ふらふらと見慣れた街を歩き、辿り着いた古びたビル。以前から目を付けていたのだ。ここなら丁度いいと。このビルはもうすぐ取り壊されるらしい。事故物件にならずに済むだろう、なんて、今更顔も名前も知らない、最早存在すらしない誰かのことを思いやる振りをする自分に笑えた。

 エレベーターなどない古いビル。きっとあっても動かないのだろうけれど。普段階段を上ることは極力避けるが、今回は別にいいと思った。特に疲労感を感じない。

 一段一段階段を上る度に、これまでのことが思い出された。まるで走馬灯だ。少しずつ高くなってく景色。意識せずとも動く足。これまでの自分のようだった。意識せずとも、神だなんだと崇められ、まるで天に昇らされているような感覚。それは不快でしかなく、でも、もう降りることもできないと諦めた。
 いや、一筋だけ、光が差したことがあった。神だなんてあやふやで遠い存在でいなくても、受け入れてくれた存在があった。彼女といた時だけは、俺は。

 彼女との全てを、綺麗な思い出として、終わりを告げる動画の投稿ボタンを押す。全て、終わったのだ。

 そう思った瞬間に、古いビル中に着信音が響いた。放っておいてもよかった。しかし、画面を見て、俺は通話ボタンを押した。"ひよ"という2文字で、俺は揺れた。都合の良い幻想なのかもしれなかった。今更何もかも遅いのだ。彼女はもう、あの頃の彼女ではなくなってしまったのだから。それでも俺は、彼女に居場所を教えてしまった。

「お願い、待ってて」

 彼女のその言葉で、電話は切れた。最期に伝えることなど何もない。強いて言うなら、"どうか幸せで"なんてありきたりなものしか思い浮かばない。
 足を止め、階段に腰掛ける。なぜ彼女の言うとおりに律儀に待っているのか、自分でも分からなかった。会って目の前で死ぬなんて、彼女にトラウマを植え付けるだけなのに。それを分かっていながらも、その場を動けなかった。もう、何も考えたくなかった。ただ、はぐれてしまった子どもが母親を待つように、俺はじっと待っていた。

「アキ」

 ふと、俺の名前を呼ぶ声が響いた。聞き慣れた、優しい声。懐かしさすら感じるその声に、俺はゆっくりと顔を上げた。