“可愛い女子ランキング”最下位のきみに恋をした。

俺と山下の投票活動は順調に進んだ。
翌日の昼休みには男子生徒20人のうち、13人は投票をしてくれたのだ。まあ、ほんの遊びに過ぎないからだろうか。自分で言うのもなんだが、俺は4組の中ではクラスの中心にいると自負している。もちろん、その権力を振りかざして弱い者いじめをしようとか、クラスで一番美人の池田ななみと付き合おうとか、そういったことを企むことはない。ただ、自分の発言や行動に大勢の連中がついてきてくれる。それだけで、お腹の底で暴れ回る自己承認欲求を満たしているのだ。

そう。そこまでは自覚していた。
自分は、どうしようもなく自己愛が強く、誰かに自分を認めて欲しくてたまらないのだと。だから、こんなふうに男子なら誰もがのってくれるようなくだらない遊びをして場を盛り上げようとした。

「くだんねえな」
14人目に声をかけた矢部浩人(やべひろと)は一瞬眉根を寄せて、クラスの女子の「名簿」を一瞥した。しかしそれは、ランキングについて軽蔑をしたわけではなく、単に話を飲み込むのに時間を要しただけなのだろう。その証拠に、「くだらない」と言いつつ、思わずぷっと笑みがこぼれていた。

矢部は、クラスの中でムードメーカーだ。俺とは違った意味で、クラスの中心にいる。お調子者といえばそうだが、とにかく愛想がよく男子からも女子からも好かれている。悔しいけれど、認めざるを得ない。
「だろ。くだらないだろ」
一緒にいた山下はいたずら好きの子供の目をして言った。けれど、その一言が逆に、矢部の好奇心をくすぐったに違いない。
「おっしゃ。どうせこんなもん、男子(おれ)たちの間で楽しむだけなんだろ。それなら俺だって男だ。投票してやるぜ」

彼はいともたやすく俺の誘いにのってくれた。さすが、クラス一ノリの良い好青年。

「さんきゅ。さ、思う存分好きなやつに入れてくれ。ちなみに一人三票まであるぞ」

女子の「名簿」を彼に差し出すと、矢部は少し考え込んだあと、とある人物の横に「正」の字を入れ、ペンを置いた。

「なんだ、一人でいいのか?」

「ああ」

「まじか。それって、ガチじゃん」

「そうだよ。悪いか」

「ほー! なるほど、お前って、“彼女”がタイプだったんだな」

「うるせー黙れ」

はいはい、と俺は矢部の肩に軽く手を触れた。
まさか、こいつが本気で好きなやつに投票するなんてな。まあ、他のやつらも本命の女子に入れたんだろうが。
普段クラスを盛り上げている人間がこぼす本音とやらが、この紙一枚にこぼれていると思うと、面白い。
矢部は投票を終えると先生に呼ばれたのだと言って教室から出て行った。俺は山下と彼の投票結果を見つめる。

安藤和咲(あんどうかずさ)”。

俺は、彼が票を入れた人物の名前を心の中で反芻した。
手に入れたい。
自分が悔しいと思う相手が想う人間を。
手に入れたい。
俺は、15人目の投票者として、シャーペンを手に取った。
安藤和咲。
たった一人、彼が投票したのと同じように、俺は彼女の隣に「正」の線を引く。

「お、いいのか?」

「こんなの遊びだって」

ムキになった俺を、山下が面白がって見ている。
俺が引いた「正」の字の線は、先ほど矢部が書いたものを否定するように、太く濃くなっていた。
それから順調に男子メンバーに声をかけ、投票に協力してもらう。もうほとんど、結果は見えていた。それでも、男子全員の意見を求めるため、さらに翌日の金曜日、最後の一人に声をかけた。5限目と6限目の間の十分休みだったので、手短に話をして投票をしてもらう予定だった。

「なんだ、これ」

最後の一人——板倉奏太(いたくらかなた)は、差し出された白い紙を訝しげに見つめた。女子生徒の「名簿」を裏返して見せたため、何のことだかさっぱり分からないという彼の反応は当然のことだった。しかし俺は、早く事を終えてしまいたいばかりに、彼に対してとても雑な説明を行う。

「見たら分かるだろ」

「見たらって……」

そこで板倉は、白い紙をひっくり返した。

「出席簿?」

「違うって。ランキング」

「ランキング?」

なんだこいつ、ちょっとは何か思い浮かんだりしないのか。大体、“可愛い女子ランキング”なんか、ほとんどのやつらが中学でもやったって言っていたぞ。
ちょっと理解力が足りないんじゃねーの。

