早朝の薄明を落ち着いた気持ちで見ていた。そこには面白さも何もないが、ただ緩みきった心地よさだけが残っている。
俺が座る横ではイーファとルアがすやすやと可愛らしく寝ている。ルアはペールトーンな赤色の、イーファは透き通った青色のネグリジェワンピースを着ている。早朝の黎明がそのシースルーの胸元を照らし出す。幼児体型に欲情しない俺でも何か危険なものを感じてゆっくりと目を逸らした。
完全に疲れ切ってしまったルアのことを鑑みて、俺達はアーザスの宿で一泊することになった。
ルアはすぐにでもこの町を出て、少しでも旅路を進めたいと言っていたが、イーファが大図書館で資料収集をする間だけはこの町に残っていたいと言ってきたため、ルアは不承不承ながらもこの町に居ることを認めてくれた。
それ以上に彼女がふらついていたのが気になっていた。
ルイとの戦闘でルアは相当な無理をしていた。それが祟って体調を壊されてしまっては、とてもじゃないが困る。
「ふへぇ……もうたべられないですぅ……」
ルアは幸せそうな顔で寝言を漏らす。俺がこれだけ心配したというのにこの寝言である。少し憤りを感じるが、彼女はこれくらいくだらない人間で居てくれたほうが俺には安心できる。ルアが秘宝に取り憑かれていた間、こっちまで神経が立ってしょうがなかった。
一体夢の中で何を食べているのだろうか。想像は膨らむばかりだ。
「んにゅ……ほんでいっぱいでしわわせぇ……」
こっちの寝言はイーファだ。あの後、大図書館に一人で残って翻訳魔法に関する資料を集めていたらしい。ルアは自分がやらねば意味がないと一緒に残ると言い張ったが、イーファになだめすかされて宿に収まってくれた。彼女が居なかったらルイに俺は消されていただけではなく、大量虐殺が行われていただろう。そう思うと背筋が寒くなる。
本人はそこまで重大なことだと考えていなかったのかもしれない。現に夢の中でも現実でも本に囲まれるのが幸せらしいのだから、その場所を守り汚されないために動いただけとも言える。
そんな良く分からない考えを巡らせることが出来るのは、薄明の魔力なのだと感じた。
そんなとき、戸を叩く音がした。緩みきった体に力が入る。リラックスで得られていた癒やしが中断されて、我に返る。
宿の主人だろうか? それとも隣の部屋の人間か? 立ち上がって、ドアに近づくとまた戸が叩かれた。
「ごめんくださいませ、こちらにルアお嬢さ――ルア・ディフェランス様はいらっしゃいますでしょうか……?」
「エクリ人だと……?」
エクリ語で話しているから、エクリ人だと判断するのは早計だがルアのことを知っている口ぶりからそっちの人間である可能性のほうが高かった。
声は初老の男、小声で周りに配慮した話し方は彼が少なくとも粗暴な冒険者ではないことを示していた。
戸を開けて、人物を確認する。
痩せ気味の爺さんだった。よく仕立てられた給仕服をぴっちりと着ており、その表面にはホコリ一つ付いていない。立ち姿すら気品を感じさせるような人間がこんな辺鄙な宿に居ることに俺は数秒言葉を失う。
相手方も予想していたのとは違うのが出てきて、目をパチパチさせる。
俺達はお互い驚き、言葉を失い、数秒のあいだ、次の言葉を探した。傍から見たらさぞシュールだったことだろう。
「あの……」
最初に切り出したのは爺さんの方だった。
「こちらにルア・ディフェランスという方はいらっしゃいませんでしょうか……?」
「ルアなら俺の後ろのベッドで寝てるが」
「ね、寝てるですって……!」
事実を言ったつもりが、爺さんは目を見開いて驚く。そして、俺の服の襟を掴んで揺さぶり始めた。
「ワタクシはお嬢様を無傷で連れてこいと本家に命じられてきたのですぞ!! それが着いたときには傷物になっていたなんて……ワタクシはどう報告すれば良いのです!!」
