グレートリザードの影から出てきたのは、中性的な容姿の人物であった。髪は後頭部で一本にまとめている。そして、長年使い続けているのだろう短剣。その風貌は見紛うこともないミシェル・ドゥ・ルーズだった。

「ミシェルさん、やっぱりここに居たんですね!」
「……」
「皆、お前を探しにここまで来てるんだぞ」
「まったく、人騒がせね……まあ、無事なら良かったのだけど」
「……」

 俺たちの呼びかけにミシェルは答えなかった。それと同時に違和感が増幅していく。ミシェルの瞳には光がなく、その視線は俺たちに焦点が合っていなかった。何かに取りつかれたような雰囲気が、不気味な状況を作り出していた。

「おい、ミシェル……体調でも悪いのか?」
「……」
「なら、ポーション持ってきたからこれでも飲みなさいよ」

 ミシェルは依然黙ったままだった。俺たちはその異常な無反応にお互いに顔を見合わせた。アネッサはポーションを取り出しつつ、ミシェルに近づいていく。
 その瞬間、脳内で警告が鳴り響いたような気がした。具体的には説明できないような本能的な警告。次の瞬間、俺は思わず叫んでいた。

「アネッサ、避けろ!」

 ミシェルが一歩踏み込んだ刹那、その恐れは現実のものだと確定した。アネッサは咄嗟に体を捻って、彼が突っ込んできたのをすんでのところで避けたのであった。ミシェルは狂ったように何度も懐に入ろうと試みるが、アネッサは軽やかにそれを躱してゆく。
 一体何が起こっているのか。良く見ると、ミシェルは何かに取りつかれたかのような顔をしていた。

「凄い身のこなし……!」

 ルアはアネッサの動きを見ながら、目を輝かせていた。ギルドの職員なんてのは冒険者崩れ殆どだ。ある程度は勘を持ってるやつも多い。
 しかし、状況はそんな説明を許してくれそうになかった。

「逃げるぞ!」

 呆気にとられていたルアとイーファに大声で呼びかけると、ふたりとも瘧に掛かったかのように身を震わした。後に付いてくることを願いつつ、ミシェルとの距離を取るために一足先に走り出す。
 しかし、背後から聞こえてきたのは地面を擦るような音だった。
 振り向くとイーファが「いてて……」と腕を付きながら、立ち上がろうとしている姿が見えた。足元にはスライム――これに足を引っ掛けて、転んだのだろう――が居た。

「イーファ!!」

 いつの間にミシェルはアネッサを無視して、イーファの背後に躍り出ていた。ミシェルは彼女を仕留めるつもりらしかった。今からイーファが立ち上がっても、逃れることは出来なそうだ。
 しかし、彼女を救う方法は一つだけある。成功するかは分からない。だが、一か八かやるしかない……!

「……!」

 ミシェルの方に走り出して、突っ込んでいく。それに気づいたミシェルの方は、こちらに気を取られて足がもつれる。斥候(スカウト)の走り方は強襲に適正化されている。そのため、対象への接近を始めた後に修正を求められると上手く応答できない事が多い。しかし、ミシェルは最高レベルの冒険者。足を()()()もつれさせることで、姿勢を微調整しようとしたのだ。
 しかし、それは同時にイーファへの接近が阻害されることをも意味する。

「うらぁぁぁあっ!!」

 突っ込んだ勢いのまま、ミシェルの左肩を押す。元々の走法が不安定であったのも相まって、彼の体はバランスを崩して突き飛ばされる。
 しかし、ミシェルもただでは突き飛ばされまいと肩を縮めて右腕を突き出してくる。その手元には短剣がある。イーファを庇おうと背を向けたのが仇となった。

「ぐっ……!」
「キリル……!」

 アネッサの悲鳴がダンジョンにこだました。背中を切りつけられたのだ。骨まで届いた衝撃でしばらく立ち上がれそうにはなかった。
 目の前のイーファは手負いの俺を見て絶望したような顔になっていた。

「キリルさん……なんで私なんかのために……なんで……っ!」
「お、俺は大丈夫だ。さっさと逃げるんだ」
「キリルさんを見捨てて、逃げるなんて出来ません……!」

 痛みに顔を歪め、冷や汗を流しながら言う強がりに説得力は無かったようだ。イーファはその場から動こうとしなかった。
 俺は息を整えて、極めて冷静であることを装って先を続けた。

「アイツはただの冒険者じゃねえ。魔王討伐パーティーの元メンバーだ。宮廷魔道士のお前ならある程度は善戦できるとでも思ってるんだろうが、レベルが違いすぎる。一旦引け」
「でも……!!」

 頼むから言うことを聞いてくれ――そう願った瞬間に目の間からイーファの姿が消える。周囲を見渡すとアネッサが彼女の腰を脇に抱えていた。
 イーファはバタバタ暴れて抵抗しようとするが、非力な彼女はアネッサに抗うことが出来なかった。