「だーかーらー、女子のランキングだよ。うちのクラスの。かわいい女子ランキング」

「かわいい女子ランキング」

オウム返しでしか返答してこない板倉に少々イラつきつつも、これ以上喧嘩ぽくなっても時間がかかるだけと思い直した。

「そう。クラスの女子の中で、かわいいと思う人に票を入れて回してくれ。もちろん、男子だけだぞ。一人三票まである」

チラチラと、「ねえ、あの二人」と俺たちの方を見ながら話している女子たちの視線が気になった。正直、板倉とは普段から話をするような仲ではないため、不思議に思われたのだろう。俺はさっと自分の席に座った。

板倉奏太。
見た目はどこからどう見ても、量産型のフツウ男子。クラスに一人、いや三人いてもおかしくないタイプ。そこそこ勉強ができて、先生たちから信頼を得ている。かといって目立つタイプではない。確か、陸上部に入ってるんだっけ。そこだけはちょっと意外だ。文化系男子のイメージがあった。
とにかく、俺とこいつはこれまでもこれからも、まったくと言っていいほど関わりを持たないだろう。

ため息をついてから周りを見回し、ペンを握り票を入れてくれた。あの様子だと、きちんと三票入れてくれたようだ。
ペンを置いた後も他人に見られていないかどうか気になるのか、後ろを振り返っていた。票を入れた相手のことが気になったのだろうかと思い、彼の視線の先を見た。
しかし、そこにいたのは一番後ろの窓際に座る、岡田京子(おかだきょうこ)という女子だった。彼女に票を入れたとは思えなかったため、さきほどの予想はどうやら間違いだったらしい。
岡田京子といえば、一匹狼で、教室でほとんど口を利かない。女子の友達もいないのか、友達と楽しく過ごしているところを見たことがなかった。
だから当然のように、これまでの投票では一票も入っていない。板倉が入れていれば話は別だが、おそらく彼も岡田京子には投票していないだろう。
6限が終わると、板倉から「これ」と女子の名簿を渡された。見ると、安藤和咲への票がまた一つ増えている。反射的に、板倉の顔を睨んだ。彼は気まずそうにさっと目を逸らす。
まあいい。
板倉など、特にライバルでもなんでもない。普通に勝負していれば自分の勝ちは保証されている。
俺はそっと、矢部浩人の方を見た。彼は近くの席の女子たちと爽やかな笑顔で談笑していた。



「なあ、本当にやるのか?」
翌朝、午前7時半。
まだ誰も登校してきていない教室で、俺は山下と一緒に眠い目を擦りながら件の「名簿」を見つめていた。

「ああ、もちろん」

「まじかよ。どうなっても知らねーぞ」

「お前だって、ちょっとは興味あるんだろう。だからのってくれたんじゃないか」

「それは、そうだけど……」

こういう時の山下は、どことなく挙動不審で弱気だ。普段なら、俺がやると言ったことに対して全力で応えてくれるのだが。

俺たちが今日、早朝に学校に来たのには理由がある。

「お前はいてくれるだけでいいからさ」

ここまで言ったところで、彼はようやく観念したのか、何か言いたげだった口を噤んでしまった。
俺は一人、教室の後ろの黒板の前でチョークを握る。
自分たちが今ここにいる理由。
それは、俺の手の中にあった。

“2年4組 可愛い女子ランキング”。

そう。昨日までで集めた男子たちの票を集計して、ランキングにしたのだ。
本当は自分たちでこっそり楽しむために始めたことだ。でも、誰かが誰かに投票するところを見て、案外みんな本気で票を入れていることを知って。
少し、いたずらしたくなったのだ。

右手に力を込め、女子の名前を順番に書いていく。
1位 池田ななみ

隣にいる山下が、息を呑む。

2位 藤堂亜希(とうどうあき)

彼女たちに票を入れたクラスメイトの顔。鼻の下が伸びただらしない顔。

3位 安藤和咲

あいつ。あいつの、矢部浩人の多分好きな人。そして、板倉奏太。彼も彼女のことが好きなんだと思う。
俺が、奪いたいと思っている(ひと)
4組の女子は、残らず全員名前を書き連ねた。上位の人たちだけでなく、全員。本当は、三人くらい名前を書けば満足だった。でも、チョークを握っているうちに身体が熱を帯び、理性で押さえつけることができなくなった。
このまま、続けたい。
誰かが傷つくかもしれない。
見たい。
その人の顔を。
傷ついた人間の、歪んだ顔を。

19位 岡田京子。

最後の一人の名前を書き終わる。
最下位は予想通り。投票を始める前から大方予想がついていた。クラスで浮いている少女。きっとクールな彼女はこんなことを気にしない。だから、書くことにためらわなかった。

