「待ってください。
今日はそれで真澄さんにお願いがあって。」
「お願い? 僕に? 廊下の蛍光灯?」
脚立を肩にかけて
蛍光灯を1本引っ張り出した。
「違います。
ちょっと異臭が気になって。」
「そんなの管理会社に連絡すれば?」
極めて事務的に、冷たくあしらう。
住人同士のトラブルなんて僕は御免こうむる。
しかし住人同士が勝手にケンカして、
警察沙汰にでもなったらもっと困るのは僕だ。
「管理会社で対応できるかどうか…。
404号室の。」
「404? 606号でしょ、千秋さん。」
隣接する部屋ならまだしも、
2階も離れた遠くの部屋だ。
「例えばベランダにゴミ袋があふれてたら、
上から見れば分かりますよね。」
「その具体的な例え話は必要?
そんなクレームいれられても、
忠告の手紙を出すぐらいしかできないよ。」
捨て忘れたゴミ袋を、ベランダに放置するのは
なにも珍しくはない。
発酵の進む夏場ならともかく、
冬であればなおさら気にしないだろう。
管理人になってからというのも、
住人の生活までムダに考えてしまい
眠れなくなることもある。
「あの人、お仕事なにしてるんですか?」
「さぁ。てか個人情報だから、
知ってても教えられないよ。」
毎月の家賃がつつがなく振り込まれていれば、
きっと無職ではないのだろう。
「山木世。27歳、独身。自営業。」
「え? なに? なにしてんの?」
「教えていただけないので、
私が勝手に調べてるんです。」
「どうやって?」
千秋さんとしばらく目を合わせたが、
彼女は無言のままパソコンに視線を戻した。
「なんか言って。」
「えぇ…彼は不正出金事件の被疑者ですから。」
「…被疑者?」
「はい。2ヶ月ほど前からですが、
国民年金が未払いだった人間の口座から
勝手に引き落とされていたんです。」
「…そうなんだ。彼が犯人?」
僕は彼女との会話より、集合ポスト上の
蛍光灯を取り替える作業を優先した。
「この事件の発覚で、
該当するプログラミングを担当していた
レオナールの加賀さんがまず疑われました。
かれは1ヶ月ほど失踪しましたが先月、
身柄が確保されたみたいです。
でも容疑を否認して、当のお金も行方知れず。
加賀さんが依頼していた下請け会社や
フリーのプログラマーらを、私のいた会社、
アスタロトが調査している最中です。」
「調べてるの…?
それじゃ、異臭っていうのは…。」
「えぇ、比喩表現です。」
事件のニオイ、という比喩よりもただのウソだ。
「いいの?
そんな重要そうな話を僕に喋っても。
守秘義務とか。」
「えぇ。会社はさっき辞めましたから。」
「は? それもなにかの比喩?」
…家賃は?
管理人になってまだ日も浅いが、
一番重要なことが脳裏をよぎる。
「ここのWi-Fiルーターから履歴を掘って、
真澄さんの打ったソースコードを見ました。」
「え…?」
僕は血の気が引くのを感じた。
千秋はなおも恍惚と語る。
「真澄さんのコードはどれも癖がなくて、
基本に忠実でいて美しくって
学校で見た時、私、一目惚れしたんです。」
「そう…? 学校?
