そう、それである。婚約者らしいこと。
リリスはぼやかして言ったけれど、まぁ、男女のすることである。そういうことに身分の差などないだろう。
「そう、ね……そういう、ことが」
グレイスの視線は少しさまよって、それから下に落ちた。膝の上に乗せていた自分の手を見てしまう。そんなところにはなにもないというのに。
「そうでしたか。それは驚かれましたね」
リリスの次に言ったことはちょっと意外だったので、グレイスは思わずそちらを見ていた。リリスのやわらかな笑みを浮かべた顔と向き合う。
『婚約者らしいこと』
それがグレイスにとってショックであったのを、言わずともわかってくれたらしいのだ。それで少し驚いてしまった。
でもおかしなことでもない。なにしろリリスはグレイスが幼い頃から仕えてくれているのだ。グレイスに恋愛経験がないことは知られている。
そこからの連想で、グレイスが熱を出したこととあわせて、『いきなりのことにショックを受けた』と取ってくれたのかもしれなかった。敏い女性である。
「ダージル様にお気の引けるお気持ちはお察しいたします。でもあまり思い悩まれなくても良いと思いますわ」
リリスの言葉は優しかった。ゆっくり話してくれる。
「私も、お嬢様と同じくらいの年頃に夫に出逢いましたけども。はじめから上手くはいきませんでしたもの」
リリスの話は、実体験に基づいているものだったようだ。それはグレイスの興味を惹いた。
「そう、なの」
既に結婚してからそれなりに長いリリス。グレイスにとってはもう立派な大人の女性である。
「そうですよ。最初から上手くやれる方のほうが少ないのです」
グレイスを力づけるためかもしれないが、そう言ってくれた。グレイスの心はそれにほどけていく。
少なくとも悩みのひとつ。ダージルとのやりとりについて。それは少しずつ軽くなっていくのが感じられた。
「例えばですね、夫が気持ちを伝えてくれたときのことですけど……」
リリスは珍しく饒舌だった。勝手に話しているのではなく、グレイスの心を軽くするために話してくれているのだろう。グレイスは時折相槌を打ちながらそれを聞いた。
数十分も経っただろうか、リリスは「すみません、長話を」と立ち上がった。長くなったのでソファの隣に腰掛けてくれていたのだった。
「そろそろお休みになられますか?」
まだ昼間であるが、病み上がり、というか、治り切っていない状態である。グレイスは少しの疲れを覚えていたところもあり、「そうするわ」と答えた。
「大丈夫ですよ。なにもかも上手くいきますから」
グレイスをベッドに入れてくれて、リリスはグレイスの髪を優しく撫でて言ってくれた。そしてお辞儀をして部屋から出ていった。
一人になって、布団にくるまって、グレイスは息をつく。
リリスと話ができたことで、少し気持ちは軽くなった。少なくともダージルとあったことについては、だいぶ気持ちの整理がついた。
でも、もうひとつ。こちらのほうが、実は遥かに重大な、もうひとつ。
どうしたってひとには言えない。
そんな、……婚約者を袖にするようなことをして、密かな想い人の従者とくちづけをしてしまったなど。
思い出しただけで、顔が熱くなるやら、逆に青くなりそうやらなことである。
どうしたらいいのか。グレイスにはまったくわからなかった。
フレンが自分に応えてくれたのは嬉しい。
取り乱していたところとはいえ、抱きしめてくちづけてくれたことが嬉しい。
けれど、それからどうなるのかと考えると、心臓は冷えていってしまうのだった。
フレンはあれから、なにも言わなかった。
勿論、普段通りグレイスに仕えてくれていた。食事や身の回りのお世話をしてくれた。普段と変わらぬ穏やかな笑みで、優しくて、日常の話をしてくれた。
けれど、あのことに関しては一切触れなかったし、グレイスにも言わせてくれなかった。
グレイスは言って良いものかためらって、結局言えないままであったのだけど。
