――第三閲覧室
古びたドアの先はアンティークな調度品で満ちていた。その部屋の壁は埋込み型の本棚になっており、ここにも本が隙間なく入っていた。
その広い空間の奥にソファチェアがあり、一人の男が収まっていた。オレンジ色の髪は端正に切りそろえられていて、顔立ちはどことなく誰かに似ているような気がする。服装は貴族の正装で、落ち着いたワインレッドの上着が上品さを醸し出している。
その男を目の前にしたルアは完全に立ち尽くした状態で、しばらく何も言えないままに口を開けたり閉じたりと繰り返していた。
「ルア、ここに居たのか」
「お前がこの騒ぎの首謀者か」
男は俺の声に見向きもせず、ただルアのことを見つめていた。見られているルアはややあってはっと我に返る。
「なんでここにルイ兄様が……?」
「家出した君を見つけるためだよ」
「でも、兄様は家で秘宝の守り人として……」
「その秘宝ってのはこれかい?」
ルイと呼ばれた男は手元にあるガラス玉のような物を持ち上げる。窓から差し込む光がその透明度を示すようにガラス玉を貫通していた。
ルアはそれを見て、身を震わせた。
「何故それを外に持ち出したんですか……!」
「僕は可愛い妹が心配で心配でたまらなくて、それで追いかけてきたのさ」
「それが他人に渡れば、どうなるか知っているでしょう。兄様」
「ああ、知ってるさ。だから、この力は僕が僕の望みを達成するために使う」
ルアは顔に絶望を湛えて、後ずさる。
「今……なんて……?」
「単純なことさ、翻訳魔法を復活させるために外に居る冒険者連中を生贄に捧げる」
「何だと……!」
思わず声が出てしまった。そこでやっとルイの視線がこちらに向いた。
初めて俺とイーファの存在に気づいたような、そんな感じだった。
「君たちがルアと今まで居たのか。まあ、もう用済みだがな」
そういって、ルイが手をこちらに向けた瞬間、同時にルアが彼に向かって飛び出した。剣戟の音。ルアの片手にはいつの間に持っていたのか、銀色に光るダガーが握られていた。
その切っ先が彼の喉元に突き刺さろうという刹那、彼の姿は消えた。ソファチェアに突っ込んだルアは体を打って、床を転がり、痛々しげに立ち上がりながら声を張った。
「人の命と引き換えに翻訳魔法を復活させるなんて、そんなこと許されるはずがない……!」
「僕はただ君を愛していたから……」
「そんなの詭弁です! 私から守り人の立場まで奪っておいて、私が達成すべき目的まで奪うんですか……!!」
「そんな、僕は奪ったわけじゃ……」
「私は人形じゃない!」
ルイの目の色はその瞬間全く違うものになっていた。何かを覚悟したような、そんな気迫がルアの次の判断を遅らせた。
「僕の人形にならないのなら、殺すしかないな」
耳を塞ぎたくなるような不快な重低音が鳴り響いた。ルイの周囲にシールドが張られており、それが攻撃を受け止めた音だった。
彼ら二人の間に手を向けているのは、イーファだ。額から大量の汗が流れていた。
「一時撤退です。長くは持たないので早く……!」
「イーファさん、邪魔しないでください。これは私達家族の問題です」
二人がシリアスな表情で向き合っている間にも、ルイを囲むシールドはメキメキと耐久を減らしていく音を上げていた。
「言い合ってる場合かよ! 早く離れ――」
俺が叫んだ瞬間、陶器の割れるような音とともにシールドが消滅した。ルイの目尻には狂気の笑みが含まれていた。
「残念だが、可愛い妹が僕のものにならない以上、君は僕に不要の存在だ――消えろ」
「クソッ!」
速度の話をすれば、ルイの方が早く動けた。だからこそ細かいことを一つも考えずに咄嗟の判断で動いた。勝つか負けるかを度外視したアイデア勝負。
本棚から本を一冊抜き取ってルイに投げつける。空中を浮遊した本をルイは反応せざるを得なかった。瞬時の反応で飛来物を回避する魔法――それは簡易的で低レベルの魔法以外にはありえない。風属性系のウィンドカッター、火属性系のファイアボール……いずれにせよ、本すべてを消滅するには至らない魔法だ。そこに勝機があるはず。
全部、翻訳者として昔聞きかじっただけの魔法知識だった。しかし、ルイは愚直とも言っていいほどに俺の予想に沿った動きをした。
ウィンドカッターで本が切り刻まれる。舞い上がった紙切れで、ルイの視界は一時的に塞がれる。
そして、俺の意図を理解した背後のイーファは瞬時に魔法を撃った。こちらも空気の矢を撃ち出す低レベルの魔法――エアスピアー。しかし、さすがは宮廷魔導師。無詠唱で高威力のものを瞬時に撃ち出していた。
「なっ――」
ガラスの割れるような音とともに、ルイの手元にあった秘宝は割れる。それに気を取られたルイはもう素人でもどうにかできるような大きな隙を作っていた。
その隙に飛び込むように俺はタックルをかます。ルイは避けることもままならずに床に叩きつけられる。
「ぐわっ!? き、貴様……っ!!」
「観念しな、秘宝は無くなった。もう終わりだ」
「くっ……!!」
一度は反抗しようとして、上体を起こそうとするも貴族で魔術師の貧弱な身体では俺の押さえつけに抵抗できないようだった。魔法を撃とうにも俺が手首を押さえている以上、マトモな魔法は撃ちようがない。
そのまま観念したように彼は脱力した。
「兄様……」
茫然自失と言った様子でルアは呟く。
床の上に割れた秘宝の残骸が散乱していた。アーティファクトは繊細な魔道具だ。もはや使い物にはならないだろう。
そんな無残な姿になったそれをイーファは名残惜しそうに見つめていた。
ルイは俺達の手によって騎士隊に引き渡された。
大量生贄魔法はイーファによれば禁呪の一つらしく、宮廷評議会の門前に出されて彼は裁判を受け、罪を償うことになる。
捕縛されたルイはうなだれながら、別れの言葉を騎士に促されてルアはそれを静かに聞いていた。
「僕は本当の家族が欲しかっただけだ。ルア、君の旅の目的さえ無くなれば、僕のもとに戻ってきてくれると思って……」
「バカですね」
ルイはその言葉に顔を上げる。
「そんなことしなくても、私は兄様のことが好きでしたよ」
「ルア……」
「秘宝の守り人は私達の間を引き裂いていたんです。それももう無くなった。でも、私には残された役目があるんです」
「残された……役目……?」
ルアは頷きを返す。そして、ルイを指差して仁王立ちで宣言した。
「この旅で翻訳魔法を復活させます。それで過去の兄様を越えてみせる。兄様が罪を償って、再会したときには私は兄様の真の家族にふさわしい人間になっているはずです」
「真の……家族……?」
両腕を騎士に掴まれたルイは、そう呟きながら涙を流していた。
彼は嗚咽に溺れながら、必死に言葉を紡ごうとしていく。
「今から……でも……本当の家族になれるのか……?」
「ええ、罪を償い、私が目的を達成したときには必ず」
「約束してくれ」
「誓いましょう」
そういって、ルアはルイに背を向けて何処かへ歩き始めた。
一連の儀式を静かに見ていた俺はルイの希望とも恐怖とも絶望とも取れぬ微妙な顔を一瞥してから、イーファの肩を叩いてルアの後に続いた。
日が落ちて、大図書館の町はもう暗がりに落ち込んでいた。哀愁漂うルイが騎士たちに連れて行かれるのを、俺達は背後から聞こえる甲冑の擦れる音を聞きながら背中で見送るのであった。
早朝の薄明を落ち着いた気持ちで見ていた。そこには面白さも何もないが、ただ緩みきった心地よさだけが残っている。
俺が座る横ではイーファとルアがすやすやと可愛らしく寝ている。ルアはペールトーンな赤色の、イーファは透き通った青色のネグリジェワンピースを着ている。早朝の黎明がそのシースルーの胸元を照らし出す。幼児体型に欲情しない俺でも何か危険なものを感じてゆっくりと目を逸らした。
完全に疲れ切ってしまったルアのことを鑑みて、俺達はアーザスの宿で一泊することになった。
ルアはすぐにでもこの町を出て、少しでも旅路を進めたいと言っていたが、イーファが大図書館で資料収集をする間だけはこの町に残っていたいと言ってきたため、ルアは不承不承ながらもこの町に居ることを認めてくれた。
それ以上に彼女がふらついていたのが気になっていた。
ルイとの戦闘でルアは相当な無理をしていた。それが祟って体調を壊されてしまっては、とてもじゃないが困る。
「ふへぇ……もうたべられないですぅ……」
ルアは幸せそうな顔で寝言を漏らす。俺がこれだけ心配したというのにこの寝言である。少し憤りを感じるが、彼女はこれくらいくだらない人間で居てくれたほうが俺には安心できる。ルアが秘宝に取り憑かれていた間、こっちまで神経が立ってしょうがなかった。
一体夢の中で何を食べているのだろうか。想像は膨らむばかりだ。
「んにゅ……ほんでいっぱいでしわわせぇ……」
こっちの寝言はイーファだ。あの後、大図書館に一人で残って翻訳魔法に関する資料を集めていたらしい。ルアは自分がやらねば意味がないと一緒に残ると言い張ったが、イーファになだめすかされて宿に収まってくれた。彼女が居なかったらルイに俺は消されていただけではなく、大量虐殺が行われていただろう。そう思うと背筋が寒くなる。
本人はそこまで重大なことだと考えていなかったのかもしれない。現に夢の中でも現実でも本に囲まれるのが幸せらしいのだから、その場所を守り汚されないために動いただけとも言える。
