だが、仮にも恋愛小説を書いて食い繋ぐプロ作家でありながら、恋幸の中では『裕一郎と両思いである事』と『交際する事』がイコールで結びつけられていなかったのだ。
それは彼女の経験の浅さ故に生まれる齟齬であると同時に、裕一郎を慕いすぎるがあまり「彼が私と交際したいと思ってくれるだなんて奇跡が起こる確率は限りなく低い」と勝手に思い込んでしまっていた結果である。
(か、彼女になって頂けるように……!? 聞き間違えじゃないよね!?)
さらに熱を増す頬に両手を置いて混乱する恋幸。
縁人はそんな彼女の顔を下から覗き込み、目線が交わるとにかりと笑って名刺を差し出した。
「これ、どーぞ! 俺の連絡先が載ってるんで、何かあったらいつでも連絡してください! 主に倉本さんに関する相談とか!」
「あっ、ありがとうございます……! すみません私、いま名刺持ってなくて、」
「いーっす、いーっす! これ以上倉本さんにヤキモチ妬かせたらマズイんで!」
(ヤキモチ……?)
いつも落ち着いていて心に余裕を持った大人の男性である(と、恋幸が思い込んでいる)裕一郎がまさか、秘書の方と少し親しくしただけで嫉妬するわけがない。
そんな考えと共に彼女が目線を移動させた先にあったのは、綺麗な眉を八の字にして唇を引き結ぶ裕一郎の姿だった。
しかしそんな表情も恋幸の視線に気づくと同時に消えてしまい、わずかに首を傾げる彼の様子からは『わざと不機嫌を表に出していた』とは考えづらい。
つまり、
「……倉本さんって、無自覚かもしれませんけどよーく見てると結構わかりやすいっすよね」
「……? 何がですか?」
「なんでもないっす! 邪魔者はもう消えますんでお幸せに! 明日また会社で! あと……小日向さん。倉本さんのこと、マジで頼みますよ。本気と書いて、マジで」
「は、はいっ! マジで任せてください!」
縁人と手を振って別れたあと、無言のまま2人で家路を辿る。
恋幸が盗み見た裕一郎の横顔は特に何の色も浮かべておらず、彼が今なにを思っているのか予想することは難しかった。
帰宅後――2人はまず洗面所で手を洗ってから床の間へ向かい、エアコンの電源を入れて買ってきたパスタを電子レンジで温める。
その間とくべつ会話を交わすことは無く、座卓を囲み「いただきます」と声を合わせて言った後もただ静寂が流れるのみだった。
恋幸にとって、裕一郎との間に生まれる静けさは決して苦痛ではない。むしろ心地良さすら覚える。
しかし、つい数十分前に出会った縁人の口から出た『とあるワード』や裕一郎の放った“あの”セリフについて気になっていることも確かで、いつ話題に出そうかとタイミングを伺っている間にお互い晩御飯を食べ終わってしまった。
「……そういえば、」
二人で座卓の上を片付けてから温かい緑茶を飲んでいた時、向かい側に座る裕一郎がおもむろに口を開く。
「先ほどはすみませんでした」
「?」
謝罪の意味をすぐに理解することができず、恋幸は首を傾げて彼の顔をまっすぐ見据えたまま頭を働かせた。
記憶を辿った結果、唯一思い当たったのは縁人から威嚇された事で、彼女が「驚きましたけど、全然気にしていないので謝らないでください!」と笑顔を向ければ裕一郎は緩やかにかぶりを振る。
「縁人の件ではなく……コンビニで、代金を払わせてしまったことについてです」
「……?」
彼の返答を聞いて、恋幸は更にわけが分からなくなってしまった。
「代金?」
それがどうかしましたかと彼女が問うより先に、胸ポケットから財布を取り出す裕一郎。
恋幸は慌ててその手を掴んで「倉本様が払う必要はないですよ!」と引き止めるが、彼はなぜか不思議そうに目を丸めて薄い唇を持ち上げた。
「そういう訳にはいかないでしょう。貴女が『日向ぼっ子』であるかどうかに関わらず、未成年に夕飯代を出させるのは気が引けます」
「え?」
「うん?」
今、空耳や聞き間違いでなければ裕一郎の口から“信じたくない”ワードが落ちたような。
「未成年……?」
気のせいである可能性を祈りながら彼女が“それ”を反芻すれば、眼鏡の奥にある瞳が何度かまばたきを繰り返す。
「あ、あのー……倉本様って、私のこと何歳だと思っているんでしょうか……?」
「19歳、ですが」
ショックのあまり気を失ってしまいそうになったと言えば少しオーバーかもしれないが、恋幸の受けた衝撃はそれほどまでに強烈なものだった。
たしかに、身長こそ155センチと決して高い方ではない。学生時代、近所のおばあちゃんに「童顔だね」と言われた事もある。
しかし、裕一郎と初めて出会ってから今の今まで未成年に思われていたなどと誰が予想できただろうか?
「ち、違いますっ!! 私は今24歳で、今年で25歳になります……!!」
「……はい?」
「ほら!! 見てください!!」
恋幸が財布の中から急いで保険証を取り出し生年月日の欄を見せつけると、彼は少し前屈みの姿勢になってそれを確認した後、背筋を伸ばし片手で口元を覆い隠しつつゆっくりと目を逸らした。
「……すみません、失礼しました」
「いえ! すごく驚きましたけど、倉本様は何も悪くないです!!」
ずっと誤解されていたのだと改めて理解した途端、彼女の頬は自然に緩んでしまう。
「えへへ。でも、良かったです」
「何がですか?」
「この前……倉本様が『まだ手は出さない』って言ったの。私には魅力がないのかなと不安になっていたんですけど、未成年だと思っていたからなんだなって考えたら少し安心しました」
ストレートすぎる恋幸の言葉に対して裕一郎は何も返さず、訪れた静寂が少しのあいだ二人を包み込んだ。
彼女はそこでようやく自身の発言が持つ意味に気づき何とかしてこの空気を誤魔化すためのセリフを探すが、こんな時に限って前頭葉がまともに機能しない。
「……貴女が、誰にでもそんなことを言う人間ではないと理解しています。でも、」
いったん唇を引き結んだ裕一郎は、目線を恋幸に移動させてからおもむろに片手を伸ばして赤く染まった彼女の頬にそっと触れた。