彼の部屋の中は、やはりもぬけの殻だった。物はリビング同様明らかに減っている。そして目に入ったのは、普段は床に散らばっていたり無造作に積まれていたりするはずの、今は丁寧に積み上げられている楽譜だった。
薄暗い部屋の中、ゆっくりとそれに近づく。一番上の楽譜に、彼の字で書かれている言葉を読んだ。
『俺の曲は全部ひよにあげる』
その一言が、彼の声となって頭の中に巡る。高く積み上げられた楽譜。それを一枚ずつ、読んでいった。彼はいつも言っていた。『いつも通り、適当に』と。私はその通りに、歌詞の意味を理解しないまま。それを彼が望んでいたから。自分で考えることは放棄していた。そうするべきだと思っていたから。
『彼はね、闇の中に手を引いていってくれるの。ひとりじゃないって。ただ、孤独だけを奪ってくれるような、そんな音楽なの。ひとりぼっちの恐怖から、救ってくれるの』
佐山さんが言っていた言葉を思い出す。あの日私は、それを聞いて逃げ出したいと思った。その異常さから。彼女のような、彼の信者と呼ばれる存在に恐怖し、怯えた。
けれど、彼女は私よりも彼のことを分かっていた。少なくとも、理解しようとしていた。彼女の言う通りならば、彼は闇の中にいたのだ。
人々の孤独を、彼は音楽によって請け負っていた。自分自身は闇に沈んだまま、他者を救う音楽を作り続ける。それならば、彼の孤独は誰が癒してくれたのだろう。
佐山さんは言っていた。誰も彼の孤独を奪ってはいけないと。それに対して、私は確かにおかしいと思っていたはずだった。私は彼女らとは違う。信者とは違うと。それならば、彼を孤独から救うのは、私の役目だったんじゃないのか。なぜそれをしなかったのか。なぜ、あの時、私は彼の告白を、受け入れなかったのか。確かに好きだったはずなのに、なぜ他の女性の影が見えても、傷つかなかったのか。なぜ、自分はアキに見合わないと思ったのか。
これまで、気づけなかった全てが、繋がったような気がした。その一言で、全て納得できた。
「私も、彼の信者だったから」
口にしたと同時に、涙が零れた。彼の書く歌詞は、こんなにも寂しいと、怖いと、助けてほしいと、そう叫んでいたのに。
『これからも、俺の信者になんかならないでね』
遠い記憶の彼の言葉が蘇る。あの日、彼はどんな気持ちで言っていたんだろう。どんな表情で、伝えてくれたんだろう。彼は、どこまでも孤独だった。そして、私は彼の手を離してしまったのだ。
結局私は、彼を崇拝してしまっていた。彼と時間を共にするうちに。……いや、違う。あの、初めて会った時のあの瞳に見つめられたときから。何者でもない私を、"ひよ"にしてくれた彼に。生きる意味をくれた彼に、私は。
気づいて、呆然とするしかなかった。彼に向ける信仰心が自分の中にあったことへの恐ろしさで動けなくなる。そして、彼を深く傷つけたことに対して、どうすればいいのかも分からなかった。
その時、スマートフォンの通知音が鳴った。緩慢な動作で画面を見る。それは"BLUE PILL"の新曲が投稿されたことを告げていた。そのタイトルは、"END"。
それを見た途端、焦りが募った。全てが、終わってしまう気がした。
スマートフォンを取り出して、連絡先をタップ。彼の名前を見つけて、通話ボタンを押した。
ワンコール、ツーコール。出てくれないかもしれない。もう、私に失望してしまったかもしれない。闇に包まれていくような感覚。視界が歪む。
「はい」
その声が聞こえた瞬間に、無意識に大きく息を吸った。
「アキ、今、どこにいるの」
声が震える。泣きそうになった。泣くわけにはいかなかった。
そして伝えられたのは、ここから十分ほどの場所にある、古いビル。
「お願い、待ってて」
それだけ言って電話を切る。弾かれるように彼の家を飛び出して、無我夢中で走る。さっきも走っていたから足も肺も痛い。けれど、速度を止めることはない。走っている間、様々なことを考えた。彼にしてしまったこと、彼に伝えるべきこと。何を一番に伝えればいいんだろう。一番は、何よりも、彼への謝罪。許してくれないかもしれない。それでも、まずは、彼に。
その思いを胸にようやく着いた、築何十年の古いビル。人の気配が感じられないような外観。ここに、彼はいる。薄暗い建物の中に入り、汚れたコンクリートの階段を上る。何階まで登ったのか分からない。息切れしながら、顔を上げる。
そこに、彼はいた。俯いていて表情は見えない。階段に腰掛けている。間違いなく、アキだ。息が整わないままに、揺れる声で、彼の名前に声を乗せる。
「アキ」
「暁、凛、アイス買ってきたよ」
「やった!俺バニラがいい!」
「暁、凛バニラがいいって。暁は別の味でもいい?」
「うん。いいよ」
