町を囲む壁が見えてきた。その入口付近にはブレイズの言葉で「ウェーアレス」と書かれていた。この町の名前なのだろう。
アマ・サペーレ大陸は西からブレイズ王国、エクリテュール貴族評議会、アイゲントリッヒ帝国がそれぞれ統治をしていて、俺達はその西のブレイズ王国の東端――エクリチュール貴族評議会との国境に面する町に居ることになる。
俺は荷物を肩から下ろして、町の空気をしばらく観察していた。
淀んだ空気は悪いことが起きる予兆だ。新しく町を訪れるときはいつもこうして空気を確認するのが習慣だった。そして、少しでも悪い空気を感じ取ったときはそこを去るようにしていた。
そんな厳粛な儀式をしていると、隣からきゅるるとひもじそうな音が聞こえた。
なぜか放浪の旅に付いてきているオレンジ髪の治癒師の少女――ルアのお腹からだった。
彼女は特に恥じる様子もなく、お腹に手を当てた。
「あー、もう歩きすぎてお腹すきましたよっ! どこかで腹ごしらえでもしませんか?」
「なんでお前と腹ごしらえしなきゃいけないんだ」
「まあまあ、良いじゃないですか。ほらっ、あそこの酒場とか景気良さそうじゃないですか?」
「はあ……」
確かにルアの指差す方には、酒場らしき建物があった。
古風な造りで人の出入りも多い。悪いところではなさそうだった。
「行くぞ」
「ああっ、待ってくださいよお!」
いきなり動きだした俺の背中を追いかけるルア。
俺は木製のスウィングドアを開けて、酒場へと入っていった。特有の熱気と人の匂いが鼻腔を刺激した。
中を見渡す。テーブルに陣取っている連中は冒険者の風貌した者たちがやはり多い。彼らはギルドなどからの依頼を受けて、モンスターの討伐や危険な配送を任されたりすることで生計を立てている。
地方の、そしてしがない町の見慣れた光景だった。
『いらっしゃい! 二人なら、カウンターの方でお願いしますね』
入ってきた俺達の前にディアンドル姿の少女が挨拶をする。両手に料理を持ちながら、忙しげな様子だ。
カウンターに座ると、真横にルアが肩を寄せて座ってきた。髪が触れるほどの距離、ふわりと甘い香りがしたところで俺は思わず身を引いた。
「……もうちょっと離れろよ」
「いや、なんか冒険者だらけで怖いじゃないですか。最近は凶暴なヤツもいて、暴力沙汰も絶えないだとか聞きますよ」
「冒険者なんて昔からそんなもんだろ」
「だから怖いんですよ」
腕を組みながら語るルアを横目に俺はカウンターに居た店員を捕まえて適当に注文する。
蒸かしたじゃがいもと卵、そしてエール。どこででも注文でき、しかも空きっ腹を満たすには十分、そして何よりも経済的だ。今日も完璧な昼食だった。
「お前は何を注文するんだ?」
「そうですねえ、同じもので良いですよ」
「分かった」
ルアの分はエールを、適当なジュースにして注文する。
出てきたものを頬張りながら、背後に聞き耳を立てる。こういったところには金になりそうな話が時折転がっているからだ。
しかし、そんな聞き耳に入ってくるのは隣席の治癒師少女の文句だった。
「しっかし、質素なもの食べてますねえ。ダイエットでもしてるんですか?」
「文句があるなら、自分で追加注文するんだな」
ルアはむっとした表情になる。彼女はブレイズ語を話せないため、注文が出来ないのだ。
「まあ良いですよ。キリルさんくらいだと、これくらいしか奢れなさそうですし」
「ちょっと待て? いつ俺が奢るなんて言った?」
「いやあ、丁度持ち合わせがなくて困ってたんですよぉ」
人当たりの良い笑顔になるルアを前にして俺は絶句していた。
放浪生活の中で掛かる費用は最低限に留めている。ゆえに二人分の食費など払えるはずもない。ただでさえ味が単純で淡白な料理の味も漂白されていくようだった。頭の中はすでに無銭飲食をどう切り抜けるかで一杯になっている。
そんなとき、背後でがたんと大きな音が鳴った。
思わず振り返ると、俺達が入ってきた入り口に一人の女性が立っていた。何のことはない。文官のようで、そこまで凝っていない服装からしてギルドの受付嬢と言ったところだろう。顔は逆光で見えなかった。体つきはボン・キュッ・ボンで好みの範囲内、だがこういう女は既に冒険者の誰かと付き合っているものなのだ。
放浪者にワンチャンは無いと冷静に考えて、食事に戻る。どうせ、ギルドからの命で冒険者を呼び出しに来たとかそういうところだろう。
だが、周囲の空気は異様だった。ウェイターも店員も、そしてルアまでもが見たこともない美貌に見惚れたような顔で彼女のことを見つめていた。俺の背後に刺さる怪訝そうな視線は「なんで見惚れないんだ」という疑念が込められているように感じた。
――なんなんだ?
疑問に思うと、足音が背後から近づいてきた。
「私の美しさに見惚れないなんて、大した男じゃない」
妖艶な声が背後から掛けられる。冒険者たちから向けられる視線は「怪訝さ」から「嫉妬」に変わったように感じた。また、面倒事が増えたと気づくと自然にため息が出てきた。
隣のルアははっとして、彼女の方に振り向いた。
「キリルさんが目を惹かれるわけが無いじゃないですか! この人、私のことが大好きなんですから!!」
「いきなり何言ってるんだ、お前?」
「だって、じゃないと付いてきても良いなんて言わないでしょ!」
「俺は洗濯板より梨のほうが好きだ」
「はぁ? 私はこの通り少しはありますけどぉ!?」
ルアはまた無い胸を張ってみせた。公衆の面前でこんな話をするなんて、と思うとまたため息が出てきた。
そんなバカバカしい会話の最中、妖艶な声の主はすっかり黙ってしまっていた。不思議に思って、振り返るとそこには驚いた様子の女性が立っていた。事務職っぽい服装はそのプロポーションを押し付けてはちきれそうになっている。
だが、そんなことは問題ではない。見覚えのある緑のショートヘア、エクリ人であることを表す栗色の瞳、そして銀の髪飾り。俺は彼女のことを知っていた。
「アネッサ?」
「誰かと思ったら、キリルじゃない!」
ルアは勢い良く首を振って、二人のことを見ていた。どうやら状況が飲み込めていないらしい。
「お二人は……知り合いなんですか……?」
「知り合いというか――」
「腐れ縁だよ」
受付嬢――アネッサが答える前に俺が答えてしまった。