無理やり連れて行かれた場所。それは路地裏だった。
ここが危険なことくらい、グレイスにはわかる。心臓が嫌な具合に騒いでいる。なにか、良くないことが起こるのは明らかだった。
「坊ちゃんよ、よその街から来たんだろう」
にやにやしながら男が言った。
坊ちゃん?
グレイスは恐ろしく思いつつも、疑問に思った。この服と姿なのだ、少年には見えたらしいけれど、こんな見た目で坊ちゃんなどと言われた理由がわからない。
「そ、そんなものじゃ、ない」
やっと言った。お金持ちなどではないとわかれば解放されるかもしれない。そう期待しつつ。
「嘘をつけよ。その服、地味だがいい布じゃねぇか。おおかた、どこかのお坊ちゃんがおうちを抜け出してきたってところだろう」
言われてグレイスはぎくっとした。男の言うことは、グレイスの性別を取り違えている以外は当たっていたのだから。
服に使っている布。そしてその仕立て。そこまで考えたことはグレイスにはなかったのだ。布や仕立てに、庶民との違いがあるなんて発想は初めてだった。
けれど、どちらにせよ、もう遅い。
「金をたっぷり持ってるんだろう。出してみな。おとなしく出せば許してやるよ」
もう、林檎がどうこうという話はされなかった。
グレイスだってわかっていた。あれは言いがかりだったのだ。グレイスに声をかけ、捕まえるための。
ただ、お金を持っていそうな少年、しかも非力そうだからという理由だったのだろう。
グレイスが動かなかったためか、男のほうが先に手を伸ばした。カバンに触れ、引っ張ってくる。しかし布製のカバンはしっかりした作りで、グレイスの肩から外れることはなかった。
チッ、と男は舌打ちして、次はヒモ部分に手をかけた。ぐいっと乱暴に持ち上げ、グレイスの肩から引き抜こうとしたのだが……。
「きゃっ!」
思わず素の声が出ていた。持ち上げられたカバンのヒモが、ぱしっとキャスケットに当たったのだ。勿論、キャスケットはただかぶせてあるだけなのでぐらっとかしいで。
ぱさっと地面に落っこちていた。その中からふわっと広がったのは、グレイスの長い黒髪。リボンで留めてはいたものの、髪が長いことはわかってしまっただろう。
そして長い髪と、この少年というには少々かわいらしい顔立ちであったことと併せてみれば。
「女……!?」
男の手が止まった。グレイスからカバンを取り上げてはいたが、そちらへの興味よりグレイスの正体についてのほうが問題だったらしい。
数秒、その場は無言だった。しかしその沈黙は破られた。くっくっ、と低い笑い声がする。それはうしろにいた男から。そしてその下卑た笑い声はすぐその場に満ちた。
「ほぉ……どうもかわいらしいお顔だと思ったら、女の子だったわけか」
グレイスの身に、今度は違う恐ろしさが膨れた。少年だと思われていたら、カバンを取り上げられるだけで済んでいたかもしれない。抵抗せずに、僅かなお金しか入っていないカバンなど、さっさと渡してしまえばよかったと、今更であることを思う。
もう遅かった、けれど。
今度は違うところへ男の手が伸びた。グレイスの前まで迫り、その生温かい息がグレイスの顔にかかる。煙草の不快な臭いがグレイスの鼻をついた。
嫌悪感に顔をそむけようとしたけれど、あごを掴まれてしまった。じろじろと顔を舐め回すように見られる。
「どっかのいい家の嬢ちゃんってわけだな。こりゃいい。坊ちゃんよりずっといい」
男のうしろから、またくっくっと低い笑いがする。その場を嫌な空気で冒していくような声。
急に、とんでもないところに手が伸びてきた。がばっと上着を広げられる。
ブチッと嫌な音がして上着のボタンがはじけ飛んでいた。そしてその中のシャツ。がしっと胸部を掴まれた。ほぼ大人の女性の体なのだ。それなりに豊かな胸を有している、ところを。
「いっ……」
痛い、と言いたかったけれど、声にならなかった。痛みもあるが、こんなところに無遠慮に触られたショックで声が詰まってしまったのだ。
グレイスの胸を掴んで、男はにたりと笑う。いやらしい笑みだった。
「なかなか上物らしいぜ」
確かめるように乱暴に揉まれる。鈍い痛みがグレイスを襲った。酷い嫌悪感も同時に。吐き気すら込み上げそうになってくる。
