私が頷いたのを見て、彼はふっと口角を上げた。そして、「今から暇?」と続けて言った。

「今から、ですか?」
「そう。俺の家近いから、今日レコーディングしてもいいかなって」

 展開が早いな、と率直に思った。特にこれから用事があるわけでもない。ただ、今更だけど知らない人の家についていくというのはあまりに不用心だろうか。

「後日がいいならそれでもいいよ。な、リン」

 最初の言葉は私にかけたものだろうと思ったけれど、リン、と突如として出された名前に私ははてなマークを浮かべた。しかしその謎はすぐに明かされる。私の膝の上の、黒猫の「にゃあ」という返事によって。

「え、リン?」
「ん?うん」
「あなたの猫だったんですか」
「俺のっていうか、まあ、一緒に住んでるからそういうことになるかな」

 そう言って彼は黒猫を撫でる。ちゃんとこの猫には飼い主がいたのか。

「……大丈夫です。今からで」

 何となくこの黒猫の様子を見て、行ってもいいか、と判断した。この黒猫は愛されているのだろう。悪い人ではないはずだ、多分。ガバガバな論理なのは分かっている。でも、少しだけワクワクした気持ちもあった。明日から夏期講習が始まるのだ。受験生らしい、つまらない日々が待っている。今日くらい、突然現れた非日常に飛び込んでみてもいいのではないか。

 私の返事を聞いて、彼は「じゃあ行こっか」と歩き出した。黒猫も彼についていく。その後ろを私もついていった。