だからもしかしたらこのまま、なかったこと、になってしまうのかもしれなかった。フレンはそう望んでいるのかもしれないのだ。
でも、とグレイスは思ってしまい、布団を口元まで引きあげてしまった。
フレンの触れてくれたところ、まで。
もう自分の気持ちは後戻りできないところまで来てしまった。こんな気持ちを抱えて婚約者と結婚などできないと、思い知らされてしまった。
自分が我慢すれば、フレンは従者として傍にいてくれるだけで良いと妥協すれば、自分の気持ちに嘘をつけば。それですべて丸く収まって良いのだと思うことは、もう不可能だった。
言わないわけにはいかない。自分の今の気持ちを。
それを誰に言うべきかというのがきっと問題なのだ。
フレンなのか、ダージルなのか、もしくは父か……。
どう最初に動くのが正解なのかはまだわからない。間違ってしまったら壊れてしまうだろう。この日常と将来は。
グレイスの心の中にもやもやと留まり、熱まで出させてしまったのはそれであると、だいぶ落ち着いた今でははっきり自覚できた。
でもどう進んだらいいのかはまだわからない。
早く理解しなければいけないのはわかるのだけど、どうしても進む方向がわからないのだ。
またぐるぐる悩んでしまったのと、リリスと話し込んだのも手伝ってグレイスは疲れてきた。少し眠ろうと思う。
布団をしっかりかぶって目を閉じる。すぐに意識は不透明になっていった。
夢は見なかった。なにも考えずに深淵に沈むようにグレイスは心を癒す眠りへと落ちていた。
熱を出してから五日が経過して、グレイスはやっとアフレイド領の屋敷へと帰還した。
今度はマリーのいない馬車。グレイスの体を気遣ってか、途中、頻繁に休憩を取ってくれた。
フレンは、一緒に乗ってくれなかった。代わりにリリスが同乗してくれた。
「お体の具合がまだ完全ではないでしょうから、同性の方のほうがよろしいでしょう」
そんなふうに言われた。確かにその通りではあるのだが、以前は無かったことである。少し具合の悪い程度なら、フレンがそのまま傍について、体調のこともしっかり見守ってくれていたのだから。
けれどグレイスとしても、密室に約二時間二人きりというのも今は居心地が悪い、と思ってしまった。だから「フレンがいいわ」とは言わなかった。「そうね。リリス、お願い」と受け入れた。
リリスはどう思っただろう、少々奇妙だと思ったかもしれない。リリスにとって、フレンは使用人としての同僚で、昔から同じ仕事をしている立場なのだから。
幸い、馬車でそんな話は出なかったけれど。リリスとて踏み入っていい状況かは心得ているはずなのである。それで、きっと。
休み休みだったので、半日ほどがかかってしまった。それで父への報告も部屋で休んでからということになった。
「出先で熱を出すなど、災難だったが。なにか悪いことでもあったか」
グレイスは特に体が弱いということもなく、普段であれば熱など滅多に出すこともない。寝込むこともほとんどない。だから父もそういう訊き方をしてきたのだと思う。基本的に優しい父親なのだ。
「少し、驚いてしまうことがあって……寒い中、お外で過ごしてしまったのです」
グレイスは本当であることを言った。
実際、その通りなのだ。ただ、原因が口に出せないだけで。
「……そうか。……。まさかと思うが、ダージル様のことではあるまいな」
そう訊かれるとは思ったけれど。実際に直面してしまえばグレイスの心臓は冷えてしまう。
だが返事は考えてきた。嫌な具合に騒ぐ心臓を叱咤して、口に出す。
「……はい。その……触れるようなことを……あまり、考えておりません、でしたの……」
非常に曖昧になった。伝わらないとは思わなかったけれど。
父は少し黙った。グレイスがなにかしらダージルに手を出され、それを拒絶した、ということは悟ったのだろう。
「……それは思慮が浅かったと言わざるを得ん」
