俺のその言葉に、彼女は驚いたような表情をした。そして、俺の想像していたのとは違う反応を見せた。てっきり頷くと思っていたのだ。遠慮がちに、顔を真っ赤に染めて。しかし彼女は、納得していないような、不思議そうな様子だった。そして。次に見せた彼女の表情に、嫌な予感がした。感じたことのある、危機感だった。
「それは、駄目だよ」
意志の強い、否定だった。
「私は、アキには見合わないよ」
その言葉を聴いた瞬間、絶望を感じた。きっとこれが、絶望だった。そして思った。結局、ひよも同じだったのだと。信者の俺に向ける目、母が向けてくる目。それと同じ目を、目の前のひよもしていた。もう、全て終わりだと思った。もう、何もかもどうだってよかった。
一気に酔いが覚めて、ひよに帰るように促す。顔を見れなかった。見たくなかった。もう、あの目を向けられるのには疲れたのだ。
俺はどこまでも勝手で馬鹿だった。結局は人々と変わりなかったひよのことも、ひよに裏切られたと感じている自分のことも嫌だった。勝手に彼女に期待して、勝手に彼女に光を見てしまったのだ。彼女だけは、違うと。
それからの日々は、消化試合のようなものだった。苦手な部屋の掃除をし、活動で関わってきた人々に挨拶をする。そして、書き溜めた楽譜を積み重ね、一言、残しておく。
『俺の曲は全部ひよにあげる』
それ以上の言葉は、必要ないと思った。必要最低限の言葉を残し、この世界からも彼女の人生からもひっそりと消えることができればそれでいいと思った。
空っぽになった部屋で、床に寝転がる。窓の外は晴天だ。
今日だと思った。
今日こそが、その日だ。
思い立てば、体はすんなりと動く。体を起こし、着の身着のまま玄関を出る。荷物は何もいらない。あの世に持っていけるものなど何もないのだ。いや、まずあの世すらあるかも分からないが。何も持たずに歩くその身軽さは心地よかった。冷たい風も、体の隙間を通り抜けていく。まるでもう、この世にいないようだった。
ふらふらと見慣れた街を歩き、辿り着いた古びたビル。以前から目を付けていたのだ。ここなら丁度いいと。このビルはもうすぐ取り壊されるらしい。事故物件にならずに済むだろう、なんて、今更顔も名前も知らない、最早存在すらしない誰かのことを思いやる振りをする自分に笑えた。
エレベーターなどない古いビル。きっとあっても動かないのだろうけれど。普段階段を上ることは極力避けるが、今回は別にいいと思った。特に疲労感を感じない。
一段一段階段を上る度に、これまでのことが思い出された。まるで走馬灯だ。少しずつ高くなってく景色。意識せずとも動く足。これまでの自分のようだった。意識せずとも、神だなんだと崇められ、まるで天に昇らされているような感覚。それは不快でしかなく、でも、もう降りることもできないと諦めた。
いや、一筋だけ、光が差したことがあった。神だなんてあやふやで遠い存在でいなくても、受け入れてくれた存在があった。彼女といた時だけは、俺は。
彼女との全てを、綺麗な思い出として、終わりを告げる動画の投稿ボタンを押す。全て、終わったのだ。
そう思った瞬間に、古いビル中に着信音が響いた。放っておいてもよかった。しかし、画面を見て、俺は通話ボタンを押した。"ひよ"という2文字で、俺は揺れた。都合の良い幻想なのかもしれなかった。今更何もかも遅いのだ。彼女はもう、あの頃の彼女ではなくなってしまったのだから。それでも俺は、彼女に居場所を教えてしまった。
「お願い、待ってて」
彼女のその言葉で、電話は切れた。最期に伝えることなど何もない。強いて言うなら、"どうか幸せで"なんてありきたりなものしか思い浮かばない。
