その欠片に恋をする


彼女は僕に語りかける
「ねぇ、〇〇〇〇〇」
「あぁ」
涙が溢れていることを彼女は知らないのか。
少し開いた口に涙が流れていく。
そのまま彼女は△△△△△へ歩いていく。
彼女の行く先は闇そのものだったが彼女の足元は何故か明るい。
 そう。その姿は光そのものだった。

『その欠片に恋をする 白昼夢かえで』

一. 聖なる夜に零れる汗

会社にも慣れた4年目の季節。
春風に運ばれてきたかのように僕は彼女に出会った。
コンビニで買い物をしていたあの日。
あの日はたまたま残業で忙しく帰りに夜食を買おうとしていた日だった。
頭の中はさっきまで処理していた書類の事でいっぱいでレジで並んでいる時その事件は起きた。
トマトジュースの瓶と卵を床に落としてしまったのだ。
パリン。
ド派手な音ではなかったが僕が見た景色は最悪だった。
後ろに並んでいた女性のスカートに赤と黄色の液体が付いてる。
やばい。
すみません!
顔を見ると…
人気女優 真鍋由紀だった。
当時主演映画を一年で四作持つほどの売れっ子女優。
だが出会いがこれだ。
握手も写真もお願いできる状況ではない。
手汗でズボンが濡れることなんてお構いなしにポケットからハンカチを取る。
「すみません!服弁償するので あ、いやまず拭きます」
「あ、い、いや大丈夫です」
「いやそこをなんとか!」
「いや、どうしても」
そう言いかけた時彼女はすでに駆けて行っていた。
買い物カゴはそこに置いて。
(あーもう。何やってんだ俺は)
心の中でそう叫ぶ。
待てーーーーー。
僕も買い物カゴを床に置き彼女を追いかけていた。

店を出ると彼女の姿は右方向へ向かっていた。
急いで追いかける。
案外早くに追いつくことができた。
息を切らしている彼女を見る平然とした僕。
「本当にごめんなさい。何か着替えを用意しますので家に着いてきてください!」
彼女の額からは汗が一滴出ていた。
僕は彼女が逃げ出さないか心配だったが
後ろをちらちら見ながら家へと向かった。
街灯を見ると虫が集まっていた。
仕事の疲れなんてものはもうなかった。
それより謎の焦りだった。
話を辿ると彼女は有名女優なのだ。
売れっ子女優。
こんな所を写真に撮られてしまうと彼女の
芸能活動にも支障をきたす。
だがここでバイバイも惜しいところだ。
いつの間にか僕は服を貸すという名目から
有名女優を家へ誘うということに変わっていた。
ボロボロでないが新しくもないアパートの前に着く。
後ろを見るとちゃんと彼女はいる。
階段を上る際に考えていたことを話す。
「お、お、お名前は何というんですか?」
「真鍋由紀です」
「そ、そうなんですね」
声が震えている。ダメだ。僕の作戦が…
僕の作戦というのはこれだ。
女優 真鍋由紀を知らない男になる。
そこにメリットもデメリットもないと思うのだが本人が僕のことをファンだと思って接するのとファンだと分からないで接するのでは全然違うと思う。
「仕事は何してるんですか?」
「一応女優をしています」
「へ、へー、女優なんですねー、素、凄いですね!」
もう噛みまくりだ。
だが彼女は気づいてはいなさそうだ。
そうしていると家の前に着いた。
鍵をバッグの中から取り出す。
「少し待っててくださいね」
その言葉を玄関に残し僕は家に飛び込む。
まずは水をがぶ飲みした。
気を紛らわせた。
そして部屋に飾ってた真鍋由紀のポスターを見て少しニヤとする。
それからクローゼットに行き女性でも着れるような服を探す。
Tシャツ。ズボン。さすがに僕の家は男の一人暮らしの家なのだからスカートやブラジャーといった物はない。
それ以外の物を持って玄関へ向かう。
「お待たせしました」
最初彼女はもう帰ってしまったのではと
心配したがその必要はなくなった。
彼女は
「ありがとうございます」
とお辞儀をし服を着ようとするがさすがに
外なので服は脱がなかった。
目で僕を見る。
その目は僕に着替える部屋を貸せと伝えていた。
「あ、着替える場所必要ですよね。
僕の寝室使って良いですよ」
彼女はまたお辞儀をして
「それではお言葉に甘えさせていただきます」
というと玄関で
「お邪魔します」
というと靴を脱いで廊下を歩こうとした。
その後ろ姿を見た瞬間僕は焦った。
自分の部屋には真鍋由紀さんのポスターがある、
その考えが頭を一周する頃には僕は
行列の人混みをかき分けるように彼女より先に部屋に入るとすぐに扉を閉めた。
「ちょっと待ってね、すぐ片付けるから!」
こんな所でファンと思われたくはなかった。
由紀さんは扉の外でしっかりと待ってくれているようだ。
急いでポスターを剥がす。
三枚ある中まず一枚剥がす。
これはある雑誌の付録に付いていたものだ。
ネット予約限定版だったので相当頑張ったものだった。
二枚目はあるドラマのDVDの特典のポスターだった。
その時のドラマは由紀さんが野球部のマネージャーになり甲子園を目指す作品だった。
夏の甲子園とドラマの放送日が重なったため
人気は爆発的になり一時期は社会現象となっていた。
三枚目はファンクラブの特典だった。
ファンクラブ結成当初の特典。
全てを破ってしまった。
それらを全てゴミ箱に詰め込む。
今ではファンクラブは抜けているが大切な物
まで破ってしまった。
そして彼女を部屋へ呼ぶ。
扉を開けると少し視線を外した彼女がいた。
「あ、ど、どうぞ。汚いかもしれませんが」
「ありがとうございます」
さっきと同じようにお辞儀をした。
だが少しの変化に僕は気づくことができた。
彼女は…笑っていた。
口角を上げ笑ってくれていた。
僕の何がおかしいかは分からないが笑ってくれていたという事実が僕にとっては幸せだった。
外では虫たちが僕を祝福している。
さっきまで降っていなかった雨が祝福のビールかけならぬ雨水かけをしてくれた。
由紀はもうこの扉の奥で着替えている。
さすがにそんな扉を開けたりはしないのだが。
数分もしないうちに彼女は出てきた。
さっきまでのスカートとはまた違う味を彼女の姿は表していた。
メンズ服に真鍋由紀。
異色のコンビ。
ありそうでなかった。
うん。アリだな。
プロデューサーにでもなったように自分で肯定していた。
彼女はお礼のようなことを言って家を出ていこうとした。
あっ!
僕は忘れていたある物を彼女に手渡そうとバッグを漁る。
「真鍋さん。汚れたスカート洗って返すので名刺交換でもしませんか?」
心臓の音が速くなっている。
だがもう引けない。
「いいですよ!」
彼女は振り向き笑顔で答えた。
その日は冷蔵庫にあった冷凍パスタを食べたがその味は三つ星のグルメよりも
美味しく感じた。

