「あのぅ、これいつまで歩くんですー?」
ルアがイライラしてそうな声色で不平をいう。茶色の道が俺達三人の前に延々と続いていた。道は周囲から少し盛り上がった場所にあった。雨季に近くの川でも氾濫するのだろう。そのために整備したと見える。
出発したは良いものの、翻訳魔法に関わる手掛かりを見つけられていない俺達は途中までディフェランス家長の用意してくれた馬車で隣町に向けて走っていた。
しかし、馬車は途中でぬかるみに足を取られて動けなくなり、馭者がこれ以上は勘弁してくださいと泣き顔で懇願してきたので、あとの道は歩きでいいとつい言ってしまったのであった。
ただ歩くのは俺の専売特許だったが、元気の有り余っているルアには退屈だったようで事あるごとにぶーぶー不満をぶちまけていた。
「はあ、退屈なら歌でも歌ってろよ」
「良いんですか、私、幼い頃はメルローの教会の聖歌団やってたんですよ」
「家出娘が清楚の皮を被ったこと言ってら」
「何か言いました?」
けっ、といってルアの追求をかわす。彼女もそれ以上気にせず、何やら歌らしきものを歌い始めた。
歌らしきものと言ったのは、それが大分酷いものだったからだ。音程は外す、歌詞は抜ける、リズム感もグダグダで、聞いててイライラしてくるものだった。
「お前、本当に聖歌団に居たのか?」
「え、そうですけど……」
「そこのシスター、歌下手だったんだな」
ルアはよく意味が分からないという様子できょとんとしてから、また歌を歌い始めた。今度はエクリの民であれば誰もが知っているような、よく聞く民謡だ。ルアの音痴ぶりはここに来て、はっきりした。
最初は聞き流していたが、段々と神経が苛立ってきた。
「おい、黙れ」
「えっ」
「下手な歌を歌うな。神経に障る」
「酷っ!?」
「お前、絶対自己紹介するときに聖歌団に居たとかいうなよ。後悔することになるからな」
「ほんっとうに酷いですね!? ていうか、歌でも歌えって言ったのキリルさんじゃないですかぁ!」
「下手な歌を歌えとは言ってない」
ぷんすか怒り出すルアを横目に背後についてきているイーファの様子を確認した。彼女は道中で摘んだ可愛らしい花を手のひらに収めて、それを愛でながら俺達二人について来ていた。どうやら俺達の話は聞いていないらしい。
俺は首を回して、彼女の方を向く。
「おい、イーファ」
「は、はい?」
自分の世界に没頭していたのか、イーファはいきなり呼ばれてびっくりした様子で答える。
「お前、歌は得意か?」
「う、歌ですか……?」
「こいつの歌が下手すぎて困ってたところだ」
「きーりーるーさーんー、そろそろ擦るのやめてくれますぅ?」
腕を組んでルアが抗議してくる。イーファはしばらく何かに迷っているような顔をしていたが、ややあって、人差し指を立ててそれを振り始めた。
それに同調するように空中に様々な色の光が散ってゆく。光が散るたびに木琴を叩いたような音が鳴った。それが連なって、旋律を作り上げていく。俺とルアはその光と音の絡み合いにしばらく目を奪われていた。
「歌は苦手だけど、これくらいなら出来るかな……」
「凄いじゃないですか! どうやってるんですか、それ!?」
ルアがイーファに抱きつかんが如くの勢いで迫る。イーファは少し困った顔になる。
「えーっと、説明すると長いんですけど……」
「教えて下さいよぉ、私も一端の魔術師ですから出来るかもしれません」
「お前、魔術師と言っても治癒師じゃねえか」
「錬金術師クラスじゃないから少しくらい詠唱魔法も使えるんですぅーべーっだ!」
舌を出して煽ってくるルア。いずれにせよ魔法を使う素質が無い俺にとっては関係のない話だった。
イーファは頭の中を整理できたのか、頬に手を当てながら順序立てて説明を始めた。専門的な内容は理解出来なかったが、彼女自身は分かっている口ぶりだった。
