逸る気持ちが足をもつれさせ、待つしかできない電車の中では唇を噛みしめる。道中は無言だった。
心身は疲労困憊のはずなのに、早く陽奈子に会いたい気持ちが僕を突き動かしていた。

病院は面会時間が終わる頃で人がちらほらといた。その人の波をかき分けて、エレベーターで陽奈子の病室へと向かう。到着した階のナースステーションの看護師さんはすでに顔見知りで、さっと同行してくれる。今にも勢いよく扉を開けんばかりで会社を飛び出したのに、その静かな扉を前に、僕は立ち竦んでしまう。
会いたいんだよ、陽奈子。君に。

ずっとそうもしていられないし、こうしている間にも残酷に陽奈子の命を時間が奪っていく。逡巡したのは多分、永遠の1秒。
扉にそっと手をかけて、開けた先にはお母さんと先に着いていたお父さんが、居た。

「千夜子、学くん……。ありがとう」

ピ、ピ、と刻む機械音をBGMにお母さんが声をかけてくれる。
病室に足を踏み入れると、目に映る、ようやく会えた陽奈子。

「なんだ?どうした?」

涙声でお父さんが伺うように陽奈子に顔を近づける。

「うん、うん、そうだね。きれい。見えた、よ。ひまわり、きれいだね。あおいはな、そら、みたいだね。……あ、りがと、だいすき」

最後に振り絞った声は、幸せな夢の中、伝えたかった本当の心。きっとそうだと信じている。

ふぅ、と、息を吐いて最期。
無情にも機械音が鳴り響く。それは先程までの心音を刻む音ではなく、ピーーー、と途切れることの無い警告音。
まざまざと現実を突きつける音。

「ヒナちゃんありがとう、大好きだよ」
「私達も。陽奈子のこと、大好きよ」
「陽奈子……、ありがとうな。生まれてきてくれて、ありがとう」

それぞれが呟く言葉に、生まれる愛情。

人は、最期の時にも耳は音を聴き取れる、ということを聞いたことがある。
僕は陽奈子に何を伝えてこれたのだろう。
病気が発覚してから、いつだって付きまとっていた疑念がある。

見舞うことも、心配をすることも、彼氏としての義務が僕を動かしていたのではないか?もしかすると、薄情な自分をごまかす為の偽善だったのではないか?

心の片隅に引け目があって、それでも陽奈子は多分、そんなことわかった上でいつだって「ありがとう」「お疲れ様」と言う。「ごめんね」と言ったのは、別れる気がないと言ったあの時くらいのもので、大丈夫、ありがとう、という。

「陽奈子、陽奈子。ありがとう。僕は、僕も。陽奈子のことが大好きだよ」

もがいていた、つきまとっていた疑念は真実の言葉に消えていく。
溢れ出たこの言葉こそ、本当の想いだ。
君に、届いていれば嬉しく思う。




看護師に呼び出された医師がやってきて、言葉を告げる。

「午後6時12分、ご臨終です」

医師が告げた臨終の言葉に、現実が一気に引き寄せられて事務的な作業や手続きに移っていく。
耳障りだった機械音は電源を消され静かになった。


芦原陽奈子、享年24歳。

僕の彼女は、この世を去った。