「離して下さい!! キリルさんを見捨てるつもりですか!」
「二人一気は無理よ」

 アネッサは凍りつくような声でそういった。彼女たちのためにわざとそうしているのだろうと思った。
 俺は信頼する仲間の顔を見上げた。

「頼んだぞ」
「この娘たちを置いてきたら、戻ってくるからそれまで生きててよね」
「ああ」

 依然イーファは暴れていた。

「キリルさん!!」
「時間を無駄にするな! 行け!」

 アネッサは俺の怒号に頷いて、ダンジョンの出口へと駆けてゆく。ルアも黙って、それについて行っていた。
 聞き分けの良い人間が半分以上で良かった――そう思いつつ、背後を確認する。ミシェルは地面からゆっくりと立ち上がり息を整えていた。

「おい、一体どういう風の吹き回しだ」
「……」
「俺を忘れたとは言わせねえぞ、ミシェル」
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ」

 ため息をつく。予想していたことではあるが、全く応答する様子はない。
 ややあって、ミシェルは短剣を構え、こちらに飛びかかろうという姿勢になる。ダメだったか。仲間を逃せただけ良かったが、謎の真相にはたどり着けなかった。そんな悔しさの念が湧き上がってくる。
 しかし、ミシェルの構えはその背後――ダンジョンの奥から聞こえてきた声によって解かれたのであった。

「やめなさい、ミヒェル。彼は我々の仲間だ」

 ミシェルの後ろから聞こえる聞き覚えのある声に俺の耳は思わずひくついた。まさか、こんなところで偶然出会うとは思いもよらなかった。
 ゆっくりと顔を上げる。そこには目蓋に縦の傷が入ったスカーフェイス、白髪は整えられており、灰色のフォーマルな服装を着た老人が立っていた。そう、アルトだ。
 しかし、前と違うのはその片耳にイヤリングが付いていることだった。

「ミシェルを狂わせたり、初級ダンジョンに居るはずもないモンスターを引き寄せたりしたのは師匠だったのか」
「目的のために必要だったからな。しかしまあ、君たちがアイゲントリッヒに居るとは思わなかったよ」

 純粋にそう思っているのか、しらばっくれているのか。その澄ました顔からは読み取れなかった。話している間は時間が稼げる、そう思った。

「俺はその目的が知りたくて、ここまで来たんだよ」
「ほう」

 アルトの澄ました顔が変化する。興味を引かれたのか、眉を少し上げていた。

「僕の目的はあのときから全く変わっていないよ。()()だ」
「何だと……?」
「僕の教え子は先の戦争の魔族との戦いで活躍してきた。人類の平和を取り戻すために死んでいったものも居る。それにも関わらず、魔王を討伐したときに彼らは報われなかった。手柄は全て勇者と冒険者のクズ共のものとなり、戦争の底力となった通訳者や翻訳者は歴史の闇に消えていった」

 アルトの顔にシワが増える。彼は下唇を噛み締めていた。

「キリル君――君のように生き残った文士達も翻訳魔法によって仕事を奪われた。翻訳者や通訳者は時代遅れの長物と見做され、世間は出来損ないとして見下した。このどこかに正義があったか!」
「それは……」
「魔王討伐戦争で救われた人類は心根の濁った連中ばかりだ。そんな奴らは救われて然るべき人間ではない。僕は奴らを粛清する」
「師匠。感情を繋げる人間の力はどこに行ったんだ。粛清なんて師匠らしくないじゃないか」
「昔は僕も若かった。だから、感情を通じ合わせればなんとでもなると青いことが言えた。しかし、現実はそうじゃなかったんだよ。キリル君」

 二人共、押し黙ってしまった。
 ダンジョンの中で静寂の時間が流れていく。そんななか、俺の頭は痛みを訴えていた。これまでの価値観を、与えてくれた恩人自身が否定する。それは強い痛みとして映った。
 だからこそ、アルトを睨めつけて言った。

「俺は『感情を繋げる人間の力』以外の武器を持たない自分を受け入れられない。それで今まで世間を渡り歩いてきたからな」
「……」
「世間は俺達のことを認めてくれないかもしれないが、俺自身はこの力は不滅のものだと思っている。これまでの旅で仲間が増え、苦境を乗り越えてきたことがその証明だ」
「綺麗事で僕を騙そうとしても無駄――」
「綺麗事じゃない。事実だ」

 話に割り込まれたアルトの顔は更にくしゃっと崩れた。

「師匠の弟子達は復讐なんか望んじゃいない。生き残っている奴らはあいつらなりに自分の能力に誇りを持って生きている。師匠がやろうとしていることはそいつらの顔に泥を塗ることだ」
「黙れっ! そんなのは君が考えた幻想だ!」
「もし、幻想なら今頃師匠がこんなことをしなくても蜂起してるはずだがな」

 また静寂が訪れた。
 アルトの顔は負の感情で満ち満ちていたが、ややあってそれも漂白されたような表情を見せた。

「残念だ、キリル君。僕の計画に賛同してくれないとはね」

 俺の反応を伺う様子もなく片手を上げる。アルトの視線は俺を完全に見下していた。

「ミヒェル、殺せ」