二.重なり合う記憶

会社というのは地元のスーパーの企画開発部。
僕はスイーツ課だった。
なので家の冷蔵庫には常に試作品のスイーツが山ほど。
毎日毎日食べても減らなかった。
その日も僕はスイーツを食べている。
外を見てみると小雨が降っていた。
洗濯物が…
ベランダに出てすぐに洗濯物を中に入れる。
衣類からは洗剤のいい匂いがしていた。
花の匂いだ。
花。
はちみつ。
そうだ。
ケーキのスポンジ部分ではなくホイップクリームの中にはちみつを入れたらどうか。
洗濯物をソファーに置くと机の上にあるノートを取る。
[試作品案・感想ノート]
このノートには試作品を食べた感想だけでなく試作品の案を書いている。
すぐにページをめくり空白のスペースを探す。
めくっていると今まで食べてきた試作品のケーキ名が目に入る。
ショートケーキ、カステラ味。
ショートケーキ マンゴー味。
バナナキウイケーキ。
味は全ていまいちだった。
新たな空白を探しそこに今思いついたケーキの詳細を書く。
ショートケーキ クリームは はちみつ入り。
よし。これは美味しそうだ。
頭の中ではもうケーキが作り上がり
入刀までしている。
断面からはフルーツが沢山見えており
想像するだけでヨダレが出る。
だが僕は首を横に振り 違う違うと言う。
僕はあくまで企画開発の書類を作り
試作品を食べるだけの人。
ケーキ作りはできないのだ。
それはたまたま配属された部署が企画開発だけの部だったのだがこれからも異動という異動は
そうないだろう。
子供の頃の夢はパティシエだった。
ケーキを作りみんなを喜ばせれたらそれを超える幸せはないだろうと考えていた。
だが現実はそう甘くなかった。
実際修行には行った。
だが気持ちが続かなかったのだ。
朝は早く夜は最後の片付けを一人で行う。
それがなんと二年間も続いた。
体調は優れず学生時代はガタイがいいと言われた
体もその当時はやせ細ったガリガリの体になっていた。
さすがにもう心も体も傷だらけになり気づけば
その職場を離れていた。歳は二十五歳。
無職になったのだ。
そして求人サイトを見ていたらたまたまスイーツの企画開発の求人があったためすぐに応募した。
面接では自分のスイーツ愛を語り見事採用。
今では職場に慣れてきている。
最初にも書いた通り本当に慣れてきている。
だが夜寝る時にふと思う。
「俺 パティシエになるんじゃなかったのか。
俺が目指してたのは企画を作るのではなく
その企画を通したケーキを作る人なのではないか」
だがその気持ちはすぐに闇夜へと消えていく。
その気持ちは闇夜へと独り歩きしていくのだ。
そしてその代わりに闇夜から返事が返ってくる。
「お前に残された道は企画開発なのだ。
もうあの頃の地獄の日々には戻りたくないだろう?それなら企画開発を死ぬまで貫き通すんだ」
その意見に自分は肯定してしまう。
「あぁ。そうだな」と。

カタン。
持っていたペンが床に落ちた音で意識が
現実に戻る。
気づけば涙が出ていた。
地獄の日々を思い出しこれだけでも泣いてしまうのか。
もうパティシエはごめんだ。
そう自分の気持ちに刻み込み机の上のケーキを
食べ始める。
トマトとクリームを混ぜたもの。
まぁまぁ美味しいじゃないか。

