三.招かれる客と招かれざる客
市内にあるスタジオには歩いて向かう。
少し暑く感じたがスタジオに着けば絶対冷房が
ついている。
そう信じ少し我慢して歩いた。
木の下を通る時は耳が壊れてしまうのではないかというほどのセミの鳴き声がした。
正直あれほどまでに鳴かれるともはや
夏の風物詩とは言い難い。
ただの騒音だ。
スタジオに行く途中弟のいる新聞社に向かった。
弟とは三歳離れている。
今は地元の新聞社の記者として地元を飛び回っている。
今日は土日で僕は休みだったが新聞社はまだ働いている。
差し入れとして今日作ったケーキを持っていくことにした。
元々二個作っていたのだ。
そのため生クリームが余ることになってしまった。
新聞社の入口のインターホンを鳴らすと
ちょうど弟が応答した。
カメラ付きのインターホンなのだろう。
「はい。×××新聞社です。あっ兄さん。
少し待っててね」
こちらが話し始める前に弟に待っててねと言われたので静かに待つ。
すぐにドアが開き弟が中へ招いてくれた。
中は……冷房がついてる!
ケーキを渡して出ていくつもりが無意識のうちに長電話のように時間が他愛のない話で謎に伸び る。
中は本当に涼しく汗で少し濡れていた服が完璧に乾いてしまった。
弟は終始笑顔で接してくれた。
これはやっぱり子供の時兄弟喧嘩というものを
しなかったからなのだろうか。
三歳差となれば大体の家庭では兄弟喧嘩をするだろう。
このおもちゃが欲しいなどといったしょうもない争いが原因でほとんど毎日起きる。
だが僕たち兄弟は起きなかった。
お互いが自分の世界を持っており他の世界には興味がなかったのだ。
僕の世界はケーキを作るという世界。
ケーキを作るために母とよくキッチンにいた。
弟は本を読むという世界。
本を読むため父とよく本棚のある部屋にいた。
お互いがお互いに興味がない。
確かに弟はケーキを食べるのは好きだが
作るのに対しては興味がない。
僕は……。
読むこと自体興味がないな。
悲しいな。
槍で心の痛いところを突かれたように落胆する。
「秀一はお付き合いしている女性はいるのか」
弟に聞いてみる。
「兄さん。
ここは職場なのだからプライベートのことは
よしてくれ。
まぁいないよ」
「そうだよな。
確かにお前は恋愛なんか興味なかったもんな」
弟は高校時代計六回告白されたが一回も首を縦に振らなかった。
「よせよ」
少し笑って答えた。
続けて
「俺はそろそろ結婚を前提にお付き合いしてくれる方を探しているんだ。
兄さんはそんな方はいるの」
急に質問で来たな。
僕は爽やかな顔で答える。
「まぁいないよ」
「ほら兄さんだっていないじゃないか」
早く結婚したい。
早く家庭を築きたい。
他がその欲望を燃料に血走ってしまうと
取り返しのつかないことになってしまう。
ゆっくりいかなければ。
ゆっくりすぎてもいけないのだが。
応接室の扉が開く。
編集長が来た。
「いつも弟がお世話になっております」
たってお辞儀をすると編集長も笑顔で
「秀一くんはいつも一生懸命頑張っていますよ。
我々の期待の若手記者です」
とベタ褒めしていた。
弟がそんなに頑張っているのか。
兄としては少し照れたが顔には表さなかった。
「何か足りない点があれば叱っておきますので
なんでもお申し付けください」
少し笑って編集長に伝える。
「えぇ。
叱ることなんぞひとつもございません。
では仕事中なので失礼」
編集長はそう言葉を残しこっちの返事も聞かずに
部屋を出ていった。
仕事中なのでと言われるとこの場を早く出ないといけない空気になってしまうじゃないか。
確かにもうそろそろ出なければ約束の時間に遅れてしまうが。
弟にケーキを渡す。
弟は目を輝かせて
「兄さんがケーキを作るなんて久しぶりだな。
会社のみんなで食べさせてもらうよ」
と笑顔で受け取ってくれた。
笑顔。
僕はパティシエになってこれを求めていたのだろう。
ケーキというものは人を笑顔にする。
だが作る人は……。
作るまでの過程で涙を流す。
パティシエという頂に着くまでに諦めるものも多くいる。
僕もその内の一人だ。
諦めたものはケーキを作るということ自体を
トラウマに思う。
自分だってそうだった。
案を出すだけならまだトラウマではなかったが
いざ家のキッチンにたちケーキ作りの道具を出すと手が震えた。
変な汗が出た。
体が叫んでいた。
僕はその身体をほっといてはおけず
結局はケーキ作りはしなくなる。
今日は久しぶりにケーキを作りそのケーキのおかげで笑顔が生まれた。
その達成感に浸りながら僕は新聞社を後にした。
十分ちょい歩くと彼女の言っていたスタジオが
僕の前に現れた。
店に入るとここも冷房が聞いていた。
暑さに負けそうな体をここで冷やす。
だが今回の暑さは外の気温から来るものではなかった。
人気女優を見れるという興奮からきた熱だった。
その暑さを冷やすため。
いや、興奮を抑えるために僕は頭を冷やす。
店の入口にある椅子に座っていたのだが
一分も経たないうちに彼女は奥の部屋からやってきた。
「あぁこの度はありがとうございます」
彼女は凛とした笑顔で僕に言った。
「いえいえ。こちらこそ大元は僕の起こしたことなので。それよりここのスタジオとても綺麗ですね」
この緊張の中こんな言葉が出る自分に驚く。
「ここ去年建ったばかりのスタジオなんです」
通りで。
新品の建物の匂いもまだ少し残っている。
手に持ってるケーキの箱の重さが気になり
会話に支障が出始めてきたから
ケーキを渡す。
「これ 実は今日作ったものなんです。
もし良ければと思いまして」
「え!ケーキとかも作れるんですか。
お言葉に甘えていただきます!」
ケーキの箱を彼女に渡す。
後ろにいるスタッフまで笑顔だった。
笑顔っていいな。
それから僕はスタジオを少し見学させていただくことになった。
これから僕と彼女は無の関係に戻る。
女優とその彼女を応援するファン。
その関係は近いようで遠いものだ。
ファンが推しに会う。
それは相当な確率だ。
その至福な時間がもうすぐピリオドを打つ。
彼女は何回も切られるシャッター音一つ一つに
笑顔がポーズを決めている。
カメラマンは
「そこもう少し動いて。そう。そこそこ。
はい!撮りまーす」
の想像通りの事を言っている。
一体どのくらい経ったのだろう。
ふと視線を落とすと見学の際にもらった
コーヒーのカップの中身がなくなっていることに気づく。
外の空間はオレンジに包まれている。
僕は彼女がこっちを見た時に手を挙げ
「何度も言います!