「やめ……」
それでもなんとか言ったのだが。今度はシャツのあわせに手がかけられた。
まさか。グレイスの心臓がひゅっと冷えたと同時。
今度はボタンが飛ぶどころではない。ビリィッと布が勢いよく避ける音が耳を刺した。
グレイスは呆然とするしかなかった。もう、ショックやら嫌悪感やらを通り越してしまって、頭が思考を拒んでいるようだったのだ。
「こりゃいい」
グレイスの胸元を開き、繊細なレースに飾られた下着を晒しておいて、男はぺろりとくちびるを舐める。舌なめずり、という様子がぴったりだった。
グレイスはそれを見ても、もうなにも頭に浮かばなかった。ただ、舐め回すような視線に晒されているしかない。
「おい、お前ばっか楽しもうとすんなよ」
「そうだそうだ」
うしろからも声が聞こえてきて、じりじりとほかの男たちも迫ってくる。
もうわかっていた。この男たちは、なにかいやらしいことをするつもりなのだ。
それがなんなのか、グレイスに具体的にはわかっていなかったのだが、なにか、とても良くないことで、傷つけられるようなことなのはわかる。
ヒッ、と息が詰まった。恐ろしさという感情が戻ってきて、グレイスの体を凍り付かせた。
「さて、まずは……」
もう一度。グレイスの美しい胸元に手がかかったときだった。
シュッ、となにか鋭い音がグレイスの耳を刺した。それがなんなのか理解する前に、目の前の男がびくんと体を跳ねさせた。
「ぐぁっ!?」
恐ろしい呻き声をあげた男に、違う意味でグレイスは恐怖した。
しかしそれはまだ早かったのだ。だって、目の前の男の肩にはナイフが深々と突き刺さっていたのだから。とろとろと血が流れだしてきている。
その赤はとても不吉な色で。グレイスの体を凍り付かせる。
「なんだ!?」
「一体、なに……グァァッ!?」
うしろに居た二人の男が振り返ろうとした途端。一人の男が鈍い声をあげて、勢いよく前のめりになった。それだけではなく、どさっと地面に倒れ込んでしまう。
それを間近で見て、ひっと隣の男が息を詰めたと同時。
タッ、と小気味いい音がした。上等の靴が地面を叩いた音。
男の一人の頭を蹴り倒して、地面に降り立ったその上等な靴の人物。
グレイスは、のろのろと視線をあげた。そして違う意味で心臓がどくんと跳ねた。
ふぅ、と息をついていたのは、普段と同じ燕尾の黒服を身に着けた……フレンではないか。
しかしグレイスが声を出せることはなかった。体が凍り付いていた以外にも、フレンがまるで残像が見えるほど素早く脚を振ったのだから。
勢いをつけて繰り出された長い脚。今度は、一連の出来事に固まっていた男たちの最後の一人の脇腹に叩き込まれる。
「ぐぅっ!」
鈍い声だけを残して、やはりどさっとその男も地面に沈んでしまう。
その男を、体勢を戻したフレンが見降ろす。恐ろしく冷たい目をしていた。
彼がこれほど冷え切った目をすること。グレイスは知らなかった。見たこともなかったのだ。
これは、ほんとうに、フレンなの。
心の中だけでしか言えなかったけれど、呆然と呟いた。
しかしこれで終わりではなかった。グレイスに迫っていた男。どろどろ肩から血を流しているところをなんとか押さえている男に。
フレンはなにかを突きつけた。ぎらっと光ったそれ。自分に向けられたわけでもないのに、グレイスはそれが心臓に突き刺されるのかと感じてしまった。
「お嬢様に」
男の頬のすぐ横にナイフを突きつけておいて、フレンはゆっくりと口を開いた。
「手を出すな」
出てきた言葉。先程の視線と同じように、低く氷のように冷たい声をしていた。
フレンは男にナイフを突き刺すことはなかった。
が、先程飛んできたナイフはフレンが投げたものであること、そして男の反応によっては、今、手にしているナイフを振るうことも辞さない姿勢であること。よく思い知ったのだろう。
男は、ひっ……とだけ声を洩らして、情けなくどさりと座り込んだ。
フレンはしばらくそれを見降ろしていたけれど、男が降参の態度になったことで一連のことを終えたらしい。ポケットからなにかを取り出した。口に咥え、どうするかと思えば。
ピーッ!