電話が鳴ったのはそれから何分後のことだろうか。
いや何時間後だろうか。
確認するために外を見る。
まず暗かった部屋は太陽の光に照らされ明るくなっていた。
そして雨が降り止んでいた。
一夜越したのだろう。
机の上のケーキをみる。
完食している。
記憶が曖昧な中食べたのだろう。
そうだ。
ノートになんて書いたか見て思い出そう。
確認してみてるとべた褒めしていた。
(酒の力って怖いな)
口には出さず心の中に封じ込めておく。
ピロピロピロ。
電話の音が鳴っている。
そうだった。
電話の音で目覚めたのだ。
急いで電話を取る。
電話番号は……。
頭の細胞全てが立ち上がり喜びに変わる。
だがその喜びの気持ちを抑えそっと通話ボタンを押してもしもーしという。

「もしもーし。あっ合ってたー。良かったー」
さすがにどのドッキリ番組でも人気女優から目覚めの電話なんて項目はないだろう。
「あ、あの、どうしました?」
「今日服を返そうと思って…。
仕事もあるのでその現場に取りに来てもらうことは可能ですか」
なんだよ。自分が借りたのなら持ってくるぐらいして欲しいものだ。
持ってきてくださいよ。そう電話に向かって口を開こうとした時ふとカレンダーが目に入った。
今日は…休みだ。
「はい。いつでも行けます」
負けてしまった。彼女の誘惑に負けてしまった。
「お、そうなんですね!それなら14時に〇〇スタジオに来てくださると嬉しいです。失礼します。」
そのまま一方的に切られてしまった。
自分の愚かさに少し悔しくなる。
時計はまだ10時だ。
冷蔵庫の中から冷凍うどんを取りだし
電子レンジで温める。
実は冷凍うどんは電子レンジで解凍することもできるのだ。
2分後冷凍うどんを取りだしそれを器に移す。
そしてその器にポン酢などをかける。
僕的にはうどんにはポン酢しか合わないと思う。
うどんin theポン酢 の完成。
今日は朝と昼を一緒に頂くとしよう。
麺をすする。
うどんのもちもちとした食感と共にやってくるポン酢の酸味が最高にヤミツキになる。
だから僕はうどんが好きなのだ。
そして極め付きに僕は早食いのため5分も経たないうちに完食してしまった。
まだ準備の時間もあったのだが10時10分だ。
まだまだ全然時間はある。
何をしよう。
リビングの中を三周し答えを捜し求める。
部屋の中だけでは答えを探せなかった。
散歩をしに行くことにした。
アパートを出て曲がり角を曲がった先にある
スーパーに行くことにした。
そこで何かおやつを買って家で映画でも見よう。
スーパーに行く途中にそう考えた。
幸い僕は動画配信サービスに加入しているため
映画やアニメは見放題だった。
これで大抵の暇潰すことができる。
他の人は本を読んだりスポーツをしたりで
暇を潰すという人がいるが
僕は読書は嫌い。
スポーツは苦手というダメダメなパターンだった。
読書はいちいち情景を思い浮かべるのが面倒くさいのだ。
読み手が違うのだから思い浮かべる情景が違う?
そんなのはただの…ただの…。
決定的な理由が思いつかない。
だが僕は本が嫌い。
それは生涯貫くほどの気持ちだったのため
決定的な理由が無くても嫌いなのだ。
スポーツはただ単に運動神経が悪いから苦手だ。
小学生の時はドッジボールがうちの学校では
人気だった。
多分どこの学校でも人気だろう。
あんなの戦争の縮小版なのではないかと
何度思ったことか。
子供の腕から放たれるボールという名の大砲。
それが当たれば外野に行かなければいけない。
一回外野に行ってしまうと並の者では内野に
帰って来れない。
あー。
大人になった今でもあの楽しさが分からない。
時々小学校の横を通った際運動場で小学生が
ドッジボールをしているがその時はその方向を見らずに通り過ぎるようにしている。
結局ここまで言えばもしかしたら自分は
スポーツも嫌いなのでは。
と思ってしまうほど語ってしまった。
スーパーに着くと冷房のおかげか店内はキンキンに冷えていた。
買い物かごを取り店内入口にある野菜コーナーから回っていく。
次に魚コーナー。
そして肉のコーナー。
僕の目に留まるものはなかった。
スイーツコーナーに来た。
僕はスーパーに行くと必ずスイーツ売り場で
偵察をしている。
まずは自社の商品の売れ具合とどんな商品を仕入れているかだ。
このスーパーは自社の商品を思ったより仕入れていた。
前偵察した時より二種類増えており心の中でガッツポーズをした。
そして次は他社の商品の観察だ。
今どんな商品を出しているか。
自社と似た商品ではどちらが売れているかなどだ。
シュークリームは自社の方が売れていたが
三個入りのモンブランは他者のケーキが圧倒的に売れていた。
値段の差は他社の方が百円安い。
そこが決定的な違いなのだろう。
今回はノートを持ってきていないため頭の中でこの結果と考えを整理する。
その時 最近現れなかった自分が脳内で語りかけてきた。
(今日は時間がある。ケーキを作ってみたらどうか?)
確かにだ。
今日は二時に約束があるがそれまでは自由だ。
そして集合のスタジオも比較的近いため
簡単なケーキだったらすぐに作れそうだ。
ネットでショートケーキを作れば何分で出来上がるか調べてみた。
そこにはなんと四十分というのが存在する。
作り方の欄を見てみる……。
作れそうだ。
そのケーキを真鍋さんにプレゼントしよう。
何の記念日でもない。ただお詫びとしてケーキを渡そうと決めすぐに材料を集めに行った。

