「お疲れ様」
頭上から降り注ぐ声に、内心溜息が零れた。
「…お疲れ様です、椎名さん」
できるだけ表情に出さないように、努めて口角を上げた。そんな私を見て、彼はくすりと笑う。
私は彼のことがどうも苦手だった。仕事は早く、指示も的確で上司や部下からの信頼も厚い。私もその部分では上司である彼のことを尊敬している。ただ、見透かされているような気さえする眼鏡の奥の涼しげな眼と、何を考えているのか読み取れない笑みが、苦手、という結論に至らせた。そして、苦手な理由はもう一つ。
「これ、良ければどうぞ」
彼は私のデスクにホットコーヒーを置く。
「…お気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ」
一応お礼は言う。しかし、私は分かっていた。それが、彼の優しさというわけではないことを。
仕事の遅い私は、残業で会社に残ることが多い。そんな私を見かねてか、椎名さんは私と共に残ってくれることが多々あった。なぜなのかは分からない。それほど親しい間柄とは言えないにもかかわらず、彼は助言をしてくれたり、仕事を手伝ってくれたりするようになっていったのだ。そして、仕事が一段落し、ようやく帰れる、と思ったところで、彼は決まってホットコーヒーを差し出してくる。
傍から見れば、それはただ単に後輩を労おうとしてくれる優しい上司なのかもしれない。しかし、私にとってそれはありがた迷惑以外の何物でもなかった。何を隠そう、私は猫舌なのだ。ホットコーヒーをすぐに飲み切ることなどできない。ましてや、彼の淹れてくれるコーヒーはかなり熱いのだ。飲み切るまでにかなり時間を要する。つまり、折角仕事が終わってもしばらくは帰れない。
きっと、いや絶対に、彼はそれに気づいている。気づいたうえで、熱々のコーヒーを淹れて、私ににこやかに差し出してくるのだ。そして、恐る恐る口をつけては飲めずに息を吹きかける、という行動を繰り返している私を見て、面白そうに笑っている。「いりません」と突き返すことができれば良いのかもしれない。しかし、それはさすがにできない。優しさ100%では絶対にないとしても、彼の気持ちを無下にはできない。
オフィスには静寂が訪れた。彼は静かに、そして私とは対照的に涼しげな顔でコーヒーを飲んでいる。
……気まずい。彼は口数が多い方ではない。だからいつも、私はこの時間には早く冷めてくれという思いでコーヒーを見つめながら過ごすしかなかった。
「…あの」
だから、何となく話しかけたのには、それほど深い意味はなかった。気まずさをどうにか紛らわせたくて、私はちらりと彼の方を見て、声をかけてみたのだ。
「なに?」
笑みを浮かべて首を傾げる。感じられるそれは、大人の余裕、なのだろうか。
「椎名さんって、熱めのコーヒーが好きなんですか」
私の問いに、彼は一瞬不思議そうな顔をして、それからくすりと笑った。
「いや、別に」
そして、笑ってそう返してくる。
「なんで?」
分かっていそうなものだが、彼は面白そうに私に聞き返してくる。
「…椎名さんが淹れて下さるコーヒー、結構温度高めだなぁとか、思って」
無理やり作った笑顔で返す。確実に上手く笑えていなかった。彼はそんな私の表情を見て、またおかしそうに笑った。
「家で飲むコーヒーはここまで熱くないよ」
からかわれている。彼は私と目を合わせる。
「じゃあ、なんで」
私の問いに、彼は「んー」と視線を逸らして、
「好きな子って、いじめたくなるものでしょ」
と、何の悪びれもなしに言った。
「……えっ?」
思わず、言葉を失う。からかいたいからとか、反応が面白いからとか、そんな返事ばかりを想像していた。まるで小学生みたいな台詞と共に、告白のようなものを、された…?
「それにね」
彼は私の隣の席に腰掛ける。そして、またじっと私と目を合わせた。逃げ出したいような、聞きたいような。蛇に睨まれた蛙のような、そんな状況。
「笹本さん、熱いの苦手だよね」
「だから」と続いた彼の声とその視線に、引きずり込まれそうになった。
「長い間、一緒にいられるでしょ」
End.
