壁の一面にびっしりと詰められた本。開いているスペースには所狭しと本棚が置かれており、その中にも数え切れないほどの本が詰められていた。
 大図書館の閲覧室に俺達は来ていた。

「こんなところで本当に大武道会なんかやるのか?」
「誰かのいたずらかもしれませんね」

 イーファが本棚の端を懐かしげに撫でながら、そう呟く。しかし、ルアはといえばそうは思っていない様子だった。

「ただの悪戯だったら、ここまで大規模な騒ぎにはならないはずです」
「そりゃそうかもしれないが、こんな狭苦しい場所で武道会なんて出来ないだろ」

 周りを見渡す。
 本棚とびっしり詰められた本、お世辞にも広々とした空間とはいえない。そのうえ、貴重な本さえありそうなこの図書館の中で戦闘を繰り広げるなど、贅沢にも程があった。
 しかし、いくら疑うようなことを言ってもルアの姿勢が換わることはなかった。

「しかし、ここからどう調べていきましょうか……」

 イーファが思案顔になる。ルアも歩き回りたくてうずうずしているようだったが、あてもなく調べても答えが出ないのは明白だった。

「とりあえず、図書館の人間に聞いてみたらどうだ」
「では早速司書さんを捕まえて――」

 頷いて続けたルアの言葉がそこで途切れた。イーファと俺は不思議に思って、彼女の視線に目をやる。
 本棚の間、その何もない空間を彼女はじっくりと見つめていた。

「どうした?」
「いえ、兄が居たような気がして……」

 ルアは何かに取り憑かれたかのように本棚の間に早足で向かってゆく。俺はそれを追いかけるほかなかった。本棚の間を抜けて向こう側の通行路に出る。そこで彼女は必死に首を振って誰かを探していた。
 そして、また。

「あっちです」
「おい、ルア……!」

 兄、とやらを追っているのだろうが何か悪い予感がしていた。イーファも同じことを思っているらしく、無言ながらも気味の悪いものを見ているかのような視線をルアの背に向けていた。
 通行路を突き当たりまで行って左折、壁沿いに進んでいってルアはいきなり立ち止まった。

「今度はどっちだ?」

 俺は呆れ気味の口調で尋ねる。ルアの方はそれが快く聞こえなかったのか、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。

「私の兄が居たんです。ここを曲がって……」
「間違いないのか?」
「家族のことははっきりと覚えてます。確かに兄でした」

 しかし周りには全く人の気配が感じられなかった。静かな図書館ならどんなに小さくても響くであろう足音でさえも聞こえなかった。本を引き抜く音も、人の静かな呼吸の音も聞き逃すはずのない静寂。
 それなのにルアはそこに人が居たのだという。それは疑わざるを得ないことだった。

「何かの見間違えじゃないのか?」
「そんなことは……!」
「はっきりしないことに時間を使ってる余裕は無いと思うがな」

 背後で何かが決壊したような音が聞こえた。横目に見ると、ぞろぞろと冒険者達が図書館の中に入ってきていた。イーファは連中の迫力に怯えたのか、ほぼ無意識の動作で俺の上着を掴んだ。

「で、でも、秘宝を持ち出せるのは守り主である兄で……」
「とりあえず、こっちに来い」

 ルアとイーファを引っ張って、冒険者たちの死角になっている本棚の間へと連れて行く。オレンジと青の目立つ髪色の髪が双眸の脇で揺れた。
 冒険者たちは図書館員たちに止められて、フラストレーションが溜まっているはずだ。そんな状態で居るのが珍しいエクリ人である俺とルアが見つかったりすれば、秘宝の国出身の人間として根掘り葉掘り尋問されることだろう。そうなれば、生半可な嘘や話術では切り抜けられない状況になる。
 俺はルアに顔を詰める。それも息が掛かる程の距離で。
 彼女は一瞬それに怯えて仰け反った。

