グレイスは胸の中でごくりと息を呑んでしまった。ホールは静まり返っている。固唾をのんで見守っている、という空気だ。今、そちらを見るわけにはいかなかったけれど。
「わたくしでよろしいのでしたら、謹んでお受けいたします」
グレイスはしっかりと返答した。決めていたとおりの言葉を言う。ダージルも、グレイスの返事などわかっていただろうが、満足したように目を細めた。
婚約の成立に、おお、とホールに再びどよめきが広がった。一拍遅れて、パチパチと拍手の音が聞こえる。すぐにホールに響くほどの音量になった。
会場の皆から祝福されて、グレイスは笑みを浮かべた。ほかに表情などないではないか。
グレイスのこれを作り笑顔だと思ったか、どうか。ダージルも笑みを浮かべたのだった。
「後日、改めて婚約の儀を執り行います。改めまして、皆様にもご挨拶のお便りを……」
そのあとは父の話に戻った。父もほっとしただろう。そんな空気がグレイスに伝わってくる。
ダージルの横に並び、それを静かに聞きながら、グレイスは右手が気になっていた。
ダージルにされた、求婚のくちづけ。やわらかく感じたくちびるの感触。
嫌悪はなかった。そういうものだと思った。
けれど、喜びはない。ときめいたり、どきどきしたりする気持ちもない。
フレンにされたときとはまったく違っていた、とグレイスは思ったのだった。
左手の薬指できらきらと輝くシルバー。グレイスはそれを陽にかざしてじっと見つめた。
先日の『婚約の儀』。そこでダージルにもらったものだ。グレイスのほっそりとした薬指に婚約指輪を通してくれたダージルは、誕生日パーティーのときと同じように優しげだった。
こうして、名実ともに婚約は成立してしまった。結婚式は一年後ということになっている。
一年。遠いのか近いのか。グレイスにはまだ実感がわかなかった。
「ここにおられましたか、お嬢様」
さくさくと草を踏む音がして、グレイスは振り返った。庭のベンチ、木陰でぼうっとしていたところを見つかったようだ。
今日は午後からしか予定が入っていない。でもそろそろ昼食の時間だろうか。それで呼びに来た、などだろうか。
グレイスはフレンがやってきた理由をそのように予想した。
「なぁに? もうお昼?」
そのまま訊いたのだけど、フレンは笑って首を振る。
「いえ、まだお早いですよ。良いものが届いたので、早くお見せしようと」
フレンの持ってきたもの。それはひとつの箱だった。蓋を開けてくれたのでグレイスは覗き込む。そして、ぱっと目を輝かせてしまった。
「綺麗ね……!」
入っていたのは、色とりどりの糸の束。赤、青、黄色……色ごとに、丁寧に揃えてまとめられている。これは刺繍糸。グレイスの趣味には欠かせないものだ。
少し前に「新しい糸が欲しいわ」とフレンに相談していた。消耗品だからなくなってしまうのだ。いくら趣味のひとつの刺繍で使うだけで、大量には使わないとはいえ。つまり、フレンが新しく手に入れてくれた刺繍糸、というわけだ。
「つやつやね」
「はい。絹糸です。これ以上細いものは作れないそうで……繊細な刺繍に使うのにはとても向いているでしょうね」
「そうね。細かい模様を刺したらとても綺麗だと思うわ」
そっと一束持ち上げる。それはピンク色のもの。つい、好きな色を手に取ってしまった。
手にして感嘆した。見た目よりももっとつやつや。手触りはしなやか。外の領か、もしくは外国などから取り寄せてくれたのかもしれない。この近くに、これほど上等の絹糸が取れる養蚕業はないから。
「なにを作りましょうか。細かい模様でしたらカフェカーテンなどもよろしいかもしれませんね。これから暑くなりますし」
「それ、いいわねぇ。お部屋の窓の傍の棚にかけたら綺麗だと思うわ」
そんな何気ない話をする。このピンクの糸で部屋の装飾になるものを作ったらとても良い気持ちで毎日が過ごせるだろう。
なにを作ろうかに夢中になっていて、グレイスはついつい手元から目を離してしまったようで。くっと、いきなり指先ではないところが糸を引っ張ってしまった感触がして驚いた。
