神はいないと神は言った

 彼の家を出て3時間後。私は動画投稿サイトを覗いた。今日の夜に投稿すると彼が言っていたからだ。前回の曲名で検索し、投稿者名を見る。

『BLUE PILL』

 そう書かれていた。これが、彼がつけたユニット名なのだろう。私はその名前をクリックした。そして出てきた2つの動画。新しい動画は1時間前に投稿されているにも関わらず、かなりの再生回数を叩きだしていた。その動画を再生する。2日前に歌った、彼が今日投稿すると言っていた曲。コメント欄を見る。

『めっちゃ耳に残る曲!』
『ひよちゃんの声ってなんか不思議』
『やっぱ千明暁だったんだ!』
『本格的に神復活じゃん!!!』
『千明暁の作る暗さを感じる歌詞と、少しアップテンポなメロディ。そしてひよの単調な歌声。ミスマッチに感じられるけれど絡みつくようにマッチしている』
『千明暁のメッセージが込められていると思う。引退から今まで何があったんだろう』
『千明暁に選ばれた?のかな?ひよって何者なんだろう』

 コメントは様々だった。けれど、何よりも私が驚いたのは彼の名前と私の名前が並んでいることだった。彼であることを確信しており、更には私のことを"ひよ"と人々が呼んでいる。疑問に思って、動画の説明欄を開いた。

『BLUE PILL Lyrics,Music,Arrangement:千明暁 Vocal:ひよ』

 それだけ書かれたあっさりとした説明欄。彼は自分が千明暁であることを躊躇いなく明かし、そして私の名前も彼だけが呼ぶ私の呼び名で記載したらしい。
 "ひよって何者なんだろう"というコメントに、思わず笑ってしまった。答えは簡単だ。何者でもない。ただの彼の気まぐれで光を当てられた何の取り柄もない高校生だ。私は勘違いをしてはいけない。この一週間、度々こう思っていた。インターネット上で最初に投稿された曲のコメント欄や推測に塗れた記事などの、私について書かれているものを見つける度に、そう思った。人々に崇められているのは彼で、私ではない。その崇められている理由も、私にはよく分からないけれど。
「いやあ、結構盛り上がったね」

 翌日の朝。ココアに恐る恐る口を付けながら彼はそう言った。「あっつ」という言葉と共に、所々はねた寝癖を揺らす。神だなんだともてはやされる彼の姿がこれだとは、人々は想像もしないだろう。

「名前、出したんですね」
「んー?あ、千明暁ってこと?うん。その方が上手くでしょ、今後」

 「使えるもんは使った方がいいよね」と言う彼は自分のネームバリューを理解しているようだった。そこには謙遜も驕りもなく、ただ事実として受け入れているだけ、というような感じだ。

「ひよって名前出したけど、いい?」
「今更ですよ。別にいいですけど」
「うん、そう言ってくれると思った」

 時折見せるどこか子どもっぽい笑顔に、怒る気はしない。元々特に怒ることでもなかったけれど。

「それと、BLUE PILLって何か意味とかあるんですか」

 私はもう一つ疑問をぶつける。彼が私達のユニットにつけた名前だ。何か込められた意味でもあるのだろうかと、純粋に気になった。

「いや、特には」

 回答はかなりあっさりとしていた。ないんかい、とつっこみそうになる。キャラではないのでしない。

「英語だったらかっこいいかなって」

 答えになっていない答えを残して、また彼はココアに口を付ける。きっともう十分に冷めているだろう。もう既にその話題には興味を示していない彼を見て、私は深堀りすることをやめた。
「コメント欄の反応、凄かったですね」

 ココアを飲み干した彼にそう言うと、「ね」と彼は私と目を合わせた。

「色んなこと考えるよねぇ皆。曲の考察とか、俺の方がへ~って思った」

 彼はそう言って頬杖をつく。

「俺が考えてるよりよっぽど深読みしてくれるんだよね、聴いてくれる人って。まあ俺は人それぞれ自分が楽しいように解釈してくれればそれでいいんだけど」

 どこか興味なさげに言う彼。彼の曲はどこか抽象的な感じがする。想像力のない私には、いまいち彼の曲の良さを理解しきれていないように思う。理解していなくても淡々と歌うだけなのだから、さして問題はないのだけれど。しかし、人々が彼を神だと崇める理由が分からないのだ。私は神と呼ばれる彼の隣にいて、彼の神たる所以を理解していないのは、いかがなものか。