家に帰ると時計は10時50分。
余裕はある。
すぐに取り掛かろう。
たまたまさっき見たショートケーキの作り方のサイトには作り方の動画がついていた。
それを見て確認する。

一.スポンジ生地を作るためボウルに卵を入れ
ホイッパーで溶きほぐす。

二.上砂糖を加えて混ぜ合わせ、湯煎用のお湯の上に一を乗せ、ハンドミキサーの中速で撹拌する。

三.人肌程度の温度を保ちながら、生地を撹拌する。

四.生地を持ち上げた時に2〜3秒リボン状に跡が残る位までになったら、湯せんから外し、ホイッパーで撹拌し、生地をなめらかにする。

五.薄力粉をふるいながら一気に加え、ゴムベラでさっくりと大きく切るように、粉っぽさが少し残る程度まで混ぜる。

六.大きめの耐熱ボウルに無塩バター、牛乳を入れ、600Wの電子レンジで30秒加熱し、
バターを溶かす。

七. 五に六を加えてゴムベラでさっくり混ぜ合わせる。

八.粉っぽさがなくなったら型に流し込む。
型を軽く落として気泡を抜きます。

九.180℃のオーブンで25〜30分程焼く。
焼きあがったら型から抜き網に乗せ
濡れ布巾をかぶせて冷やす。

十.シロップを作る。
砂糖、水、キルシュを鍋に入れ沸騰させ
アルコールを飛ばす。
粗熱を取り冷蔵庫で冷やす。

十一.デコレーションを作る。
いちごのヘタを切り落とし薄切りにする。
ボウルには生クリーム、砂糖を入れ氷水で冷やしながらホイッパーで7分立てにする。

十二. 九を半分に切り十のシロップを塗る。
そして十一の3分の1の生クリーム、薄切りのいちごを挟む。

十三.残りの生クリーム、いちごでデコレーションし、砂糖をかけて完成。

動画通りに進めてみる。
こんなに一生懸命にケーキを作ったのは
何年ぶりだろうか。
修行時代にはケーキ作りはできなかったから
実質五、六年振りだろう。
これほど月日が経つと体も動きを忘れていた。
頭の中では出来上がっているケーキも手元を見ると想像のものと大きく異なる。
ケーキを作れない自分。
これは一体退化したといえるのか。
簡単に表すとこれは退化だろう。
ケーキを作れた自分がケーキを作れない自分になっている。
だが本当に退化なのだろうか。
失うものもあったが得るものもあった。
ケーキが作れなくなる代わりに
ケーキの案を出す力を持つことはできた。
地獄のような修行の日々から解放された。
そこだけを捉えると成長したといえる。
さて自分は大学を卒業してからの六年で
成長したのか、退化したのか。
甘いケーキを作る本人が厳しいことを言っても
ケーキは美味しくならないな。
気持ちを切り替えなければ。
あーだこーだしてるうちにケーキに生クリームを塗り終えた。
思った以上に生クリームは余った。
スプーンを持ってきてスプーンをはみ出すような生クリームをすくい口へと運ぶ。
ふわふわした甘いものを食べている感じだった。
子供ところはよくこんなことしてたなと思い
懐かしい気持ちになる。
ケーキを作り終えるとサランラップをつけて
冷蔵庫に保管した。
時計は11時50分。
40分で出来上がるものを60分で作り終え
喜びと悔しさが対立している。
扇風機の音が絶え間なく聞こえるこの部屋で
ケーキを作ったんだ。
今の会社に入社するのと同じタイミングに今のアパートを契約した。
それからケーキを作っていなかった。
それだからこの部屋で作るケーキは初だった。
彼女にあげるのを少し楽しみにしながら待つ。
冷蔵庫に寄りかかり口笛を吹きながら待つ。
その待つ姿はまるで幼少期の自分を見ているようで少し照れがあった。
三.招かれる客と招かれざる客
市内にあるスタジオには歩いて向かう。
少し暑く感じたがスタジオに着けば絶対冷房が
ついている。
そう信じ少し我慢して歩いた。
木の下を通る時は耳が壊れてしまうのではないかというほどのセミの鳴き声がした。
正直あれほどまでに鳴かれるともはや
夏の風物詩とは言い難い。
ただの騒音だ。
スタジオに行く途中弟のいる新聞社に向かった。
弟とは三歳離れている。
今は地元の新聞社の記者として地元を飛び回っている。
今日は土日で僕は休みだったが新聞社はまだ働いている。
差し入れとして今日作ったケーキを持っていくことにした。
元々二個作っていたのだ。
そのため生クリームが余ることになってしまった。
新聞社の入口のインターホンを鳴らすと
ちょうど弟が応答した。
カメラ付きのインターホンなのだろう。
「はい。×××新聞社です。あっ兄さん。
少し待っててね」
こちらが話し始める前に弟に待っててねと言われたので静かに待つ。
すぐにドアが開き弟が中へ招いてくれた。
中は……冷房がついてる!
ケーキを渡して出ていくつもりが無意識のうちに長電話のように時間が他愛のない話で謎に伸び る。
中は本当に涼しく汗で少し濡れていた服が完璧に乾いてしまった。
弟は終始笑顔で接してくれた。
これはやっぱり子供の時兄弟喧嘩というものを
しなかったからなのだろうか。
三歳差となれば大体の家庭では兄弟喧嘩をするだろう。
このおもちゃが欲しいなどといったしょうもない争いが原因でほとんど毎日起きる。
だが僕たち兄弟は起きなかった。
お互いが自分の世界を持っており他の世界には興味がなかったのだ。
僕の世界はケーキを作るという世界。
ケーキを作るために母とよくキッチンにいた。
弟は本を読むという世界。
