「は…?」
「君の声を俺に買わせて」
「いや、聞き取れなかったんじゃなくて」

 また前と似たような件を。というか全く同じような気がする。しかし彼は、付け足してこう言った。

「もうしばらく。どう?」

 もう1曲、というわけではないようだった。

「もうしばらく…っていうのは?」
「具体的な期間は決めてない。でも、生活は保障するから。給料もちゃんと払う」

 またじっと、彼の瞳に見つめられる。
 最早就職活動のようだ。いや、就職活動というよりは、スカウトか。つまりは職業として歌手になるという、そういうことだろう。恐らく、ここが人生の分かれ道。唐突に現れた、突飛な選択肢。

「ま、すぐには決めなくていいよ」

 黙り込んだ私を見兼ねてか、彼はそう言った。

「そう簡単に結論が出ることじゃないのも分かってる」

「君の人生だから」と彼は言って、リンさんを撫でる。

 そう、私の人生。何者にもなれない、なれないはずの、私の人生。何者かになる必要は、ないのかもしれない。たとえ何にもなれなくても、生きていける。ただ生きていた痕跡など何も残らないまま、生きて、死んでいく。それがきっと普通で、それでいいって思ってた。だって、仕方がなかった。私には何もなかったんだから。生きている意味なんて、求めたって仕方がなかった。…でも、もしかしたら。今、差し出されているこれは、私の生きる意味を与えてくれる、そんな選択肢なんじゃないか。

 目の前の彼を見る。黒猫を撫でながら大きな欠伸をする彼。ぼさぼさの寝癖が付いたままの髪、伸びたTシャツ、眠そうな目。

「あなたに」

 気づいた時には、もう言葉が口から滑り落ちていた。

「あなたに、私の声を売らせてください」