鋭い音があたりをつんざいた。耳に刺さるかと思うほど鋭く、大きな音。
あれはどうやら笛だったらしい。思ったことで、グレイスは、はっとした。
やっとなにかが頭に浮かんだ、と思う。
それはグレイスの凍り付いた心が、笛の音の刺激で一気に溶けたことを示していた。
遅すぎることだが、ぶるっと体が震えた。それは悪寒のようにグレイスの体を冒していき、体から力を奪った。脚ががくがく震えて倒れ込みそうになってしまったグレイス。
しかし倒れ込むことはなかった。グレイスの体は力強い腕に支えられていたのだから。
グレイスの体を抱いてくれたのは、フレン。いつのまにか目の前にやってきていたのだ。
そのままグレイスの体はゆっくりと地面に下ろされる。地面に叩きつけられなかったことにほっとし、そこでやっとグレイスはこの状況を把握した。
グレイスの上半身をしっかり支えてくれている、フレン。先程の冷たい目が嘘だったように、普段通りの目をしていた。心配がたっぷり滲んでいたけれど。
「お嬢様」
フレンの口が動く。グレイスはまだぼんやりとそれを見るしかなかったのだけど、とりあえず、理解した。
これはフレンだ。まぎれもない、自分の傍にいてくれる、と誓ってくれたフレンだ。
なにか言おうと思った。くちびるを動かしかけたそのとき。
ピーッ!
さっきと同じような笛の音があたりに響いた。グレイスはびくりとしてしまう。
ばっとそちらを見た。そちらからは、ばたばたと複数の人間の走る音がする。そのひとたちは、どうやらこちらへやってきているようで。すぐに姿が見えた。
そして勢いよくなにかを突き倒した。またドサッと鈍い音がする。
それは、じりじり後ずさって逃げようとしていた、肩にナイフを刺された男だったようだ。
二人の男により抑え込まれて、男は「く、くそ……!」と声を上げた。けれど手負いの身、しかもこれほど多くの人数に囲まれて逃げ出せるはずもない。観念するつもりのようだ。
「アフレイド家のお嬢様への暴行容疑で、貴様を捕縛する」
黒い服の男が告げる。動きやすそうな服ではあるが、上着はかっちりしていてなんらかの身分があるように見えた。
グレイスはぼんやりとした中で、なにかきらりと黒い服の男の胸元で光るものを見た。きらりと光ったのはアフレイド領、自警組織のバッジだった。
すぐに同じバッジの男がわらわらとやってくる。フレンが蹴りを叩き込んで地面に沈めた、もう二人の男を同じように捕らえた。
「グリーティア様! こちらですべてでしょうか!」
最初に来た男が、びしりと敬礼をして言った。どうやらフレンに向かって言ったようだ。
それでグレイスは知る。先程の笛は、この自警組織の人々を呼び寄せるものだったのだ。
「ああ。……連れていけ。処分はおいおい」
「かしこまりました!」
その言葉のときだけ、フレンはまた冷たい目と声に戻って、告げた。
それですべておしまいになった。グレイスに悪事を働いていた男たちは引きずられていった。自警組織の集団も引き上げていく。残ったのは。
「……お嬢様。無事、ですか」
声をかけられて、グレイスは再びはっとした。
フレンが話しかけてくれている。やっと認識して、グレイスはフレンをおそるおそる見た。
やはり、先程声をかけてくれたときと同じ。グレイスに普段向けてくれる、穏やかな口調と、そして心配げではあるもののずっと落ちついた目をしている。
……助かったのだ。
グレイスの体から一気に力が抜けた。同時にがくがくと体が震えてくる。
……助かったのだ。もう一度、今度は自分に言い聞かせた。
けれどそのあとのことに、グレイスの意識は一気に現実に引き戻された。
「……お嬢様」
ぐっとフレンの腕に力がこもる。グレイスの体を強く引き寄せてきた。
あっと思ったときには、支えられるのではなく、フレンの腕の中にしっかり抱き込まれてしまっていた。
あたたかな体温が伝わってくる。とくとくと速い鼓動も。
なに、これは、いったい。
ぼんやりと、グレイスは追いつかない思考の中で呟いた。
「良かった……良かった、です……ご無事で」
フレンの声は震えていた。涙声にも近い。
ただ、グレイスはそれをはっきり認識することはなかった。
彼の腕に抱かれている。そればかりが大きく心と体に迫ってくる。
どく、どく、と違う意味で心臓が騒ぎだす。熱い血を体中に巡らせるように。
そのとおりに、かぁっと体が熱くなった。
そのうち、そっと体は離されてしまった。代わりにフレンの瞳がグレイスを覗き込んでくる。
グレイスはされるがままになるしかなく、翠色をしたそれをぼんやりと見つめ返した。
「帰りましょう」
ふっと、フレンの目が緩む。
その瞳を見て、やっとグレイスにまともな思考が戻ってきたのかもしれない。まだ震えるくちびるを開いて、やっと言葉を押し出した。
「……ごめん、なさい……、フレン」