「千明さんは、自分のこと神がかってるな、とか思いますか」

 私の顔を彼は不思議そうに見る。公園で見つめられたあの、少年のような瞳で。しかし、その目はゆらりと細められた。彼が笑ったのだと理解するのに、少し時間を要した。その笑みは、子どもができるような表情ではなかった。

「俺は、神に相応しいと思う?」

 質問に質問で返される。試されている、と直感した。まるで全てを見透かすような瞳。嘘をついても無駄だと、小さな子どもに諭すような。その時初めて私は、少しだけ彼に恐怖を抱いたのかもしれなかった。恐怖と言っていいのか分からない。この感情が何なのか、よく分からなかった。

「相応しいかは、分かりません。...でも、千明さんを神だと思ったことは、今のところは、ないです」

 発された声は思っていたよりもか細かった。いつの間にか俯いていた顔を恐る恐る上げる。彼は笑った。笑ったのだと、今度はすぐに分かった。

「俺も」

 私の目を見つめ、彼は言う。

「俺も、自分のことを神がかってるとか、ましてや神だなんて、思ったことないよ」

 柔らかい笑みに、どこか救われるような思いがした。

「だからさ、ひよ」

 私は、彼の顔を見ていた、はずだった。それなのに、彼の表情を覚えていない。ただ、かけられた言葉は、声色と共に鮮明に覚えている。

「これからも、俺の信者になんかならないでね」
「週間ランキング1位は、"BLUE PILL"のデビューアルバム、『run-of-the-mill』です。先週に引き続き堂々1位!彼らの人気は留まるところを知りませんね!」

 朝のニュース番組で、名物アナウンサーは能天気にそう言って笑顔を張り付けた。

 午前7時19分。世界は、慌ただしく動き出す。彼らが崇める神様は、まだ夢の中だというのに。
 ガチャリ、と背後で音がする。これこそが、世界の始まる音だと思う。もっともそれは、私の世界には当てはまらない。なぜなら、私が彼を信仰してしないからだ。

「…なんで今日そんな早いの」

 寝起きのせいか少し掠れた声が、まだ少し引きずっていた私の眠気を断ち切らせる。寝ぐせのついた黒髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き、大きな欠伸を一つ。

「おはよう、ねぼすけさん」

 私の言葉に、不機嫌そうな顔をして伸びをする。彼が神であっていいはずがない。

「あれ、リンは?」
「昨日一緒に寝るとか言ってアキが連れてってたじゃん」
「…そうだっけ」

 また一つ欠伸をして、ふらりと寝室に逆戻り。あ、また世界が閉じる…なんてことが頭をよぎって、馬鹿らしくてすぐやめた。彼の後姿を見送って、用意していたマグカップにココアを注ぐ。
「おはよー、リン」

 ココアの湯気も消えかける頃。間延びした声と共に現れたアキは、雄の黒猫に話しかけながら出てくる。また二度寝したな、と思いつつも、彼のココアが冷めただけだから別に何も言わない。

「...冷めてる」

 猫舌とはいえあまりにも冷めたココアを手に呟かれたその言葉にはあえて触れず、私も黒猫のリンさんを撫でた。
 彼と出会って1ヶ月が経った。私の敬語が外れ、彼のことを千明さんではなくアキと呼ぶ程度には親しくなったと思う。毎日彼の家に通い詰めていれば、それも至極当たり前のことのように感じる。

 この1ヶ月は、今までの人生の中で一番目まぐるしく過ぎていったように思う。彼はほぼ毎日私に何かしらの曲を歌わせ、いつの間にかいくつか動画を投稿していた。そしていつの間にかレコード会社と話を進めていたのだった。私がそのことを知ったのは、「ひよ、契約しようと思うんだけど」というラフな一言。勿論私はその一言では何も理解できず、顔を顰める。

「魔法少女ですか」

 私の一言に、今度は彼が顔を顰めた。

「ひよってそういうこと言うんだ」

 彼の言葉に冗談を言ったことをその時は少し後悔したけれど、言葉足らずな彼も悪い。こういうことを言うのはキャラではないと思っていたけれど、彼には少々ツッコミどころが多すぎる。
 骨を折ったのは親の説得だった。しばらく親に何も言わずに彼の元に通い詰めていたのだが、いよいよ契約となるとさすがに同意を得なければならなかった。彼は既に私が親の同意を得ていたと考えていたらしく、その旨を伝えると、「馬鹿じゃん」と一言呆れ顔で返されたのは記憶に新しい。毎日制服で来てるんだから少しは違和感を感じなかったのか、とも少し思ったが、彼はそれほど他人に興味を持つタイプでないことはこの1ヶ月のうちに理解していた。

