あの夜から、ペガサスに乗れなくなった

ノキルは、馬を止めて、降りる。

燃え盛る並木道が、ぐらぐらと揺らめく。

小隊も止まり、馬に乗ったまま待機する。

ノキルは、村人の前で、片膝を立ててしゃがむ。

「ノキル様」

村人は、ノキルに気がつくと言う。

その声は、息も絶え絶えで、燃え朽ちる枝葉の音に、かき消される。

村人の顔は煤汚れ、細かな擦り傷がある。

胸部から腹部にかけて、真っ直ぐに刀傷がある。

刀傷は深く、血が止めどなく流れている。

その刀傷を見たノキルは息を呑んだ。

この刀傷。

ノキルの目が鋭くなる。

ノキルは見覚えがあった。

この刀傷は間違いなく、本国の英雄。

先の戦いで国を守り、終戦に多大なる文武で貢献した勇者アルス様の刀の切り傷だった。

今となっては、ノキルが本国一の剣士と謳われている。

しかし、そのノキルの文武は、師匠のアルスから教わったものだった。

終戦後、忽然と姿を消してから数年、密偵を遣わすも、消息が掴めなかった。

「ジョフィル様が、まだ、村に」

村人が言う。

ノキルは、はっと、我にかえる。

「皆、この者を王宮へ。私は村へ行く」

ノキルは小隊に言った。

「失礼ながら、ノキル様お一人は危険です。この者を連れて行くのに、一人で十分でございます」

小隊の一人が言う。

「いや、王宮の警備を厚くする。私達の小隊は本国一、戦闘に長けている。だからこそ、エシア様をお守りしなさい」

「はっ!」

小隊は、ノキルに一礼すると、村人を連れて、王宮へ戻っていった。

ノキルは、小隊を見送ると、ひと息ついて、馬に乗る。

呼吸と共に、木々の焼け焦げる臭いが口に入る。

もし、アルス様であれば、陽動ではない。

アルス様が、このような安易な計略はしない。

そうすると、この先に、アルス様が居る。

ノキルは馬を走らせた。

馬は煙を切り、突き進む。

小隊と、アルス様を対峙させる訳にはいかない。

到底かなう相手ではない。

世界中で、アルス様の鎧に傷を付ける事ができる者は、誰一人として居ないだろう。

ノキルは、きゅっと綱を握り、村に急いだ。

ジョフィルを救出するべきか、アルス様と対峙して、村を救うべきか。

ノキルは、決死の覚悟をして、奥歯を噛んだ。

もうすぐ、村だ。

ノキルの乗る馬も、ノキルの緊張感を感じ取っているようだ。

馬は、真剣な眼差しで、駆け抜けていく。

ノキルは、その馬の緊張感を感じ取り、心の中で感謝する。

そして、全身に熱い血を通わせて、奮い立たせた。

村が見えてきた。

村の門が壊れている。

扉のように開閉する門だったが、ほとんど原型を保っていない。

門は地面に倒れて、材木の残骸と化している。

ノキルの馬は、その門の残骸を飛び越えて、村の中へ入った。
 村の家々は倒壊し、無残にも材木の山になっていた。

所々から黒煙が昇り、襲撃を受けてから、まだ間もない事がわかる。

倒壊した家々に沈み始めた夕陽の光が当たる。

影が伸びて、倒壊した姿を際立たせる。

空は、青空から黄昏に変わる途中だった。

夕陽に向かって、色調が段階的に変化している。

村人の多くが、倒壊した家の下敷きになり、意識が無い。

崩れた門の近くに、母子が横たわっている。

母は最後まで子供を守ったのだろう。

子供に覆い被さるように母が倒れている。

ノキルは、奥歯を噛み締める。

ノキルは、その母子を横目に、馬に乗ったまま、村を歩く。

馬の歩く、ひずめの音が、異様に響く。

息のある者を目視で探していく。

しかし、誰一人として、動く者は居ない。

この村で一番賑わう広場に着いた。

広場も材木の山と化していた。

出店も朽ちて、果物などが散乱している。

物を捨てられたように、村人が、ごろごろと倒れている。

ノキルは考えていた。

敵は少人数だ。

大勢である場合、踏み歩かれて、果物などが原型を留めているはずがない。

アルス様、お一人なのか?

