壁が覆ったあとも、しばらくはまだ普通に生活してた。最初からこんな雪山だったわけじゃないからね。ごく普通の、山頂にだけ万年雪のあるようなただの山だったのが時間の停止で結界の中の出来事が少しずつ壊れていくんだ。そうそう、精霊のこと。あの子らも言ってただろ、外殻、つまり体がないと外に出られない。

 通常精霊は一か所の出来事に同化するけど、その一か所っていうのはあくまでこの世界の一部だから機能するんだ。風が吹けば波が起きて、波が起きれば渦になる。渦が水をかき回して、そのあたりの生態系の維持に一役買うだろ、そうして生きている生き物によって例えば人間の口に入ることも、死骸から疫病になることもあるし、そのなかの一つが新しい進化をして別の生き物になるかもしれない。

 世界というのはそういった小さな出来事の連続性で、その連続性に帰依するのが精霊という生き物なんだ。だから理が崩れればそこにいる精霊たちだってそれに合わせて出来事を動かさざるを得ない。意識はないよ。ただ同化した精霊にはそういう性質があるってだけ。

 それが積み重なっていくと、こういう呼吸してるだけで死ぬような場所になるし、同じように無機物が有機物になったりするようになるんだよ。箱庭の状態異常っていうのかな。そう、そんな感じ。

 ここで過ごしていて、千年過ぎても俺は何も知らないし、何も変わらないし何も変われない。たった十数年の外の記憶だけが俺を知っている。俺にはそれしかないから。これから先も、一生、終わりのないこの雪の中で。


「外に出たいのか」

「わかんない。だって、外に俺が知ってるものはもうなにもないから」

「じゃあここにいたいのか」

「それもわからない。ただ、変化は怖い。もうここに慣れすぎたせいで、俺は本当はなんなんだろうって」

 笑うな。その顔が作り物なのは俺でさえわかる。

 そんな苛立ちにも似た感情がふつふつと沸き上がり、手のひらに爪が食い込みそうなほど力を入れた。知りたかったのは、ただこの場所が開けたらきっと幸せになる人がいるからだとそれだけだった。大層な理念はない。そんなに立派に生きてもいない。

 語り部に会いたかったのは、グラシエルを紐解く手掛かりになると思ったからで、その背景なんて何一つ知りはしなかった。知るつもりもなかった。所詮、本の中の他人なのだからと、教えを乞うてもそれは変わらないはずだった。