「……よし」

「まじで、やったな」

「お前の手は煩わせなかっただろ」

「まあ、そうだけど……」

山下の口調は、普段より歯切れが悪い。
気づいていないだろうが、たとえ手を汚していなくたって、彼が共犯者であることには変わりない。つくづく、自分が最低な人間だと思う。でも、あと一時間もしないうちに皆が登校してくる瞬間が待ち遠しい。その時俺は、クラスの“マスター”になるのだ。
もう、徹底的に心が歪んでいることは自分からしても明らかだった。
「なにこれ?」
午前8時10分。最初にやってきたのは、4組の中でも一番真面目な飯塚真由(いいづかまゆ)という女子だった。おそらく、朝早くきて勉強でもしようとしていたのだろう。休み時間も机にかじりついているようなやつだ。
彼女の順位をちらと確認する。15位。下から数えた方が早い。
「……」
あんたたちがやったの、とでも言いたげに後ろに立っていた俺や山下を睨んだが、すぐに自分の席についてノートと参考書を広げた。
なるほど、今は被害者である自分の方が劣勢であるため、特に何も問いただしてこないパターンだな。まあ、こいつは元々他人に深く干渉しないタイプだし、こんなもんか。

ちょっとつまんねーと思いながらも、その後続々と登校してくるクラスメイトの驚いたり、怒ったりする様子を楽しんでいた。女子は大抵数人で集まって、
「最低」
とはっきりと聞こえる声で憤った。
反対に男子は、直接俺に話しかけてくる方が多かった。
「これ、宮沢(おまえ)の仕業だろう?」
「ご名答」
「まさか、こんなことするなんて思ってなかったんだけど」
「言ってなかったからな。昨日思いついたんだ」
「まじかよ。女子たち怒ってるし、早いとこ消しとけよ」
「はいはーい」

俺に忠告してくるくらいの男は全く問題ない。今俺に話しかけてきた田中海斗(たなかかいと)はいたたまれないという顔をしている。おそらく、このランキングの投票に加担したという後ろめたさがあるのだ。

それは、他の男子にも言えることだ。

このランキングを見た男子たちみんな、気まずそうに女子たちの怒りの声が聞こえないフリをしていた。
やや遅れて登校してきた矢部浩人でさえ、「消せよ」と一言俺に言ったあとは、ぐっと歯を噛み締めているようだった。
矢部浩人の後方には、眉根を寄せてこちらを見ている安藤和咲がいた。彼女は3位。名誉ある順位じゃないか。何が、そんなに嫌なんだ?
ああ、もしかして、矢部が自分に投票したかどうかを気にしているのか? だから穴が開きほど彼の背中を見つめているのか?
それとも、単に周りに合わせてるだけか? 
なあ、なあ、なあ。

安藤と矢部との間にある見えない線を必死になって探した。どこだ。どこにある。俺が今から断ち切ってやる!

「宮沢……?」

ポンと肩を触られてはっとして横を見ると、山下が「大丈夫か」と心配そうな表情をしていた。俺は、自分の額をツーっと流れる汗に気が付く。

「……ああ。大丈夫だ」

自分でしかけたことなのに、自分で熱くなるなんて格好悪い。もういい。今日の茶番はここまでだ。もうすぐ始業のチャイムが鳴るし、先生が来る前に消してやるか——。
黒板消しを取ろうと、さらに黒板の目の前に近づいたとき。

ガララ

「はあ……はあ。セーフ……」

教室の扉が勢いよく開かれた。俺は、先生が来たのかと思いドクンと心臓が鳴る音を聞いた。でも、やってきたのはクラスメイトの板倉奏太だった。

「なんだ、板倉か」

俺はほっと胸を撫で下ろしたが、彼がものすごい形相で黒板を見つめているのが分かり、胸の奥に不快感が広がる。もう、いいよ。どうせお前も他のやつらと同じことを訊いてくるんだ。もうすぐ消すし、いつもの朝に戻ろうぜ。
俺はその辺にいた山下や河合たちと、「お前は誰に入れた?」などという会話に専念することに。板倉も周囲の人たちと誰の仕業なんだとか言っているうちにこの話題にも飽きてくれるはずだ。そうなれば、俺の勝ちだ。男子全員の想いを集約したこのランキングを女子たちに晒してやった。みんな少しは楽しんでくれただろう。そう思うとにやけが止まらなかった。