そんな良く分からない考えを巡らせることが出来るのは、薄明の魔力なのだと感じた。
そんなとき、戸を叩く音がした。緩みきった体に力が入る。リラックスで得られていた癒やしが中断されて、我に返る。
宿の主人だろうか? それとも隣の部屋の人間か? 立ち上がって、ドアに近づくとまた戸が叩かれた。
「ごめんくださいませ、こちらにルアお嬢さ――ルア・ディフェランス様はいらっしゃいますでしょうか……?」
「エクリ人だと……?」
エクリ語で話しているから、エクリ人だと判断するのは早計だがルアのことを知っている口ぶりからそっちの人間である可能性のほうが高かった。
声は初老の男、小声で周りに配慮した話し方は彼が少なくとも粗暴な冒険者ではないことを示していた。
戸を開けて、人物を確認する。
痩せ気味の爺さんだった。よく仕立てられた給仕服をぴっちりと着ており、その表面にはホコリ一つ付いていない。立ち姿すら気品を感じさせるような人間がこんな辺鄙な宿に居ることに俺は数秒言葉を失う。
相手方も予想していたのとは違うのが出てきて、目をパチパチさせる。
俺達はお互い驚き、言葉を失い、数秒のあいだ、次の言葉を探した。傍から見たらさぞシュールだったことだろう。
「あの……」
最初に切り出したのは爺さんの方だった。
「こちらにルア・ディフェランスという方はいらっしゃいませんでしょうか……?」
「ルアなら俺の後ろのベッドで寝てるが」
「ね、寝てるですって……!」
事実を言ったつもりが、爺さんは目を見開いて驚く。そして、俺の服の襟を掴んで揺さぶり始めた。
「ワタクシはお嬢様を無傷で連れてこいと本家に命じられてきたのですぞ!! それが着いたときには傷物になっていたなんて……ワタクシはどう報告すれば良いのです!!」
「おい、騒ぐなよ。気持ちよく寝てたところなんだぞ」
「なんですとォ!!」
事実を言っているだけなのに、爺さんのテンションは更に高まっていく。力こそ弱いが、襟を掴まれて前後に振られるのは不愉快極まりなかった。
爺さんの胸元を突き飛ばすと、簡単に拘束は解けた。
「何か勘違いしてないか、ジジイ」
「勘違い……でございますか?」
突き飛ばされて冷静になったのか、爺さんは目を丸くしてこちらを見た。
しかし、その後が続けられない。さっきまでぼやぼやしてたからか、言葉が上手く出てこない。ただ事実をそのまま描写するだけになっていた。
「そうだ、俺はボン・キュッ・ボンが好きであって、幼児体型に欲情する男じゃ……」
「なんですとォォオォ!?!?!?」
近隣住民の方々、本当に申し訳ありません――そんな言葉が思わず脳裏に浮かぶ状況だった。
「貴方様はルアお嬢様のことを幼児体型……つまり、その清廉な体をつまびらかに見たということに」
「なんでそうなる」
「好きでもない女と寝るフシダラな男!!」
「いい加減にしろ……!!」
「爺や、何やってるんですか、こんなところで?」
手が出かけたところで、背後から声がした。振り向くとそこにはネグリジェワンピース姿のルアとイーファが立っていた。
「お休みのところ、申し訳ございません。この男が異常性癖者でして、取り調べを――」
「おい」
全部、お前の勘違いだろうが――そう叫びたいほどだったが、喉元で抑える。
「こいつは一体何なんだ」
「うちの執事ですよ。私が生まれたときから、本家で私の身の回りのお世話をしてくれているんです」
「それは……素敵ですね」
ふぁぁ、とあくびをしながらイーファが口を挟む。宮廷魔導師になるほどの人間でも、生まれてからずっと付き添ってきた使用人というのは大切なものに見えるらしい。
俺にはそんなことよりも気になることがあった。
「おい、本家がどうたらとか言ってたな」
「ああ! そうでした、ルアお嬢様!!」
爺さんはルアの前に一歩踏み出す。
「家長様がお嬢様を見直して、秘宝の守り人になって欲しいと仰っているのです」
ルアはその言葉を聞いて、直立不動のまま目をきょろきょろさせた。相当、動揺しているらしい。
しかし、その言葉で俺にはもう一つの疑問が生まれた。
「待て、秘宝ってのはルイが持ってたやつじゃねえのか? あれは破壊されたはずだ」
「違うんです、キリルさん。秘宝は一つだけではないんです」
「なんだと……?」
大量殺人兵器レベルの魔道具がまだこの世に幾つもあると聞いて、ぞっとする。元々守り人だったルイが居なくなったことで、本家が焦っているのも理解出来た。
だが。
「ルア、お前行くつもりじゃないだろうな」
「お嬢様、本家は貴方の能力をお認めになりました。どうぞ帰りましょう」
爺さんは俺の言葉に被せるようにルアへ説得の言葉を掛ける。ルアは苦しそうに考え込んでいた。答えを俺とイーファ、そして爺さんまでもが静かに待っていた。否、待つことしか出来なかった。
そして、ルアは小さい唇を動かして、息を吸った。
「私、メルローにある本家に帰ります」
「ルア……!!」
思わず彼女の腕を掴んでしまった。
「お前、もうルイとの約束を忘れちまったのかよ!」
「……」
「なんとか言えよ!!」
彼女は顔を背けたままだった。そして、掴んでいた腕は思ったよりも簡単に振りほどかれてしまった。
「ごめんなさい」
一体誰に謝っているのか、分からないような顔で彼女はそう呟いた。
そして、爺さんと伴だって俺達の前から去っていったのであった。俺にはそれが衝撃的すぎて、しばらくただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「クソッ……」
毒づきながら、目の前の肉をガツガツと食う。
エールでそれを流し込んで、次の皿に手を付ける。まさに暴飲暴食という表現が正しく当てはまる状況だった。
俺とイーファはルアが去った後、最初に訪れた食堂に来ていた。イーファは自分で注文することは無く、俺が注文した肉の切れ端一口分で満足していた。
「お前、それ以上食べないのか?」
「え? ええ……」
いきなり食べる手を止めた俺をイーファは困惑した目で見てきた。
「こういうところ、一人で来たことが無くて……食事は自分で作れますし、あまり食べない方なので……」
「そうか」
俺はまた肉とエールに手を伸ばした。
手を伸ばして、ため息を付いた。
「はあ、訳分かんねえよ」
「……でも、わたし、彼女の気持ちもわかりますよ」
イーファは何処か遠くを見るような目で言った。
「誰かに認められたい、自分を認めたいって気持ちは誰にでもあると思うんです。わたしも花火を楽しんでくれた町の人達を見て、とても嬉しかった。だからこそ、彼女はそっちを選んでしまったんだと思います」
「あァ?」
酔いが回った頭は紳士的な対応を良しとしなかった。ついつい出てしまった悪態にイーファはびくっと体を震わせて反応する。
「あうっ……ご、ごめんなさい……! でも、わたしが言いたいのはそれで良いってことじゃなくて……」
手をわたわたさせながら、否定するイーファ。
「ルアさんは吟味して決断したんじゃないんです。一時の気分の流れで本家に戻った。それでお兄様との約束を果たさないとなると、彼女はきっと後悔すると思います」
「……だろうな」
少しは思考がクリアになったような気がした。やるべきことが見えてきた。
俺はエールの残りを飲み干してから、立ち上がる。イーファもそれに釣られて、席を立った。その顔は俺の次の言葉を心待ちにしているようだった。
「よし、ルアのところに行って、説得するぞ」
「はい……っ!」
待ってましたとばかりにイーファは明るい顔を見せる。
馬車を呼び付けて、行き先を伝える。確か、ルアは去り際に本家がメルローの町にあると言っていた。そう伝えると馬車主は少し不安げな表情を浮かべた。
しかし、エクリ人の容姿の俺がブレイズ語もエクリ語も話せることや宮廷魔導師が居ることに安心したのか、馬車は問題なくアーザスを出発した。
「それにしても」
馬車に揺られてうとうとしていたイーファが俺の言葉ではっと顔を上げる。
酔いの冷めた頭が現実的な問題を想起させていた。
「説得するとは言ったが、どう説得するか何も考えてなかったな」
「あ、それなら、一案ありまして……」
「一案?」
イーファはこくりと頷いた。
「ルアさんは、本家に能力を認められたんですよね?」
俺は首肯する。ルアの目的は自分の能力を認めさせて、本家を見返すこと。その目的が実現されてしまった今だからこそ、彼女はメルローに帰ったのである。
「じゃあ、私達の手でルアさんを無能に見せかければ良いのです!」
「は、はあ……」
筋は通っていたが、それは説得というより作戦のようなものだ。それ以上に驚いたのは思ったより酷いことを言っているということだった。
俺の反応にイーファは不安げな表情を見せる。
「もしかして、ダメでしたか? やっぱり、私の考えることなんて……」
「い、いや、続きを聞かせてくれ」
「続きですか……その、えっとぉ……」
「どうした?」
イーファほどの人間なのだから、もう少し細かい作戦を立てていると思ったが、どうやらそうでもないらしい。俺のアイデア勝負のクセが彼女にも移ったのだろうか。そんな下らないことを考えているうちに彼女は再び口を開いた。
「た、例えば、廊下にバナナの皮を置いてルアさんを転ばせたりとか……ですか?」
「はあ、お前可愛いな」
「か、可愛いっ!?」
らしくもなく、感想が率直に出てしまった。
