翻訳者は最高の仕事だ。この世に存在する翻訳者以外のあらゆる仕事を除けば。
道をヘトヘトになって歩く俺――キリル・バルトはそんな言葉が脳内にふと現れたのに苦々しく口元を緩めた。
それは確か、最後に一緒に働いた仕事仲間の言葉だったような気がする。
彼は俺の元から去るときにそういったのだ。同じ学院で「言葉」を学んだ学友でもあった彼は通訳の仕事を失って、俺の事務所を去っていった。
荒涼とした大地がただ広がっていた。そのうちに一本の乾燥した薄茶の道が続いている。俺はただただその上を辿って、歩いていた。
俺のような通訳者や翻訳者は翻訳魔法の出現とともに用無しとなってしまった。人々は一々金も掛からず、自動で素早く翻訳を行う翻訳魔法を次々と採用して、俺達の居場所は一瞬にして無くなってしまったのだった。
人々が失職した通訳者や翻訳者を受け入れたのかといえば、そんなことは無かった。昔から通訳者や翻訳者に向けられる目というものは厳しく、冷たいものだった。
ただ、風のうわさで訊いたところによると、どういうわけか数ヶ月前に翻訳魔法は突如使えなくなったらしい。宮廷魔術師やら貴族のお抱え魔術師が原因を探ったものの、明確な原因は未だ分かっていない。
おかげさまで、世の中には自分の母語すらまともに扱えない自称「通訳者」がのさばり、地獄のような様相を見せていた。
そんな状況になっていても、俺は翻訳者に戻るつもりはなかった。
「どーいうことなんですかぁっ!」
甲高い抗議の声がいきなり聞こえた。
視線を地面から、道なりに伸ばしていくとそこには一つの屋台があった。そこに居る少女が発したものらしい。
髪は元気そうなオレンジ色で、長さはセミロング。先がくるっと外側にカールしていた。ポンチョに、膝上丈のフリルミニスカートを合わせている。足はダイヤの模様のついた黒タイツに包まれていた。全体的に明るい色調は彼女の髪色に合っていて、可愛らしい。
動きづらそうな服装と装備から見て、魔術師の中でも治癒を専門とする治癒師というところだろうか。魔術には詳しくないが、それくらいは分かる。
目の色はエクリテュール貴族評議会の領土に住むエクリ人らしい栗色だった。エクリ語を話しているあたり、エクリ人で間違いないだろう。ここはブレイズ王国という別の国なのだが。
彼女に相対しているのは屋台の主なのだろう。頭にバンダナを巻いた男だった。こっちは目の色が灰色でブレイズ人のようだった。
この二人はなにやら揉めているらしい。遠目から見て分かるのはそれくらいのことだった。
――面倒に巻き込まれるのはごめんだ。
率直な感想だった。こういう浮浪者のような生活をしている以上、変な関係性を持つのはときに仇となる。
無視して、横を通り過ぎれば良い。そう思って、目を合わせないように気をつけながら、道を歩いていった。
しかし。
「ちょっと、そこの人……! エクリの人ですよね!? 助けてくれませんか……?」
栗色の純粋な濁りのない瞳が助けを求めてこちらを見つめていた。それを無視して行くのも、心が痛む。だから、つい答えてしまった。
「助けるって、どうしたんだ?」
「この人がなんか良く分からないことを言ってて、困ってるんですよ!」
少女は目の前にいる屋台の主を指差して、そう言った。
近づいてみるとよく分かる。屋台はどうやら消耗品の魔道具やポーションの店だったらしい。
俺は脳をブレイズ語のモードに切り替えて、その店主に話しかけた。
『すまない。彼女が何か困ってるようだが』
『おおっ! あんた、エクリ人なのにブレイズ語が話せるのか!』
『ま、色々あって必要でな』
少し間は開いていたが、問題なく聞き取れる。
自然な受け答えに安心したのか、店主は頭をぽりぽりと掻きながら先を続けた。
『こっちこそ困ってるんだよ。そこの娘にお代は要らねえって言ってやってるのに良く分からないが怒り出したみたいでさ』
『はあ』
『あんた良いところに来たよ。その娘にそう言ってくれねえか?』
『わかった』
短く答えて、少女の方に向き直った。
彼女はというと上級魔法でもみたかのような表情で俺のことを見ていた。
「だそうだ、お代は要らねえってよ」
「えっ……そうだったんですか……。てっきり、ぼったくるためにもっと出せって言っているのかと思って……」
少女は申し訳無さそうにしゅんとした表情になる。ややあって、彼女は店主に頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
『うわっ、良いよ良いよ。国境の商売だから、言葉が通じないのも織り込み済みだからさ』
店主は頭を下げる少女にニコニコと答える。一件落着といったところか。
問題が解決したのを見届けて、俺は荷物を持ち直した。
「じゃあ、俺はもう行くからな」
「あ、ちょっと待って下さい!」
少女が歩き出した俺の横に付いてきた。オレンジ色の髪の先が楽しそうに振れる。
彼女の目は好奇心に満ちて、輝いていた。
「もしかして、通訳者さんですか……!?」
「そんな大層なもんじゃねえよ。ちょっとこの辺りの言葉に詳しいだけだ」
実際俺は、「通訳者」ではない。元翻訳者だ。
通訳と翻訳は混同されやすいが別の技術だ。翻訳ができるからといって、上手く通訳が出来るわけではない。逆も然りだ。
少女は何故か俺の回答に安心したような表情を見せた。
「それならよかったです! 実は私、翻訳魔法を復活させる旅をしているんです」
「翻訳魔法を復活させる旅? でも、あれは宮廷魔導師やらが頑張っても直せなかったんだろ?」
「ええ、だから旅をしながら手掛かりを探しているんですよ」
少女は自慢げに無い胸を張った。
「あなたがもし通訳者さんだったら、仕事を奪うことになりますからね。もうしわけないなーと思って……」
少女は探るような視線でこちらを見てきた。
魔導師の中でも選ばれたものしかなれない宮廷魔導師の失敗に健気に立ち向かっていくその姿勢は興味深かったが、俺にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
「そうか、じゃあ頑張ってくれよな。じゃ」
「ちょちょちょっとっ、置いていかないでぇっ!!」
少女を置いていこうとすると、慌てて俺の袖にすがりついてきた。
「次の町まででいいですから、一緒について来てもらえませんかっ!」
「なんでだよ、面倒せえ……」
「ほら、異国への旅は初めてで心配なんですよ……」
「はあ、しょうがねえなあ。町につくまでだぞ」
口ではいくらでも言えるが、涙目で袖にすがりつく少女を無理やり引き離すなんてことは出来なかった。
「じゃあ、決まりですね! 私はルア・ディフェランスっていいます」
「キリルだ」
「よろしくお願いしますね、キリルさん! えへへ……」
ニヤついた笑みを浮かべる少女――ルアに俺はしてやられたと思いながらも道を急ぐのであった。