足を止め、階段に腰掛ける。なぜ彼女の言うとおりに律儀に待っているのか、自分でも分からなかった。会って目の前で死ぬなんて、彼女にトラウマを植え付けるだけなのに。それを分かっていながらも、その場を動けなかった。もう、何も考えたくなかった。ただ、はぐれてしまった子どもが母親を待つように、俺はじっと待っていた。
「アキ」
ふと、俺の名前を呼ぶ声が響いた。聞き慣れた、優しい声。懐かしさすら感じるその声に、俺はゆっくりと顔を上げた。
ゆるりと上げられた顔。その表情は、意図が読み取れない。言うなれば、虚ろだった。もう、手遅れなのかもしれない。そんな思いが過った。
「アキ、ごめん」
届くかも分からない謝罪を、ぼんやりと合っているのかも分からない目を合わせて口にした。今ここで、全てを謝りたかった。それしかできないと思っていたから。それを彼が望んでいるのかも分からない。それでも、こうするしかなかった。
「アキのことを、私は、他の人と同じように」
「ねぇ、ひよ」
アキの声が、私の言葉を遮った。アキの表情は変わらず、目に映っているのが本当に目の前の私なのか分からない。アキが、息を吸った。次に発される言葉を、私はじっと待つ。
「神なんて、いないよ」
そして、その言葉が、ふわりと落とされた。私が立っている位置よりも数段高いところに彼は座っていた。少し顔を上げれなければ、彼の顔は見えない。
目の前にいる、私の神様。その神様が、神はいないと言ったのだ。神様は絶対で、神はいないと神が言ったならば、それは正しい。疑う余地もなかった。
結局、ここまで来て、やっと私は気づいた。
私は神様に、懺悔しに来たのだと。罪を告白し、悔い改めると誓いに来たのだ。私は、私のために。彼を救いに来たわけではなかったのだ。
結局神様がそれを否定するまで、私は信じていなかった。彼が、神様ではないことに。
それに気づいて、ようやく目の前の彼を確かに視界に入れることができた。読み取れなかった彼の表情。それは、読み取れなかったのではなく、読み取ろうとしなかっただけで。
目の前の彼はぼろぼろで、泣くのを必死に耐える子どものようだった。
私には、最後の天命があった。
乱暴に天に投げられてしまった人間の彼を、引きずり落とすという、その使命が。
「アキ」
一つ一つの言葉が彼に届くように、決して視線を逸らさない。
「私がアキを、引きずり落としてあげる」
一段一段、彼の元に向かう。一段上る度に、彼への信仰を払い落とす。もう、見誤ってはならなかった。
アキの座る段に、足をかける。もう、後戻りはできないしする気もない。彼に、ゆっくりと手を差し出す。
「終わりにしよう、アキ」
彼は私を見上げる。その瞳は濡れていて、彼がただの弱い人間であることを証明していた。彼はゆっくりと私の方に手を伸ばし、そして私の手を握る。私もそれを、強く握り返した。
"END"という曲を最後に、私達は人々の前から姿を消した。
私達が世界から姿を消すと、世間はしばらくその話題で持ちきりだった。しかしその話題も時間が経てば飽きられ、流れていく。私達を追うのは、今では信者と呼ばれる人々のみだ。
そしてインターネットの世界には、信者と呼ばれる人々による、まるで弔いのようなメッセージや画像、動画が溢れかえっていた。
それを見た時、あぁ、死んだのだと、どこか他人事のように思った。
もし今、何者でもない私に生きる意味はあるのかと問われれば、相変わらず"ない"と答えるだろう。
だから、今の私に生きる意味はない。
でも、別にそれでよかった。
明日、彼と海に行こう。
そんな、約束とも言えないような、ただなんとなく決めたことだけで、私は生きていける。大層な意味や理由など、やっぱりいらなかった。
掌で飼い慣らせるような苦しみと、掌で包み込めるような幸せさえあれば、それで十分に生きていけるのだ。
それが私にとって、何者でもない彼の隣にいることだ。
私はそう結論づけて、この一つの物語を終えることにした。