しかし、話が進むにつれてルアの表情は家の中でカナブンでも踏み潰した時のような顔になっていった。これは見ていて面白い。
「……というわけで、シュルディー分布のうち、先の式のx2、xプライムの魔導係数がインスピダール値を超えることによって起こるのが先程の魔法の原理的な説明となります。えっと、わかりましたか?」
「わ、分からんです……」
「困りましたね、これでも初等魔法学だけで分かるように解説したつもりなんですが……」
「とにかく簡単そうに見えて凄い魔法なんだってことはわかりました、はあ」
ルアは残念そうに大きなため息をつく。傍から静かに見ていったが、良い気付きだと思った。
専門家は簡単にこなしているように見えて、それを簡単に出来るようになるのに時間と苦労を消費して相当の訓練をしている。翻訳者もそうだ。一人の翻訳者が生まれるのには、彼の一生分の努力が必要になる。過去に「飛竜母艦」を「飛行トカゲ運搬用の船」と訳した翻訳者が居たが、そういうことである。
まともな翻訳は一人の人生を消費して得るものだった。本来は。
「キリルさん?」
現に戻ってくる。イーファが心配そうな表情で俺の顔を覗き込むように見ていた。
「なんだ」
「いや、難しい顔をして黙り込んでたので気になって……」
「なんでもない」
「お手洗いにでも行きたくなったんですかぁ? ここでするなら開放感ありそうですね。新しい趣味に目覚めそう!」
ルアがニマニマしながら、悪い冗談をいう。
『新しい趣味を? ルアー、冗談はそこまでにせにゃ。つまらないかもだ。腐った卵になるので?』
「え? 今のってなんて言ったんですか?」
「なんでもない」
「ブレイズ語ですよね、イーファさん分かります!?」
「いや……」
イーファも良く分からないといった顔になる。そりゃそうだ。先の言葉はブレイズ語ではない。伝説の誤訳者ナッチ・トーダーの言語だ。誰もわからないかもだぜ。こいつはコトだ!
そんなことを言っていると、ドタドタと地面の揺れる音が聞こえてきた。地響きは確実に自分たちの方へと近づいてきている。
イーファは不安そうな顔で、周りを見回す。
「何でしょう、この音……?」
「なんだあれ……」
振り返った俺の目に見えたのは大量の騎士だった。馬を駆って土埃を上げながら、こちらに疾走してくる。あっけにとられているうちに彼我の距離は縮まっていた。
轢かれる寸前でルアとイーファを掴んで道の脇に転がり込んだ。地面にぶつかって、そして一瞬意識が途切れる。意識を取り戻すと、何か柔らかいものが顔の上に乗っかっていた。しかも、体の上に伸し掛かられているようだ。
「いてて……」
「おい、退いてくれないか」
「ひゃあっ!?」
イーファは悲鳴を上げて、俺の上から離れた。小さなお尻がやっと頭の上から退き、重圧から解放される。彼女は赤面しつつ、「ごめんなさい」と連呼しながら何回も腰を曲げている。
ルアはそれを見つつ、ニヤニヤし始めた。
「良いんですよ。男の人にとって尻に敷かれるというのはご褒美で――」
「お前は馬に轢かれたほうが良かったようだな」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「しかし、一体何だったんだ」
離れていく騎士たちの背中を見る。あれだけ多くの騎士が国境に向けて疾走していくのは珍しいことだった。
「あれは多分エクリの貴族評議会付き連合騎士隊ですね」
「分かるのか?」
ルアは頷く。
「ディフェランス家からもお家に付いている騎士を連合騎士隊に送っているんです。旗持ちが居るので、間違いないはずです」
「しかし、何故そんなのが動いてるんだ?」
「分かりませんけど……何か並々ならない事態が起こっているということだけは確実ですね」
遠くに去っていく騎士たち。俺達は道の先を不安とともに見つめるのであった。