従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

「婚約……です、か?」
 父の部屋に呼び出されたのは、ある日の午後。うららかな良い日よりだったけれど、そんなものを感じる余裕などなかった。言われた言葉が衝撃的すぎて。
 領主である父・レイシスは当たり前のように頷く。壮年の父はグレイスと同じ黒髪をしている。その髪にもそろそろ白髪が混じるようになってきていた。
「お前も十六になるだろう。もっと早く相手を見つけておいても良かったくらいだ」
 そう言われれば確かにそうなのだけど。女性は十六になれば婚姻を結べるというのが、この国の常。貴族である身であれば、相応の王家や爵位のある相手と、早々に婚約とすることも珍しくない。
 しかもグレイスの家……アフレイド家は弱小貴族。もっと身分ある家に嫁げばいわゆる玉の輿になるのである。
 ただグレイスは一人娘であるので嫁いでしまうとなると、アフレイド家が存続できなくなってしまう。よって理想的なのは婿養子といえた。父の考えたのもその通りのことだったようだ。
「オーランジュ伯爵家のダージル様とおっしゃる。次男に当たる方らしい」
 机から取って渡されたもの。分厚い革張りのそれは、いわゆる釣り書きというものである。見合い相手などの写真や肩書きなどを書いて参考にするもの。
 グレイスはまだ自分の身に起こっていることとは信じがたいままそれを手に取り開いた。
 そこに写っていたのは美しい男性だった。そう、どちらかというと『美しい』といえる容姿。金の巻き毛を綺麗に整えて、かっちりとした礼装を身に着けて、椅子に腰かけ、微笑を浮かべている。横を見ると、父の言った通りの名と身分、そして年齢などが書いてあった。
 ダージル=オーランジュ……二十三歳……。
 そこまで見ても、現実感は湧かない。なにしろ降って湧いた話なのであるから。
「お会いしたことがあるが、とても明るく優しい方であったぞ。いい話だろう」
 そう言われても、と思う。
 婚約。つまり、いつかは結婚。
 仮にも貴族の娘として生まれ育っておきながら、そのことに現実味を抱かなかったなど。
 グレイスは自分がいかに呑気だったのかをやっと思い知ったのだ。政略結婚とまではいかずとも、親の都合で結婚させられるなど、貴族の娘としては普通のことなのに。
 しかし父に口答えなどできるものか。優しい父であるが、家の存続は重要に決まっている。娘を相応の相手と結婚させなければ家が潰れてしまうのだから。
 なので、万一、このダージルという人物と結婚とならなくとも、別の相応の身分の男性を勧められるに決まっていた。断ることなどできないのだ。
 気が進まないからなんて。決められた相手となんて嫌だなんて。
 おまけにまさか従者に恋をしているから、なんて。
 そんなことを言えば、フレンが解雇されてしまうではないか。従者と恋などとんでもない、と。フレンから仕事を奪ってしまうのも嫌だし、なにより従者としてだって傍にいてくれなくなるのも嫌だ。
「……こちらは、いつ、お決まりになるのですか」
 今のグレイスに言えることはなかった。震えそうな声を、なんとか普通のものに聞こえるよう気をつけながら言った。
 父はしれっと言う。グレイスの心の中など知るはずもない。
「今度、お前の誕生日パーティーを開催するだろう。それにお招きしてある。ちょうどいい場だ」
 確かに。婚約相手と対面するのにも『ちょうどいい』し、話をするにも、場合によってはダンスのひとつでもして交流するのも『ちょうどいい』。グレイスにとってはちっとも良くなどなかったが。
「さぁ、私はそろそろ仕事に戻らねば。誕生日パーティーの詳細はグリーティアと既に打ち合わせをしたからな、グリーティアから聞くが良い」
 詳細はフレンと打ち合わせをした、と彼の姓を出して説明された。でも、それだけ。
 そのように、さっさと話を終わりにして追い出されてしまった。グレイスは大人しく退室することになる。ぱたん、と父の部屋の扉を閉めて、はぁ、とため息が出てしまった。
 婚約なんて。改めて噛みしめる。婚約がどうこうというよりは、それに思い至らなかった自分の呑気さを、だ。
 なかなかその場から動けなかった。衝撃が強すぎて、立ちつくしてしまう。
 どうするべきなのか。この恋は……フレンへの恋は諦めるべきなのだろうか。
 傍にいてくれるだけでいい、恋仲になれなくてもいい……なんて妥協してしまうのだろうか。
 でもそんなことは悲しいし、それに自分の心に嘘をつくことになる。そんな嘘のひとつやふたつ、貴族として抱えていても当然かもしれないけれど……。