いや、履歴の…なにを見たの…。」
「真澄さんは自らのソースを
ネット上に公開してたんですね。」
「…それ、普通だよ。」
逆に自らプログラミングしたコードを、
ネットに上げていないプログラマーなど
いまでは希少といえる。
「それをフリーランスの山木さんや、
下請けの方たちが利用して納品したので、
担当だった加賀さんが真っ先に疑われました。
やっぱり不正出金事件は――。」
彼女の推理通り、不正出金事件の実行犯は僕だ。
マンション相続の問題があり、
会社の安月給ではまかなえきれず、
加賀の責任になるようにコードを忍ばせた。
僕は無言のままうなずいた。
「ほとんど無作為にも思えるモジュールを、
プログラマーが各コードから拾い集めることで
ひとつのプログラムとして完成させるなんて、
突飛過ぎてこんなの誰にもマネできません。」
「加賀の欲しがる仕様は、
散々電話で聞かされてたからね。
コードをあげれば誰かコピペするでしょ。
古くてスパゲッティコードに陥りやすい
COBOLなら、それが可能だと思った。」
撒いた種が芽を出さずに終わると思っていたが、
執拗な加賀の電話は僕にとっては好都合だった。
綺麗に整えられたコードほど
利用者からは信用され、評価に繋がるので
検証はやがてなおざりになっていき、
不正出金プログラムを忍ばせられた。
セキュリティホールの原因は人間にある。
「千秋さんは探偵ごっこの為に、
Wi-Fiの履歴を見たんだね。」
「犯罪に片足突っ込んでいますけど、
これはスリリングでちょっと楽しかったです。
絡まったスパゲッティコードでも解せば、
真澄さんの意図を私は読み取れます。」
「そうか…。それはよかった。」
度重なるハラスメントに対する
加賀への報復のつもりもあった。
不正で手に入れたお金から、
犯罪への恐怖で眠れない日もあった。
捕まれば両親の残したマンションを
手放すことになるのだと思うと、
相続に対する矛盾を懐き、自分の犯した罪と
その愚かさに呆れて笑いがこぼれる。
死んだ両親や、プログラミングを教えてもらった
エナ先輩にもきっと顔向けできない。
「クレジットはありませんでしたが、
念の為ネットに上げてる真澄さんのデータは
勝手ですが私がアカウントごと削除しました。」
「え?」
僕のデータは不正出金事件の
証拠になりうるものだ。
「で、お詫びに真澄さんのを私が改ざんして、
暴動の関係者リストを拾い上げましたので、
かれらの口座から不正出金の被害者に
補填しておきました。
あ、ついでに暴徒の背景にあった支援者も、
このリストに追加しました。」
千秋がノートパソコンの画面を見せる。
「ちょ…なんでそんなことしたの?」
「だってぇ。聞いて下さいよ。
リモートワークのこのご時世に、
会社が出勤しろってうるさいんですよ?
疫病の原因も暴動関係者が原因ですし。
真澄さんが犯人だって証拠ももうありません。」
キーひとつを押下して、コードが全て消えた。
「私と真澄さんのふたりだけの秘密ですよ。」
「なにを…? なに考えてるの、千秋さん。」
「わたし、仕事よりも結婚優先なんで。
真澄先輩とマンション経営もいいかなって…。」
彼女がノートパソコンを投げ捨て、
僕の腕に飛びついてきた。
真澄…先輩…?
彼女は僕を先輩と呼んだ。
彼女は同郷…、それはコンピュータ部の…。
…結婚?
「…え?」
あっけらかんと言ってのける彼女は、
仕事に生きていた僕とは真逆の生き方を選んだ。
「女同士で…?」
「私が相手だとイヤですか?
正妻じゃなくても、妾でもいいですよ。
家賃で足りなければ私が働いて稼ぎますから。」
「愛が重たすぎて怖いよ。」
女同士で結婚なんて、僕は考えたこともなかった。
「もちろん合法的な手段で、ですよ?」
犯罪の手口を証明してみせた彼女は、
僕の犯罪の証拠を勝手に隠滅した。
狂気にも似た献身さで微笑む彼女は
悪魔の囁きのように、僕の心を惑わす。
そのとき、ちょうどスーツ姿の賃貸仲介業者が、
マンションの下見希望者を連れてやってきた。
枝毛の多そうなボサボサの色褪せた金髪、
猫背で灰色のスウェットにサンダル姿で、
報道で見かける無職の容疑者みたいな女性だった。
「真澄先輩のお客さん?」
僕の表情を察して、千秋が呼びかけた。
僕とその女性は、記憶にある
中学生時代の姿にお互い驚いた。
輝くような金色の長髪に、
ピンと伸びた背筋の女生徒。
新入生がコンピュータ部の見学に来るからと、
格好つけた先輩を思い出す。
「エナ先輩?」
「あぁ、やっぱり、すみすみだぁ。」
この間の抜けた喋り方はやっぱり、
中学時代一緒だったコンピュータ部の先輩だった。
「下見希望って。」
「そうなの。あのね、
会社辞めてもう3年くらいかな?