この前はすみませんでした!」
深く頭を下げ彼女に謝る。
彼女は慌てたように
「ここスタジオだから!
私だってそんなに気にしてませんよ!」
と声をかけてくれた。
そう言うとわかっている自分がいてもそこは安心する。
頭を上げた僕は何故か泣いていた。
涙目で僕は彼女を見る。
こんなに至近距離で見られるのはこれが最後だろう。
「立派な女優さんになってください」
「はい……」
彼女は気づいているのか。
僕が君のことを女優だと知っていたことを。
その答え合わせはいらない。
僕は陰ながら君を応援するよ。
そう心で呟き僕はスタジオの扉を開けた。

いや、正確にいうとドアノブに手をかけた時
人がスタジオに入ってきた。
僕が出ようとしてることをお構い無しにだ。
肩がぶつかり最初はすみません!と言ったが
相手は無視。
なんだ。
がたいもでかかったはず。
彼が通ったあと後ろを見るとラグビー選手と間違えてもおかしくないようなでかさの男がいた。
サングラスをつけ髪は金色に染めている。
「ここだったのか
やっと見つけたぞ」
彼はそう言うと笑いだした。
あはははははは。
その声は静まり返ったスタジオに響く。
危険を察知し僕はすぐに由紀さんがいる方へ行く。
そしてその男の前に一人の女性が行く。
さっきコーヒーを渡してくれた女性。
多分真鍋由紀のマネージャーであろう。
「何の御用でしょう」
できるだけ強いアピールをしているのだろう。
足音を大きく立て声に張りがあるように聞こえた。
だが彼女の背中は震えていた。
それはそうであろう。
こんな大男に女性が一人で対峙すれば
怖いのは当たり前だ。
「俺は由紀ちゃんに会いに来た。
さぁ握手をしてくれ。
写真を撮ってくれ」
大男の容姿からは想像できないような甘い声で彼女を誘っている。
手元を見ると由紀さんの手は震えていた。
そして僕の手を握ろうとしていた。
さすがにここは。
僕はそう思い彼女の手をぎゅっと握った。
大男は はよせんかい!と怒鳴りながら舌打ちをし
こっちを睨み始めてきた。
さすがにこれ以上線を越えてしまうと危ないラインまできてしまう。
「あ、あのー……」
声が続かない。
出したいのに声が出ない。
続きは頭の中にある。
言葉はもう浮かんでいる。
「こ、こんなやり方はいけないと思います。
帰ってください」
言いきれた。
わざわざ彼女のスタジオを特定しそこで
怒鳴ったりして会いたいというのは異常だ。
これは正当だろう。
「なんやてめぇ。由紀ちゃんとどんな関係だ」
「俺はゆ、由紀、由紀さんの彼氏だ!」
「あぁなんや。お前も芸能界っていう力使って男を釣ってただけなんや。もうええわ」
男はスタジオを出ていった。
静寂になったスタジオで誰も動かなかった。
いや動ける結末ではなかった。
十秒前こんな結末になるなんて誰が予想できただろうか。
あんだけ威勢の良かった大男は素っ気なく帰っていった。
由紀さんは恥ずかしそうに
「守るからだといっても彼氏だなんて恥ずかしいな」
と照れたように言ってきた。
正直僕もなぜあの発言をしたのか覚えていない。
瞬間的に言葉が浮かんで頭で処理せずに言ったのだろう。
一般人と女優が付き合うというのは最近では
聞かないわけではないが珍しい。
いや、勝手にそんな妄想をしていた自分を心の中で殴る。
今の判断は彼女を救うためだ。
それから僕はスタジオを後にした。
彼女の姿を最後まで目に残し
そのまま出ていった。
最後に少し彼女の中のヒーローになれたため
良かった。
帰りにスーパーでビールを買う。
アパートに着いてしまう前に開けてしまった。
暑さに対抗するビールの冷たさは僕の明日を生きる活力を回復してくれた。