 やっと自室へと向かえたのは数分後であった。そろそろお茶の時間になる。いつも通りにフレンが用意してくれるのだろう。おいしい紅茶を。グレイスの好きなスイーツもきっと一緒に。
 いつもは喜びしかないそれが、今は嬉しい気持ちで迎えられるはずがなかった。
 それどころかフレンの顔も、まともに見られるか怪しい、とすら思ってしまったのだった。
「お嬢様、とてもかわいらしいですわ!」
 支度をしてくれていたメイドが顔を輝かせる。それはお世辞ではなく、心からそう言ってくれているのがわかるので、グレイスは「ありがとう」と言っておいた。
 今日はドレスの試着。誕生日パーティーのためにあつらえてもらった、特別なドレスだ。
 黒髪のグレイスは派手な色より、ちょっと色味を落とした大人しめのトーンの色が似合った。よって今回のものもそれに従って、くすみカラーといわれるやわらかな色合いのピンクをメインに作られていた。レースはプレーンな白。リボンも控えめにつけられている。
 大人しめの色合いなのは、誕生日パーティーであるから、という理由もある。
 十六になるのだ。社交界にも出られる立派な大人として認められる年齢なのだ。かわいらしさしかない、ある意味子供っぽいドレスよりも、少々色っぽさもあるものをということのようだ。
「苦しいところはございませんか?」
 うしろでコルセットの紐を引きながらメイドのリリスが声をかけてくれる。
 リリスもやはり、グレイスがまだ幼い頃から仕えてくれている使用人である。なのでもう三十近い、妙齢といっても良いくらいの年齢。それでもまだまだ華が残っている年頃で、茶色の髪をうしろでお団子にしてまとめていても、どこか娘のようなかわいらしさがあった。
 この国の常であるように、リリスはもうとっくに家庭に入っている。今ではその家から通いで勤めてくれているのだ。
「大丈夫よ、リリス」
 特に問題はなかったので、グレイスはシンプルに答えておく。コルセットで腰をきゅっと締め上げられるのももうすっかり慣れたのだ。締め上げすぎなければ問題ない。
 そしてリリスだって、もう何度もグレイスの支度をしてくれているのだから、本当は訊かずとも加減などわかりきっているのだ。それでも訊いてくれるのが、優しくて律儀なところである。
 かわいらしいドレスで支度をしているのに、あまり楽しくはなかった。普段ならこんな特別なドレスの試着ともなれば、メイドたちと一緒にはしゃいでしまうのに。今回ばかりは楽しいはずがあろうか。
 しかしリリスは特に気付かなかったようだ。普段と同じように明るい顔と声で試着を進めてくれている。
 こんなにかわいらしいドレスを着るのに。一番近くで見るのは恋している相手ではなく、別の男性なのだ。そう思っただけで、もう今から憂鬱だった。
 馬鹿なことだと思う。今までだって、別にフレンが一番近くだったというわけではないのだ。恋仲などではないのだから。
 ただ、グレイスが無邪気に「素敵でしょう」と、ある意味見せびらかすようなことをして、一番に見せていたのは子供の頃からそうであったし、フレンもにこにこと「とても素敵です」と言ってくれていただけなのだ。今となってはそんなこと、おままごとのようだったとも思ってしまう。
「さぁ、次はメイクも試してみましょう。先日、新しいアイシャドウを買いましたでしょう。お嬢様が特にお気に召した……」
 確かに先日、雑誌を見て新作だというかわいらしいコスメを見つけていた。それを街から取り寄せてもらったのだ。外の領、もっと栄えている街から仕入れたものだという。
 見たときにはとても心躍って、「特別なのだから、誕生日パーティーでつけてみるわ!」と決めていたのに。なんだか色あせてしまったような気持ちになった。コスメにはしゃいだ気持ちも、かわいらしく豪華なパッケージに入ったアイシャドウすらも。
 でも断ることなどできるはずもない。グレイスは「そうね。お願いするわ」とだけ答えた。
 でもあまり素っ気ないと、なにか……気が進まないのだと思われるかもしれない、とやっとそこで思い至った。
 メイドや使用人たちには婚約の話などまだ通っていないだろう。だから誕生日パーティーでなにがあるかなど知らないはずで。なのでグレイスは意識して笑みを浮かべた。
「とても良く発色すると書いてあったわ。ラメもとてもかわいらしいと」
「そうですね! 先日拝見したときも……」
「まぁ、先に見たの? 狡いわ」
「使わせていただくのですから、お許しくださいまし」
 リリスはグレイスの内心など気付かなかったようで、ここまで通りに明るく話してくれた。
 鏡台の前に座らされて、リリスにいつもより丁寧で濃いメイクをお試しにされながら、閉じた目の中でグレイスはあることが気になっていた。
 ……フレンは、誕生日パーティーで婚約発表があることを知っているのだろうか?
