「なにこれ?」
午前8時10分。最初にやってきたのは、4組の中でも一番真面目な飯塚真由(いいづかまゆ)という女子だった。おそらく、朝早くきて勉強でもしようとしていたのだろう。休み時間も机にかじりついているようなやつだ。
彼女の順位をちらと確認する。15位。下から数えた方が早い。
「……」
あんたたちがやったの、とでも言いたげに後ろに立っていた俺や山下を睨んだが、すぐに自分の席についてノートと参考書を広げた。
なるほど、今は被害者である自分の方が劣勢であるため、特に何も問いただしてこないパターンだな。まあ、こいつは元々他人に深く干渉しないタイプだし、こんなもんか。

ちょっとつまんねーと思いながらも、その後続々と登校してくるクラスメイトの驚いたり、怒ったりする様子を楽しんでいた。女子は大抵数人で集まって、
「最低」
とはっきりと聞こえる声で憤った。
反対に男子は、直接俺に話しかけてくる方が多かった。
「これ、宮沢(おまえ)の仕業だろう?」
「ご名答」
「まさか、こんなことするなんて思ってなかったんだけど」
「言ってなかったからな。昨日思いついたんだ」
「まじかよ。女子たち怒ってるし、早いとこ消しとけよ」
「はいはーい」

俺に忠告してくるくらいの男は全く問題ない。今俺に話しかけてきた田中海斗(たなかかいと)はいたたまれないという顔をしている。おそらく、このランキングの投票に加担したという後ろめたさがあるのだ。

それは、他の男子にも言えることだ。

このランキングを見た男子たちみんな、気まずそうに女子たちの怒りの声が聞こえないフリをしていた。
やや遅れて登校してきた矢部浩人でさえ、「消せよ」と一言俺に言ったあとは、ぐっと歯を噛み締めているようだった。
矢部浩人の後方には、眉根を寄せてこちらを見ている安藤和咲がいた。彼女は3位。名誉ある順位じゃないか。何が、そんなに嫌なんだ?
ああ、もしかして、矢部が自分に投票したかどうかを気にしているのか? だから穴が開きほど彼の背中を見つめているのか?
それとも、単に周りに合わせてるだけか? 
なあ、なあ、なあ。

安藤と矢部との間にある見えない線を必死になって探した。どこだ。どこにある。俺が今から断ち切ってやる!

「宮沢……?」

ポンと肩を触られてはっとして横を見ると、山下が「大丈夫か」と心配そうな表情をしていた。俺は、自分の額をツーっと流れる汗に気が付く。

「……ああ。大丈夫だ」

自分でしかけたことなのに、自分で熱くなるなんて格好悪い。もういい。今日の茶番はここまでだ。もうすぐ始業のチャイムが鳴るし、先生が来る前に消してやるか——。
黒板消しを取ろうと、さらに黒板の目の前に近づいたとき。

ガララ

「はあ……はあ。セーフ……」

教室の扉が勢いよく開かれた。俺は、先生が来たのかと思いドクンと心臓が鳴る音を聞いた。でも、やってきたのはクラスメイトの板倉奏太だった。

「なんだ、板倉か」

俺はほっと胸を撫で下ろしたが、彼がものすごい形相で黒板を見つめているのが分かり、胸の奥に不快感が広がる。もう、いいよ。どうせお前も他のやつらと同じことを訊いてくるんだ。もうすぐ消すし、いつもの朝に戻ろうぜ。
俺はその辺にいた山下や河合たちと、「お前は誰に入れた?」などという会話に専念することに。板倉も周囲の人たちと誰の仕業なんだとか言っているうちにこの話題にも飽きてくれるはずだ。そうなれば、俺の勝ちだ。男子全員の想いを集約したこのランキングを女子たちに晒してやった。みんな少しは楽しんでくれただろう。そう思うとにやけが止まらなかった。

しかし、俺の意に反して、板倉は前方の入り口付近からこちらに向かって歩み寄ってきた。

「なあ、あれ誰が書いたんだ?」

軽蔑の声色で、彼は矢部浩人の肩を叩いて問う。
全員の視線が板倉に向けられている。矢部は気まずそうに、黒板の前に立つ俺を指差した。

「たぶん、あいつだと思う」

矢部からすれば、板倉にしか聞こえない声で呟いたのだろうが、彼らの動向に神経を尖らせていた俺には丸わかりだった。

「宮沢か」

彼は普段の争いを好まないスタンスではなく、いかにも何か言いたげな様子で、俺の方をキッと睨み付けて言った。

「最悪だな」

なんだ、お前。遅れて来たと思えば柄にもないことしやがって。

「はあ?」

俺は、売られた喧嘩は買う主義だ。明らかに善良そうな目をしている彼を威圧するように睨み返す。

「だから、最悪じゃないかって、言ってるんだ」

善良そうな顔で、すぐに正論を吐くやつ。
お前は、俺が嫌いな人間ワースト1だよ。

クラス中の人間が、俺と板倉の会話を訊いている。

「こんなこと全員の目に見えるように書いて、何か良いことでもあるの? 傷つく人、いるじゃん」

板倉の目は怒りに満ちており、自分の主張の正論ぶりを周囲に知らしめるようだった。それが俺にはますます気に食わず、はんっと鼻を鳴らしたとき。

たたっという足音と共に、一人の女子が、教室から飛び出していった。

「まって、和咲!」

飛び出したのはどうやら、安藤和咲らしい。彼女と中の良い畑中が彼女を追いかけてゆく。他にも、数人の女子が教室から出ようとしたが、「待ちなさい」という担任の伊藤が彼女たちを制した。

あーあ。

せっかく、黒板を消して何もなかったようにする予定だったのに。板倉が、あんなふうにつかかってこなければ、今頃。

「あれを書いたのは誰ですか」

先生は真っ先に、後ろの黒板のランキングに気がつき、生徒全員を見廻した。皆一様に俯いているのが分かり、その中の何人かが俺の方を気まずそうに振り返った。
彼らの視線と先生の視線が重なり、俺は身動きが取れなくなった。

「宮沢君」

確信を持った、先生の力強い声。
これ以上、俺になす術はない。降参だ、降参。
「放課後職員室に来なさい」