イーファはといえば両頬を押さえながら、顔を赤くしていた。ややあって、何かを否定するように顔を左右に振り始めた。後頭部のポニーテールも一緒に左右に振れる。
「と、と、と、とにかくっ、どうにかしてルアさんを本家の人たちに無能だと思わせないといけませんっ!」
顔を真赤にしながら、イーファは叫ぶ。だが、その瞬間何かに気づいたようにはっとして顔を上げた。今度は慌てた様子で、肩を尖らせ、また手をわたわたさせる。
「あ、いや、その、別に私がルアさんのことを無能だと言ってるわけじゃないですよ! わたしなんかがルアさんを無能呼ばわりなんて、あ、あ、あ、ありえませんからっ!」
「お前忙しい人間だな」
今度は普段どおりの俺の反応だった。
それを聞いたイーファは動きが固まり、ゆるゆると手を膝の上に置いて、恥ずかしげに俯いてしまった。「ううぅ……」と羞恥に嘆く小さな声が聞こえてくる。
俺は咳払いを一つした。
「何はともあれ、今のところ思いつくのは、本人に直接説得を掛けるか、お前の案くらいだろう。手伝ってくれ、イーファ」
彼女の肩を叩いていう。イーファの体は瘧に罹ったかのように震えた。
「は、はい……わたしに出来ることなら何でも……」
答えは尻すぼみしていたが、もう一度旅のメンツに戻ってもらうということは俺達の間で共通の目的になっていた。
メルローの町に到着したのは、その日の夕暮れ頃だった。移動する馬車の上は日中の朗らかな陽光に当てられて、最高の昼寝環境だった。俺とイーファはいつの間にか寝てしまっていたが、俺は到着の直前に起きていた。イーファが俺のほうにもたれかかって、肩の上に頭を載せていたからだ。
年頃の娘と密着しているというだけで自動的に緊張状態になってしまう。これは何度でもいうが、幼児体型は好みではないのだ。
「イーファ、着いたぞ」
「うぅ……ここは……?」
俺の肩の上に頭を載せたまま、イーファは目をしょぼしょぼさせていた。ややあって、俺にべったりだったことに気づいたのか、白雪のように真っ白な顔が瞬時に真っ赤に染まった。
「ひぁっ!! ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だ」
「よ、寄っかかってしまって、重くなかったですか!?」
「簡単にお姫様抱っこ出来るくらいだからな。軽いものさ」
ぼんっ、と湯気が上がるような感じがした。
「は、はうぅ……その……」
「むしろ、暖かくで心地よかったぞ」
「ううぅ……恥ずかしいよぉ……」
イーファは顔を覆って、座席の上で丸まってしまった。この姿も可愛いが、何かいけないことをしてしまったような気もしていた。
少しからかい過ぎたか、と心の中で反省する。イーファはしばらく馬車の中に籠もっていた。
馬車を降りると風光明媚な景色が広がっていた。二人でその風景を見て、息を呑んだ。
凝った趣向の建物が道に並び、その道は味のある石畳で舗装されている。町の背を支えるようにそびえ立つ山は青々しい木々が彩っている。他の街とは異なり、人が行き交っていないというのもさっぱりした風景を感じさせる要因であった。
ディフェランス家がここに居を構えている名家だというのも納得できるものだった。
「来たは良いものの、日が暮れてきたな。今日は宿に入って、明日から行動開始するか?」
「いえ、今すぐ行きましょう」
イーファはまっすぐ前を見据えて言った。
「暗がりの方が、ルアさんのお宅にお邪魔するには適していると思います」
「結構大胆なこと考えてるんだな……」
呆れつつ、周りを見渡す。
知っている情報はメルローに居るということだけだ。動けるものなら動きたかったが、この町の中をルアが見つかるまで探すのは非効率すぎる。
そう思って暮れる空を眺めていると、静寂の中に足音が聞こえた。
その方を向くと、ルアが路地を曲がっていくのが見えた。
「追うぞ」
「は、はい……!」
「うわっ……」
思わず呆れと驚きが混ざったような声が出た。
目の前にはきらびやかな邸宅が現れていた。薔薇の細工が施された門にはエクリ語の文字でディフェランスと書かれている。まさかここまで分かりやすいとは思わなかった。
イーファもまた驚いた様子で邸宅の中の温かい灯火を見つめていた。
「で、では、入りますか……?」
「そうするか」
ルアを無能だと思わせるには、彼女の近くでことを起こさねばならない。秘宝の守り人としては、秘宝から離れることが難しいはずだからだ。無断で家に侵入するのは少し気が引けたが、これも彼女のためだ。
そう思って、鉄の門に手を掛けたが擦れるような音が鳴るだけでびくともしない。
「動かないぞ、この門……」
「普通の門に見えますが……?」
イーファも小さな手で押してみる。非力な彼女が押しても多少の手応えはあるはずだが、それすらもない。門は不自然なほどに不動を保っていた。
イーファは無駄だと分かったのか、力むのをやめて息をついた。
「これは、おそらく魔術式のロックですね」
「どうにか出来ないのか?」
「えっと、時間さえあれば解錠は出来ます」
「どれくらい掛かる」
イーファは頬に手を当てながら、うーんと唸りだす。
「さ、三時間くらい……ですかね」
「はあ」
門の前で三時間も居座っていたら、不審者としてお縄に付くことになりそうだ。他に入れるところが無いかと、周りを見回していたところ、門の奥の方から人影が現れた。
片手にランタンを持ち、腰には長剣を佩いている。警備兵のようだ。
「おい、そこで何をやっている!」
「マズいぞ、イーファ、ズラがるぞ」
「は、はいっ――って、わわっ!?」
慌てて逃げ出そうとしたイーファの足がもつれて、彼女は両手を上げながら正面に倒れる。彼女が両手をついて、起き上がったときには警備兵は門の前にまで来ていた。
「痛ったぁい……」
「大丈夫か、早く立て!」
「待て、逃げるんじゃない!」
警備兵は逃げようとする俺達を追いかけようと、門に手を翳す。その瞬間かちゃりと何かが解錠されたような音が聞こえた。逃げなければ、警備に捕まる。だが、イーファを置き去りにすることはできない。
葛藤しているうちにも警備兵はこちらに迫ってくる。
荒事は苦手だが、一か八かやってみるしかない!
「おらっ――!!」
未だ剣を抜いてない警備兵の懐に飛び込んで、押し倒す。頭を打った警備兵はそのまま気を失ってしまった。思ったよりあっけない警備だと思った。
イーファが背後から心配そうに覗き込んでくる。
「キリルさん……もしかして……」
「大丈夫だ、殺してない。頭を打ってノビてるだけだ」
「はあっ……」
安心したように吐息を漏らすイーファ。警備兵のほうには何も非がない以上、命まで頂戴するつもりはもちろん最初から無かった。だが、それ以外のものは侵入に役立ちそうだ。
俺は警備兵の装備を手早く外して、衣服も脱がせていく。
「あ、あのぅ、キリルさん……?」
「なんだ」
イーファの声色は何か奇妙なものを近しい人の中に見たというような引きを感じさせた。
「えっと、そういう趣味だったりしますか」
「男色なんて珍しいもんじゃないだろ」
エクリの貴族たちのうちには男色趣味が流行っていた時期があったという。今では、どっこいどっこいらしいが男好きは珍しいものではない。
地面の砂が擦れる音が聞こえた。背後でイーファがもじもじしているのだろう。
「あうっ……こんなときに、破廉恥です……」
「冗談だ」
「えっ」
「変装したほうが侵入者だってバレにくいだろ」
イーファが驚きに固まっているうちに衣服を瞬時に着替え、装備である長剣を佩く。戦いには長けていない文士には少し重量のあるものだったが、気にするほどではない。着終わってから、警備兵の体を見えづらい暗がりの方に移動する。
息をついたところで、奥の方からもうひとりの警備兵が現れた。こちらはさっきの若い警備兵とは違い何処か中年のオッサンのような顔をしていた。どうやら、俺のことを巡回していたさっきの警備兵――つまり、仲間だと思っているらしい。
「おい、門が開いてるじゃないか。何やってるんだ?」
近づいてきた警備兵は俺の横にいるイーファの姿を見て、目を細めた。
「誰だ、そいつ?」
「門の前でしゃがんでたから、不審だと思ってな」
「えっ」
一気に不安そうな表情になるイーファを視線だけで威圧する。彼女は気圧されて、黙ってうつむいてしまった。
新しく現れた警備兵はイーファを舐め回すような視線でじっくりと見て、にんまりと嫌悪感を催す悪い笑みを浮かべた。
「そうか、じゃあ奥の部屋で取り調べするか」
「得体が知れないから二人で行こう」
「良いから、お前は門を締めておけ。取り調べは俺に任せて、お前は当直をやってろ」
中年警備兵は俺の背後の門を指差した。イーファが捨てられた子犬のような目でこちらを見つめている。
大丈夫だ、あんな変態にお前を引き渡しはしない。
「それが困ったことに門が施錠されないんだよ」
「何? それは奇妙だな」
「魔導式のロックに異常でも起きたのかもしれない。ちょっと調べてくれよ」
口からでまかせだ。だが、中年警備兵はまんまとこの嘘を信じ込んで門に近づいていった。無防備に背後を晒したそいつの首元を抜いた剣の柄で殴る。
意識を失った中年警備兵はその場にどさっと倒れ込んだ。
「猿真似でもやってみるもんだな」
首元に一発、気絶して倒れるというのは小説や演劇における暗殺の描写で良く見る。実際に効くとは思わなかった。