母はいつも箱のアイスを買ってきていた。箱の中に、カップのアイスが4つ。バニラ、ストロベリー、チョコレート、抹茶。弟の凛はバニラが好きで、俺もバニラが一番好きだった。けれど、弟がいる手前、兄として譲るべきだと思っていた。だから、幼少期にバニラ味のアイスを食べた記憶はほとんどない。本当はバニラが好きだなんて言えば、きっと母は申し訳なさそうに謝ってきて、それからバニラ味のアイスを二つ買ってくるだろう。母にわざわざそんな顔をさせる必要はないと思っていたから、母に伝えたことはなかった。
それに、俺は特にそれを気にしていなかった。別にそれでいいと思っていた。俺にとっても凛は可愛い弟だったから、甘やかしていた記憶がある。あの毎日は、幸せだったと思う。マンションの小さな部屋に身を寄せ合って暮らす、どこにでもある普通の幸せな家庭。そんな日々が崩れるきっかけは、両親が不仲になったことだった。
毎日のように繰り広げられる夫婦喧嘩。怯える弟を抱き締めて、毛布にくるまる。弟の泣き声に泣きたくなったりもした。けれど、やはり兄だからという思いが、ストッパーになった。「大丈夫、大丈夫」と繰り返し、抱き締める腕の力を強める。そうしているうちにいつの間にか腕の中から寝息が聞こえる。そんな日々がしばらく続き、両親は離婚した。
離婚後は、俺も凛も母についていくことになった。父と母の仲は最早修復不可能で、子どもながらにもう父に会うことはないのだろうと悟った。弟もそれをどこかで分かっていて、最後の夜は父に泣きついて離れなかった。それを俺は、少し遠くから見ていた。
そうして始まった母と俺と弟の3人暮らし。もちろん、生活は楽ではなく。母はやっと見つけたパートの仕事で朝から夜まで忙しく、家を空けていることが多かった。時々置かれている200円玉を握りしめて、凛と二人でアイスを買いに行くこともあった。凛は迷わずバニラのアイスを選ぶ。俺は、少し迷ってストロベリーのアイスを買った。母の好きな味だった。
その頃から俺は気づいていた。母の心のバランスが、崩れかけていることに。だから、少しでも壊れてしまわないようにと、幼い頭で考えた結果だった。母はそれを申し訳なさそうに、しかしそれと共に嬉しそうに受け取ってくれた。でもそれは、最初のうちだけで。
「どうしてこんな点数しか取れないの!」
怒鳴りつける母の声、劈くような弟の泣き声。
「もう、うるさい!黙って!」
母がヒステリックになって怒鳴り散らすほど、弟は泣き喚いた。成績もそれほど悪くなく、察する能力が少しだけ優れていた俺は、それをどうにかかわすことができていたけれど、5つ下の幼い弟には、それは難しくて。
母が少し落ち着いた隙を狙い、弟を連れて別室に行き、子守唄を歌ってやった。そうすれば弟は泣き止んで、スイッチが切れたように眠る。そんな日々の繰り返しだった。
「ねぇ、暁。その曲、暁が作ったの?」
弟を寝かしつけるときに歌っていた子守唄をたまたま聞いていた母に、ある日突然そう問われた。
「うん」
確かにそれはその通りだった。弟が落ち着くようにと、なんとなく作ったメロディと歌詞。肯定の返事を聞いた母は、俺の元にしゃがみこみ、目線を合わせた。
「もっと色々な歌、作れる?お母さんにも聴かせてほしいな」
久々に聴いた、穏やかで優しい母の声。それが、嬉しかったのをよく覚えている。
その日から俺は曲作りに没頭した。母が喜んでくれるのを見たい一心で。今思えば、それなりに健気な子どもだった。歌を作っては母に得意げに披露し、その度に母は褒めてくれた。
「暁すごいね」
その笑顔を、今でも一点の曇りもなく覚えている自分に、嫌になる。その純粋な笑顔を向けてくれたのも、ほんの一瞬のことだったというのに。
「暁、ほら、挨拶して」
突然連れていかれた知らない場所。目の前の知らない人に挨拶をするように促される。そして、「暁、歌って」とこれまで何度も言われた言葉をかけられた。台詞は同じでも、その目はあの純粋さを失っていた。
訳も分からず、歌を披露する。それが、初めて家族以外に自分の歌を聴かせた瞬間。そして、それが俺の作詞作曲家としての人生の始まりだった。
要は、母は金に目が眩んだのだ。息子の才能を、どうにかしてお金に換えられないか。そう考えたのだろう。悪いことではない。仕方がなかった。貧しかったのだ。何かに縋りたかった母の気持ちは、理解していた。
それから俺は求められるままに曲を作り、それが世間に評価されるのにそれほど時間はかからなかった。12歳の神童だなんだともてはやされ、次々に依頼が舞い込んでくる。何台ものカメラやマイクに囲まれ、貼り付けられたような笑顔の大人に言葉を求められ、表情を指示され。子どもながらにおかしいと、異常だと、そう思った。