 不意に思った。グレイスの従者であるので、パーティーでグレイスの動く手順などはフレンがいつも用意や手伝いをしてくれていた。実際、父も『打ち合わせをした』と言っていた。
 けれどそれはどこまで話したのだろう。詳細までだろうか。
 その可能性はなくもなかった。婚約発表など重大な、ある意味イベントなのだ。従者が把握していなければ困ることになる。
 つまりグレイスに婚約や結婚の話が出たことを知っているのだろうか。その可能性を思ってしまえばもっと心が沈んでしまいそうで、グレイスは一旦、心からそれを追い払うことにした。
 今、考えても良いことなんてないだろう。意識してかわいらしいコスメや、それで飾られていく自分のことに集中する。このあと、一人になった夜にでもこの件は思い悩んでしまいそうだとわかっていても。
 誕生日パーティーの少し前であった。グレイスがフレンとパーティー中の行動の打ち合わせをしたのは。
 今日は試着のドレスではなく、普段着の小花柄のワンピースを着ていたけれど、なんとなくあのドレスがまとわりついている気がした。ほかの男性との婚約をされる象徴のように感じてしまったドレス。
「領主様のご挨拶のあとは、乾杯……そしてご親族へのご挨拶から……」
 革張りの上等なノートカバーをかけた計画表をフレンが読み上げ、説明してくれる。
 フレンも普段着。いつもどおりの黒のかっちりした燕尾になっている服を着ていた。
 でもパーティーとなればもう少し格式のある礼装をして、グレイスの横に立ってくれる。
 ……今まで通りフレンがエスコートしてくれるのだろうか。今までは従者としてでも自分をエスコートしてくれる、そんなことだけが嬉しかったのに。
 これからは別の男性、つまり夫となる男性にエスコートされることになるのだろうか。今回はただの婚約だからそれはないかもしれない。けれど今後のことを思うと。想像だけでも既に心に陰りが生まれそうだった。
「……お嬢様? 聞いておられますか?」
 フレンが計画を話すのを中断してグレイスに尋ねてきて、グレイスはやっと、はっとした。
 聞いていなかった、と思う。けれど正直に言うのはためらわれた。
 「聞いてたわ」と言うけれど、それは通用しなかった。
「上の空のお顔をされていましたよ」
 ちょっと目をすがめて言われてしまう。グレイスは黙るしかなかった。幼い頃から見られているだけある。言い訳をするときの様子などお見通しということだ。
「体調でも優れませんか?」
 けれどフレンが言ったのはそれだった。叱ってもいいのに、グレイスのことを心配してくれる言葉。
 体調が悪いわけではない。体調は悪くはないけれど……。悪いのは、心の調子が、だ。
 グレイスはごくりと喉を鳴らした。計画はまだ読み上げられている途中で、一応、まだ婚約云々の話題までいっていないことだけはわかる。
 それを聞いてしまうのだろうか。決定打をほかならぬフレン本人から。
 聞きたくない、と思う。
 きっと「おめでとうございます」と言われてしまうから。そんなこと言われたくないのに。
 けれど向こうから言われるより、こちらのほうがずっとましな気がする。よって、震えるくちびるを思い切って開く。
「フレン、パーティーのことなのだけど」
 切り出したグレイス。体調が悪いかと質問したのにグレイスの返事は「ええ」でも「そんなことはないわ」でもなかったからか、フレンの目がちょっときょとんとした。
 普段はきっちりしているフレンがこういう目をするとなんだかかわいらしい。そういうところが好きなのだ。と、余計な思考が入りこんだけれど、グレイスはそれを脇へ追いやる。