本を読むため父とよく本棚のある部屋にいた。
お互いがお互いに興味がない。
確かに弟はケーキを食べるのは好きだが
作るのに対しては興味がない。
僕は……。
読むこと自体興味がないな。
悲しいな。
槍で心の痛いところを突かれたように落胆する。
「秀一はお付き合いしている女性はいるのか」
弟に聞いてみる。
「兄さん。
ここは職場なのだからプライベートのことは
よしてくれ。
まぁいないよ」
「そうだよな。
確かにお前は恋愛なんか興味なかったもんな」
弟は高校時代計六回告白されたが一回も首を縦に振らなかった。
「よせよ」
少し笑って答えた。
続けて
「俺はそろそろ結婚を前提にお付き合いしてくれる方を探しているんだ。
兄さんはそんな方はいるの」
急に質問で来たな。
僕は爽やかな顔で答える。
「まぁいないよ」
「ほら兄さんだっていないじゃないか」
早く結婚したい。
早く家庭を築きたい。
他がその欲望を燃料に血走ってしまうと
取り返しのつかないことになってしまう。
ゆっくりいかなければ。
ゆっくりすぎてもいけないのだが。
応接室の扉が開く。
編集長が来た。
「いつも弟がお世話になっております」
たってお辞儀をすると編集長も笑顔で
「秀一くんはいつも一生懸命頑張っていますよ。
我々の期待の若手記者です」
とベタ褒めしていた。
弟がそんなに頑張っているのか。
兄としては少し照れたが顔には表さなかった。
「何か足りない点があれば叱っておきますので
なんでもお申し付けください」
少し笑って編集長に伝える。
「えぇ。
叱ることなんぞひとつもございません。
では仕事中なので失礼」
編集長はそう言葉を残しこっちの返事も聞かずに
部屋を出ていった。
仕事中なのでと言われるとこの場を早く出ないといけない空気になってしまうじゃないか。
確かにもうそろそろ出なければ約束の時間に遅れてしまうが。
弟にケーキを渡す。
弟は目を輝かせて
「兄さんがケーキを作るなんて久しぶりだな。
会社のみんなで食べさせてもらうよ」
と笑顔で受け取ってくれた。
笑顔。
僕はパティシエになってこれを求めていたのだろう。
ケーキというものは人を笑顔にする。
だが作る人は……。
作るまでの過程で涙を流す。
パティシエという頂に着くまでに諦めるものも多くいる。
僕もその内の一人だ。
諦めたものはケーキを作るということ自体を
トラウマに思う。
自分だってそうだった。
案を出すだけならまだトラウマではなかったが
いざ家のキッチンにたちケーキ作りの道具を出すと手が震えた。
変な汗が出た。
体が叫んでいた。
僕はその身体をほっといてはおけず
結局はケーキ作りはしなくなる。
今日は久しぶりにケーキを作りそのケーキのおかげで笑顔が生まれた。
その達成感に浸りながら僕は新聞社を後にした。
十分ちょい歩くと彼女の言っていたスタジオが
僕の前に現れた。
店に入るとここも冷房が聞いていた。
暑さに負けそうな体をここで冷やす。
だが今回の暑さは外の気温から来るものではなかった。
人気女優を見れるという興奮からきた熱だった。
その暑さを冷やすため。
いや、興奮を抑えるために僕は頭を冷やす。
店の入口にある椅子に座っていたのだが
一分も経たないうちに彼女は奥の部屋からやってきた。
「あぁこの度はありがとうございます」
彼女は凛とした笑顔で僕に言った。
「いえいえ。こちらこそ大元は僕の起こしたことなので。それよりここのスタジオとても綺麗ですね」
この緊張の中こんな言葉が出る自分に驚く。
「ここ去年建ったばかりのスタジオなんです」
通りで。
新品の建物の匂いもまだ少し残っている。
手に持ってるケーキの箱の重さが気になり
会話に支障が出始めてきたから
ケーキを渡す。
「これ 実は今日作ったものなんです。
もし良ければと思いまして」
「え!ケーキとかも作れるんですか。
お言葉に甘えていただきます!」
ケーキの箱を彼女に渡す。
後ろにいるスタッフまで笑顔だった。
笑顔っていいな。
それから僕はスタジオを少し見学させていただくことになった。
これから僕と彼女は無の関係に戻る。
女優とその彼女を応援するファン。
その関係は近いようで遠いものだ。
ファンが推しに会う。
それは相当な確率だ。
その至福な時間がもうすぐピリオドを打つ。
彼女は何回も切られるシャッター音一つ一つに
笑顔がポーズを決めている。
カメラマンは
「そこもう少し動いて。そう。そこそこ。
はい!撮りまーす」
の想像通りの事を言っている。
一体どのくらい経ったのだろう。
ふと視線を落とすと見学の際にもらった
コーヒーのカップの中身がなくなっていることに気づく。
外の空間はオレンジに包まれている。
僕は彼女がこっちを見た時に手を挙げ
「何度も言います!
この前はすみませんでした!」
深く頭を下げ彼女に謝る。
彼女は慌てたように
「ここスタジオだから!
私だってそんなに気にしてませんよ!」
と声をかけてくれた。
そう言うとわかっている自分がいてもそこは安心する。
頭を上げた僕は何故か泣いていた。
涙目で僕は彼女を見る。
こんなに至近距離で見られるのはこれが最後だろう。
「立派な女優さんになってください」
「はい……」
彼女は気づいているのか。
僕が君のことを女優だと知っていたことを。
その答え合わせはいらない。
僕は陰ながら君を応援するよ。
そう心で呟き僕はスタジオの扉を開けた。