しかし、俺の意に反して、板倉は前方の入り口付近からこちらに向かって歩み寄ってきた。

「なあ、あれ誰が書いたんだ?」

軽蔑の声色で、彼は矢部浩人の肩を叩いて問う。
全員の視線が板倉に向けられている。矢部は気まずそうに、黒板の前に立つ俺を指差した。

「たぶん、あいつだと思う」

矢部からすれば、板倉にしか聞こえない声で呟いたのだろうが、彼らの動向に神経を尖らせていた俺には丸わかりだった。

「宮沢か」

彼は普段の争いを好まないスタンスではなく、いかにも何か言いたげな様子で、俺の方をキッと睨み付けて言った。

「最悪だな」

なんだ、お前。遅れて来たと思えば柄にもないことしやがって。

「はあ?」

俺は、売られた喧嘩は買う主義だ。明らかに善良そうな目をしている彼を威圧するように睨み返す。

「だから、最悪じゃないかって、言ってるんだ」

善良そうな顔で、すぐに正論を吐くやつ。
お前は、俺が嫌いな人間ワースト1だよ。

クラス中の人間が、俺と板倉の会話を訊いている。

「こんなこと全員の目に見えるように書いて、何か良いことでもあるの? 傷つく人、いるじゃん」

板倉の目は怒りに満ちており、自分の主張の正論ぶりを周囲に知らしめるようだった。それが俺にはますます気に食わず、はんっと鼻を鳴らしたとき。

たたっという足音と共に、一人の女子が、教室から飛び出していった。

「まって、和咲!」

飛び出したのはどうやら、安藤和咲らしい。彼女と中の良い畑中が彼女を追いかけてゆく。他にも、数人の女子が教室から出ようとしたが、「待ちなさい」という担任の伊藤が彼女たちを制した。

あーあ。

せっかく、黒板を消して何もなかったようにする予定だったのに。板倉が、あんなふうにつかかってこなければ、今頃。

「あれを書いたのは誰ですか」

先生は真っ先に、後ろの黒板のランキングに気がつき、生徒全員を見廻した。皆一様に俯いているのが分かり、その中の何人かが俺の方を気まずそうに振り返った。
彼らの視線と先生の視線が重なり、俺は身動きが取れなくなった。

「宮沢君」

確信を持った、先生の力強い声。
これ以上、俺になす術はない。降参だ、降参。
「放課後職員室に来なさい」
伊藤先生からの説教は一時間にも及んだ。なぜあんなことをしたのか。悪いことをした自覚はあるのか、後で全員に謝りなさい云々。まるで小学生に諭すかのように俺の目を捉えて離さなかった。俺のやったことが小学生レベルだったのは間違いないが。
その後反省文を書かされて、俺の裁きは終わった。意外と長かったが、ダメージはほとんどない。

「お疲れ」

職員室を出ると、呆れた顔で立っていたのは山下だった。

「お前は捕まらなくて良かったな」

「まあね。俺と宮沢が並んでると、疑われるのは大体宮沢だけだろ」

「そうかもな」

山下は俺が巻き込んだだけなので、彼が怒られないことに特に不満があるわけではなかった。多分俺はこれからもこいつとつるんでちょっと悪いことをするだろう。でも、誰かに怪我をさせるようなことはしない。俺はそういうところは線引きしているのだ。
だから今回だって、先生に叱られるくらいの傷で終わると思っていた。
いや、終わるはずだったんだ。

「そういえばさっきさ、お前を探してるやつがいたぜ」

不意に山下がにやりと笑って俺に告げた。

「俺を探してる? 誰だよ」

「誰とは言わねーが、女子。たぶんまだ教室に残ってる」

「は、なんだそれ」

いやに曖昧な言い方をする奴だ。俺のことを教室で待つような女子なんて、一人も思い浮かばない。あ、でももしかしたら。ランキングのことで物言いたげだった女子たちが揃って俺を責めるつもりなのかもしれない。
2年4組の教室の扉を開ける瞬間、一呼吸して腕に力を入れた。次の瞬間、クラス中の女子たちが俺のことを睨みつけていた——なんてことはなく、教室にいたのはただ一人、窓際の一番後ろの席に座る少女だけだった。
サッと、少しずつ開けられた窓から生暖かい風が吹いた。カーテンがふわりと広がり、彼女の顔を半分隠す。

「何か、俺に用だって?」

俺は教室に残っていたその人物が、本当に自分を待っているのか疑問に思いながら尋ねた。

「あ、うん。突然ごめんなさい」

彼女——岡田京子は風で乱れた前髪を整えて、俺の方を見た。
その目が。
驚くほど、美しい。気を抜くとその目に射竦められて身体が動かなくなりそうだ。
思わず息を呑んだ。
なんだこいつ。こんなに綺麗な目をしていたんだっけ。

「いや、別にいいんだけど。……で、なんの用?」

「……さっきのランキング」

ああ、やっぱり。そりゃそうだ。このタイミングで俺に話があるとすれば、ランキング以外になにもない。まして、今までろくに話したこともないような子だ。というか、今日が初めてなんじゃないか。

「その件に関しては謝るよ。すみませんでした」

俺は素直に頭を下げた。今更シラを切ったところであまり意味がないことくらいは分かっていた。
しかし、俺の言葉を訊いた岡田京子は首を傾げてこちらを見ていた。なんだ、他になにか言いたいことでもあるのか?