倒れた警備兵から視線を離せないまま、イーファは瘧に罹ったように振るえていた。
「大丈夫か、イーファ」
「は、はい、私は大丈夫です……」
「しかし、面倒なことになってきたな」
「最初はルアさんを無能に見せかけるだけだったのに……」
「これじゃ暗殺者の強襲だ」
ため息を付きつつ、今更帰ることなど考えていなかった。
邸宅の方を仰ぎ見る。この調子だと他にも警備兵が居ることだろう。倒れた警備兵を一々暗がりに隠しても、いずれ不自然な状況はバレるに違いない。であれば、早急にルアの居場所を見つけ出すほかない。
「行くぞ、イーファ」
「だ、大丈夫なんですか……わたしたち……」
「荒事は苦手だが、俺がどうにかする。お前は魔法でサポートしてくれ、良いな?」
イーファの表情は不安で満ちていたが、無言で彼女は頷いてくれた。
かくして、邸宅の中に入り込むことが出来た。シックな内装、ふんわりと落ち着いた照明は火によるものではなく魔法でこしらえられたものらしい。ここに居ると自然と気分が緩んでしまう。しかし、いつ何が起こるか分かったものではない今、リラックスしてる場合ではなかった。
慎重に通路を探索していくと一室から話し声が聞こえてきた。背後に続くイーファにハンドサインで止まれと指示して、耳をそばだてる。
「警備が二人やられただと? 侵入者が居るということか」
「はっ、可及的速やかに発見し、捕らえます」
どうやら家長と警備の長が話しているようだ。
「もちろんだ、早くやれ。まったく、ルアを家に戻したというのに、やはり翻訳魔法には関わらせるべきではなかった」
「翻訳魔法の復活など、無理なことですからね……あっ」
「お前は無駄話をしてないで、警備を増強してこい」
「は、はっ、今すぐに!」
警備の長らしき人物が部屋から出てくる。俺達は慌てて、通路の影になっている死角にしゃがんで隠れた。警備の長は俺達の存在には気づかずにそのまま通り過ぎていった。
俺はイーファの方に振り向いて、囁いた。
「聞いたか?」
「え、あ、はい……」
「これは怪しい匂いがしてきたぜ」
顎をさすりながら考える。翻訳魔法の消滅にディフェランス家が関わっていたとすれば、俺達は敵陣に何も考えずに突っ込んでいることになる。バカも同然だった。
「と、とにかく、まずはルアさんを見つけましょう」
「そうだな」
通路に人が居ないことを確認して、俺は立ち上がる。再び探索が始まった。
メイドや執事、家の人間、警備に見つかりそうになりながらもギリギリのところで回避しながら、ルア探しは続いていた。
もっとも役に立ったのはイーファの姿を消す魔法で、持続時間が短いものの発動している間は他の人間から姿を隠すことが出来た。何度か見つかりかけたところをこの魔法で切り抜けたのだ。
疲れで緊張の糸が途切れそうになっていたところ、二階の奥の方の部屋で彼女を発見することが出来た。
彼女は座って机に脱力した様子で両手を投げ出していた。机には幾つか小難しそうな題のついた本が並んでいる。綺麗に加工されたガラス窓から、日が落ちた町に顔を向けてたそがれていた。
「ルア」
先に声を掛けたのは俺だった。ルアはこちらに振り向く。
居るはずもない俺らに驚いて、声も出ないようだった。しかし、ややあって彼女の顔は強ばる。
「警備を気絶させたのは、キリルさんたちだったんですね」
「まあ、不可抗力でな」
「わたし達はルアさんにもう一度考え直して欲しいと思ってきたんです」
「ルイとの約束をふいにすれば、あいつは何をしでかすか分からないぞ」
ルアは俯いて、ただ黙っているだけだった。
ルイとの約束を引き合いに出すのは卑怯にも思えた。確かにルアのために説得しに来たという面はあるが、俺にとってもフラフラただ単に生きているだけよりもルア達と共に翻訳魔法を復活させるための長い旅をしていたほうが生きている意味を感じられた。
だからこそ、ルアには自分たちのもとに帰ってきて欲しい。
「ルア、決断するのはお前だ」
「私は――」
ルアが俺の言葉に答えようとした瞬間、鉄の棒が何本も床から生えてきた。鉄の棒は複雑に絡み合って、俺とイーファを鳥籠のように囲ってしまった。
こんなことは魔法以外ではありえないことだ。背後に振り返る。そこには眼帯を付けた男が一人立っていた。
「お父様……」
「本当は穏便に済ませるはずだったが、こうなるとはな」
ルアの顔はみるみるうちに青ざめていった。
鉄の棒に触れても、鳥籠はびくともしない。男を睨みつけて、俺はドスの利いた声を低く響かせた。
「お前、ルアを翻訳魔法から遠ざけてどうするつもりだ」
「君たちには関係ないことだ」
「関係ないわけあるか! 今まで一緒に旅をしていた仲間なんだぞ」
「そうか」
お父様と呼ばれた眼帯男は俺の言葉に些かの興味もない様子で、部屋から出ていく。
後に残ったのはバツの悪い雰囲気だけだった。
ルアは青ざめた顔で俯き、イーファはこの先どうなるのか不安を懐きながらもなんと声を掛けたら良いのか分からず、俺は疲れで頭が鈍っていた。
鉄の棒でできた壁に寄っかかる形で座り込む。角度的にしたからルアの顔を覗き込む形になる。
彼女は俺の視線を避けるように顔を背けた。
「……ごめんなさい」
ルアがやっとのことで絞り出したような声で、そう呟く。
いつも元気な彼女がこんなふうになっているのを見ると居たたまれない気持ちになってくる。今は彼女を責める気持ちにはなれなかった。
「まあ、お前の気持ちも分かるから良いけどよ」
この際だから、ルアには聞いておいて欲しいことが一つあった。
息を整え、顔を見せてくれないルアをまっすぐ見据えて、先を続ける。
「実は俺、昔は通訳者だったんだ」
ルアとイーファが同時に驚いた様子で顔を上げた。やっと顔を見せてくれた。
「で、でも、キリルさん、前は本商人だって」
「嘘だ。俺は元翻訳者で、翻訳魔法が出回って職を失った」
「なんで……」
ルアは困惑した様子で、視線を巡らせた。
「翻訳魔法が無くなれば、キリルさんの仕事だって戻ってくるかもしれなかったんですよ」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、なんで……なんで、私の旅に協力してくれたんですか……?」
「なんでだろうな」
俺は最初にルアに出会ったときのことを思い出す。彼女はブレイズ語が話せないにも関わらず、エクリからブレイズへと旅をしていた。言葉に無頓着な方今の人らしいやり方だった。
だが、言葉が通じないからといって自分たちと彼らを断絶する人々とはルアは違っていた。通じないながらに挑戦しようとする彼女のパッションに俺はいつの間にか見惚れていたのかもしれない。
だからこそ――
「お前が危なっかしくて見てられなかったから、かもな」
「な、なんですかそれ……」
「そもそもな、ダサいじゃねえか」
「ダサい?」
ルアはきょとんとして首を傾げる。
「翻訳者や通訳者が人の叡智なら、同じ人に作られた翻訳魔法だって人の叡智だ。自分の能力を上回られて、仕事を取られて、文句を言うなんて職人としてダサい」
「キリルさん……」
「それにお前みたいな奴なら、翻訳魔法と通訳者・翻訳者を両立できる何かを考えられるだろうと思ったから」
確証はなかった。彼女のパッションに当てられただけで、ルア自身もそんなことは考えていなかったかも知れない。だが、無意識にそう感じていたことは事実だった。
ルアの横顔は少しずつ色を取り戻していた。つうっと彼女の頬を涙が伝っていった。彼女はイスから立ち上がって、鉄柵を力強く掴んだ。
「……そこまで期待されてるんだったら、やってみせますよ!」
涙を流しながら、ルアは叫んで宣言する。
「翻訳魔法だって、翻訳者だって、通訳者だって、なんだって私の手でどうにかしてみせます!」
「ルアさん……!」
イーファが胸の前で手を組んで、華やかな表情を見せる。
もう彼女に迷いは無かった。
どうにかしてこの鉄の檻を壊す方法は無いか、俺達三人は試行錯誤を繰り返していた。
掴んで揺すっても、タックルしても鳥籠は相変わらず歪む様子もない。イーファが熱を与える魔法や衝撃を加える魔法を試してみたが、これも効果なし。ルアはその間、再びイスに座り、何かを考え込んでいた。
「ルア、なんか良いアイデアでも出たか?」
侵入したときの疲れも相まって、俺は満身創痍という感じだった。イーファもこの状況で出来ることを全部試して、疲れ切ってしまっていた。魔法を使う際に消費するMPの減少は、すなわち精神力に直結している。魔法を使えば使うほど精神的に疲れてしまうのだ。
ヘタっている俺達の前で考え続けていたルアは何か思いついたようで「よし」と呟いてイスから立ち上がった。
親子だから何か分かるだろうと俺達は期待していたが、始まったのは鉄柵への全力タックルだった。
「うおりゃぁ!」
ガシャン! 鉄の棒はルアの三回目のタックルで歪んだ。
一体どういうことだろう。内側から力を加えたときはびくともしなかったというのに。
「ああ、そういえばそうでしたね……」
「なんだ?」
分かった様子のイーファに掛けた疑問はルア自身がその身で答えてくれていた。
「内側からだと力を加えても壊しづらい構造なんですよ、この檻っ!」
数回のタックルで、檻には人一人が通れるくらいの歪みが出来た。全力タックルを繰り返したルアは俺達が檻を脱出できたのを確認すると長く息をはいた。そして、膝に手をついて肩で息をする。