「早く言って来なよ」

 そう言われて彼の家を追い出され、朝来た道を引き返す午前11時半。父は仕事で家にいないため、まず母に伝えることになる。玄関の前で一つ息を吐く。悪いことをして帰ってきた子どものような気持ちだった。

「ただいま」

 声は少し硬かった。近づいてくる足音に、少し逃げ出したくなった。

「どうしたの、忘れ物?」

 母の声色には、少し心配が含まれているようだった。本来よりもかなり早い時間に帰宅したのだから、それもそうか。忘れ物か体調不良か、それとも。色々な可能性が考えられるだろうけれど、これから私が話すことはきっと全く想像もしていないことだろう。

「ごめん、私、夏期講習会には行ってないんだよね」
 母の表情は心配の中に困惑が混ざっていた。

「今日は行かなかったの?」
「ううん。夏期講習会には、最初の何日かしか行ってない」

 母はますます困惑した様子だった。

「でも、今日まで制服で出掛けてたでしょ?どこに行ってたの?」

 母の質問に、どう答えようかと言葉に詰まった。しかし、いつかは言わなくてはならないのだからと、拳を握る。

「...千明暁って、知ってる?」

 私の問いに、母は意味が分からない、と言いたげだった。

「何、突然。確か前歌作ってた子でしょ」

 母にも知られている彼のことを、こんな時にもかかわらずやっぱり凄い人なんだ、と思った。

「うん、そう。私、その、千明暁さんの家に、行ってたんだよね」
「は...?」
「千明暁さんに、公園で声かけられて。それで、アーティストにならないかって」
「待って、何言ってるの?」

 母はキャパオーバーという様子で私の話を遮る。それもそうか。私だって訳が分からなかった。
「何それ、冗談?」
「ううん、本当」

 何を言っても、混乱中の母には納得してもらえなさそうだった。

「...とにかく、話はお父さんが帰ってからにして」

 母もどうすればいいのか分からないのだろうな、と他人事のように思った。現実味のない娘の話に、全てを信じきってそうですか、と受け入れられるわけはない。長期戦になるだろうと、父が帰ってきてからのことを想像し、また息を吐いた。

 それから夜まで私は自分の部屋に籠っていた。母と同じ空間にいても話はきっと平行線だ。母も父が帰ってくるまで私の話を求めていないようだった。夜になって、玄関の開く音がし、私は身を硬くする。昼に玄関で感じたあの緊張感。

「陽頼、降りておいで」

 一階から母の声がして、私はスマートフォンを握り締めたまま部屋を出た。

「...おかえり」
「ただいま」

 父が私の方を見る。母は何か話したのだろうか。

「陽頼、何か話があるんだろ」

 その声に思わず目を逸らしてしまったが、頷いて父と目を合わせる。

「うん、じゃあ今聞こうか」

 そう言って父がいつもの席に座る。母もいつもの父の隣に座り、私は父の正面に座った。
「お母さんから聞いたけど、夏期講習会には行ってないんだって?」
「うん」
「それで、その時間何してたんだ」

 夏期講習会に行っていない、というところだけを切り取って母が話したとは少し考えにくかった。わざわざ私が怒られそうな内容だけを伝えるようなことをするような人ではないと、私は母に対して思っている。つまり、父は私の口から聞こうとしているのだと、そう解釈した。

「千明暁さんの、家に行ってた」

 私の言葉に、父はあまり驚いている様子ではなかった。やはり、母はそのことについても触れたのだろう。困惑したままだとは思うけれど。

「千明暁って、あの、昔の子どもの作曲家か」
「うん」
「...その人のところで、何をしてたんだ」
「...歌、歌ってた。彼が、公園で私に声をかけてくれたの。それで、彼の作った歌を、歌ってた」

 父は落ち着いている様子ではあったものの、納得してるわけではなさそうだった。

「...陽頼を疑いたい訳じゃないんだ」

 うん、分かってる。父の表情を見て、それはよく分かった。話が話なだけに、すんなりと信じ込むことができないのも、分かっていた。

「陽頼は、歌手になりたいのか」

 父の問いに、私は少し黙り込む。そして浮かんできたのは、彼の顔で。

「うん」

 頷いて、父の顔を見る。

「大学に行かずに、歌手にか」
「うん」

 父の硬い表情は、良いとも悪いとも取れない。父自身が悩んでいるのかもしれなかった。しばらく、沈黙が続いた。そして、その沈黙を破ったのは、ピンポーン、というインターフォンの音だった。