「いや、そうじゃなくて。板倉って、最低だよね」

「え?」

いま、なんて。
何か、とんでもない言葉を訊いてしまったような気がして、俺は一瞬彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。ともすれば自分の聞き間違いではないかとも思い、もう一度耳を澄ませる。窓の外から、蝉の泣き声が聞こえてきた。これまでだって鳴いていたはずなのに、普段はどうしてか聞こえない声。
それがいま、人とあまり話すことのない少女の声を掴もうと必死になっている自分の前では大きく響いた。

「あんなふうに、自分のしたことを棚に上げてあなたを責めるなんて、卑怯だって思わない?」

「それは、まあ」

彼女は一体、何が言いたいのだろう。
確かに今朝、板倉が俺の幕引きを邪魔してきた。彼さえいなければ、あそこまで派手に自分がしでかしたことを追及されることもなかっただろう。
けれど、彼女が板倉に怒る理由は何だ。
可愛い女子ランキング最下位だった彼女が、俺ではなく板倉を軽蔑する理由は。

「お前、もしかして板倉のこと——」

核心に触れるつもりはなかった。けれど、いまこの場で咄嗟に口をついて出た言葉が、彼女の胸を突き刺したのは間違いない。その証拠に、彼女は大きな瞳をうるませて膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。
たったそれだけのことを言うために俺を呼び出したのかとも思ったが、彼女の気持ちが分からないこともなくて、それ以上何も聞くことができなかった。
ただその日から、俺の中で岡田京子という女の子の存在が大きくなったことは間違いない。
***

事件から一週間、クラスで登校してこない奴がいた。
安藤和咲だ。
矢部が彼女を狙ってると知って、俺が欲しくなった女。しかも、どうやら板倉も彼女のことが好きらしかった。
しかしあの事件の後、俺はなぜか安藤和咲に対して、独占欲のようなものが消えてゆくのが分かった。まあ、所詮は歪んだ気持ちだったわけだ。
教室の奴らの中には彼女のことを気にかけているものもいた。でも、大半が普通に今まで通り生活を送っている。もうすぐ夏休みだし、一緒に花火大会にいく異性を誘い始める奴もいた。

そんな中、板倉が安藤を見舞いに行ったらしい。
矢部がそうけしかけたのだと、一部始終を見ていた山下が教えてくれた。
それに加え、なぜか岡田京子が、板倉と一緒に安藤の家に行ったことも知っている。
もし俺が、事件の当日に岡田京子と話をしていなければ、彼女の行動を不審に思っていただろう。
でも実際は違う。
俺は、彼女が板倉に気があるのだと見ていた。だからこそ、板倉と行動を共にしたんだと。
安藤宅から帰ってきた彼らは、今までと様子が違っていた。安藤は結局翌日も学校には来なかったけれど、どうやら時間の問題だということは、クラスの全員が感じ取っていた。
その代わりに、板倉と岡田が妙に互いを意識しているのが俺にはすぐに分かった。普段から板倉は矢部とつるむことが多いのだが、岡田と一緒にいることが増えたのだ。それは、本当に小さな変化で、クラスでは多分、俺や矢部しか気づいている人はいないだろう。矢部に話かける時の岡田は、以前よりもずっと楽しそうで、心なしか、見た目も綺麗になっているようだった。「可愛い女子ランキング」で彼女が最下位だったことが信じられないほどに。
俺は、板倉と話している時の彼女を見るのが癖になっていた。
彼女が頬を染め、嬉しそうに目を細めている。白い肌にさっとかかる黒髪が、無垢な彼女の心を思わせてとても惹かれた。

気が付くと俺は、彼女から目が離せなくなっていて。
一ヶ月後、夏休みが明けて板倉と一緒に彼女が登校してきたのを見て。
二人が付き合いだした事実を知ると同時に、心の底からカッと燃え上がる叫びが聞こえた気がした。
***

「宮沢って、なんか変わったよな」
変わった。
この一年、友人の口から放たれる自分の評価はどいつもこいつも同じだった。
高校三年の夏。高校生活最後のセイシュン。受験勉強に目覚める奴もいれば、最後の高校の夏に青春を謳歌しようとする人もいた。大会で進んでいる部活に所属する人はまだ、暑い夏を乗り切ろうと必死になっている。
俺は、そのどれでもない。
野球部の大会は地区大会で負けた。受験なんて面倒だし今の実力で行ける大学へ行けるならどこでもいいと思っている。俺は、できるだけ最短距離で人生を進めたい。
それは、彼女に対しても同じだった、はずだ。

