「お嬢様! どうか降りてきてください!」
下のほうから焦った声が聞こえる。しかし少女の興味は樹の上にあるのだった。その声は聞き流して、上へ上へと登っていく。樹の下で彼女を呼ぶ従者が心配してくれているのはわかるけれど、それより重要なこと。
「もう少し……」
じりじりと手を伸ばす。その先にはぴぃぴぃと鳴き声をあげる鳥の雛がいる。雛なのでなんの鳥かはわからない。けれどわかるのは、てっぺんに近いほど高い部分にある巣から落っこちてしまったということ。
通りかかってそれを見つけた少女は、放っておくことなどできはしなかった。生来のお転婆を発揮して、樹へと足をかけてしまった次第。
少女が樹の太い枝まで登ったところで、彼女がいないことに気付いて探しに来ていた従者がそれを見つけた。
樹の下から呼んでくれるけれど彼はもう随分大人に近付いているのだ。こんな樹に登れば枝が折れてしまうだろう。よって、はらはらと呼びかけるしかないのだ。
それをいいことに、というわけではないが、少女は制止も聞かずに、鳥の雛に手を伸ばしたのだけど。
そのとき、ひゅっと風が吹いた。少女がそのとき足をかけていた枝はだいぶ細かったので、ゆらりと揺れて、少女の体はふらっと傾ぎ……。
「お嬢様っ!」
ぐらっと揺れ、宙に放り出される。従者の聞こえたのも、どこか夢のようだった。
落ちる。
気持ちの悪い浮遊感が体を包んで、地面に叩きつけられる衝撃を覚悟してぎゅっと目を閉じたときだった。
ぼすっ。
なにか、しっかりしてやわらかいものが少女の体を包んだ。
痛くない。はじめに思ったのはそれだった。
それどころか、やわらかくてあたたかい。地面であろうはずがなかった。
そろそろと目を開けると、少女の目に、固くなっている翠の瞳が映った。よく知っている、その色。少女が目を開けて、視線が合ったことにほっとしたようで、ふっと緩む。
「間に合って、良かった……」
自分は枝から落っこちて、従者の彼に抱きとめられたのだ。
理解して、一気に罪悪感が生まれた。自分が勝手をして、しかも危ないことをしたのに、助けてくれた。
やっと、少女は口を開いた。
「ごめんなさい……フレン」
「お嬢様は本当にお転婆さんでしたからね」
お茶の時間。とりとめのない話をしているうちに、幼少期の話になった。
とぽぽ、とティーカップに紅茶を注ぎながら想い出を語るのは、すっかり成長した従者・フレンである。
金色のやわらかな髪と翠色の瞳を持つ彼は今年二十七歳、高い身長も相まって、とても見栄えのする青年になっていた。
「あんなこと、話さなくても良いじゃない」
気心知れた彼と二人なのだ。『お転婆さん』と称された元・少女であるグレイスは膨れた。
元・少女のグレイスもあれから十年近い月日が経って、立派な淑女になっていた。
長く艶やかな黒髪はハーフアップにされているのが常。瞳は偶然であるが、フレンと同じ翠色である。
そんなグレイスは、もうすぐ誕生日を迎えて十六になるところだ。その間、従者のフレンはずっと仕えてくれている。半ば、彼が育てたようなものだとからかう者もいるくらい。
「そういえば、あの雛は助かったのだったかしら……」
幼かったグレイスはその部分が曖昧だった。しかしフレンはしっかり覚えていたらしい。
「大丈夫でしたよ。親鳥が助けに飛んできましたから」
そう聞けばほっとしてしまう。あのかわいらしい雛が地面に落ちて死んでしまっていては心が痛む。それに、そんな悲しいことがあったなら嫌な想い出として残っていただろう。それがないということは、すべて無事に収まったということだ。
「お嬢様はお優しいですけれど、少し向こう見ずなところがありますからね。私は心配で」
「もう聞き飽きたわ」
一応、ありがとう、と言って新しい紅茶を注いでもらったティーカップを取り上げる。ひとくち飲み込んだ。
今日のものは多分、アールグレイ。薫り高く、濃くておいしい。濃く淹れても苦くならないのは、品質が良いということだ。