「おい、確かに見たのか」
「え、あ、はい……」
「じゃあ、どっち行ったか分かるか?」
「ごめんなさい、あそこから見失ってしまって」

 ルアはバツが悪そうに俯いた。
 俺はその肩を横から叩く。元気のない姿は彼女のらしくない。

「イーファ、なにか方法は無いか」
「ひゃぃ!? ほ、方法ででしゅか……?」

 静かに様子を眺めていたイーファはいきなり名前を呼ばれたせいで、驚いて舌を噛んだようだった。片手で口を押さえながら、彼女は何かを検索するように考え込んでいたが、ややあってお手上げとばかりにため息をついた。

「位置に係る魔法はあまり専門ではなくて……」
「ダメか、じゃあ別の方法を――」
「ごめんなさい、私ってやっぱりダメな魔導師で、ううううう……」

 悲壮感たっぷりに自虐し始めるイーファ。
 焦りとともにイラつきが増していく。そのせいで思わず声が大きくなった。

「おい、しっかりしろ! 今は時間がないんだぞ!!」
「ひっ……!」

 いきなりの大声に驚いたイーファは本能的な動作で後退りした。その先には本棚があって、勢いよくそれにぶつかる。
 その瞬間、本棚の遥か上から物が落ちてきて、ルアの額にクリーンヒットした。

「ぁまびぇっ」
「どんな断末魔だよ……」

 どうやらイーファがぶつかった本棚から、落ちてきた本らしい。ルアは額を押さえながら、ガクガク震えていた。あの高さから落ちてきたのだ。相当痛かっただろう。
 床に落ちた本は見開きを見せていた。そこに書かれているのは魔法陣と古代語らしき読めない言語。イーファは後頭部を押さえながら、何かに魅入られるようにそれをじっと見つめていた。
 頭を打っておかしくなってしまったのか? しばらく無言で本を直視する彼女が末恐ろしくなり、つい声を掛けてしまった。

「イーファ? 大丈――」
「そうか、そうすれば……」

 イーファは腰につけていたポケットの一つを開いて、中からチョークを取り出した。そして、いきなり床にぺたんと座って、何かを書き出し始めた。
 やっと痛みが引いたのか、ルアが顔を上げる。そうするやいなや、イーファの突然の行動を怪訝そうに眺めた。

「な、何なんですか……?」
「位置に関わる魔法は術者本人への現象の処理を中心とした負荷の高いもので、専門性が強いものなんです。だから、私には正確に再現できる自身がありません。ですが、術者中心の現象の処理を生力反応で分散的にシミュレートできれば、私にもある程度の再現性を実現できるはずなんです」
「つまり……どういうことなんだ……」

 さっぱり分からないことを言われて、頭の中が混乱する。
 イーファはそんな俺に返答せずに黙々と地面に魔法陣を書いていった。俺には魔法は分からないが、素人が見様見真似で書いたものとは違うことだけは分かる。

「勝手にこんな魔法陣を書いていいのか?」
「まあ、今は緊急時ですし」

 確かに。
 いきり立った冒険者達が秘宝を手にすれば、何をしでかすか分からない。容易に大量虐殺を起こせるような魔道具なのだ。人は身の丈を越えた力を持つとおかしくなるもので、悪い結果になるのは目に見えていた。
 魔法陣を書き終わったのかイーファは手を止めて、再確認して聞き手を魔法陣の中心に置いた。

「我が精霊に命じる、人を追いなさい」

 イーファの命令と共に魔法陣は光りだす。イーファは目をつむって何かを読み上げている。入ってくる情報を目蓋の裏で読んでいるようだった。
 ややあって、彼女は目を見開いた。俺の方を見て、そして言う。

「確かにあの場所には人がいました」
「今はどこにいる?」
「閲覧室の一番奥に続く部屋――第三閲覧室です」

 三人の視線が回覧室の奥へと向かう。そこには古めかしい扉があり、異様な雰囲気を醸し出していた。

「いくぞ」

 早足で歩き出す俺の背を座っていたイーファが慌てて追おうとする。ルアもあせあせと俺の後を追うのであった。