もう夏も終わるな、なんてそんな風情のない景色を暮れる橙の上に吐き出した。定時制高校の屋上から眺めるグラウンドは他の一端より随分こじんまりしていて、ここに通う生徒の多くはしばしば窮屈さを感じてる。
(それでも懸命に生きてる)
見上げた青と赤の狭間に漂う風は次の四季の到来を急かすけれど、その頃決まって秋はやがていなくなる夏の存在を抱きしめて泣くのが日課だ。
「秋尾」
見果てぬ空に吐き出した煙は、叱るように自分を呼んだその声に息を絶った。
「おま、もうそろ禁煙しろ」
「それが出来たら苦労しないんだなーこれが。何用」
「暦、校舎中探し回ってカンカン。何したんだよお前」
「あー思い当たる節しかねーわぁ」
今日の登校日迄に終わらすようにときつく言いつけられていた夏休みの課題、それを全てすっぽかしたのだ。
夏休みに入る前、この課題だけはせめて終わらせないと進級も危ういと本気で脅されていたのをつい昨日思い出して、困った末になんとかして空のページを埋めた。
担任のこよっちの似顔絵オンパレードにして。
「渾身の出来栄えだったのに。お気に召さなかったとは」
「アホなことしてっからこうなる。初めから黙ってやれよ課題」
「やる気出んかったんだからしゃーない」
にへら、と笑ったら隣から飽きれた目で睨まれた。柵に背を預けて空を眺める自分の隣、そいつは柵に腕を引っ掛ける。横目に見た明るい茶髪は、薄明かりに浮かぶ太陽と似ていた。
なんかいいなあ、と新しい煙草を咥えるのに、火をつける前にやっぱり隣からぴっ、と抜き取られる。
「しつけーぞ」
「いやお前がな」
「世知辛い世の中だよ全く。非喫煙者喫煙者の言い分まぁるでガン無視でさ」
「と言うと?」
「口が寂しい」
「他のもん咥えてろ」
「例えば?」
「飴とか」
「子供騙し。こちとら17だぞ、じゅーなな、もっとこう大人の見解提示して」
「じゃキスでもしとけば」
「お、いいねそれ。頼むわ」
目をつぶって、俗に言うキス顔なんてのをしてみた。秒で「なんちゃって」と笑うつもりが、その上に相手の顔が重なった。唇に触れた柔らかな感覚は確かにそこにあって、
目を見開いたらほんの少し置いた距離で飴色が泣きそうに揺れていた。
「一緒に謝ってやっから。はよ来いよ」
さも何事もありませんでしたみたいな体でやつがそう、呼ぶから。
こっちも一拍遅れて「あ、おう」なんて生半可な相槌を返した。
「あっきー!あっきあっきあっきあっき」
あっきいいいい!
歩くたび常日頃からぴょこんぴょこんと効果音が付きそうな彼女に、ベビーシューズをプレゼントしようしようと思って結局今日になった。
クラスでも唯一無二の親友である杏子は真向かいの席に座るとぷう、ともちもちのほっぺたを膨らませる。
「リスの真似」
「ぶー! あっきーぶっぶー! てかもーばってん! なんでこんな日にまでお寝坊さんなわけさ!」
「寝坊じゃないよ。学校来てたもん」
「っどーせまた屋上でタバ」
言い切る前に杏子の頭を掴んで伏せたら、勢い余っておでこからがつっ、と鈍い音が鳴った。未成年喫煙、これこのクラスの人間には周知の事実であったとしても気休めのオブラートは必要不可欠。
自業自得なくせにやらかした、と手を退けたら身動ぎする涙目にむくれっ面。
「ごめん、勢い余った」
「痛いよう」
「ごめんて」
「いーこいーこして」
いい子いい子、と杏子のおでこを撫でてやったらそれだけで幸せそうに目を細めた。仔犬のような単純さだ。今まで何度この屈託のない笑顔に救われて来たことか。
「三日だよ」
突拍子もなく届いた声は、いつも通り甲高く無機質で至極曖昧だったのに、事の顛末をこれ以上にないほど言い当てていた。
「あと残り、三日」
頭を撫でるこの手を、杏子の小さな手が掴んだ。存在を確かめるようにぎゅうぎゅうと握るから、きゅっと指先を捕まえてやると子どもみたいにはしゃぐ。
それでいてどこか物憂げに首を傾げて伏せる睫毛に、十七で燻る大人になりきれない哀愁が乗っかっていた。