「はい。……すみません」
内容は少し違うものの、それも事実。グレイスは素直に頭を下げた。
父はもう一度少し黙り、そうしてから、はぁー、とため息をついた。長いため息だった。
おまけに額を押さえる。確かに父にとっては頭が痛い出来事だろうから。娘が婚約者、それも身分が上の相手になにかしらの無礼を働いて帰ってきたと知ったのだから。
「少々、箱入りにしすぎたかもしれん」
独り言のように言われたことは的確だっただろう。グレイスは確かに箱入り娘、といっても差し支えのないほど、恋愛に対しては慣れていなかったのだから。
別に、誰ぞと恋をしてこい、経験してこさせれば良かったという意味ではないだろう。
想像するなら、もっと婚約を早くするべきだったとか、きっとそういう。
グレイスはなにも言えずに、困ってしまった。父もこれ以上グレイスの言葉を望んではいないだろうが。
「仕方がない。ダージル様に文でも出そう。謝罪申し上げなければ」
「……申し訳ございません」
父にも負担をかけてしまった。グレイスは俯く。
けれどそれより重要なのは。ダージルに無礼を働いたなんて生易しいものではなく、彼と結婚などできそうにない、という事実なのであった。
でもいつ言えばいいだろうか。今言うのは適切でないとわかるけれど。
グレイスが数秒ためらったうちに、父に手を振られてしまった。
「まぁ良い。もう少し体を休めていろ。ぶり返したら困る」
そんな言い方であったが、確かにグレイスのことを慮ってくれている言葉。じわりとグレイスの胸が熱くなる。ぺこりとお辞儀をして、グレイスは「失礼いたします」と父の部屋を退室した。
屋敷の中がしんとしている、と感じたのは数日後のことであった。
しんとしている、といっても静かなわけではない。常のように使用人が行き交い仕事をしている。
けれどなんだか静かに感じてしまうのだ。味気ない、と言い換えてもいいかもしれない。
グレイスは奇妙に思いつつも、半日を過ごした。勉強の日だったので朝、リリスに支度を整えてもらったあとは部屋で家庭教師についた。
勉強も嫌いではないのでそれなりに真面目に取り組み、お昼の時間。
しかしそこでおかしなことがあった。
「お嬢様、ランチのお支度ができました」
グレイスの元へやってきたのは執事長だったのだから。グレイスは首をかしげた。休みでない限り、こういうとき呼びに来てくれるのはフレンに決まっている。
「今日、フレンはお休みだったかしら」
フレンの休みの曜日ではないはずだけど。
グレイスはフレンの休みの日を考える。今まで考えなくても頭に入っていたことなのに。
「ええ……少々、急用が入ったのだと。申し訳ございません」
本当に休みのようだ。急用、ということは急遽、予定になかった休みを取ったということかもしれなかった。
しかし執事長の言葉が妙に歯切れの悪かったのがグレイスに違和感を覚えさせた。それがなにかはわからなかったけれど。
「いいえ、……そう。ランチ、向かうわ」
謝られたけれど、別に執事長は悪くないのだ。グレイスは単ににこっと笑い、彼についていってランチをとりに向かったのだった。
けれど、フレンは翌日になっても姿を見せなかった。
これはおかしい、と流石にグレイスは感じる。そもそも急用なら自分に直接ひとこと告げてくれるのが常であった。それもない。
執事長に訊いても言葉を濁されるばかりで、埒が明かない。
グレイスは仕方ない、と思い切った。
父に訊くしかない。事情を知っていないはずがないのだから。
そこで夕方、父の部屋へ向かったのだが。衝撃的な話に直面することになる。
「グリーティアなら、昨日付けで解雇した」
冷たい声で言われたこと。父がこれほど冷たい声を出すことなど、グレイスを叱るときでも無いことだ。その声がグレイスの胸を冷やす。
内容が染み込んできたのは、一拍遅れてだった。
解雇?
もう、この屋敷に勤めても、いない?