フレンこそ、とグレイスは心の中で思う。優しいけれど、ちょっと……いや、だいぶ過保護なのだ。幼い頃から一緒にいて、『半ば育てて』くれたのだから、当たり前かもしれないけれど。
グレイスの家は、一応貴族に当たる。けれど高貴で裕福かといったらそれほどでもない。
貴族の中でも一番下の男爵という爵位であるし、小さな領しか持っていない。いわば弱小貴族なのであった。それでも貧しくはないし、領も大概は平和だった。
よって、グレイスの周りは落ちついていたと言える。
ただ、母はとっくに亡かった。病弱で、グレイスが物事つかないうちに病にかかって、あっさり亡くなってしまったのだという。
けれどいかんせん、物心つくかつかないかというほど前の出来事であるので、少しの寂しさはあるものの、グレイスにとっては母がいないことに対して違和感はなかった。
それに。こうして『半ば育てて』くれたフレンがいるのだから。寂しいことなどちっともなかったのだ。フレンは従者であり、兄でもあり、そして母のようでもあったといえる。
ただしグレイスにとって、そうだけとも思えないのだった。きょうだいもいないグレイスには、なにしろ一番身近な異性である。恋愛感情に似たようなものは昔からほんのりあると感じていたし、社交界に出られるような歳にもなろうとしている今では、これはおそらく恋なのであろうと確信しつつあった。
けれどなにしろフレンは従者。
自分は弱小貴族とはいえ、身分ある身。
結ばれるかといったら大いに謎であった。
謎ではあったけれど、身辺があまりに平和すぎて、グレイスは楽観していたといえる。
このまま、穏やかな日々がずっと続いていくのだろうと。貴族のお嬢様として、お勉強やお作法を習って。フレンはずっと自分に仕えていてくれて。そんな日々が、ずっと。
しかしグレイスのそんな呑気な考えは、その数日後に吹っ飛ぶことになったのである。
「婚約……です、か?」
父の部屋に呼び出されたのは、ある日の午後。うららかな良い日よりだったけれど、そんなものを感じる余裕などなかった。言われた言葉が衝撃的すぎて。
領主である父・レイシスは当たり前のように頷く。壮年の父はグレイスと同じ黒髪をしている。その髪にもそろそろ白髪が混じるようになってきていた。
「お前も十六になるだろう。もっと早く相手を見つけておいても良かったくらいだ」
そう言われれば確かにそうなのだけど。女性は十六になれば婚姻を結べるというのが、この国の常。貴族である身であれば、相応の王家や爵位のある相手と、早々に婚約とすることも珍しくない。
しかもグレイスの家……アフレイド家は弱小貴族。もっと身分ある家に嫁げばいわゆる玉の輿になるのである。
ただグレイスは一人娘であるので嫁いでしまうとなると、アフレイド家が存続できなくなってしまう。よって理想的なのは婿養子といえた。父の考えたのもその通りのことだったようだ。
「オーランジュ伯爵家のダージル様とおっしゃる。次男に当たる方らしい」
机から取って渡されたもの。分厚い革張りのそれは、いわゆる釣り書きというものである。見合い相手などの写真や肩書きなどを書いて参考にするもの。
グレイスはまだ自分の身に起こっていることとは信じがたいままそれを手に取り開いた。
そこに写っていたのは美しい男性だった。そう、どちらかというと『美しい』といえる容姿。金の巻き毛を綺麗に整えて、かっちりとした礼装を身に着けて、椅子に腰かけ、微笑を浮かべている。横を見ると、父の言った通りの名と身分、そして年齢などが書いてあった。
ダージル=オーランジュ……二十三歳……。
そこまで見ても、現実感は湧かない。なにしろ降って湧いた話なのであるから。
「お会いしたことがあるが、とても明るく優しい方であったぞ。いい話だろう」
そう言われても、と思う。
婚約。つまり、いつかは結婚。
仮にも貴族の娘として生まれ育っておきながら、そのことに現実味を抱かなかったなど。