そちらに視線をやると、糸が引っかかってしまっている。……グレイスの銀色の指輪、に。
グレイスはちょっと目を細めてしまった。楽しい話をしていたのに、指輪に意識を引き戻されたように感じてしまったのだ。
楽しいのは今だけ。いつかこの時間はなくなるのだ、と。
「ああ……引っかかってしまわれたのですね」
けれどフレンは特になにも思わなかったのか。事実だけを告げて、グレイスの手元に手を伸ばしてきた。「失礼しますね」とことわってから、糸をそっと外してくれる。
その様子はまたグレイスをちょっと寂しくさせた。フレンの手、手袋をしていてもほのかに伝わるあたたかさ。
それが触れてくれるのが、この指輪をつけてくれるときではなかったこと。
馬鹿なことだと思う。そんなことは当たり前なのに。
「まだ慣れなくて……たまに引っかけてしまうの」
「すぐに慣れますよ」
グレイスの言葉は、引っかけてしまって落ち込んだものだと思われたのだろう。フレンはグレイスの指元から回収した糸を、くるくるまとめている。
今、元通りにはならないだろうが、フレンならあとで、束から引っ張り出してしまったことなどわからないくらい綺麗にまとめてくれるのだろうと思う。
「ところで、お嬢様」
理由はともかく、グレイスの気持ちを慮って、かもしれない。フレンはグレイスの顔を覗いて、にこりと笑った。
「来週に外出許可が出ておられるでしょう。そのときに、布を見に行くのはいかがですか?」
フレンの提案は、グレイスの心を簡単に浮上させてくれた。ぱっとグレイスの顔が輝く。
「行きたいわ!」
そうだ、来週は外出できるのだった。色々ありすぎて、グレイスはすっかり忘れていた。
グレイスの嬉しそうな顔を見て、フレンも釣られたように笑む。その笑顔につい、甘えるような言葉が出てきていた。
「勿論、フレンが来てくれるのでしょう?」
それは今までだったら訊かなかったようなこと。グレイスの従者であるフレンなのだ。外出についてこないということは、よっぽどのほかの用事がない限り、ありえない。
そして今回もそうだったようだ。フレンは当たり前のように肯定した。
「ええ、私が参りますよ」
単純なものだ。グレイスは一気に嬉しくなってしまう。
外出自体が久しぶりなのだ。親戚の元にお出掛け、などでない用事。マリーや祖母レイアなどの身内以外、私的な『遊び』ともいえる外出は月に二、三度しか許されていなかった。
なにをしようか、フレンの言ったように手芸店に布を見に行きたいし、それに洋服や雑貨、メイク用品も見たい。
服は街中の店で売っているものなど、買っても家で着ることは許されない。貴族の娘らしい服でないと父は許してくれないのだ。
なので欲しいと思ったものをチェックしておいて、屋敷で似たようなものを仕立ててもらうのが常であった。まったく同じにはならないけれど、とりあえず自分の好みに近いものは手に入る。それで満足しておくのが平和。
まぁ、『貴族の娘』らしくない服を着ることも、ごく稀にあるのだけど……それはともかく。
そのあとはフレンと、その外出の話になった。行き先は先程グレイスが頭に描いたことであったけれど、もう少し先にある夏の避暑地への用意なども視野に入れておいたらどうかということになり、相談、とはいうものの楽しい話がどんどん出てくる。
あまりに楽しすぎて、屋敷からメイドが「お嬢様、お昼のお時間ですよ」と呼びに来てしまい、フレンはそこでやっと、時間に気付いたらしい。こうして話をしていても、普段は時間のチェックを怠らないのに。
フレンは苦笑いして「夢中になりすぎましたね」と言ったのだが、グレイスは「いいえ、楽しかったわ」と心から笑みを浮かべたのだった。
外出。買い物。
その夜、グレイスは頭の中にそればかり描いてしまっていた。
いや、昼にフレンと話したようなほのぼのした内容ではない。もう少し良くない……フレンに言わせれば『お転婆』なことである。