「大丈夫か、ルア?」
「だいじょう……ぶです……」
「あ、ありがとうございます」
イーファはおずおずとお礼を言って、ぺこりと腰を折った。
そんなとき、部屋の中へと入ってくる複数の人影が見えた。その先頭には先程の眼帯男、後ろに警備兵を連れている。
「さすがはルアだ。私の牢獄魔法を破壊するなんて、力が有り余っているようだ」
「さて、聞かせてもらおうか。ルアをここに閉じ込めておく本当の理由を」
眼帯男はため息をついて、続けた。
「あれほどの魔術的知の集合体である翻訳魔法の消滅の裏に何があったのか、君たちは知らないだろう」
「誰もしらないからこそ、旅の中でそれを知ろうと――」
「ああ、そうだろう。だが、私はこれを大きな陰謀だと考えている」
眼帯男はルアの言葉に被せるようにいう。彼女の表情がまた固くなった。
俺は翻訳魔法が作られた経緯を思い出していた。各国の魔術の重鎮が集まって作られた翻訳魔法は、当時の魔法技術の最高傑作だと言われた。そんな翻訳魔法を誰にでも使えるように整備した高位魔術師達は大衆から大いに評価され、英雄視された。
その翻訳魔法がいきなり使えなくなり、高位魔導師達も原因を解明できていないという現状に陰謀を感じるのも無理はなかった。
眼帯男は腕を組んで、ルアに視線を向ける。その眼差しは優しい親のものであった。
「ルア、私が大いなる陰謀に没頭する愛娘を気にしないとでも思っているのかね」
「しかし、お父様、それは――」
「心配なのだよ、君のことが。ルイが居なくなってこれ以上無い良い時機だった」
「私の話を聞いてください!」
ルアは机を叩いて、立ち上がった。そして、眼帯男に迫る。
俺とイーファはそんな彼女の背中を静かに、しかし応援の眼差しで見つめた。
「私は元々家出人です。それでも心配してくれる親に生意気なことをいう資格はない。でも、私を追って大量虐殺をしようとしたルイお兄様と約束をしました。お互いに為すべきことを成してから、家族として相まみえましょうと。それにもう一人じゃないんです。キリルさんとイーファさんという素敵な仲間がいる。一人は元翻訳者で、もう一人は宮廷魔術師です。素人じゃない。仲間と一緒に旅をしてきたんです。その中で目的以上に大事な絆を育んできたんです」
眼帯男は口を半開きにしながら、ルアの言葉を聞いていた。言葉の意味は理解出来ていても、受け入れるのが難しいときの顔だった。
「だから、行かせてください。翻訳魔法を復活させて、必ずここに戻ってきてみせます。私はあなたの娘ですから!」
ルアの声はいつもの元気なものに戻っていた。
眼帯男はその声に唸りながら、しばらく考えていた。ルアは答えが出るのをゆっくりと待った。
彼は大きなため息をついて、それから言った。
「ルアらしい答えだ」
「ま、私ですから」
「良いだろう。家出したときも私にはルアを止められなかった。君の溌剌さには完敗だ」
ルアはこちらを振り返って、ニッコリと笑顔を見せる。イーファはこくこく頷いてそれに答えた。
「再出発の準備をしよう。馬車と荷物を用意させるよ」
そういって、眼帯男は部屋を去っていく。ルアは脱力して、その場にへたり込んだ。
「おつかれさん」
俺は彼女の肩をたたいて、廊下に出る。新鮮な空気が吸いたかった。
背後でイーファとルアがキャッキャと何やら騒いでいた。再び旅を続けられる。最初は面倒だと思っていたことが、今では完全に捨てきれない物となっていた。
人は変わるものだ。廊下の端でぼやける魔法灯を見ながら、俺はそう思った。
「あのぅ、これいつまで歩くんですー?」
ルアがイライラしてそうな声色で不平をいう。茶色の道が俺達三人の前に延々と続いていた。道は周囲から少し盛り上がった場所にあった。雨季に近くの川でも氾濫するのだろう。そのために整備したと見える。
出発したは良いものの、翻訳魔法に関わる手掛かりを見つけられていない俺達は途中までディフェランス家長の用意してくれた馬車で隣町に向けて走っていた。
しかし、馬車は途中でぬかるみに足を取られて動けなくなり、馭者がこれ以上は勘弁してくださいと泣き顔で懇願してきたので、あとの道は歩きでいいとつい言ってしまったのであった。
ただ歩くのは俺の専売特許だったが、元気の有り余っているルアには退屈だったようで事あるごとにぶーぶー不満をぶちまけていた。
「はあ、退屈なら歌でも歌ってろよ」
「良いんですか、私、幼い頃はメルローの教会の聖歌団やってたんですよ」
「家出娘が清楚の皮を被ったこと言ってら」
「何か言いました?」
けっ、といってルアの追求をかわす。彼女もそれ以上気にせず、何やら歌らしきものを歌い始めた。
歌らしきものと言ったのは、それが大分酷いものだったからだ。音程は外す、歌詞は抜ける、リズム感もグダグダで、聞いててイライラしてくるものだった。
「お前、本当に聖歌団に居たのか?」
「え、そうですけど……」
「そこのシスター、歌下手だったんだな」
ルアはよく意味が分からないという様子できょとんとしてから、また歌を歌い始めた。今度はエクリの民であれば誰もが知っているような、よく聞く民謡だ。ルアの音痴ぶりはここに来て、はっきりした。
最初は聞き流していたが、段々と神経が苛立ってきた。
「おい、黙れ」
「えっ」
「下手な歌を歌うな。神経に障る」
「酷っ!?」
「お前、絶対自己紹介するときに聖歌団に居たとかいうなよ。後悔することになるからな」
「ほんっとうに酷いですね!? ていうか、歌でも歌えって言ったのキリルさんじゃないですかぁ!」
「下手な歌を歌えとは言ってない」
ぷんすか怒り出すルアを横目に背後についてきているイーファの様子を確認した。彼女は道中で摘んだ可愛らしい花を手のひらに収めて、それを愛でながら俺達二人について来ていた。どうやら俺達の話は聞いていないらしい。
俺は首を回して、彼女の方を向く。
「おい、イーファ」
「は、はい?」
自分の世界に没頭していたのか、イーファはいきなり呼ばれてびっくりした様子で答える。
「お前、歌は得意か?」
「う、歌ですか……?」
「こいつの歌が下手すぎて困ってたところだ」
「きーりーるーさーんー、そろそろ擦るのやめてくれますぅ?」
腕を組んでルアが抗議してくる。イーファはしばらく何かに迷っているような顔をしていたが、ややあって、人差し指を立ててそれを振り始めた。
それに同調するように空中に様々な色の光が散ってゆく。光が散るたびに木琴を叩いたような音が鳴った。それが連なって、旋律を作り上げていく。俺とルアはその光と音の絡み合いにしばらく目を奪われていた。
「歌は苦手だけど、これくらいなら出来るかな……」
「凄いじゃないですか! どうやってるんですか、それ!?」
ルアがイーファに抱きつかんが如くの勢いで迫る。イーファは少し困った顔になる。
「えーっと、説明すると長いんですけど……」
「教えて下さいよぉ、私も一端の魔術師ですから出来るかもしれません」
「お前、魔術師と言っても治癒師じゃねえか」
「錬金術師クラスじゃないから少しくらい詠唱魔法も使えるんですぅーべーっだ!」
舌を出して煽ってくるルア。いずれにせよ魔法を使う素質が無い俺にとっては関係のない話だった。
イーファは頭の中を整理できたのか、頬に手を当てながら順序立てて説明を始めた。専門的な内容は理解出来なかったが、彼女自身は分かっている口ぶりだった。
しかし、話が進むにつれてルアの表情は家の中でカナブンでも踏み潰した時のような顔になっていった。これは見ていて面白い。
「……というわけで、シュルディー分布のうち、先の式のx2、xプライムの魔導係数がインスピダール値を超えることによって起こるのが先程の魔法の原理的な説明となります。えっと、わかりましたか?」
「わ、分からんです……」
「困りましたね、これでも初等魔法学だけで分かるように解説したつもりなんですが……」
「とにかく簡単そうに見えて凄い魔法なんだってことはわかりました、はあ」
ルアは残念そうに大きなため息をつく。傍から静かに見ていったが、良い気付きだと思った。
専門家は簡単にこなしているように見えて、それを簡単に出来るようになるのに時間と苦労を消費して相当の訓練をしている。翻訳者もそうだ。一人の翻訳者が生まれるのには、彼の一生分の努力が必要になる。過去に「飛竜母艦」を「飛行トカゲ運搬用の船」と訳した翻訳者が居たが、そういうことである。
まともな翻訳は一人の人生を消費して得るものだった。本来は。
「キリルさん?」
現に戻ってくる。イーファが心配そうな表情で俺の顔を覗き込むように見ていた。
「なんだ」
「いや、難しい顔をして黙り込んでたので気になって……」
「なんでもない」
「お手洗いにでも行きたくなったんですかぁ? ここでするなら開放感ありそうですね。新しい趣味に目覚めそう!」
ルアがニマニマしながら、悪い冗談をいう。
『新しい趣味を? ルアー、冗談はそこまでにせにゃ。つまらないかもだ。腐った卵になるので?』
「え? 今のってなんて言ったんですか?」
「なんでもない」
「ブレイズ語ですよね、イーファさん分かります!?」
「いや……」
イーファも良く分からないといった顔になる。そりゃそうだ。先の言葉はブレイズ語ではない。伝説の誤訳者ナッチ・トーダーの言語だ。誰もわからないかもだぜ。こいつはコトだ!
