公園から歩いて10分ほどのところで、彼は「ここ」と私の顔をちらりと見て言った。そこに立っていたのは築年数も割と経っているであろう小さなアパートで、私は少し意外だな、と思ってしまう。彼から提示された私の報酬の額から勝手にお金持ちなのだろうという想像をしていたけれど、どうやらそういう訳でもないらしい。
 彼が住んでいるのは2階の角部屋。"千明"と書かれた表札が目に入った。

「チアキさん?」

 私の問いに、彼は「それでチギラって読むんだよ」とすぐに返してきた。幼い頃から何度もこのやり取りをしてきたのだろう。名前も知らない人の家に着いていっているのもおかしな話かもしれない。
 「どうぞ」と開けられた部屋に先に黒猫が入っていき、その後ろをついて入る。部屋の中は楽譜や弁当のごみなどで散らかっていて、彼は整理整頓が苦手なんだろうなと単純に思った。
 彼は部屋の奥にある扉を開いて、私を呼ぶ。部屋の中には録音機材が揃っていたけれど、それほど高価なものではなさそうだ。

「えーっと…あった、これ」

 彼は積み重なった紙類の中から探し出した紙をこちらに差し出してきた。音符と歌詞。これが私の歌う歌らしい。
 私に紙を渡すと、彼はその部屋の床に徐に座り込み、黒猫を撫で始めた。
 視線を紙に移す。譜面通りに、歌詞を音程に乗せて口ずさむ。その様子を彼は何も言わずに見つめていた。