来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世では私に冷たい…と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

 恋幸の言葉を聞き、温度の感じられなかった裕一郎の表情が変化した。

 不愉快そうにしかめられた顔を見て恋幸はもう一度謝罪を口にしかけたが、それを彼の低音が制してしまう。


「どういう意味です? 何か大きな誤解をしているようなので言っておきますが、私は『日向ぼっ子』という作家の書く話が好きなだけであって、その中身がどういう人間であろうと作品への評価は変わりません」
(一人称“私”なのかな……? 素敵……)


 違う方向で勝手に心をときめかせる恋幸だが、そう語る裕一郎は真剣そのものだ。
「それとも、貴女は正体がバレると質が落ちるような作品を書いているんですか?」
「……っ!! いいえ!! そんなことはないです!!」
「では、何の問題もありませんね」


 そこで彼女はハッとする。

 言葉こそ厳しいように感じるが、彼は励ましてくれたのではないだろうか?
 暗に「気にするな」と言ってくれているのではないだろうか?

 とても都合の良い憶測に過ぎないかもしれないが、そう思うと途端に表情筋が緩んでしまった。


「……なんです? 一人でニヤニヤして……」
「いえ! その……ありがとうございます」
「……感謝される覚えはありませんが」
「私には覚えがあるので遠慮なく感謝されていてください!」
「意味がわかりませんね」


 そう言うものの、言葉に反して彼の表情はどこか優しい。
 なおも恋幸がにこにこと脳天気な笑顔を向ければ、裕一郎は一つ息を吐き駐車場を指差した。


「……出かけるんでしょう? 無駄に時間を潰していないでさっさと行きますよ」
「はいっ!!」


 このわずか5分後……彼女は、軽率に頷いたこの時の自分を恨むことになる。
「……大丈夫ですか?」
「ダイジョブデス……」


 今現在――……恋幸は少しでも気を抜けば口から心臓がポロリしてしまいそうなほど追い詰められており、全く“大丈夫”な状況ではなかった。


「んふーっ……んふーっ……」
「……」


 なぜ彼女の鼻息が荒いのかというと、7割の原因は今いる“場所”にある。
 あの後、裕一郎の顔に浮かんだ微笑みの理由が恋人の存在ではなかった事や、どうやら彼が自分のファン……かどうかはさておき、1人の大切な読者であった事。『日向ぼっこ』の正体を知ってもなお、作品に対しての気持ちが変わらないでいてくれた事などなどにより嬉しさが限界突破していた恋幸は、スキップするような足取りで裕一郎の後ろをついて歩き彼の車に「お邪魔します!」とウキウキで乗り込んだ。
 そう――……乗り込んで“しまった”のである。彼の、車に。

 狭い車内に二人きり、何も起こらないはずがなく……いや、実際に“まだ”何も起きていないのだが、シートベルトをした瞬間から恋幸は数分前の自分を恨みながら正気を保つので精一杯だった。
 少し目線を移動させれば、その先にあるのは骨ばった男性らしい手でハンドルを握り、慣れた手つきで運転する裕一郎の横顔。そして、たまに鼻腔をくすぐる香水らしき甘い匂い。そんなものをほぼゼロ距離とも呼べる近さで浴びせられているのだから、「落ち着け」と言う方が無理な話だろう。


(な、何か……! 話題、話題……っ!!)


 しかし、いつまでも鼻呼吸を繰り返し黙り込んだままでいるわけにはいかない。きっと裕一郎を退屈させてしまっているはずだ。
 そう考えた恋幸が小さな脳みそから必死に絞り出したのは、


「あっ、あの……いい車ですね!!」
 独創性の欠片もないが、車が好きな一般の成人男性相手であればそこそこの盛り上がりを期待できるであろう話題。
 だが、進行方向を見据えたままの裕一郎が返したのは「……そうでしょうか?」という、疑問形に縁取(ふちど)られたセリフで、


「そ、そう……なん、じゃ、ないですか……?」
「……はあ、そういうものですか。車種には特にこだわりや興味が無いものでして……今乗っている“これ”も、実績のあるディーラーに勧められた物を買っただけなので……」
「そ、そうなんですね!」
「はい、そうです」


 ――……以上。会話、終了。
 それから恋幸は窓の外を流れる景色に目をやりつつ、時折、信号の色が変わるまでの時間を数えていた。こうしていれば、彼との間に存在するこの透明な空気に虹色を混ぜられるような『何か』を見つけられるかもしれない。
 そんな風に考える恋幸の耳を不意にくすぐったのは、


「……すみません」
「――っ!?」


 ぽつりと落とされた裕一郎の呟きだった。


「え……えっ? どう……なんで、倉本様が謝るんですか……?」
 彼女が問い返したタイミングで車は赤信号にさしかかり、裕一郎はゆっくりとブレーキを踏む。
 その間、恋幸は彼の横顔を見据えたまま次の言葉を待っていたが、空色の瞳が彼女の姿を映すことはなかった。


「……あの、くらも」
「移動のためとはいえ、嫁入り前の女性を車に乗せるべきではありませんでした。密室空間で2人きりになるような真似は避けて当然だというのに……考えが及ばず、小日向さんに不快な思いをさせてしまい、すみませんでした」
「……え……」


 今、何を言われたのか。恋幸は、彼の言葉を素直に飲み込むことができない。