そんなことを言っていると、ドタドタと地面の揺れる音が聞こえてきた。地響きは確実に自分たちの方へと近づいてきている。
イーファは不安そうな顔で、周りを見回す。
「何でしょう、この音……?」
「なんだあれ……」
振り返った俺の目に見えたのは大量の騎士だった。馬を駆って土埃を上げながら、こちらに疾走してくる。あっけにとられているうちに彼我の距離は縮まっていた。
轢かれる寸前でルアとイーファを掴んで道の脇に転がり込んだ。地面にぶつかって、そして一瞬意識が途切れる。意識を取り戻すと、何か柔らかいものが顔の上に乗っかっていた。しかも、体の上に伸し掛かられているようだ。
「いてて……」
「おい、退いてくれないか」
「ひゃあっ!?」
イーファは悲鳴を上げて、俺の上から離れた。小さなお尻がやっと頭の上から退き、重圧から解放される。彼女は赤面しつつ、「ごめんなさい」と連呼しながら何回も腰を曲げている。
ルアはそれを見つつ、ニヤニヤし始めた。
「良いんですよ。男の人にとって尻に敷かれるというのはご褒美で――」
「お前は馬に轢かれたほうが良かったようだな」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「しかし、一体何だったんだ」
離れていく騎士たちの背中を見る。あれだけ多くの騎士が国境に向けて疾走していくのは珍しいことだった。
「あれは多分エクリの貴族評議会付き連合騎士隊ですね」
「分かるのか?」
ルアは頷く。
「ディフェランス家からもお家に付いている騎士を連合騎士隊に送っているんです。旗持ちが居るので、間違いないはずです」
「しかし、何故そんなのが動いてるんだ?」
「分かりませんけど……何か並々ならない事態が起こっているということだけは確実ですね」
遠くに去っていく騎士たち。俺達は道の先を不安とともに見つめるのであった。
ついでのことだから、道の端でしばらく休憩をとっていた。ルアもイーファもくたびれてしまって、すぐには動けない様子だったからだ。俺は腰につけていた革袋の水筒を開けて、一口飲んだ。ルアが物欲しそうな顔でこちらを見ている。
「やらんぞ」
「一口だけでも……」
「出てくる前に準備しなかったお前が悪い」
「あー! もしかしてキリルさん、間接キスになるのが恥ずかしいんですかぁ?」
飲み込んだはずの水を吹いた。
ルアは得意げな顔で先を続ける。
「良いじゃないですか、間接キスくらい! 一緒に寝た仲でしょぉ?」
「い、一緒に寝た!? キリルさんとルアさんって、既にそういう関係だったんだ……」
イーファは頬に手を当て、顔を赤くしながら言った。完全に勘違いしている。
「紛らわしいことをいうんじゃねえよ」
「なーにが、紛らわしいんですかぁ?」
「ふん」
「――ごふっ」
投げつけた水の革袋がルアの腹にクリーンヒットした。彼女はお腹を抱えながら、数秒間ぷるぷると震えていた。
再び出発しようと思い、ふと立ち上がったところで先のと同じような地響きが聞こえてきた。音のする方に目を向けると、騎士たちがまた馬に乗って疾走していた。しかし、先程よりも規模が小さい。どうやら出遅れ組のようだった。
それを視界に入れたルアは何か思いついたのか、ぽんと手を叩いた。
「そうだ、良いことを思いつきました」
「おい!」
言ったそばから道に飛び出すルアの背中に叫ぶ。道に出た彼女は仁王立ちで両手を大きく振った。疾風のような速さで迫る馬の迫力に彼女は全く怖じけなかった。誰かが「そこを退け!」と言った。騎士だろうか。被っているヘルムのせいで口元が見えず、誰が言ったのかは分からなかった。
「止まってくださーい♪」
ルアは朗らかな顔で、甘い声を出した。騎士たちの先頭の馬が横につけて止まる。後続もそれに従って徐々に速度を落として、止まった。
先頭の騎士がヘルムを開けて、ルアをキッと睨みつけた。
「クソッ! こっちは急いでるんだぞ、冒険者崩れに構ってる暇はない!」
「本隊はもう行っちゃったから急いでるんでしょう?」
「そ、それはそうだが」
「私達もこの先にいくんですよ。何が起こってるのか知りたいんです」
「エクリとブレイズの国境で戦争が勃発しそうなんだ。分かったら、そこを退け!」
騎士は焦りで余裕のない様子だった。俺とイーファはお互いの顔を見合わせた。
エクリとブレイズが戦争寸前? そんな話は聞いたことがない――二人の顔は何も言わなくても、それを表していた。
「もし良かったら、連れて行ってくれませんか?」
「おい、ルア……!」
俺は土手のようになっている道の上に登り、ルアを困惑する騎士の前から引き離して二人で背を向ける。イーファも慌てて、俺の後を付いてきた。
「わざわざ荒事に関わる必要はない」
「そうですよ、せんそうですよ。怖いじゃないですか」
イーファの「戦争」の言い方は口足らずの子供のようなものだった。それで、この二人が本当の「戦争」を知らないことが分かる。一人は小競り合いの喧嘩だと思っている、もう一人は暴走する自然のようなものだと思っている。どっちもこの世界における「戦争」の本当の姿からはかけ離れている。
二人に責められたルアはそれでも引こうとはしなかった。
「翻訳魔法に関わりのあることかもしれませんよ」
「そんな上手くことが運ぶわけがないだろ」
「でも、まだ戦争は起こってないんですよ。見に行くだけ見て、危なそうだったら離れる。それで良いじゃないですか」
「しかし、なあ――」
背後で馬のゆっくりとした足音と甲冑の擦れるような音がした。振り返ると騎士が迫ってきていた。その表情は先程までの焦りではなく、治安を守る誇り高き尖兵のそれだった。
「そこを退け、お前らを戦場にまで連れて行きたくはない」
「野営地にはブレイズ語が分かる人が居るんですか?」
「は?」
ルアのいきなりの質問の意味を騎士はすぐに取ることが出来なかった。
「ブレイズ語が分からなかったら尋問も交渉も出来ない。何のために戦争しているのか分からなくなるじゃないですか。殺すために戦ってるんですか、あなたたちは?」
「うっ……じゃあ、そっちはブレイズ語が分かる人間が居るというのか?」
「二人ほどは居ますけどぉ。元翻訳者と」
「翻訳者だと?」
驚くのも無理はない。このご時世に翻訳者という職業の者は本当に少ないからだ。粗悪な通訳者だけが増える理由は、コミュニケーション能力さえあればどうにでも誤訳をごまかせるからだ。翻訳者はそういったごまかしが効かない。翻訳の間違いは記録になって残り、無能の烙印を押すことは容易だ。
だからこそ、翻訳魔法が生まれたときに真っ先に切り捨てられたのは翻訳者だった。翻訳魔法が無くなった今、翻訳者を自称する者はきっと自己の能力に自信のある誇り高い専門家に違いない。
だが、そんな人間に俺は一回も会ったことが無かった。
「騎士様が戦場まで連れて行きたくないというのであればー」
ルアはそーっとこちらに目を向ける。俺とイーファを交渉材料に使うつもりのようだ。先頭の騎士の後ろから部下の兵らしき甲冑男が彼の横に出てきて馬を止めた。
「翻訳者ならブレイズ人との交渉に使えるやも知れません」
「しかし、民草を戦場に連れて行くなんて聞いたこともない」
「一度戦争が起これば、交渉など出来なくなりますぞ。ご決断を」
「ううむ……」
騎士は唸った。
「分かった。野営地まで案内する。あとは騎士隊長に会ってどうするか決めろ。いいな?」
「はあい!」
ルアの明るい返事に騎士は大きなため息をついた。
後は完全に流れに飲み込まれてしまった。俺達三人は騎士たちの後ろに載せてもらい、騎士たちは野営地を目指して馬を爆走させた。目にも留まらぬ速さで景色が移り変わるのを見るのは新鮮なものだった。
目的地の野営地に到着すると、ルアはフラフラしながら奇妙な鳴き声を上げていた。どうやら馬で酔ったらしい。直立することも出来ないらしく、そのまま何処かに行きそうな勢いだった。
「うぇ……っ」
「馬車で酔わないで、馬では酔うのか。珍しいな」
「速すぎんですよ、馬が……ぅえっ……」
イーファが肩を支えながら、やっとのことで歩いていたが顔色がとても悪い。彼女はもう片方の手で、馬から降りた騎士の一人を捕まえた。
「あの、彼女を休ませることが出来る場所って……」
「野営地だから、泉か何かがあったはずだ。ほら、そっちの方に」
騎士の指すほうには清い水が溜まっている池があった。行ってみると透明度が高くてそこまで透き通って見えた。
ゲール川でもここまで綺麗な水場ではなかったので、俺はしばらく魅入られるように見つめてしまっていた。
「あの泉の水は戦傷を癒やすと言われている。その娘もしばらくここで休んでいくと良い」
「ありがとう……ございます……ぅぇ……」
ルアは泉の脇の木の幹に腰掛ける。これは俺達に聞かずに勝手にことを進めた報いかもしれない。そうは思ったが、さすがに可哀想なので言うのは止めておいた。
騎士たちの案内で、俺とイーファは騎士隊長の居るという営舎に連れられた。騎士隊長は甲冑を着ていない俺達を見て、怪訝そうな顔をした。
「何なんだ、こいつらは?」
「はっ、どうやら翻訳者の連中らしいのですが」
「ほう」
騎士隊長は俺の顔を興味深そうに見上げた。
「なんか流れで、来ちまったが戦争が起こりそうなんだってな」
「そうだ、これも全部翻訳魔法が消えたせいで……」
俺とイーファはまた顔を見合わせた。ルアの読みは当たっていたのだ。
「詳しく話を聞かせてくれ」
騎士隊長は腕を組んで、重々しく頷いた。
「話は数日前に遡る」
騎士隊長は思い出すようにして言った。
「翻訳魔法が無くなってから、ブレイズとエクリの間ではまともな会議が開けなくなったんだ。最初はブレイズの騎士が国境で訓練を始め、辺境伯が不審に思って騎士を視察に行かせた。それ以降、お互いに警戒して兵士を国境に集め続けている」