確かに、剣技に長け、弓技にも長けていた。

ノキルは、アルス様から教授を頂いていた頃の記憶を思い出していた。
 ノキルは、アルス様に教授を受けていた記憶を思い出していた。

剣技の訓練の小休憩のひと時。

ノキルは、くったくたになった体をどさっと地面に下ろして、尻をついた。

両足をだらんと前に伸ばしている。

両腕を背後に伸ばし、地面に手をつく。

背をのけ反り、空を見上げた。

空に鱗雲が広がり、乾いた風がそよかに通り過ぎる。

その風は、むわっとした湿気が充満する鎧の隙間を通り過ぎ、汗に濡れた肌を心地よく冷やす。

ノキルは、兜を取った。

「そう言えば、アルスさんは、どうして、この国に仕えようと思ったのですか? アルスさんなら、皇国に仕えられるのでは」

アルスは、ノキルの隣に座る。

アルスも兜を取った。

短い髪から、汗が、きらきらと飛び散る。

「こちらの国の領地に、故郷があるんです」

アルスは答える。

「ああ、こんなに何度も剣を交えているのに、故郷も知らなかった。どこの生まれです?」

「西方に在る森の奥地の小さな集落です」

「あの森か。国境の上に在る森だから、王族は立ち入ってはいけないって言われています」

「どうしてですか?」

「森の中だと、どこからが隣国の領土になるかがわかりづらいからです」

「森に線を引く事もできませんからね」

「うん。例え間違いでも、王族が隣国の領土に踏み入れたら、国同士の大事になってしまうと、国王様が注意喚起してます」
「森は、領土など関係なく、どんな人でも受け入れてくれるのに」