「はい。なにか、ご質問がありましたでしょうか」
 しかしフレンの言ったことは、それ。フレンから言わせたくないと思ったのに、それで自分から切り出したというのに、グレイスは面白くなくなってしまう。
「お父様から……お話があるのではないかしら」
 グレイスの言ったことに、フレンは黙った。数秒、沈黙が落ちる。
 フレンの表情は変わらなかったけれど、グレイスは悟った。フレンにはもう伝わっているのだ。グレイスの婚約と、その発表がある件は。
 当たり前じゃない。従者が知っていないなどお話にならないわ。パーティーの進行に関わるのだから。
 冷静な自分が、頭の中でそう言った。
 けれど本音は違っていた。
 「なんのことですか?」と言ってほしかった。知らないでいてほしかった。
 知られていたら、本当のことになってしまいそうだったから。
 そこでまた冷静な自分が言う。
 本当のことになりそうなんて。もうとっくに本当のことになっているのよ。
 本音と理性と。ふたつが混ざり合って、それは非常に気持ちの悪いものだった。
「……そうですね。大切なお話が。その段取りをこれから」
 フレンは微笑んだ。その笑みはグレイスの心に突き刺さる。ここまで父に婚約の話をされたときから衝撃を感じていたとはいえここまではっきりとショックといえるものは初めてだった。
「言ったらいいじゃない。……婚約のお話だって」
 今度の言葉。嫌味のようになってしまった。ショックを無理に呑み込んだらこうなってしまったのだ。おまけに表情だって硬いだろう。
 けれどこれ以上の取り繕いは今のグレイスにはできなかった。
 こんな言葉、口に出したくなかった。自分の手で『本当のこと』にしたようなものだ。そう望んで、したとはいえ。
 グレイスの言葉を、表情を、フレンはどう取ったのか。困ったように、また微笑を浮かべたのだった。
「その通りですね。おめでとうございます」
 そう言われると思ってはいたし、自分がそう言われてどう感じるかもわかっていた。しかしどうしようもなく胸に突き刺さる。
 お祝いの言葉など、このひとからだけはもらいたくなかった、と思う。でもそんなこと、言えるものか。
 別に言ってもいいと思う。「気が進まないの」とか、そのくらいは。
 そのくらいなら「相手が気に入らないのだ」と思われるだけだろう。
 けれど、その中に入っている本音……フレンという想い人がいるから……というものがある限り、そんなことすら言えなくなってしまう。
 それを読み取ったように、フレンのほうから口に出した。
「お気が乗られない、ですか?」
 またしても言われたくない言葉であった。これでは、そうとも違うとも言えないではないか。グレイスは黙ってしまう。
 フレンはやはり困ったような顔をする。沈黙がその場に落ちた。
「……突然のお話ですからね」
 フレンが口に出した、その言葉はグレイスに寄り沿うもので。今度は、かっと胸が熱くなった。
 かばうように言われて嬉しいだとか、この話を受け入れられていない自分が恥ずかしいだとか、あるいはそれを知られてしまって嫌だとか。違う意味の感情なのにどれも妙に熱かった。
「本当にそうね! ……ちょっと出てくるわ」
 それが『庭に出てくる』という意味なのは、フレンはよくわかっている。けれどそれは「はい」とは受け入れられなかった。なにしろ話、しかも大事な話の途中なのだ。
「お嬢様、まだ終わっておりませんよ」
 慌てたように言われたけれど、グレイスは立ち上がって、フレンを見た。まるで睨みつけるような目をしてしまったのを自覚する。