いや、正確にいうとドアノブに手をかけた時
人がスタジオに入ってきた。
僕が出ようとしてることをお構い無しにだ。
肩がぶつかり最初はすみません!と言ったが
相手は無視。
なんだ。
がたいもでかかったはず。
彼が通ったあと後ろを見るとラグビー選手と間違えてもおかしくないようなでかさの男がいた。
サングラスをつけ髪は金色に染めている。
「ここだったのか
やっと見つけたぞ」
彼はそう言うと笑いだした。
あはははははは。
その声は静まり返ったスタジオに響く。
危険を察知し僕はすぐに由紀さんがいる方へ行く。
そしてその男の前に一人の女性が行く。
さっきコーヒーを渡してくれた女性。
多分真鍋由紀のマネージャーであろう。
「何の御用でしょう」
できるだけ強いアピールをしているのだろう。
足音を大きく立て声に張りがあるように聞こえた。
だが彼女の背中は震えていた。
それはそうであろう。
こんな大男に女性が一人で対峙すれば
怖いのは当たり前だ。
「俺は由紀ちゃんに会いに来た。
さぁ握手をしてくれ。
写真を撮ってくれ」
大男の容姿からは想像できないような甘い声で彼女を誘っている。
手元を見ると由紀さんの手は震えていた。
そして僕の手を握ろうとしていた。
さすがにここは。
僕はそう思い彼女の手をぎゅっと握った。
大男は はよせんかい!と怒鳴りながら舌打ちをし
こっちを睨み始めてきた。
さすがにこれ以上線を越えてしまうと危ないラインまできてしまう。
「あ、あのー……」
声が続かない。
出したいのに声が出ない。
続きは頭の中にある。
言葉はもう浮かんでいる。
「こ、こんなやり方はいけないと思います。
帰ってください」
言いきれた。
わざわざ彼女のスタジオを特定しそこで
怒鳴ったりして会いたいというのは異常だ。
これは正当だろう。
「なんやてめぇ。由紀ちゃんとどんな関係だ」
「俺はゆ、由紀、由紀さんの彼氏だ!」
「あぁなんや。お前も芸能界っていう力使って男を釣ってただけなんや。もうええわ」
男はスタジオを出ていった。
静寂になったスタジオで誰も動かなかった。
いや動ける結末ではなかった。
十秒前こんな結末になるなんて誰が予想できただろうか。
あんだけ威勢の良かった大男は素っ気なく帰っていった。
由紀さんは恥ずかしそうに
「守るからだといっても彼氏だなんて恥ずかしいな」
と照れたように言ってきた。
正直僕もなぜあの発言をしたのか覚えていない。
瞬間的に言葉が浮かんで頭で処理せずに言ったのだろう。
一般人と女優が付き合うというのは最近では
聞かないわけではないが珍しい。
いや、勝手にそんな妄想をしていた自分を心の中で殴る。
今の判断は彼女を救うためだ。
それから僕はスタジオを後にした。
彼女の姿を最後まで目に残し
そのまま出ていった。
最後に少し彼女の中のヒーローになれたため
良かった。
帰りにスーパーでビールを買う。
アパートに着いてしまう前に開けてしまった。
暑さに対抗するビールの冷たさは僕の明日を生きる活力を回復してくれた。
四.思い出し笑い