「まだ諦めてねーの?」

3年2組。なんの腐れ縁なのか、山下とは今年も同じクラスだった。しかし、彼女——岡田京子は5組で、彼女と付き合っている板倉も5組。俺が、付け入る隙なんてなかった。

「諦めてないっつーか、進めてないっつーか」

「それを諦めきれないって言うんだよ」

「まじで」

「うん」

最近の俺——もとい、一年前から俺は全然前へ進めていない。それどころか、以前のようにクラスの真ん中で声を上げて中心にいようとする気持ちが消え失せていた。

「宮沢、今日の帰りカラオケ行こうぜ」
「体育大会のあと、クラスの打ち上げどうする?」
「お前、早く進路調査出せよ」

クラスメイトや担任から、とめどなく俺の人生を急かす言葉を頂戴する日々。そのどれに対しても考えるのが億劫で、「ああ」と生返事をするだけだ。
それぐらい、衝撃だったのだ。
俺の人生において、クラスで最も可愛くないと言われた女子を好きになったこと。
その彼女が、よりにもよって見下していた男にとられてしまったこと。
彼女にまつわる全ての出来事が、あの日から俺の心を砕いていた。

「今度、花火大会あるじゃん。そこまで好きなら、誘えばいいんじゃね」

8月2日木曜日。9月に体育大会が行われるため、この時期は午前中だけその練習があった。世間もうちの学校もすっかり夏休みだというのに。それだけ、高校生の体育大会は思い出に残すべきものだと期待されているのだろう。
今日も午前中に男子組体操の練習が行われた。その帰りに、山下に誘われて駅近くの○クドナルドにやってきたのだ。
山下はご飯を食べた後少し勉強したいから、と言っているが、俺にはそんな彼の姿が自分から遠ざかるように見えた。
部活を引退し、こいつだってちゃんと受験に向けて前を向いている。
それなのに、俺だけが夢や目標もなく惰性で日々を生きている。せめて何か力を入れられることがあればいいのに。なんて、母親に言おうものなら、「さっさと勉強しろ」と怒られるに違いない。

「花火大会ねえ。お前、恋人がいる女を誘う勇気ある?」

○クドナルドの店内は、俺たちみたいな高校生、OLぽい女性客、サラリーマンでいっぱいだった。誰かが誰かと色恋話をしていたところで、周囲の雑音にかき消される。だから俺たちも平気で誰にも聞かれたくない話ができた。

「まあ、ねえけどさ。宮沢ならあるのかと思うじゃん」

「なんだそのタチの悪い偏見は」

山下はポテトをくわえながらにやりと笑ってそう言った。確かに、以前の俺ならそういうこともできた。自分が手に入れたいと思うものに、他人の顔色など気にせずにつっこむこと。
そういう時は大抵、俺が思い描いた通りの結末になる。クラスの中心にいる権利、男子生徒全員を巻き込む権利、少しの悪戯も許してもらえる権利。
でも、今は。
怖いのだ。
失敗した時に失うものを考えると、手も足も出せない。
俺は、岡田京子を板倉に取られてもなお、彼女から振られることを恐れている。なんたる不覚。弱虫の陰険野郎だ。

「俺さ、聞いたんだけど」

山下はまだ懲りないのか、俺になんとしてでも立ち直ってほしいと思っているのか、口に含んでいたものがなくなると、ドリンクのコーラをゴクンと飲み、喉を鳴らした。

「なんだ」

「岡田京子と板倉奏太、最近やばいらしいぞ」

やばい。とはつまりどういうことなのか。俺にとって良いことなのか悪いことなのか、聞かなくてもなんとなく分かった。

「それはつまるところ、俺にチャンスがあるってこと?」

「ああ。これは5組の女子情報なんだが。なんでも、板倉の方が最近岡田に興味をなくしているとかで、ろくにデートも行けてない。岡田の気持ちが傾くのも時間の問題だって」

なぜ5組の女子が他人のプライベートな情報を山下なんかに話したのかは分からない。が、もしそれが本当なら、俺が彼女を奪うなら今じゃないかと直感した。

「なるほどな」

この場では、山下に対してそれくらいしか返せなかった。だが、俺の心の天気は大荒れ。
もしも彼の情報が本当なのだとしたら、1年間、どん底にいた自分を救い出せるのは俺しかいないのではないか。
誰かに自分の心の中を聞かれでもしたら中二病の烙印を押されること間違いなしだが、幸い俺の目の前には山下しかいない。チャンスだ。