「それはヤバそうだな」
「うむ、このままだとなにかの拍子で衝突しかねない。だからといって、騎士が国境を越えれば攻撃だと勘違いされかねない。我々も手をこまねいているんだ」
難しい顔をした騎士隊長の前で、俺は過去を想起していた。
魔王討伐戦争――あのときもこうだった。
「少し考えさせてくれ」
そういって俺は騎士隊長に背を向けて、営舎の中から出た。相当暗い顔をしていたのだろう。いきなりその場を去った俺の背後に騎士たちは声を掛けられなかった。
一足遅れてイーファが俺の後に続く。話しかけづらそうな顔で、俺の様子を見たあと、彼女は言った。
『どうかしたんですか?』
いきなりのブレイズ語だった。会話を聞かれないように周りを憚ってのことだろうか。そんな優しさがすさんだ心をそっと撫でたような気がした。
『過去を思い出してな』
返礼のようにブレイズ語で返すと、イーファは困ったような顔になって数秒言葉を探した。瞳がやっぱりそうだったと告げていた。
『数年前のことだ。魔王討伐戦争という戦争があったのは知ってるな?』
『え、ええ、人類を支配しようとした魔族とその支配を退けようとした人間の戦いでしたよね?』
『そう言われているな』
イーファの答えは俺にとっては教科書的にしか聞こえなかった。彼女に罪はない。巷では人間が悪に勝利した偉大な勇士達による戦争だったと喧伝されているから、そう答えるのは当然だった。
『だが、そう簡単な話じゃなかった。もともと魔族が支配しようとしたのは全人類ではなく、領地の人類だけだった。それが幾重にも誤解されて、人間の敵である魔族という像が生まれた』
『それは……』
『魔族達は誇り高い種族だ。引くに引けなくなって、人間たちの像を引き受けてしまった。まやかしが現実になってしまったんだ。人間たちは魔族を悪と決めつけた。それで、戦争の中で魔族側も、人間側も必要のない犠牲を払うことになった』
イーファは完全に黙りこくってしまった。衝撃だったことだろう。現実は市井に流れる噂ほど単純ではないということだ。
『魔族の言語を翻訳し、通訳した。通じ合えるなら戦争なんてしなくてもいいと訴えた。だが、止められなかった。しかも、魔王を殺したのは俺だった』
『で、でも、魔王を討伐したのは勇者じゃ』
『表面上はな。だが、俺は魔王討伐戦争で魔王を倒す方法を古文書から翻訳したんだ。勇者をそれを鵜呑みにして、実行しただけだ。結局は俺がとどめを刺したんだ』
言っているうちに辛くなってきた。過去の自分の無能さをひけらかして、年端も行かない小娘に慈悲の言葉をもらおうとしている。そんな気がしたからだ。そんなことで許されることではない。膨大な罪過の前で自分を守ろうとする「本能的なもの」に吐き気がしてきた。
あのとき、本当に無駄な殺し合いを止めたかったのであれば、魔王軍に下るなり、新しい勢力を作るなり、何でも出来た。結局、今も昔も自分が可愛かっただけなんじゃないか。
ウェーアレスでアネッサに会ったとき、彼女は俺の過去を言おうとしていた。彼女にとって俺は「魔王討伐戦争の真のヒーロー」だった。それが世間の中に埋もれて、評価もされず消えていこうとしているのが残念に思えたのだろう。
だが、違うのだ。翻訳魔法が生まれようが、生まれまいが、いずれにせよ俺は翻訳者を辞めていた。虐殺の片棒を背負った罪によって。
言い切って、辛くなって、吐き気がして、自然に自分に問いかけていた。
では、今ここで逃げるのか? 止められるかもしれないチャンスをみすみす逃して、再び悲劇の舞台裏を演じるのか? 自分は高みの見物で傷つかないでおいて、「あの時こうしておけば」と回顧して自分を慰め続けるのか?
いや、それは贅沢すぎる。
イーファは顔を伏せて、バツが悪そうにしていた。
『感情を繋げる人間の力……』
『……?』
『俺の師匠が言っていた言葉だ。翻訳も通訳も感情を繋げる人間の力だってな』
『その……素敵な言葉だと思います』
『俺もだ』
また会話が途切れた。
イーファも困っていることだろうと思って、彼女の顔に視線を向けた。しかし、彼女の顔は何か決意したような顔になっていた。
『キリルさんらしくありません』
『何だと?』
『キリルさんはもっとこう……ぱっとやるべきことをやって、問題をぱぱっと解決して、そういう人だと思います』
『そう……だったか?』
自分の身の振り方を他人から聞くことなどあまり無かったから新鮮だった。単純な慰めでも失望の言葉でもない、彼女なりに掛けるべきと思った言葉だったのだろうか。
『今、感情を繋げる人間の力を持っているのは私達だけなんです。だから、止めに行きましょう。この戦争を』
『ああ』
イーファの決心に満ちた笑顔に強い肯定の言葉を返す。もとからそのつもりだったが、イーファの激励が心の底に響いた。
今度こそ止めてやる。全身が熱くなる感覚があった。決意が体を燃やしているようだった。
騎士隊長にブレイズに渡ることを伝えて、馬を借りた。護衛に数人の騎士を連れて行けと言われたが、もしものことを考えてこれは断った。
そもそもブレイズ人であるイーファを連れているのである。むやみに攻撃はしないだろうと踏んだ。
泉まで戻って、ルアの様子を見に行った。ある程度顔色は改善していたが、彼女は馬を引き連れた俺たちをうんざりした目で見上げた。
「えぇ? もう馬には乗りたくないんですけど……」
「しょうがないな。調子の悪いやつを連れて行くわけにも行かないし、お前はここで待ってろ」
「はあい……」
ルアはぐったりと木の幹にもたれた。俺は野営地の出口に向けて踵を返す。イーファはルアに憐れんだ目で見てから、付いてきたのであった。
俺は国境のほうを睨んで、馬に乗った。数年ぶりの騎乗だが、体は振り子の遊具を遊ぶときのように覚えていた。
「イーファ、いくぞ」
「は、はい……」
俺の手を掴んで、イーファは後ろに座った。背中にしがみつく彼女はいつにも増して、可愛らしく見える。
しばらく馬を飛ばしていると、ブレイズ人の騎士と兵士が集まっている別の野営地が見つかった。ルアの言うとおり、旗持ちが居るためどちらに所属しているのかはひと目で分かる。
予想していなかった馬の接近、それを駆る男――俺の容姿がエクリ人らしかったためか、兵士たちはざわつき始める。しかし、背後に居たイーファの顔を見て、彼らは安心というより困惑の顔立ちを見せた。
見分を命じられたのか、一人の兵士がこちらに駆け寄ってきた。
『おい、止まれ! 何者だ!』
『通訳者だ! エクリの騎士隊長の命でこちらに来た』
『通訳が何のようだ!』
『エクリ側に攻撃の意図はない。交渉の上で、お互いに徐々に撤兵をしよう』
兵士は怪訝そうな顔をしながら、戻っていった。話し合いをしているらしい。しばらくすると、またこちらに向かって走ってきた。
『いきなりそんなことを言われても信じられん、証拠を見せろ』
『俺の後ろに乗っているのは宮廷魔導師イーファ・レヴィナだぞ』
『なっ……宮廷魔導師が関わっているのか!?』
『そうだ、エクリの野営地まで案内するから、使者を出せ』
兵士たちはまだ俺たちのことを信用しきっている様子ではなかったが、ややあって数十名が馬に乗って、こちらに近づいてきた。使者とその護衛らしい。
イーファが背後から覗き込むように顔を出した。
「少し多すぎでは……?」
「まあ、いきなり来て『交渉しろ』という奴が怪しまれないわけがないからな」
『おい、交渉に乗ってやる。案内しろ!』
強気の騎士を先頭に、兵士と他の騎士が集まってきていた。俺は肩をすくめつつ、その前を馬2頭分ほど開けて進んでいく。
しばらくすると、エクリの方の野営地が見えてくる。数多くの軍勢はエクリの騎士を刺激したのか、警戒態勢を取らせた。一触即発の状況は彼らが俺を視認したことで多少は和らいだ。
ここから実際の交渉が始まる。お互いが誤解していたことを理解すれば、緊張状態もほぐれるはずだ。
そのはずだった。
風を切るような音が聞こえた。
その瞬間、エクリの騎士隊長の胸に細い木の棒が突き刺さる。同時にやってきたのは耐えきれないほどの静寂だった。
騎士隊長は自分の胸をそっと確認する。大量の血が、手のひらにベッタリと付いていた。
「なんじゃあこりゃああ!?」
「クソッ、騙された!」
「寝返ったな!?」
エクリの騎士、兵士たちは一斉に武器を抜いた。
「なっ――!?」
「待て! 弓兵など我々は連れてきていない!!」
強気だったブレイズ側の使者は焦りながら、叫ぶ。しかし、信頼は既に決壊していた。
馬を疾走させ、その場を離脱する。両者は俺には構わず、既に戦闘を始めていた。血しぶきが地面を染め、お互い何人もの兵士が倒れていく。
「どうしてこんなことに……?」
背後でイーファが悲しげに小さく呟いた。
ブレイズの使者が言ったとおり、護衛に弓兵は居なかった。それなのにエクリの騎士隊長は矢を撃たれて斃れた。
騎士や兵士は基本的に高度な魔法は使えないはずだ。風属性魔法であるエアアローのように空気の矢を撃ち出すような初級魔法は使えるかも知れないが、それなら矢が胸に突き刺さっていたことを説明できない。
完全に謎だった。一体誰が、何のために矢を騎士隊長に撃ったのか。
農民や市民、冒険者が面白半分で撃ったとはとてもじゃないが考えられない。なぜなら、戦争が始まると騎士や兵士は道中の村や町で物資を巻き上げ、強奪しながら戦うからだ。
騎士や兵士を雇う貴族は戦功に従って土地を渡すのであって、戦闘にまつわる補給は完全に当人任せなのである。だから、戦闘が起こるたびに道中の治安は悪化の一途をたどる。面白半分で撃った矢がそれを引き起こすことを、一般住民が予測できないはずもない。
では、一体誰が?
