきまで真上にあって白く輝いていた太陽も、今では水平線に近づき、オレンジ色に変わりつつあった。
「たしかにね……さすがに疲れちゃったよ」
そういう綾夏は僕から見ても分かるくらいに肩で息をしている。
「綾夏、もう体力限界そうだしね」
僕なんかよりもずっと体力はあるはずなのに、ここまでになってしまうのは、相当な体力消費だったのだろう。
「そういう蓮くんは、最初からずっとバテバテだったじゃない」
「あはは……。綾夏があんなに走り回るからだよ」
「あれくらいは……普通よ」
綾夏は僕の後ろ――遠く広がる海岸線の方に向かってそうつぶやく。
「じゃあ着替えて海の家の前に集合でいいかな?」
「うん、わかった」
僕と綾夏はそれぞれ更衣室に入っていく。
砂を落とすためのシャワーは冷たい水しかなかったけど、今日一日あちこちを駆け回って火照っている身体を冷やすにはちょうど良くて、疲れも一緒に流れていくようだった。
着替えを済ませて集合場所に戻ってしばらくすると、綾夏も更衣室から出てきた。
「お待たせお待たせ~。結構待った?」
「まぁ……ちょっと」
「そこは待ってても『全然待ってない』っていうのがセオリーなのよ!」
「そ、そうなんですか……」
「この先、大人になっても、女の子と待ち合わせをするときはそう言うの。分かった?」
正直に言って、綾夏以外の女の子と遊ぶ機会なんてないのではないか。
それに、相手が綾夏だけなら別に――なんて思っていたら、目の前に綾夏の指先が迫ってきた。
「はい、そこ! 私のときにはそんなこと言わなくてもいいじゃないか、なんて思ってないでしょうね?」
「いや……えっと……ちょっとだけ」
「これだから蓮くんは……。この先大学生になったり社会人になったら私以外の女の人と仲良くなっていくんだから。私なんかを基準にしちゃだめなの」
ふと引っ掛かりを感じる。
綾夏の言っていることだと、まるで僕の将来の人生の中には綾夏がいないみたいに聞こえてしまうのはどうしてだろうか。
綾夏の目が冗談を言っているようにないくらいに真剣だから?
でもそしたらどうしてそんなことを僕に――
「――っと、まぁ蓮くんへのお説教はここまでにしよっか」
「う、うん……」
どこかモヤモヤが残るけど、これ以上の詮索はよした方が良いだろう。
「よし、それじゃあもう帰ろうか」
「――待って、蓮くん」
僕が海に背を向けて帰り道に向けて一歩踏み出した時、綾夏に呼び止められた。
振り向くと、海を背景に夕日に照らされた綾夏が僕のTシャツの裾をキュッと掴んでいた。
「ど、どうしたの?」
「あ、あの……」
珍しく綾夏は口ごもっていて、なかなかその手を離そうとしない。
「綾夏……?」
「そ、その――散歩しよ?」
「散歩……?」
綾夏の口から出た珍しい単語だっただけに、僕は思わず聞き返してしまう。
「そ、そう散歩! なんかこのまま帰るのって味気ないな~って思って! 今ならほとんど人いないし……。夕暮れ時に波打ち際とか歩くのにちょっと憧れてたの!」
「純愛ドラマの見すぎか?」
「べ、別にいいでしょ? これでも私はロマンチストな乙女なのよ」
「へぇ……ロマンチストねぇ……」
次々と繰り出される綾夏らしからぬ発言に、僕は思わず頬が緩んでしまう。
「ちょ、なんで笑うの?」
「いや、だって今の綾夏、普段の綾夏とは別人みたいなんだもん」
「そ、それはっ……」
強気で一直線な綾夏は、いつもは僕の言う事なんてコンクリートの壁のように跳ね返してしまう。
だけど今この瞬間は、スポンジのように彼女に言葉が吸い込まれていく。
「ごめん、少し言い過ぎたかな……」
「本当だよ。蓮くんのいじわる……ほら、行くよ」
綾夏は風船のように頬をめいっぱい膨らませているけど、どこか嬉しそうな雰囲気が漂っている。
そんな綾夏の後ろを、僕は歩き始めた。
「――ねぇ、蓮くん」
波打ち際を端から端まで歩き、今は海水浴場の隣にある堤防に二人並んで腰かけている。
夕日が水平線に接し始めていて、さっきよりも色が濃くなっている。
その光が揺らめく水面に反射することで、まるで海一面に宝石が漂っているように見えてくる。
こんな幻想的な空間にいるからだろうか。綾夏の声音もそれに合わせるように落ち着いたものだった。
「私ね、今日一日とっても楽しかった」
「それは良かったよ。初めての海だったもんね」
「うん! 海水はしょっぱいし、海の家のご飯はどれもおいしかったし、蓮くんはぜんぜん体力ないし……色々な初めてがあったの」
「最後の一言は余計だ」
「ふふふ……でも自分では分かってるんだね」
「ないわけではないけど、その事実からは全力で逃避しているよ」
「何それ~ただ背を向けて――」
そのとき、綾夏が急に咳き込み始めた。
きつそうに胸を押さえて身体を丸める。
「綾夏、大丈夫……?」
「う、うん……ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな……」
「綾夏は自覚ないかもしれないけど、はしゃいでるってレベルを超えていたかもね」
「そ、そうなんだ……」
咳が止まらない綾夏が心配だったけど、しばらくたつとだいぶ落ち着いてきたようだった。
「ふぅ……びっくりした~」
「それはこっちのセリフだよ。まるで発作みたいだったじゃないか」
「ま、まぁね……あはは」
「帰ったらしっかり休みなよ。無理は大敵だから」
「そうするね……ありがとう」
すると、綾夏は鞄からいつものメモ帳を取り出して、また何かを書き込んでいる。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
僕がメモ帳を指さすと、綾夏は小さく頷く。
「うん。なんて言うか……お守り? みたいな」
「でもそれって日記じゃなかったっけ?」
「そう、だね……」
僕の質問に答えた綾夏の声は、流れ込んでくる風でわざと消されてしまうようなくらいの弱々しいものだった。
「確かにこれは日記みたいなものなんだけど……。その日に書いたものは、どんなに些細なことでも、私の中ではとっても大切な思い出なの。決して忘れたくないくらいに大切な――」
綾夏の瞳が小刻みに震える。
何か口を挟めば、簡単に崩れ落ちてしまうような脆さを彼女に感じる。
「こうして蓮くんと何気ない会話をしていても……私にとっては一生忘れたくない大切な時間……だから、ここに書き記すの」
僕の方に振り向くと、小さく雫が溢れだす。
でも、綾夏はそれを拭うことなく言葉を続ける。
「ねぇ、蓮くん。この一瞬一瞬を絶対に忘れないでね。私といる時間を絶対に忘れないでね――」
このときの僕は、一体綾夏がどんな意図で、何を思って、僕に何を求めているのかなんて、少しも理解することができないでいた。