クローゼットの中にこっそりしまってあるもののことを思い出す。しばらく使っていなかったけれど、サイズなどに問題はないだろう。つまり、準備としてはそう多くは要らないはず。
そろそろおやすみなさいませとされて、ベッドに入っても色々考えてしまって。しばらくは考え事をしていたけれど、そのうちいてもたってもいられなくなって、がばっと起き上がった。さっき考えていたクローゼットを開ける。
クローゼットの奥の奥。すぐに出せない場所に入れたうえに、厳重に箱に入れて保管してあるもの。久しぶりに取り出すことになった。
箱ごと取り出して、ソファへ持っていって、そこで蓋を開けた。
中に入っていたのはベージュのシャツと焦げ茶の上着。そして黒のズボン。それと、大きめのキャスケット。こんな場所にはまったくそぐわない服たち。
これは、グレイスの秘密の服。そう、『お転婆』をするときの装備品なのだ。
中身を確かめる。最後に着たのはもう数ヵ月前だったけれど、そこから体型はあまり変わっていないので大丈夫そうだ。元々、少し大きめの作りなのだし。
久しぶりにこれを使うことを考えて、グレイスはどきどきしてきた。
こんなこと、良くないことだ。そんなことわかりきっている。
けれど、使いたくなってしまった。ここのところ、息が詰まることばかりであったから。
来週は外出許可が出ていて、フレンとお出掛けができる。それも楽しみだったけれど、待ちきれなくなってしまったのだ。
中身を元通り箱に戻して、クローゼットの元の場所に入れて、グレイスは改めてベッドに潜り込んだ。
『それ』をいつにしようかと考える。ひとの目につかない日や時間がいいに決まっている。
そう、父が外出中とか……仕事が忙しくてこもっているとか……。
プラスして、フレンにも用事がある日でなければいけない。頭の中に自分の予定を思い描いて、今度フレンの用事もこっそり情報取得しなければ、と思う。
グレイスはなんだかわくわくしてきてしまった。良くないことを企んでいるというのに。元々、自分には合っていなかったのだ、と思う。どうにもならないことをうじうじ思い悩んでしまうなんて。
だから、これはグレイスが自分らしく羽を伸ばせるためのこと。
計画を立てているだけで、ちょっとの罪悪感はあれど、久しぶりに胸躍るようなことだった。
計画実行できる日は意外と早く来てしまった。父が隣の領へ出掛けることになり、そしてその日は良いタイミングでフレンも公休となっていた。従者とはいえ休日の一日もないわけがない、それが同じ日に当たってくれたことをグレイスは感謝した。
週末の直前だったのも幸い。週末は街にひとが増えると聞いていた。それは街に慣れないグレイスにとってはちょっと困ることであったので、平日にあたったことを感謝しておく。
その日は朝からこそこそと準備を整え、朝食の席でグレイスはちょっと憂鬱そうな顔をしておいた。計画通り、メイドが心配そうに「お体の具合でも優れませんか?」と訊いてくれる。
「ええ……でも大丈夫よ。月のものだから」
いい言い訳である、この理由は。具合が悪くなっても仕方がないという理由。おまけに病気ではないのだから、お医者や薬をと言われることもない。
こういう言い訳に使うのはどうかと思うのだが、グレイスにとって一人きりになって静かにさせてもらえるのに一番いい『理由』であったのだ。
「まぁ、それは良くありませんわ。今日はゆっくりなさってくださいまし。お勉強は……」
「日を替えてもらえるかしら?」
「ええ、それは勿論。教師にお伝えいたしますね」
そのようなやりとりで済んでしまった。一応、具合が悪いという体だったのでグレイスは申し訳ないと思いつつも、朝食のほとんどを残すことになる。それでメイドもグレイスが本当に調子が優れないのだろうと思ってくれたらしい。
朝食後は「お大事になさってくださいね」と部屋に入れられて、ホットミルクを出されて、一人になることができた。
しばらく様子をうかがってから、グレイスは形だけ入っていたベッドから勢いよく出る。俄然楽しみになってきた。
クローゼットから先日の箱を取り出し、中身を出す。そして着ていたネグリジェを脱ぎはじめた。