私がネトゲばっかやってたら、
家族が実家を追い出すー! って、それで
すみすみの名前のマンションがあったから
もしかしたらって…。」
「真澄先輩の先輩? 無職なの?」
千秋さん、あなたも無職だよ。
千秋に言われるとエナ先輩が
恥じて弱々しくうなずく。
その仕草も昔のままだ。
「三十路でホームレスはやだよぉ。」
エナ先輩はめそめそと泣き始めた。
僕は隣の千秋さんを見下ろした。
彼女はエナ先輩を興味深げに見て、
えくぼの眩しい顔で僕に微笑み返した。
つまり彼女の優先順位は変わらない。
管理人となってもうすぐ1年。
先輩と後輩、ふたりの無職と僕の、
奇妙な生活が始まるのだけれど、
その話はまたいつか――。
(了)
今日はそれで真澄さんにお願いがあって。」
「お願い? 僕に? 廊下の蛍光灯?」
脚立を肩にかけて
蛍光灯を1本引っ張り出した。
「違います。
ちょっと異臭が気になって。」
「そんなの管理会社に連絡すれば?」
極めて事務的に、冷たくあしらう。
住人同士のトラブルなんて僕は御免こうむる。
しかし住人同士が勝手にケンカして、
警察沙汰にでもなったらもっと困るのは僕だ。
「管理会社で対応できるかどうか…。
404号室の。」
「404? 606号でしょ、千秋さん。」
隣接する部屋ならまだしも、
2階も離れた遠くの部屋だ。
「例えばベランダにゴミ袋があふれてたら、
上から見れば分かりますよね。」
「その具体的な例え話は必要?
そんなクレームいれられても、
忠告の手紙を出すぐらいしかできないよ。」
捨て忘れたゴミ袋を、ベランダに放置するのは
なにも珍しくはない。
発酵の進む夏場ならともかく、
冬であればなおさら気にしないだろう。
管理人になってからというのも、
住人の生活までムダに考えてしまい
眠れなくなることもある。
「あの人、お仕事なにしてるんですか?」
「さぁ。てか個人情報だから、
知ってても教えられないよ。」
毎月の家賃がつつがなく振り込まれていれば、
きっと無職ではないのだろう。
「山木世。27歳、独身。自営業。」
「え? なに? なにしてんの?」
「教えていただけないので、
私が勝手に調べてるんです。」
「どうやって?」
千秋さんとしばらく目を合わせたが、
彼女は無言のままパソコンに視線を戻した。
「なんか言って。」
「えぇ…彼は不正出金事件の被疑者ですから。」
「…被疑者?」
「はい。2ヶ月ほど前からですが、
国民年金が未払いだった人間の口座から
勝手に引き落とされていたんです。」
「…そうなんだ。彼が犯人?」
僕は彼女との会話より、集合ポスト上の
蛍光灯を取り替える作業を優先した。
「この事件の発覚で、
該当するプログラミングを担当していた
レオナールの加賀さんがまず疑われました。
かれは1ヶ月ほど失踪しましたが先月、
身柄が確保されたみたいです。
でも容疑を否認して、当のお金も行方知れず。
加賀さんが依頼していた下請け会社や
フリーのプログラマーらを、私のいた会社、
アスタロトが調査している最中です。」
「調べてるの…?
それじゃ、異臭っていうのは…。」
「えぇ、比喩表現です。」
事件のニオイ、という比喩よりもただのウソだ。
「いいの?
そんな重要そうな話を僕に喋っても。
守秘義務とか。」
「えぇ。会社はさっき辞めましたから。」
「は? それもなにかの比喩?」
…家賃は?
管理人になってまだ日も浅いが、
一番重要なことが脳裏をよぎる。
「ここのWi-Fiルーターから履歴を掘って、
真澄さんの打ったソースコードを見ました。」
「え…?」
僕は血の気が引くのを感じた。
千秋はなおも恍惚と語る。
「真澄さんのコードはどれも癖がなくて、
基本に忠実でいて美しくって
学校で見た時、私、一目惚れしたんです。」
「そう…? 学校?