頭上から降り注ぐ声に、内心溜息が零れた。
「…お疲れ様です、椎名さん」
できるだけ表情に出さないように、努めて口角を上げた。そんな私を見て、彼はくすりと笑う。
私は彼のことがどうも苦手だった。仕事は早く、指示も的確で上司や部下からの信頼も厚い。私もその部分では上司である彼のことを尊敬している。ただ、見透かされているような気さえする眼鏡の奥の涼しげな眼と、何を考えているのか読み取れない笑みが、苦手、という結論に至らせた。そして、苦手な理由はもう一つ。
「これ、良ければどうぞ」
彼は私のデスクにホットコーヒーを置く。
「…お気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ」
一応お礼は言う。しかし、私は分かっていた。それが、彼の優しさというわけではないことを。
仕事の遅い私は、残業で会社に残ることが多い。そんな私を見かねてか、椎名さんは私と共に残ってくれることが多々あった。なぜなのかは分からない。それほど親しい間柄とは言えないにもかかわらず、彼は助言をしてくれたり、仕事を手伝ってくれたりするようになっていったのだ。そして、仕事が一段落し、ようやく帰れる、と思ったところで、彼は決まってホットコーヒーを差し出してくる。
傍から見れば、それはただ単に後輩を労おうとしてくれる優しい上司なのかもしれない。しかし、私にとってそれはありがた迷惑以外の何物でもなかった。何を隠そう、私は猫舌なのだ。ホットコーヒーをすぐに飲み切ることなどできない。ましてや、彼の淹れてくれるコーヒーはかなり熱いのだ。飲み切るまでにかなり時間を要する。つまり、折角仕事が終わってもしばらくは帰れない。
きっと、いや絶対に、彼はそれに気づいている。気づいたうえで、熱々のコーヒーを淹れて、私ににこやかに差し出してくるのだ。そして、恐る恐る口をつけては飲めずに息を吹きかける、という行動を繰り返している私を見て、面白そうに笑っている。「いりません」と突き返すことができれば良いのかもしれない。しかし、それはさすがにできない。優しさ100%では絶対にないとしても、彼の気持ちを無下にはできない。
オフィスには静寂が訪れた。彼は静かに、そして私とは対照的に涼しげな顔でコーヒーを飲んでいる。
……気まずい。彼は口数が多い方ではない。だからいつも、私はこの時間には早く冷めてくれという思いでコーヒーを見つめながら過ごすしかなかった。
「…あの」
だから、何となく話しかけたのには、それほど深い意味はなかった。気まずさをどうにか紛らわせたくて、私はちらりと彼の方を見て、声をかけてみたのだ。
「なに?」
笑みを浮かべて首を傾げる。感じられるそれは、大人の余裕、なのだろうか。
「椎名さんって、熱めのコーヒーが好きなんですか」
私の問いに、彼は一瞬不思議そうな顔をして、それからくすりと笑った。
「いや、別に」
そして、笑ってそう返してくる。
「なんで?」
分かっていそうなものだが、彼は面白そうに私に聞き返してくる。
「…椎名さんが淹れて下さるコーヒー、結構温度高めだなぁとか、思って」
無理やり作った笑顔で返す。確実に上手く笑えていなかった。彼はそんな私の表情を見て、またおかしそうに笑った。
「家で飲むコーヒーはここまで熱くないよ」
からかわれている。彼は私と目を合わせる。
「じゃあ、なんで」
私の問いに、彼は「んー」と視線を逸らして、
「好きな子って、いじめたくなるものでしょ」
と、何の悪びれもなしに言った。
「……えっ?」
思わず、言葉を失う。からかいたいからとか、反応が面白いからとか、そんな返事ばかりを想像していた。まるで小学生みたいな台詞と共に、告白のようなものを、された…?
「それにね」
彼は私の隣の席に腰掛ける。そして、またじっと私と目を合わせた。逃げ出したいような、聞きたいような。蛇に睨まれた蛙のような、そんな状況。
「笹本さん、熱いの苦手だよね」
「だから」と続いた彼の声とその視線に、引きずり込まれそうになった。
「長い間、一緒にいられるでしょ」
End.