グレイスは自分がいかに呑気だったのかをやっと思い知ったのだ。政略結婚とまではいかずとも、親の都合で結婚させられるなど、貴族の娘としては普通のことなのに。
しかし父に口答えなどできるものか。優しい父であるが、家の存続は重要に決まっている。娘を相応の相手と結婚させなければ家が潰れてしまうのだから。
なので、万一、このダージルという人物と結婚とならなくとも、別の相応の身分の男性を勧められるに決まっていた。断ることなどできないのだ。
気が進まないからなんて。決められた相手となんて嫌だなんて。
おまけにまさか従者に恋をしているから、なんて。
そんなことを言えば、フレンが解雇されてしまうではないか。従者と恋などとんでもない、と。フレンから仕事を奪ってしまうのも嫌だし、なにより従者としてだって傍にいてくれなくなるのも嫌だ。
「……こちらは、いつ、お決まりになるのですか」
今のグレイスに言えることはなかった。震えそうな声を、なんとか普通のものに聞こえるよう気をつけながら言った。
父はしれっと言う。グレイスの心の中など知るはずもない。
「今度、お前の誕生日パーティーを開催するだろう。それにお招きしてある。ちょうどいい場だ」
確かに。婚約相手と対面するのにも『ちょうどいい』し、話をするにも、場合によってはダンスのひとつでもして交流するのも『ちょうどいい』。グレイスにとってはちっとも良くなどなかったが。
「さぁ、私はそろそろ仕事に戻らねば。誕生日パーティーの詳細はグリーティアと既に打ち合わせをしたからな、グリーティアから聞くが良い」
詳細はフレンと打ち合わせをした、と彼の姓を出して説明された。でも、それだけ。
そのように、さっさと話を終わりにして追い出されてしまった。グレイスは大人しく退室することになる。ぱたん、と父の部屋の扉を閉めて、はぁ、とため息が出てしまった。
婚約なんて。改めて噛みしめる。婚約がどうこうというよりは、それに思い至らなかった自分の呑気さを、だ。
なかなかその場から動けなかった。衝撃が強すぎて、立ちつくしてしまう。
どうするべきなのか。この恋は……フレンへの恋は諦めるべきなのだろうか。
傍にいてくれるだけでいい、恋仲になれなくてもいい……なんて妥協してしまうのだろうか。
でもそんなことは悲しいし、それに自分の心に嘘をつくことになる。そんな嘘のひとつやふたつ、貴族として抱えていても当然かもしれないけれど……。
やっと自室へと向かえたのは数分後であった。そろそろお茶の時間になる。いつも通りにフレンが用意してくれるのだろう。おいしい紅茶を。グレイスの好きなスイーツもきっと一緒に。
いつもは喜びしかないそれが、今は嬉しい気持ちで迎えられるはずがなかった。
それどころかフレンの顔も、まともに見られるか怪しい、とすら思ってしまったのだった。
「お嬢様、とてもかわいらしいですわ!」
支度をしてくれていたメイドが顔を輝かせる。それはお世辞ではなく、心からそう言ってくれているのがわかるので、グレイスは「ありがとう」と言っておいた。
今日はドレスの試着。誕生日パーティーのためにあつらえてもらった、特別なドレスだ。
黒髪のグレイスは派手な色より、ちょっと色味を落とした大人しめのトーンの色が似合った。よって今回のものもそれに従って、くすみカラーといわれるやわらかな色合いのピンクをメインに作られていた。レースはプレーンな白。リボンも控えめにつけられている。
大人しめの色合いなのは、誕生日パーティーであるから、という理由もある。
十六になるのだ。社交界にも出られる立派な大人として認められる年齢なのだ。かわいらしさしかない、ある意味子供っぽいドレスよりも、少々色っぽさもあるものをということのようだ。
「苦しいところはございませんか?」
うしろでコルセットの紐を引きながらメイドのリリスが声をかけてくれる。
リリスもやはり、グレイスがまだ幼い頃から仕えてくれている使用人である。なのでもう三十近い、妙齢といっても良いくらいの年齢。それでもまだまだ華が残っている年頃で、茶色の髪をうしろでお団子にしてまとめていても、どこか娘のようなかわいらしさがあった。