それでもそれを拒絶しなかったのは、母の存在があったからだ。母が、喜んでくれたからだ。曲を作れば、母は笑顔を向けてくれた。それが、以前と異なっていたとしても。それでも母は、母だ。たった一人の。
しかし、母から向けられる視線が変わっていくのが、嫌というほど感じられた。暁、暁、と、猫撫で声で呼ぶその声は、息子に向けるものではなかった。
「暁、今日はね、暁の好きなハンバーグにしたの」
「ほら凛、暁に集中させてあげて」
「ここ、暁が好きに使っていいからね」
俺の好きなメニュー、俺のための部屋、俺のための、俺のための、俺のための。媚びる様な態度。まるで、神に捧げる様に差し出される、望んでもいない様々なもの。この人は、母親ではなくなってしまったのだ。少なくとも俺には、そう感じられた。そう思った途端に、とてつもない喪失感と、孤独感に苛まれた。誰も、俺自身が見えていないのだと。
そんな思いと共に、6年を過ごした。音楽の世界で俺の名前を知らない人はいないとまで言われるくらいに、俺は名の知られた作詞作曲家となった。その月日と共に、信者と呼ばれる人々も増えていった。どこか現実味がなく、ふわふわとした感覚があった。俺が俺でないような、そんな、不安定さを感じていた。
「あなたの音楽がなきゃ生きていけない」
「千明暁は天才だ」
「千明暁が作った音楽以外価値はない」
「あなたは神だ」
人々を狂わせているような、もしくは自分が狂っていくような。はたまた、その両方か。様々なものに凭れかかられているような感覚だった。重くて、息苦しくて、何かに縋りたかった。でも結局、縋れるものなんてなくて。
結局俺は、高校卒業を機に引退した。あらゆるものから逃げたかった。自由が欲しかった。その一心だった。母は俺が引退したいと言うと酷く反対していたが、無理矢理押し切る形で進めた。一人暮らしを決め、広くはないが一人で住むには十分な古いアパートに引っ越した。ようやく、呼吸がしやすくなる。普通の人間として、一般人として、生活できる。そう思っていたのだが。
俺の引退は瞬く間にマスメディアによって広まっていき、ニュース等で大々的に取り上げられた。嘆き悲しむ人々が映し出される。それを、それほど気にも留めていなかったのだが。
『千明暁のファンがによる迷惑行為』
『千明暁のファンが自殺』
そんなニュースが連日報道されるようになった。
俺の引退を受け入れられないファンによる、所属していたレコード会社への脅迫文。千明暁はメディアに殺されたのだと訴える暴動。自らの縋っていた神様がいなくなってしまったという遺書を残した自殺。
気にしない、なんてことはできなかった。これほどまでに、"千明暁"は、誰かの中に生きていて、そして、誰かを殺してしまうほどの力を持っていたのだ。それに、無理矢理に気づかされた。引退しても彼らの信仰心は止むことなく、寧ろ見えない存在となった神に幻想を抱き、より信仰心を深めていく。俺の知らないところで、"千明暁"の存在は人々の中に根付き、陶酔させていく。それからしばらく、俺は引きこもる生活を送っていた。
これまでの活動のおかげでしばらくお金で困ることはなかった。そのため、外出も必要最低限でよかった。部屋に一人閉じこもり、無意味に時間を浪費していく。何かをする気は起きなかった。俺に視線を向けることのなくなった母から時たま送られてくる生存確認のメールにも、ろくに返事を送らなかった。
そんな日々を数年送り続け、金銭面も心許なくなってきた頃、俺はアルバイトを始めた。その程度には時間が精神面を回復させてくれた。自分を、ただの、どこにいる何者でもない自分に戻すことができたと思った。あの、神と呼ばれていた日々が全て夢だったのではないかと思うほど、遠かった。忘れてしまえるんじゃないかとすら思えた。コンビニでのアルバイトをこなし、コンビニ弁当を持って帰る、その繰り返しが、俺にとっては気楽で、これでいいと思っていた。
『暁、お願い、帰って来て』
そんな一言から始まる、母のメールが届くまでは。最初のその一文を呼んだ時、いつも通り無視しようと思っていた。家を出て5年の歳月が経っていた。もう、放っておいてほしい。そう思っていたのだが、その内容は弟についてだったのだ。
食事をろくにとらず、部屋に閉じこもりがちになった。さらに、暴言を吐いたり暴力を振るうようになった。そのようなことが書かれていた。正直、想像できなかった。バニラアイスが好きだった弟。母に怒鳴られ、怯えて泣いていた弟。出て行く父に泣きついていた弟。思い出されるその姿はどれも、無邪気で臆病な、小さな弟。
会いに行こうと思った。弟の好きなバニラアイスを買って、話に行こうと。