下着だけになって、普段あまり穿くことなどないズボンに足を通す。ズボン状になっている下の服は、運動の時間にしか着ることを許されていない。それも運動の時間など週に二日ほどしかないのだ。
そのときだけ今着ているものよりずっと優雅なものであるが、ズボンは身に着けられる。活発なグレイスにとってはこちらのほうがよっぽど身軽に過ごせると思うのだが。
それはともかく、そのときとは比べ物にならないほど質素なズボンを穿き、上はシャツを腕に通してボタンを留める。少々大きめの上着を羽織って……。最後に長い髪をひとつに束ねた。
普段、髪を自分で弄ることなどないのだが、いかんせん、グレイスの趣味は刺繍。手先は器用なほうだ。
ちょっと手間取りつつもリボンできゅっと結び、それをくるくるとまとめて、そこへキャスケットをかぶせる。その中に髪をすべて押し込んでしまった。
これで準備は完成。部屋の姿見に自分の姿を映してみて、グレイスは満足した。
どう見ても、貴族のお嬢様には見えない。大人の男性には見えないかもしれないが、とりあえず少年と言い張れるくらいには、中性的に見えるようになった。
次に引っ張り出したのはこれまた布のカバン。肩から掛ける小さめのものだ。これも勿論、こういうときにしか使わないもの。その中にハンカチやちり紙、そして財布を入れる。
財布。貴族の令嬢であるグレイスが普段、自分で支払いなどするものか。街に出たときだって大体は従者であるフレンが払ってくれる。
けれど教養の一部としてお金の使い方は教えられていたし、そのとき勉強用に渡されたいくらかの紙幣や硬貨があった。それをとっておいたのだ。これを使えば、街でちょっとしたものを買うくらいには足りるだろう。
これで準備は済んだ。グレイスはもう一度、姿見で違和感がないかを確かめて、すぅ、と息をついた。そしてぱっと目を開ける。
今日は楽しもう。ちょっといけないことではあるけれど、これで自分の気持ちがあがるのならば、やってしまえ。グレイスの本来の気質である大胆、奔放さを今こそ発揮するとき。
外の様子を十分に伺い、グレイスはそっと部屋を抜け出したのだった。
ひとに遭わないように気をつけながら、裏口へ向かう。裏口は使用人が頻繁に出入りするので、昼間は解放されているのを知っていた。
そこからそろそろ外へ出て、門ではなく、これも敷地内の裏へと向かった。けれどこちらにも簡単ではあるが警備が居る。屋敷に入る者はチェックされてしまうのだ。出ていく者に関しても同じこと。
よってグレイスは裏の庭の端へ向かった。ここに良いものがあるのを知っている。
がさがさ、と草をかき分けると、そこにはグレイスの目論見どおりのものがあった。石壁が壊れて穴になっている。
良かった、まだ見つけられていなければ、修理などもされていないようだ。
少し穴が小さいような気もしたのだけど、グレイスは身を屈めて穴に頭を突っ込んだ。そろそろ身を通そうとする。
けれど穴の出っ張りに阻まれてしまった。昔はするっと通れたのに。
グレイスはちょっと不満を覚える。今よりまだ体が小さかったので、するっと抜けられてしまったのだけど、グレイスの気付かぬうちに体は随分成長していた模様。
それでも、引っかかっていた部分をできるだけ反対側に寄せて、体をじりじり進めていく。布のカバンが邪魔になりそうだったので、肩と頭から抜いて、先に壁の先へと押し込む。
そうまでして、ようやく穴を通り抜けることができた。ふぅ、と息をつく。
こんな、地面を半ば這うようなこと、普段するはずもない。ただの令嬢なら顔をしかめてしまうようなことかもしれないのだけど、グレイスはむしろ楽しくなってしまう。
立ち上がり、布のカバンを元通り肩にかけた。うーん、と手をあげて伸ばす。
文字通り、羽根を伸ばすためのこの『お転婆』。
見回りの者や、通りかかったひとに見つからないとも限らない。さっさと行ってしまうに限る。グレイスは周りを見回し、ちょっと速足でさっさと屋敷から遠ざかっていったのだった。