窓の外の雨は僕の感情を表しているのか。
冷蔵庫からプリンを取りだし食べる。
自分の意見によって改良されたプリン。
いや、彼女の意見によってだ。
彼女とは誰か?
真鍋由紀だ。
彼女は僕の妻だ。
いや過去形だ。
妻だった。
離婚したわけでもない。
夜の暗闇に一人で話している自分が嫌になる。
だがこれは独り言でもいい。
口に出してこの話を酸素に触れさせなければならないのだ。
今日企画室という僕の仕事場に電話が入ったのは
昼休憩の終わり頃だった。
企画室長である野村さんという男性が震えている。
「お、お、お、おい。お前の奥さんが」
見るからにまともではない彼から電話を受け取った。
「こちら変わりました。真鍋由紀の夫ですが」
「こちら森野病院です。真鍋由紀さんが
たった今交通事故に合い意識不明の重体です。
今すぐ病院に来てください。
早くしないと手遅れになります」
人は本当に窮地に追い込まれると笑ってしまうんだな。
そこで僕は感じた。
決して面白いわけではい。
今まで彼女と過した思い出が走馬灯のように流れる。
いや走馬灯は死ぬ前に流れるものか。
走馬灯ではないが走馬灯のようなものが流れる。
そしてその場に立ちすくんでしまう。
上を見て涙がこぼれ落ちないようにする。
野村さんが肩を揺らし僕の意識を呼び寄せた。
「間に合わなくなるぞ。おい?おい?」
野村さんも気が気でなくなっている。
僕もだ。
だが何をすればいいのか僕には何も分からない。
とりあえず車の鍵と携帯とスマホを持って
スーパーの駐車場へ向かった。
よく小説とかには
『俺は冷静になって考える』
などとあるがそれは空想だけの話だとここで感じた。
自分から冷静になろうとは思わない。
本能的に冷静になるのだ。
妻が交通事故に合った。
妻の命が危ない。
わかっている。
わかっている。
焦らないといけない。
なぜ僕の心はここまで落ち着いているのだ。
なぜ焦らないのか。
焦ろ僕。
その感情だけを持って運転していた。
気がつくともう病院に着いていた。
自分では病院に着くまで運転した記憶もないが
今そこは関係ない。
病院の受付に走って向かう。
息が上がっているがそんなのも整えずに受付の女性に要件を伝えるとすぐに緊急治療室の前に
連れて行ってもらった。
手術中のランプは灯っている。
その光があるだけで中では生死の境を彷徨っている。
もしかして病院というのは天国と地獄を繋ぐ
場所なのではないか。
そうとも考えてしまった。
下を向くと涙の水たまりができ始めてる頃
ランプの灯りが消えた。
カチャンという音とともに重い空気がこちらへ流れ込む。
手術を行った先生だろう、男がこっちへ来た。
「彼女はいつ退院できますか」
「いえ……」
「入院してる時って面会時間は何時までですか」
「いえ……」
「彼女は……笑ってましたか」
「はい……。
.........。申し訳ございません!」
フロア全体に響く声で謝る先生。
その背中を何か尖った物で刺してやりたいと思ったが病院でそんなことをするものではない。
あはははははは。
あまりの展開の早さに笑ってしまう。
今日の朝彼女は歩いていた。
手が動いていた。
体温があった。
言葉を話せた。
感情があった。
外に出ると影があった。

目の前にある遺体をみると感情という感情が無くなる。
「由紀……。ねぇ今日何食べる?」
返事が来ないことは安置室に行くまでの時間で
わかっていたはずだ。
だが彼女を前にして返事が来ないから喋らない
というわけにはいかなかった。
「あの時覚えてる?僕がトマトジュースを由紀に
かけてしまった時。
覚えてる?
君が僕のケーキをまた食べたいって言ってくれたこと。
覚えてる?
鍋を食べたこと。
覚えてる?
デートのこと。結婚式のこと。
覚えてる?
初めての子育て。
今日も頑張ってたよね。
覚えててね。
僕のこと。
子供たちのこと。
この世界のこと」

葬儀は家族葬で終わらせた。
向こうの両親とも話し合い
子供たちは僕が引き取ることになった。
子供たちの寝顔をみて思い出す。
あんなことあったな。
こんなことあったな。
全てが過去だ。
彼女がいればその過去の未来だって作れた。
だがもう作れない。
線路の先が崖になっている。
笑う。
とにかく笑った過去を思い出す。
思い出して思い出して
出会った頃の僕たちの頃を思い出した。
五.また会ったね

空にかかる虹の美しさに魅了される。
今日の仕事中実はまた彼女から電話が来た。
「この前のケーキ美味しすぎます。
そのお返しがしたいので菜の花駅前のカフェに来て欲しいです。時間は明後日の〜〜……」
一方的に集合時間と場所を決められた。
まぁ芸能人だから仕方がないが。
息が上がることに気づかない僕は家のドアを
思い切り開けて大声でただいまと言う。
当然返事のない部屋がそこには広がっている、
その夜はクローゼットの中から正装を探していた。

