来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世では私に冷たい…と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

 そう……何を隠そう彼女は、星川への感謝と愛情で頭がいっぱいになっていたため、ここまでどの道をどうやって歩いてきたか全く見ていなかったのだ。

 更に言うなら、恋幸はもともと方向感覚が(すぐ)れているわけでもない。


「……あの……お恥ずかしい話なのですが、その……ここまでどうやって来たかわからなくて、ですね……」
「ああ、そういうことでしたか……! ふふ。ここは裕一郎様の部屋のちょうど真反対になっていますから、もし迷った時は裕一郎様に聞けば大丈夫だと思いますよ。私がいる時には遠慮なく私を呼んでください、すぐに駆けつけますので」
「ほ、星川さん……」


 ときめいている場合ではないのだが、ひとまず難を逃れた(はずの)恋幸は部屋の隅にキャリーケースをおろし改めて星川に感謝の意を述べた。
「あっ! そういえば、ゆうっ……倉本様はどちらに?」
「裕一郎様はお仕事に行かれているので、早ければ8時。遅くなれば、11時を過ぎた頃に帰ってこられますよ」
「そうなんですね……」


 よくよく考えれば、恋幸は裕一郎が何曜日に出勤なのか・固定休があるのかなど、彼の仕事について一切知らない。
 今日だって「いつでも好きな時に来ていい」という言葉に甘えて家を飛び出してしまったが、星川が不在のケースを想定していなかった。

 出会った最初のころ裕一郎から注意を受けたというのに、“イイオンナ”になるどころかどこまでも軽率な自分自身の行動を(かえり)みて恋幸は肩を落とす。
 そんな彼女を見て少し勘違いしたらしい星川は、ずいと恋幸に身を寄せて内緒話でもするかのように片手を口に当て囁いた。
「ふふ。小日向様が『寂しいから早く帰ってきてね』と一言LIMEすれば、きっと8時どころか7時には仕事を切り上げて帰ってきてくれますよ」
「LIMEを……」


 星川の言葉をぽつりと繰り返してから、恋幸は勢いよく彼女の方を向く。


「星川さん……」
「は、はい。どうされました?」
「私、そういえば……倉本様の連絡先、電話番号しか知らないです……」
「……えっ?」


 その後。
 星川は今後の2人の関係を案じながら、「今日の夕食、よろしければ一緒に作りませんか? 小日向様の手料理だと聞けば、きっと裕一郎様も喜ばれますよ」と提案するのだった。
 夜の8時半を過ぎた頃、カラカラと玄関の扉が開き心地よい低音が言葉を紡ぎ落とす。


「ただいま」
「裕一郎様、おかえりなさいませ」
「おっ、お仕事お疲れさまです!!」


 星川の横に並び頬を赤くして出迎える恋幸を見て、裕一郎にしては珍しくあからさまに驚いた表情を浮かべた。

 そんな彼の様子に、星川にも『驚き』が伝染する。
 裕一郎が自分以外の“女性”に対してここまではっきりと感情を表すのは、とても珍しいことであると既知していたからだ。


「……なぜ、小日向さんが?」
「お、お言葉に甘えて……泊まり、に、来ました……すみません……」
 語尾にかけて消えていく言葉と、少しずつ足元に移動する恋幸の目線。
 流れる沈黙に星川がフォローを入れようとしたタイミングで、裕一郎が「ふ」と小さく笑う。


「なるほど、そういうことでしたか」
「すみません……」


 靴を脱ぐ彼の背中に恋幸が再び謝罪をこぼせば、裕一郎は体勢を変えてゆっくりと彼女に歩み寄り、その頭をぽんと撫でた。


「どうして謝るんですか? こんなにすぐ会えるとは思っていなかったので、少し驚いただけです。……お陰様で、疲れが吹き飛びましたよ。ありがとうございます」
「あっ、あ……そ、それならよかったです……はい……おかえりなさい、です……」
「……うん。ただいま」
(うん!? うん、だって! 裕一郎様も『うん』とか言うんだ……!? 素敵!!)
 脳内に花畑が出来上がる恋幸には、そのすぐそばで星川が驚きに驚きを重ねていたことになど気づけるわけもない。





 星川と恋幸が先に床の間へ向かい夕飯の準備をしていると、手洗い・うがいを済ませた裕一郎が襖の向こうから顔を出す。


「……お二人に全て任せてしまってすみません」
「そんな……! 倉本様は仕事でお疲れなんですから、ゆっくりしていてください!」
「ふふ。そうですよ、裕一郎様。気にしないでください。それに、これが私の仕事ですから」
「……はい、ありがとうございます」
 建前では気の利いたことを言う恋幸だが、心の中では「新妻気分で楽しい!」とうかれきっていた。
 その証拠に、座布団に腰を下ろしてスーツのジャケットを脱ぎ、緩く畳んで自身の後ろに置く裕一郎の様子を見送る彼女の瞳孔はハート型になっている。

 星川は二人にバレないよう小さく笑って座卓に人数分の取皿を置くと、「さあ、食べましょう」と言って今だ(ほう)けて立ちすくんだままの恋幸の肩を軽く叩いた。


「いただきます」


 全員で座卓を囲んで手を合わせ、軽く一礼してから各々箸を持ち料理をつまむ。今晩のメニューは、肉じゃが・鯖の味噌煮・味噌汁とほうれん草のおひたしだ。
 そして、(星川のサポートがあったものの)その全てを調理したのは恋幸である。
 故に反応が気になって仕方のない彼女は今、自身の食事もそっちのけで食い入るように裕一郎を監視……見ていた。その目はまさに獲物を狙うライオンで、星川は唇を引き結び笑いを噛み殺す。


「……」
(どきどき……)


 よく味の染みたじゃがいもを箸で器用に持ち上げ口に運んだ裕一郎は、2、3回咀嚼(そしゃく)したかと思えば手元に目線をやったままぴたりと動きを止めてしまった。
 同時に、恋幸の心臓も止まる。


(ひゅっ……まずかったのかな……)
「裕一郎様、どうかされましたか?」
「……いえ、」


 空気を読んだ“できる女”の星川がそれとなく声をかけると、彼は緩くかぶりを振って今度はほうれん草のおひたしを一口。
 それから十数秒かけて飲み込み終えるなり、ゆっくりと顔を上げ呟くように言葉を落とした。


「間違っていたら本当にすみません。……今日の夕飯、作ったのは八重子さんじゃないですよね?」
「……!! ええ、はい。その通りです! 実は、今日は小日向様が作ってくださったんですよ」


 嬉しそうな星川の返答を聞いて裕一郎は「なるほど」と一つ頷き、口の端を少しだけ持ち上げ恋幸の赤い顔に目線を移動させる。


「そ、の……お、お口に合いましたでしょうか……」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「ど、どういたしましてです……」