いや、履歴の…なにを見たの…。」
「真澄さんは自らのソースを
ネット上に公開してたんですね。」
「…それ、普通だよ。」
逆に自らプログラミングしたコードを、
ネットに上げていないプログラマーなど
いまでは希少といえる。
「それをフリーランスの山木さんや、
下請けの方たちが利用して納品したので、
担当だった加賀さんが真っ先に疑われました。
やっぱり不正出金事件は――。」
彼女の推理通り、不正出金事件の実行犯は僕だ。
マンション相続の問題があり、
会社の安月給ではまかなえきれず、
加賀の責任になるようにコードを忍ばせた。
僕は無言のままうなずいた。
「ほとんど無作為にも思えるモジュールを、
プログラマーが各コードから拾い集めることで
ひとつのプログラムとして完成させるなんて、
突飛過ぎてこんなの誰にもマネできません。」
「加賀の欲しがる仕様は、
散々電話で聞かされてたからね。
コードをあげれば誰かコピペするでしょ。
古くてスパゲッティコードに陥りやすい
COBOLなら、それが可能だと思った。」
撒いた種が芽を出さずに終わると思っていたが、
執拗な加賀の電話は僕にとっては好都合だった。
綺麗に整えられたコードほど
利用者からは信用され、評価に繋がるので
検証はやがてなおざりになっていき、
不正出金プログラムを忍ばせられた。
セキュリティホールの原因は人間にある。
「千秋さんは探偵ごっこの為に、
Wi-Fiの履歴を見たんだね。」
「犯罪に片足突っ込んでいますけど、
これはスリリングでちょっと楽しかったです。
絡まったスパゲッティコードでも解せば、
真澄さんの意図を私は読み取れます。」
「そうか…。それはよかった。」
度重なるハラスメントに対する
加賀への報復のつもりもあった。
不正で手に入れたお金から、
犯罪への恐怖で眠れない日もあった。
捕まれば両親の残したマンションを
手放すことになるのだと思うと、
相続に対する矛盾を懐き、自分の犯した罪と
その愚かさに呆れて笑いがこぼれる。
死んだ両親や、プログラミングを教えてもらった
エナ先輩にもきっと顔向けできない。
「クレジットはありませんでしたが、
念の為ネットに上げてる真澄さんのデータは
勝手ですが私がアカウントごと削除しました。」
「え?」
僕のデータは不正出金事件の
証拠になりうるものだ。
「で、お詫びに真澄さんのを私が改ざんして、
暴動の関係者リストを拾い上げましたので、
かれらの口座から不正出金の被害者に
補填しておきました。
あ、ついでに暴徒の背景にあった支援者も、
このリストに追加しました。」
千秋がノートパソコンの画面を見せる。
「ちょ…なんでそんなことしたの?」
「だってぇ。聞いて下さいよ。
リモートワークのこのご時世に、
会社が出勤しろってうるさいんですよ?
疫病の原因も暴動関係者が原因ですし。
真澄さんが犯人だって証拠ももうありません。」
キーひとつを押下して、コードが全て消えた。
「私と真澄さんのふたりだけの秘密ですよ。」
「なにを…? なに考えてるの、千秋さん。」
「わたし、仕事よりも結婚優先なんで。
真澄先輩とマンション経営もいいかなって…。」
彼女がノートパソコンを投げ捨て、
僕の腕に飛びついてきた。
真澄…先輩…?
彼女は僕を先輩と呼んだ。
彼女は同郷…、それはコンピュータ部の…。
…結婚?
「…え?」
あっけらかんと言ってのける彼女は、
仕事に生きていた僕とは真逆の生き方を選んだ。
「女同士で…?」
「私が相手だとイヤですか?
正妻じゃなくても、妾でもいいですよ。
家賃で足りなければ私が働いて稼ぎますから。」
「愛が重たすぎて怖いよ。」
女同士で結婚なんて、僕は考えたこともなかった。
「もちろん合法的な手段で、ですよ?」
犯罪の手口を証明してみせた彼女は、
僕の犯罪の証拠を勝手に隠滅した。
狂気にも似た献身さで微笑む彼女は
悪魔の囁きのように、僕の心を惑わす。
そのとき、ちょうどスーツ姿の賃貸仲介業者が、
マンションの下見希望者を連れてやってきた。
枝毛の多そうなボサボサの色褪せた金髪、
猫背で灰色のスウェットにサンダル姿で、
報道で見かける無職の容疑者みたいな女性だった。
「真澄先輩のお客さん?」
僕の表情を察して、千秋が呼びかけた。
僕とその女性は、記憶にある
中学生時代の姿にお互い驚いた。
輝くような金色の長髪に、
ピンと伸びた背筋の女生徒。
新入生がコンピュータ部の見学に来るからと、
格好つけた先輩を思い出す。
「エナ先輩?」
「あぁ、やっぱり、すみすみだぁ。」
この間の抜けた喋り方はやっぱり、
中学時代一緒だったコンピュータ部の先輩だった。
「下見希望って。」
「そうなの。あのね、
会社辞めてもう3年くらいかな?
私がネトゲばっかやってたら、
家族が実家を追い出すー! って、それで
すみすみの名前のマンションがあったから
もしかしたらって…。」
「真澄先輩の先輩? 無職なの?」
千秋さん、あなたも無職だよ。
千秋に言われるとエナ先輩が
恥じて弱々しくうなずく。
その仕草も昔のままだ。
「三十路でホームレスはやだよぉ。」
エナ先輩はめそめそと泣き始めた。
僕は隣の千秋さんを見下ろした。
彼女はエナ先輩を興味深げに見て、
えくぼの眩しい顔で僕に微笑み返した。
つまり彼女の優先順位は変わらない。
管理人となってもうすぐ1年。
先輩と後輩、ふたりの無職と僕の、
奇妙な生活が始まるのだけれど、
その話はまたいつか――。
(了)