疑問とともに馬を止める。何処かにくくりつけておく余裕など無い。馬から降りるのに難儀しているイーファに両手を広げて飛び降りろと示す。彼女は逡巡の後に意を決して馬から身を投げた。彼女の軽い体を抱き止めてから、木陰に隠れた。
兵士たちに見つからないようにルアの居る泉まで行くのは現状では難しい。しばらく様子を見ることにした。
イーファもまじまじと目の前で起こっている戦闘を見ていた。俺は彼女の視線を遮るようにして、彼女の顔の前に手を出した。
「見るな」
「何故ですか……?」
「慣れるからだ」
イーファは不思議そうな顔をしていた。その言葉の意味を説明する意欲は沸かなかった。人が殺されている前で何もしないでただ見ていることに慣れれば最後、俺のような虐殺の片棒を背負うことになる。彼女にはそうなってほしくはなかったのだ。
新たな静寂が訪れた。地面には血が染み込んで黒くなっているところがあり、大量の兵士が斃れていた。
顎に何か生暖かいものを感じた。手を触れると血が流れていた。いつの間にか唇を切れるほどに噛み締めていたらしい。悔しい。止められたのに誰かに邪魔をされた。今回も無駄な犠牲を生んだ。
「キリルさん、唇が……」
イーファが心配そうに見上げてきた。はっとする。今は感傷に浸っている場合じゃない。袖で拭って、前を向いた。
「大丈夫だ」
イーファは答えなかった。否、答えられなかったのだろう。
その瞬間、がさっと茂みの方から音がした。出てきたのは軽装の若い兵士だった。まだ幼さが残る顔で俺たちを見た瞬間、怯えていた。
彼我の距離はそれ以上縮まらなかった。お互いに見つけた瞬間、足が棒のようになってしまったからだ。
色々な思考が頭の中を巡った。
このたぐいの若い兵士が担当しているのは伝令だ。彼を見逃せば、エクリに戻ってこのことを伝えて、戦争に発展することだろう。そして、俺とイーファ、ルアは裏切って騙し討ちをさせた者として伝えられることになる。
果たして、どうしたものか。説明したとしても理解してもらえるとは思えなかった。無為に時間が流れていた。
「――ぐぁっ!?」
若い兵士がいきなり悲鳴を上げた。そのまま彼はうつ伏せに地面に倒れた。背中の布地に血が滲んでいた。後ろから刺されたのだ。
倒れた兵士から視線を上げると、そこには血に濡れた刃物を持った老人が立っていた。目蓋に縦の傷が入ったスカーフェイス、白髪は整えられており、灰色のフォーマルな服装は落ち着いた印象を感じさせる。
そして、何よりも驚いたことは、彼が俺の知っている人物であったことだった。老人は落ち着いた笑みを顔に浮かべながら、こちらを見た。
「キリル君、久しぶりだねぇ」
俺の翻訳者としての師匠――アルト・フサールは何事もなかったかのようにそう言った。イーファは状況がよく分かっていない様子で、口をつぐんでいた。
一方、俺は混乱していた。別の意味で状況への理解が追いついていなかった。
「師匠、何故こんなことを……?」
「何故かあ、不躾な質問だなあ」
「おい、騎士や兵士たちに同士討ちさせた挙げ句、俺たちまで殺すつもりか」
「まさか、君は人類の資産だ。僕は君を助けたかったんだよ」
「人の命を奪ってまでか! 他にも方法はあったはずだろ!!」
俺の追求をアルトは無視した。俺に背を向けて、その場を去ろうとする。自然に体がその背中を追いかけた。
「おい、待て……!」
「そういえば」
アルトは振り向かずに呟いた。
「ルア君は大丈夫なのかな?」
アルトは去っていく。俺はそれ以上動けなかった。彼の姿は森の中へと消えていき、また新しい静寂が戻ってきた。
俺は拳を握りながら、イーファの方に振り返った。
「泉に行くぞ」
泉に着くと、ルアが木の幹に背中を預けているのが見つかった。慌てて近づくと、彼女は完全に脱力した様子でよだれを垂らしながら呑気に寝ていたのであった。
「おい、ルア」
「ふぇっ、ありぇ? キリルさん、もう終わったんですか?」
「まあ、色んな意味でな」
「……何かあったんですか?」
疑問を呈するルアに事の経緯を説明する。言葉が通じ合わないことで誤解し、戦争が起こりかけていたこと。俺の過去。ブレイズ人を野営地にまで連れてきたとき、矢が騎士隊長の胸に何処からか撃たれたこと。そして、アルトが生き残りを始末したこと。
アルトが出てきたところで、自分もやっと理解した。師匠は少なくとも俺やその仲間に危害を与えるつもりはなかった。ただ、俺に理由を聞かれたくはなかった。
大きなため息が自然に口から漏れ出した。
「してやられた……」
「キリルさんはあのご老人のことを『師匠』と呼んでましたね。どういう関係なんですか?」
イーファが不思議そうに聞いてきた。師匠の話は確かにあまりしたことがない。
「あの人はアルト・フサールって言うんだ。俺が翻訳者になろうとして師事した師匠で、ブレイズ語とエクリ語とアイゲントリヒ語が話せる」
「じゃあ、『感情を繋げる人間の力』っていうのも……」
「そうだ、あの人が言っていた言葉だ」
だからこそ、不思議だった。何故、そんなことを言う人間が戦争のきっかけになるようなことをする?
この野営地で隠れられるところは少ない。先に来ていなければ、見えないところから矢を撃ったり、気づかれずに生き残った兵士を始末するなんてことは難しい。とするならば、全ては計画されたことになる。
「キリルさん、そのおじいさんを追いかけましょう」
「何?」
ルアは至って真面目な顔で続けた。
「翻訳魔法が無くなり、戦争が勃発しかけ、そこに翻訳者を育てた師匠が居た。これはもう翻訳魔法に関わっていると言わず、なんというんですか」
「それはそうだが……」
手掛かりがない。アルトにルアの安否を言われてから、彼を追いかけることは実質不可能だった。今分かるのはアルトが森の奥へと消えていったという事実だけだ。
言いよどんでいると、イーファが胸の前で手を組んで呟いた。
「そういえば、アルトとフサールも不思議な名前ですね」
「確かにそうです、エクリでも聞いたことが無い名前ですねえ……」
二人が不思議に思うのも無理はない。
エクリテュールとブレイズはそれぞれアマ・サペーレ大陸の中央部と西部にあり、陸続きである。このため、エクリ語とブレイズ語の名前はお互いに同一とは言えないが、よく似たものになっている。例えば、イーファはエクリ人の名前になるとエーヴァになる。
「師匠はアイゲントリッヒ人なんだ」
イーファとルアは納得した顔になる。
エクリテュールの東方に山脈を隔てて存在するアイゲントリッヒ帝国は他の二国とは文化的に大きく違う国である。名前も独特のものが多いために、こちらでは不思議な名前だと思われやすい。
「じゃあ、アイゲントリッヒに行けばいいじゃないですか?」
「手掛かりもなくか」
「まあ、今までだって明確な手掛かり無く旅してたじゃないですか」
確かにそうだった。始めからこの旅は明確な手掛かり無く、憶測と希望で町を回っていた。
「分かった、俺もなんだか嫌な予感がするからな」
「嫌な予感ですか?」
「ああ」
俺は短くそれだけで答えた。
アルト・フサールは魔王討伐戦争のあと、俺の前から消えた。嫌な予感はきっとそこから湧いて出たものだろう。もう一度会いたい。
何故あんなことをしたのか。何故失踪していたのか。その理由は本人以外知るところではないと思った。
「行こう、アイゲントリッヒへ」
イーファとルアは首肯する。頭の中には過去の優しく、正しかった師匠の姿がちらついていた。