「おい、騒ぐなよ。気持ちよく寝てたところなんだぞ」
「なんですとォ!!」
事実を言っているだけなのに、爺さんのテンションは更に高まっていく。力こそ弱いが、襟を掴まれて前後に振られるのは不愉快極まりなかった。
爺さんの胸元を突き飛ばすと、簡単に拘束は解けた。
「何か勘違いしてないか、ジジイ」
「勘違い……でございますか?」
突き飛ばされて冷静になったのか、爺さんは目を丸くしてこちらを見た。
しかし、その後が続けられない。さっきまでぼやぼやしてたからか、言葉が上手く出てこない。ただ事実をそのまま描写するだけになっていた。
「そうだ、俺はボン・キュッ・ボンが好きであって、幼児体型に欲情する男じゃ……」
「なんですとォォオォ!?!?!?」
近隣住民の方々、本当に申し訳ありません――そんな言葉が思わず脳裏に浮かぶ状況だった。
「貴方様はルアお嬢様のことを幼児体型……つまり、その清廉な体をつまびらかに見たということに」
「なんでそうなる」
「好きでもない女と寝るフシダラな男!!」
「いい加減にしろ……!!」
「爺や、何やってるんですか、こんなところで?」
手が出かけたところで、背後から声がした。振り向くとそこにはネグリジェワンピース姿のルアとイーファが立っていた。
「お休みのところ、申し訳ございません。この男が異常性癖者でして、取り調べを――」
「おい」
全部、お前の勘違いだろうが――そう叫びたいほどだったが、喉元で抑える。
「こいつは一体何なんだ」
「うちの執事ですよ。私が生まれたときから、本家で私の身の回りのお世話をしてくれているんです」
「それは……素敵ですね」
ふぁぁ、とあくびをしながらイーファが口を挟む。宮廷魔導師になるほどの人間でも、生まれてからずっと付き添ってきた使用人というのは大切なものに見えるらしい。
俺にはそんなことよりも気になることがあった。
「おい、本家がどうたらとか言ってたな」
「ああ! そうでした、ルアお嬢様!!」
爺さんはルアの前に一歩踏み出す。
「家長様がお嬢様を見直して、秘宝の守り人になって欲しいと仰っているのです」
ルアはその言葉を聞いて、直立不動のまま目をきょろきょろさせた。相当、動揺しているらしい。
しかし、その言葉で俺にはもう一つの疑問が生まれた。
「待て、秘宝ってのはルイが持ってたやつじゃねえのか? あれは破壊されたはずだ」
「違うんです、キリルさん。秘宝は一つだけではないんです」
「なんだと……?」
大量殺人兵器レベルの魔道具がまだこの世に幾つもあると聞いて、ぞっとする。元々守り人だったルイが居なくなったことで、本家が焦っているのも理解出来た。
だが。
「ルア、お前行くつもりじゃないだろうな」
「お嬢様、本家は貴方の能力をお認めになりました。どうぞ帰りましょう」
爺さんは俺の言葉に被せるようにルアへ説得の言葉を掛ける。ルアは苦しそうに考え込んでいた。答えを俺とイーファ、そして爺さんまでもが静かに待っていた。否、待つことしか出来なかった。
そして、ルアは小さい唇を動かして、息を吸った。
「私、メルローにある本家に帰ります」
「ルア……!!」
思わず彼女の腕を掴んでしまった。
「お前、もうルイとの約束を忘れちまったのかよ!」
「……」
「なんとか言えよ!!」
彼女は顔を背けたままだった。そして、掴んでいた腕は思ったよりも簡単に振りほどかれてしまった。
「ごめんなさい」
一体誰に謝っているのか、分からないような顔で彼女はそう呟いた。
そして、爺さんと伴だって俺達の前から去っていったのであった。俺にはそれが衝撃的すぎて、しばらくただ立ち尽くすことしか出来なかった。