約束の日になった。
今日は朝から集合だと彼女は言っていたため
早めに起きて準備をする。
この季節 水道水はぬるくなっている。
なんで水の冷たさは季節と逆なのだろう。
暑い時にはぬるく。
寒い時には冷たい。
どこまで僕をいじめたいのか。
一昨日の夜準備した正装に着替え
外に出た。
これから女優とカフェ。
そこら辺の町を歩いている人たちとは
これから訪れる予定が違う。
そのことで少し優越感に浸る。
信号を待っている時も気分はアゲアゲ。
僕の心の中ではロックフェスが行われている。
自分の好きなミュージシャンを思い浮かべていると周りが ガヤガヤし始めた。
横を見ると幼児たちが先生と一緒にお散歩に来ている。
信号の近くにある人型のマークが青になった。
先生たちは直ぐに横断歩道に駆ける。
「はーい。
いちご組のみんなー。
急いで渡るよー」
いちご組であろう子供たちは各グループで固まりながら横断歩道を渡る。
その時一人の男の子が道端に座り込んでしまった。僕だって立ち止まって観察しているわけではない。
歩きながらそれを見ていた。
そのため後ろに引き返して彼を助けることを
したくても人混みの多さにすることが出来ない。
どうなる。
先生たちは他の子供たちに夢中で気づいていない。
その時彼は抱き抱えられた。
彼はきょとんとしている。
口の中に指が入っているその顔は
愛嬌のある顔だ。
抱き抱えた人は近くにいた先生に彼を預け
直ぐにその場から消えていった。
人混みの中にその人は紛れた。
黄色のパーカーという目立つ色だったが
紛れた人の軍団の中から探す気力もなく
僕は前を見て歩き出した。

カフェに着きまず驚いたのは彼女の服装だった。
黄色のパーカーに白のジーンズ。
僕はあえてその話題には触れず心の中で
彼女を尊敬した。
芸能人だからといって浮かれるのではなく
周りを常にみて人を助ける。
これは元々は誰にでもできることなのだ。
だが常に忙しい、忙しいと嘆く現代。
移動時間といった暇が出る時間でいかに彼らは
自分の心を満たすかを考えている。
そのためスマートフォンの動画だったり
漫画などを読んでいる。
実際さっきの信号でも男の子が地面に座った際
周りにいた大人たちはみんな下を見ていて
気づいていなかった。
そんな当たり前が当たり前にできない時代で
彼女は当たり前のことをやった。
その当たり前のことをやった彼女に僕は恋をした。
当たり前、当たり前とうるさいだろう。
だがうるさいと思うから当たり前ができなくなっているのだ。
確かに彼女は女優だ。
僕には到底手も足も出ない。
だが僕は画面越しに映る女優としての真鍋由紀ではなくこの目で実際に見た真鍋由紀に恋をした。

「そんなに黙りこまないでくださいよー。
この前のケーキめちゃめちゃ美味しかったですよ!!」
「ほんとですか!?いやー由紀さんに美味しいと言われるとやっぱり照れますね」
「このケーキってもしかして生地から
作ってたりしますか?」
「え、よく気づきましたね。そうなんです!」
「やっぱり!生地からも普段は感じない美味しかを感じたからそうかなって思ったんです」
気づいてくれたことに少し喜びを感じた。
彼女の笑顔。
その笑顔が素敵すぎる。
「あのー、LINE交換しませんか?」
口から出かかっていた言葉が流れるように出てしまう。
やばい。
言ってしまったあとに後悔する。
自分でも目が泳いでいるのが確かに分かる。
僕にとっては一世一代の大勝負ともいえる一言だった。
かけっこで一位を競う時。
校内テストで一番を取る時。
そんなもの比べ物にもならない。
「あっそれぐらいいいですよ!」
緊張が和らぎ食べていたパフェのスプーンを落としたということはここだけの話。
この時会計を彼女に払わせてしまったのは
今でも反省している。

『今日はお疲れ様でした』
そのメッセージとともに絵文字を送る。
すると彼女から
『こちらこそ、楽しいひとときを過ごせて良かったです』
と可愛らしいスタンプが送られてきた。
頭の中で彼女のことを考える。
顔、髪、手、後ろ姿、子供を助けたあの姿
全てが可愛らしく勇敢な姿だった。
冷蔵庫からビールを取りだし蓋を開ける。
爽快な音と一緒にやってくるのは白い泡。
こぼれそうになったので急いで口にそれを運ぶ。
脳にまで響くこの味。
やっぱり夜はビールに限るな。
携帯をいじりながらネットニュースを見る。
普段テレビでのニュースはそこまで見ない。
時間的にちょうど見ないという理由もあるのだが
一番は難しすぎるためだ。
政治やらなんやらでこっちが求めているようなニュースがいつまで経っても流れない。
ボーッと次のニュースになるまで待っていて
気がつけば番組自体終わっているというオチだ。
ネットニュースを開くと大きい見出しに
『人気女優・真鍋由紀 ドラマ主演決定』
となっていた。
喜ばしいことだ。
今日あった彼女が何やら漫画の実写ドラマ化の主役として抜擢されたようだ。
確かに納得だ。
残り一口になったビールの缶の中身を口に流し込みゴミを捨てる。
そして寝た。
彼女ともっと過ごしたい。
そういう寝言を発していたのもこの時期だった。