頭を殴られたような衝撃がグレイスを襲う。
ぐらっと意識が揺れて、倒れるかと思ったほどだ。なんとか踏みとどまったけれど。
「ど、どうして……」
やっと口に出した。しかしグレイスは父のその冷たい視線を向けられる。
「理由など。お前もわかっていると思うが」
今度こそ、グレイスの意識ははっきり凍り付いた。
わかっている、なんて。
父に伝わったに違いなかった。あの、別荘で熱を出した原因になったことだ。
息を呑んだグレイスに、父はもはや睨みつけるといっても良いほど冷たく鋭い視線で続きを口に出した。
「従者の分際で、婚約者のいる主人に手を出すなど。解雇でも生ぬるいくらいだ」
なにも言えなかった。
おそらくフレンから父に話したのだろう。
こういうことがあったのだと。
そして自分はこうしたのだと。
そのことに関する謝罪も。
それで父の下した処分が懲戒解雇だったと。
そういうことだろう。
ぐらぐらと頭痛が襲ってくる。
自分になにも言わずにいなくなってしまったのは、これが原因だったのだ。
『わたくしは、いつでもお嬢様のお傍に』
フレンがいつか誓ってくれた言葉が頭によぎった。
お傍にいると、言ってくれたのに。誓って、くれたのに。
一瞬、恨みそうになった。けれどすぐにグレイスは気が付く。
あの言葉を裏切ったのは自分なのだ。
「お父様! 違うのです」
グレイスは思い切って声を出した。お腹の底から絞り出すようになった。そうしなければ発することもできなかったのだ。
「なにが違うというのだ」
ぎろりと睨みつけられる。それに怯みそうになりつつ、グレイスはお腹の下に力を込めた。
駄目だ、引いては。きちんと説明をしなければ。
だってフレンは悪くなどないのだから。
「フレンのせいではないのです。私が……」
ごくっとそこで喉を鳴らしてしまった。こんなことを言うのはためらわれた。
恥ずかしいし、自分の気持ちを口に出すようなこと。
今までなかったのだから。
ずっと胸に秘めていたのだから。
「私が、フレンに願ったのです」
グレイスの告白ともいえる言葉。
父は黙った。息を呑んだようだった。
それはグレイスがフレンに想いを寄せていたという告白であったのだから。
そんなこと、許すはずがないだろう。婚約者がいる身であり、そして規律に厳しい父が許すはずがない。
「ですから、フレンはなにも」
グレイスが続けて言いかけたときだった。
父が口を開いた。重い口調で言う。
「想い合う仲だからと言いたいのか」
グレイスはそれには答えられなかった。
想い合う仲なのではない。
自分はフレンを想っているし、それはずっと前からのことで今も同じ気持ちだけれど、フレンからの気持ちはわからないのだ。
ただ、あのとき腕に抱いてくちづけてくれただけだ。好いているだのの言葉は聞いていない。
だからそうであるなんて言いきれやしないのだ。
いくら抱擁もくちづけも想い人にするものだとはいえ、言葉が無ければ本当のことなんてわからない。
勘ぐるならば、取り乱していたグレイスを宥めるためにしてくれたのかもしれないのだ。フレンはそんな意味でそういうことをするひとだとは思わないけれど、それだってやはりわからないこと。
「それは、……わかり、ません……」
グレイスは俯くしかない。
わからない、なんて情けないことだ。恋仲の者がすることが起こったというのにわからないなど。悲しいことだし、それに。
「わかりもしないというか。余計に許せんことだな」
はぁっと父はため息をついた。困ったもの、というよりは、怒り、であるのだろう。暗くて吐き捨てるようなものだった。
「まぁいい、もうなにも変わらないからな。お前はダージル様に嫁ぐ。それだけしていればいい」
言われて、違う意味でグレイスの心臓が冷えた。
このまま嫁がされようとしているのだ。
そんなことは当たり前なのだが。
だって婚約までしたのではないか。グレイスもそれを受け入れたのだ。自分を偽った結果で、断ることなど出来なかったはいえ、なんの抵抗の言葉も言うことなく受け入れたのだ。
だから、当たり前、なのだ。
でもそんなことはできない。
フレンのことだけではない。
グレイスの心がもう受け入れられなくなっていると訴えてきたのだから。
「できません!」
グレイスは言い放った。ぐっと拳を握って。