「まあ、なるようになるだろ」

他人の恋の行方を見物するだけの彼はどことなく楽しそうだ。聞くところによると、彼は彼で同じ3組の高坂美久(こうさかみく)を狙っているらしい。まだやつと直接その話はしていないが、彼女と接する時の彼の態度で丸わかりだ。今度問い詰めてやろう。

「さんきゅな。ちょっと、頑張れそうだ」

俺は彼へのお礼として自分が頼んだチキンナゲットを一つ、彼のトレイに載せた。男子高校生にとって、ナゲット一個は大きい。それはすぐに彼の腹に収まっていた。
翌日、8月3日金曜日。
俺は体育大会の練習後に5組の教室に向かった。昨日山下から岡田と板倉の関係を聞いてからすぐに。ここらで一番大きな花火大会が行われるのが、明後日8月5日の日曜日。善は急がなければならない。

5組の教室では、体育大会の練習終わりでさっさと帰宅しようとする人、受験勉強で分からないところを先生に質問しに行くなどと友達と話している人でガヤガヤとしていた。
誰も、入り口から入ってくる他のクラスの男になんか目もくれない。

彼女は、窓際の一番前の席に座っていた。いつかと同じように、風になびく髪の毛がさらさらと揺れる。

「京子、今日はどうする? 勉強」
「行くよ。市立図書館。美波(みなみ)も行くよね」
「うん、もちろん!」

1年の時に同じクラスだった井口美波が田京子に明るく返答する。二人は、1年生の時それほど仲が良かっただろうか。いや、彼女だけでない。他の女子たちも、京子と普通に会話している。
去年のクラスでは、京子はクラスで浮いていていつも一人でいるような女の子だった。それが、一年経っただけでこうなるのか。けれど確かに、彼女を纏うオーラが、周りを明るく照らしているような気がした。
どれもこれも、板倉と付き合い始めたのが原因だというのだろうか。
その板倉は、今どこに。

「あ」

肩を、ドンとぶつけられた。俺の横をすり抜けて、一人の男子生徒が教室の入り口から出て行った。

「板倉」

透明な、どこか寂しげな声がして、俺はその声の主を見た。
岡田京子。
彼女が、捨てられた子猫のように瞳をうるませて、俺の背後にある教室の扉の方を見つめていた。
その目が、あまりにも痛々しくて、俺はとっさに目を逸らしてしまう。
「宮沢?」
5組の教室で、ふと同じ野球部だった平野智(ひらのさとし)に声をかけられた。
「おう」
「どうした? 誰に用?」
「それは」
こういう時、上手く嘘や方便を言えたら良かったのだが、俺の目は素直に岡田京子の方へと走っていた。
「え、ああ、そういえばお前……」
やめろ、その先を言うな。
俺の祈りも虚しく、平野は「岡田さんのこと、狙ってるんだっけ」とデリカシーの欠片のない声で言った。
「え?」
先に声を上げたのは、先ほど京子と話をしていた井口美波だった。彼女は、「えーっと」と顎を触り考える仕草をしながら京子の方を見た。

京子は、大きな目をさらに丸く開いて俺を見た。彼女のその瞳が、「なぜ」と理由を問いかける。
なぜ。
こんなことになったのか。
なぜ。
俺は、彼女に自分の口から想いを伝えられていないのか。
これまで、いろんなやつにでかい口を叩いて、自分に従わせてきた。欲しいと思うものは手に入れてきた。
それなのに、なぜ。
本気で手に入れたいと思った人を、手に入れる努力できないのは。

「……っ」

情けなかった。今の自分を誰にも見られたくない一心で、俺は俺を見つめる彼女を背に、5組の教室から退散した。
もし、彼女が俺のことを少しでも気にしてくれたなら、追いかけてくれるかもしれない——などと、甘い期待を抱いたのも事実。だが、その予想は外れ、彼女はおろか誰一人として俺のことなど気にかけてくれないのだと分かった。
全てが幻想。
俺が、大勢の輪の中心にいるなどという。たとえば物語であれば、悪ガキの主人公。最初は憎たらしい小僧だが、いざという時にはヒーローになる。
そうだ。憧れていたのだ。俺はずっと、子供の頃から。
ヒーローに、なりたかった。
彼女を花火大会に誘うのも失敗したことだし、大人しく家に帰ろうと思い昇降口まで降りると、俺が今一番見たくない人間の背中が見えた。