この国の常であるように、リリスはもうとっくに家庭に入っている。今ではその家から通いで勤めてくれているのだ。
「大丈夫よ、リリス」
特に問題はなかったので、グレイスはシンプルに答えておく。コルセットで腰をきゅっと締め上げられるのももうすっかり慣れたのだ。締め上げすぎなければ問題ない。
そしてリリスだって、もう何度もグレイスの支度をしてくれているのだから、本当は訊かずとも加減などわかりきっているのだ。それでも訊いてくれるのが、優しくて律儀なところである。
かわいらしいドレスで支度をしているのに、あまり楽しくはなかった。普段ならこんな特別なドレスの試着ともなれば、メイドたちと一緒にはしゃいでしまうのに。今回ばかりは楽しいはずがあろうか。
しかしリリスは特に気付かなかったようだ。普段と同じように明るい顔と声で試着を進めてくれている。
こんなにかわいらしいドレスを着るのに。一番近くで見るのは恋している相手ではなく、別の男性なのだ。そう思っただけで、もう今から憂鬱だった。
馬鹿なことだと思う。今までだって、別にフレンが一番近くだったというわけではないのだ。恋仲などではないのだから。
ただ、グレイスが無邪気に「素敵でしょう」と、ある意味見せびらかすようなことをして、一番に見せていたのは子供の頃からそうであったし、フレンもにこにこと「とても素敵です」と言ってくれていただけなのだ。今となってはそんなこと、おままごとのようだったとも思ってしまう。
「さぁ、次はメイクも試してみましょう。先日、新しいアイシャドウを買いましたでしょう。お嬢様が特にお気に召した……」
確かに先日、雑誌を見て新作だというかわいらしいコスメを見つけていた。それを街から取り寄せてもらったのだ。外の領、もっと栄えている街から仕入れたものだという。
見たときにはとても心躍って、「特別なのだから、誕生日パーティーでつけてみるわ!」と決めていたのに。なんだか色あせてしまったような気持ちになった。コスメにはしゃいだ気持ちも、かわいらしく豪華なパッケージに入ったアイシャドウすらも。
でも断ることなどできるはずもない。グレイスは「そうね。お願いするわ」とだけ答えた。
でもあまり素っ気ないと、なにか……気が進まないのだと思われるかもしれない、とやっとそこで思い至った。
メイドや使用人たちには婚約の話などまだ通っていないだろう。だから誕生日パーティーでなにがあるかなど知らないはずで。なのでグレイスは意識して笑みを浮かべた。
「とても良く発色すると書いてあったわ。ラメもとてもかわいらしいと」
「そうですね! 先日拝見したときも……」
「まぁ、先に見たの? 狡いわ」
「使わせていただくのですから、お許しくださいまし」
リリスはグレイスの内心など気付かなかったようで、ここまで通りに明るく話してくれた。
鏡台の前に座らされて、リリスにいつもより丁寧で濃いメイクをお試しにされながら、閉じた目の中でグレイスはあることが気になっていた。
……フレンは、誕生日パーティーで婚約発表があることを知っているのだろうか?
不意に思った。グレイスの従者であるので、パーティーでグレイスの動く手順などはフレンがいつも用意や手伝いをしてくれていた。実際、父も『打ち合わせをした』と言っていた。
けれどそれはどこまで話したのだろう。詳細までだろうか。
その可能性はなくもなかった。婚約発表など重大な、ある意味イベントなのだ。従者が把握していなければ困ることになる。
つまりグレイスに婚約や結婚の話が出たことを知っているのだろうか。その可能性を思ってしまえばもっと心が沈んでしまいそうで、グレイスは一旦、心からそれを追い払うことにした。
今、考えても良いことなんてないだろう。意識してかわいらしいコスメや、それで飾られていく自分のことに集中する。このあと、一人になった夜にでもこの件は思い悩んでしまいそうだとわかっていても。