「うん」
「明日明後日土日だから、実質学校で会えんのは今日が最期かなぁ」
「だね。杏子は“ひぃ”んとこ行くの」
「それが絶賛喧嘩中でありまして」
「おまなにやってん」
「だってええぇ」
うぐ、ひぐ、ともちもちのほっぺたを震わせて泣きじゃくる姿は嘘泣き以外の他ならない。面倒になってチョップしてやったら満更でも無さげに涙の跡が見えた。嘘じゃなかった。この顔はたぶん、自分の知らないところで既に終わりを偲んで啼いていたに違いない。
頭を撫でてやったらやっぱり自分より遥かに大人な態度で、その目に諭されそうになった。
「あっきーとも、今日でばいばい」
「…うん」
「あっきーもちゃんとしな」
「ちゃんと?」
「茅野くん探してた」
机に突っ伏した童顔は名残惜しそうに指先で自分の毛先をつまんでくるりと絡めて、それから大人びた素ぶりで笑う。
『秋尾です、よろしくお願いします』
この存在が定時制高校の扉を叩いたとき、満場一致で全くもって歓迎なんてムードは無かった。
誰もが教卓の前に立った自分を見て期を知り、暗黙の了解で見て見ぬ振りをしていた現実を突き付けられ、腫れ物扱いをした。
『あんた、髪超赤いのな』
唯一、茅野だけを除いて。
やつは自分の登場に対し嫌な顔一つするどころか、難無く受け入れた。プライドや強がりと呼ぶにはあまりに自然体過ぎるもんだから、それが功を奏してと言うべきか、かろうじて呼吸をする場所を得たと言っても過言ではない。
それから毎日そばにいた。他愛ないやり取りも、終わりに向かう日常とて、お互い捨てきれずに抱きしめて歩いた。
そんなことをやつは、片時でも思っただろうか。
今こうして柄にもなく感慨に耽っている自分を目の当たりにしたとき、茅野は杏子みたく一人静かに泣いただろうか。
(まぁ泣かないわな)
薄情な男だからな、と人気がないのをいいことに無造作に煙草を咥えた。見当たらない火を探してジャージのポケットを弄っていた時だ。
昇降口を出た大木の足元に、細身の青二才の姿があった。しとしとと、雨に降られて曇天を見上げる様は、どこか神秘的で危うい。
「ひぃ」
「、先輩」
「なにやってんの」
「日光浴」
「今曇り」
空を指差して言えば、真顔でべって舌を出された。
自分より遥かに世界を知っているひぃは何故か「先輩」と名を呼ぶ。どこかあどけなさの残る顔立ちに年齢はわからないけれど、多分後輩で年下なんだとは思う。
全身びしょ濡れでまた雨空を見上げるから、屋根の下で煙草を咥えたままそれを上下に唇で動かした。
「あんま吸ってると溶けますよ、脳味噌」
「よっけーいなお世話」
「もう溶けてますもんね」
「雨に降られてる今のおまえに言われたかないやい」
「探してましたよさっき。茅野先輩」
「奇遇。こっちも伝書鳩、杏子がひぃに逢いたがってた。最期はひぃがいいんだってさ」
「あの人は身勝手だ」
「だから喧嘩したの?仲直りしなよ」
「同じ穴の狢でしょ」
「自分だって逃げてばかりのくせに」
言うなあ、と思った。
「けじめをつけるのがそんなに怖いですか」
怖いと、頷いた。悟られるのだけはごめんで、代わりに苦笑いしてみた。
曇天の合間から少しの陽が射したのを見上げて、まだ終わらない時期をたまに鑑みるのも悪くないと思う。
ひぃはわたしに言ったのではなかった。
おそらく自分自身に問うたのだ。でなければどうして意味もなく雨に打たれて、来る見込みもない誰かを待って濡れるのか。
彼なりの反省の意なのだろうかと、やんわり勝手に噛み締めてから泣きそうになったのは秘密だ。
「旱」
旱だからひぃくんだ、ひぃちゃんだ、ひぃだと、顔のいい彼を多くはそう許容した。夏、窓から教室に乱反射する光を受けてそれでもにこりとも笑わない旱を、捨て置けなかったのは多分。
振り向かない翡翠色にきっと焦がれていたからだ。
なのに、空から降り頻る雨は微弱なばかりで。
「…これ旱が?」
「いや、僕こんな控えめなことしないです」
泣き止まない空をただ尊んでいた。
「秋雨ですね」