「……板倉」

相変わらず、冴えない顔立ちのフツー少年が、俺の方を振り返った。
こいつの顔を見ると、余計に彼女の切なげな瞳が脳裏をよぎり、頭を押さえたくなった。
「宮沢、なんだよ」
去年のランキング事件以降、彼は俺と極端に距離を置いていた。まあそれもそのはず。あれだけ言い合いになったのだから仕方のないことだ。
今思えば、お前が彼女と付き合いだしたのはあの一件が原因だったのだろう。それまで全然付き合うなんて素振りのなかった二人が、安藤の見舞いに行って帰ってくればこのとおり。二人がお互いを意識しているということが、目に見えて分かった。
本当は、今すぐにでも彼を詰ってやりたい。
俺が手に入れたかった女をあっさりと手に入れた彼を。
でも、俺にその権利はないのだろう。試合に負けたのだ。正々堂々戦うこともなく、彼女を想い、気がつけば失っていた。

俺たち二人の横を通り過ぎてゆく生徒が、昇降口の扉を開く。もわっとした熱い空気が二人の間に押し寄せた。
思わず、うっと眉を潜める。まったく不快だった。今のこの状況も、真夏の蒸し暑さも何もかも。

「お前に言いたいことがある」

「なんだ、また文句?」

「また」のところを強調する板倉は、よほど俺のことを嫌っているのだろう。鬱陶しそうな態度を見ても明らかだった。
「そうだ。お前、岡田のことどう思ってんの」

「へ……」

まさか俺が彼女の話を持ち出すとは全く予想していなかったらしく、気の抜けた声が漏れ出た。

「どうって。そりゃ、彼女なんだから、好きに決まってるじゃん」

今度は“彼女”のところをサラッと口にする彼に、嫉妬が渦巻く。いかんいかん、ここは冷静にならなくては……。

「本当にそうなのかよ。本当に、彼女のこと本気で考えてんのか」

色恋沙汰に、こんなにも本気になったのは初めてだ。この気持ちが、今の板倉と同じだなんて、俺には到底思えない。
理由なら簡単だ。
彼が今、おそらく京子と本気で向き合えていない理由。
高校3年生。板倉みたいな生真面目なやつは、普通に大学受験を考えているのだろう。他の生徒の大多数がそうしているように。そして、彼と京子は交際を始めて約1年。さすがに、付き合い出した当初ほど気持ちは昂っていないはずだ。少なくとも、板倉の方は。
だって、さっきの岡田京子の目。
彼女の目が、寂しげに揺れる瞳の奥が、板倉を心の底から求めていた。
それに対し、こいつの態度はどうだ。
彼女が名前を呼んでも、振り返りもしなかった。あれが、本気で好きだと思っている恋人にとる態度なのか? もしそうなら、京子が不便でならない。お前に対し、本気の気持ちを抱き続ける彼女が。

「宮沢。お前なんなんだよ。京子と僕の関係に口を挟むの? そんな権利があるの」

どうやら彼は、俺の果し状を受け取ったらしい。あまり凄みのない目で精一杯俺を睨み付ける。いつかの事件の日と同じように。

「権利? んなもん知らねーよ。俺はただ、俺がそうしたいから今お前と話してるだけだ。岡田は、お前のこと本気で好きだ。そんな目をしていたから分かる。それなのに、お前はどうだ。岡田と同じ気持ちでいるのか? もし、情だけで一緒にいるなら、そんな関係早いとこ切っちまった方がいい。お前も彼女も、無駄に傷つくだけだ」

最初は、敵意を剥き出しにしていた板倉が、俺の話を聞くうちにだんだんと拍子抜けしたとでも言わんばかりに不思議そうな顔になった。それもそうだ。これまで宿敵だったやつから、急に本心を言い当てられたのだから。おそらく、板倉自身さえも気づかなかった気持ちを。

「僕は彼女と、情で一緒にいるんだろうか……」

板倉は、俺に質問しているわけではなかった。自分自身への問いかけ。たぶん、彼の中にも、腑に落ちない思いがあったのだろう。彼らはおそらく、大喧嘩をしたわけでも相手の嫌な部分を見たわけでもない。ただ一緒にいただけ。それでも、薄れゆく感情だってある。板倉の中で、京子の存在が輝かしいものではなくなっているということ。
彼はそのことに今気づいたのだ。

「ああ。だから、もし本当に彼女のことを思うなら、早くその気持ちと向き合え。それか、今でも本気で好きならそれを伝えに行けよ。もうこれ以上、彼女を苦しめんな」

言ってやった。
俺は俺を苦しめているのかもしれない。
板倉の目に、驚きと戸惑いの色が見えた。だが、それと同時に拳を握りしめる。ようや決心がついたらしい。これで俺もお役御免か。
彼は、「……分かった」と小さく呟くと、踵を返して靴を履き替え昇降口から出て行った。
陽炎の中に消えてゆく彼の背中を、俺はただ立ち尽くして見つめることしかできなかった。