アレスは答えた。

「うん。どんな所なのですか?」

ノキルは訊ねる。

「とても自然が豊かな場所です。馬のひずめの音も荷車の車輪の音も無い。動物の楽園です」

「ふーん、行ってみたいな。アレスさんの故郷に」

ノキルの表情に儚さが映る。

「いつか、行ける時が来たら、一緒に行きましょう」

「うん、行きましょう!」

アレスの返信に、ノキルは、表情をぱあっと明るくして答える。

「さて、練習を再開しましょうか」

アレスは立ち上がる。

「はい!」

ノキルも立ち上がる。

「今度は、演舞ではなく、実戦練習を行います。この練習場の敷地内を全て使い、木刀を相手の鎧に当てたら勝ちとします」

「はい!」

ノキルとアレスは兜を被り、木刀を構える。

「始め!」

アレスの掛け声と共に、ノキルは、すかさず、右足を踏み込み、アレスに攻撃する。

アレスは、その攻撃をするりと避ける。

「昨日も同じ戦術でしたよ。周囲に目を配り、ありとあらゆる物を利用するのです」

ノキルは、苦味を奥歯で噛み締めて、再び、アレスに立ち向かう。

ノキルは、右足を踏み込み、アレスの間合いの内側に入る。

そして、木刀を下段に持ち替えて、下から上へ木刀を斬り上げる。

アレスは、速やかにノキルの右側に入り込む。

そして、ノキルの右足に足をかけて、右肩を押して、上体を倒した。

ノキルは体勢を崩して、地面へ転倒する。

転倒する瞬間、視界に地面が迫る恐怖心から目を瞑る。

「目を閉じてはいけません。倒れる事が敗北ではなく、それをチャンスにするのです」

アレスは言う。

ノキルはアレスの言葉を聞いて、木刀を固く握り、転倒したまま、アレスの足首に木刀を斬りかかった。

アレスはさっと片足を上げて、ノキルの攻撃を避ける。

ノキルの木刀の先端が地面についている。

アレスはノキルの木刀と地面の間に木刀を入れ込み、すくい上げるようにふるい上げた。

その力に耐えられず、ノキルの手から木刀が離れた。

木刀が空中で回る。

木刀がノキルの真上に落ちていく。

ノキルは、痛みを避けようと、両腕で顔を覆い、身構える。

それを見た、アレスは、素早く木刀の刃をノキルの木刀に向ける。

そして、ノキルの木刀に、木刀を当てて、弾き飛ばした。

ノキルは、胸を撫で下ろした。

「刀はどんな事があっても、手から離してはいけません。敵に刀が渡ったら、自らの刀で殺されます」

アレスは、ノキルに手を差し伸べる。

ノキルは、そのアレスの手を取る事なく、自力で立ち上がる。

「もう一度、お願いします」

ノキルは、木刀を持ち、真剣な眼差しで対峙した。
「では、いきますよ」

アレスは、そう言う。

ノキルの真剣な眼差しが、兜をすり抜けて、アレスの目を捉える。

アレスは木刀の刃先をノキルに向けた。

アレスは、木刀を一振りして、攻撃をした。

ノキルは、間一髪で、その木刀を受け止める。

アレスとノキルの木刀の刃が交わる。

木刀を持つ、ノキルの両手に、アレスの攻撃の重さが、じーんと伝わる。

アレスは、ノキルが受け止めきれるより早くに、次の攻撃を繰り出す。

その攻撃も、ノキルは全力で受け止めた。

ノキルは、受け止めた勢いを逃すように、一歩、後ずさりする。

アレスは、一歩前進し、その離れた一歩の距離を縮めた。

また一つ、アレスはノキルに攻撃を繰り出す。

ノキルに呼吸を整える間を与えない。

そのアレスの攻撃も、ノキルは歯を食いしばり受け止める。

刃を交える度に、ノキルは後ずさりする。

アレスの猛攻は速度を変えずに繰り返される。

気が付けば、練習場の端まで、ノキルは追い込まれていた。

ノキルの背後には、練習場の敷地内に在る小さな林が在った。

ノキルは、太い幹の木に背を預けた。

次のアレスの攻撃がくる。

ノキルは、アレスの攻撃から逃れるように太い幹を盾にして、木の裏側に身を潜めた。

高鳴る鼓動が、荒い吐息と共鳴して、ノキルの耳の奥で脈打つ。

口呼吸の吐息が兜の内側に充満する。

口の中が乾燥して、喉が貼り付く。

心臓が口から出てしまいそうで、ごくりと唾液を飲み込む。

飲み込んだ唾液で、貼り付いた喉が潤いを取り戻す。

再び、口呼吸で循環して、息を整えていく。
 回り込まれたら終わりだ。

ノキルは、一つ大きく呼吸を取り込み、林の中へ一目散に走った。

林の中は走りづらい。

はらり、はらりと少しずつ、落ち葉が落ちゆく。

木々の太い根が地表面に姿を現して、不規則な凹凸が作られている。

時折、その根に足を取られる。

落ち葉を踏むと、ぱりっとした高音が鳴り、私の居場所を教える。

伸びた小枝が、駆けゆく先々に在る。

しかし、走る速度は緩めない。

腕で顔を守り、走っていく。

体に小枝が当たる度に、ぱきっと折れる音が鳴る。

小鳥達は、ぱたぱたぱたと林から空へ飛んでいく。

ある太い幹の裏に隠れた。

ノキルの高鳴る緊張感に息が詰まる。

ちらりと、林の中を見渡す。

アレスの姿が無い。

耳に集中する。

林の中は静まり返っていた。

アレスの歩く音も聞こえない。

鎧の擦れる音も聞こえない。

ノキルの囃し立てる鼓動だけが、耳を急かす。

アレスを探すべきか、じっと待ち、好機をうかがうべきか。

その時、近くの木の裏側で、ざざっと音がした。

きっと、その木の裏側にアレスが居る。

この距離で、攻撃をしてこないという事は、まだ、見つかっていないはず。

ここからなら、飛びかかれば、奇襲できる間合いだ。

ノキルは、木刀を上段に構えて、足の指で地面を掴み、飛びかかった。
踏み込んだ拍子に、ざさっと、靴と地面の擦れる音が鳴った。

これで勝敗を決めると意気込んで、木刀を振り下ろした。

しかし、そこには、アレスの姿は無かった。

当てる相手のない木刀は、空気を斬る。

振り下ろす勢いを両手で止められず、そのまま、地面を打つ。

地面には、拳くらいの大きさの石が落ちていた。

はっ! と気が付いた時には遅かった。

アレスは、私の真後ろに立っていた。

アレスは、木刀を下段から上段に振り上げる。

ノキルは、身をのけ反り、かろうじて避けた。

アレスの木刀の先端が、ノキルの胸当てを僅かに削る。

ノキルは、木刀を構えて、アレスと対峙した。

「ノキルさん。音で惑わされてはいけません。音は、目で見なくても、耳で捉える事ができます。耳で音を捉えて、音の無い場所に目を向けるのです」

疲労困憊したノキルの腕は、ぷるぷると震えていた。

木刀を構えるのも、やっとだった。

アレスは、ノキルに休む隙を与えず、再び攻撃を始めた。

アレスは、容赦なく、攻撃を繰り返す。

アレスの猛攻に、ノキルは、ひたすら耐え忍ぶ。

アレスの攻撃を木刀で受け止めるだけで、精一杯だった。

私は、骨盤から下に重心を集中させて、足で地面を掴み、踏ん張る。

しかし、踏ん張る靴先で地面を掘りながら、じりじりと後方へ圧されていく。
ノキルの脳裏に葛藤が現れる。

それは、ノキルの心を惑わせた。

木刀を手放せば、アレスの攻撃を受ける。

そうすれば、この実戦練習も終わるのだろう。

ふと、木刀を持つ握力を緩める言い訳を探し始める。

走馬灯のように現れては消える言い訳。

その言い訳の数々は、視界を横切り、目の前のアレスを見えづらくする。

この実戦練習も、いつかは終わる。

言い訳に帯びたノキルは、まるで、打ち捨てられるサンドバッグのようだった。

しかし、それでは駄目だ。

王族に生まれた以上、国を守り、国王様を守り、エシア王女様を守ると決めた。

エシア王女様に、親兵になると告げた夜の事を今も鮮明に思い出す。

月明かりが朧げに庭を照らし、虫の音が陽気に囃し立てる中。

ノキルは、エシア王女様に親兵になると告げた。

エシア王女様は、ぴょんぴょんと小さく跳ねて、満面な笑みで喜んだ。

ノキルを抱擁し、その溢れそうな程にきらきらとした笑みを分かち合った。

エシア王女様の温もりと優美な香りを感じた、あの時、心に誓った。

エシア王女様をお守りすると。

その笑みを裏切る訳にはいかない。

その為には、アレスにも負けられない。

握力に意志が通い、木刀をきゅっと握り直す。

視界を邪魔していた言い訳も、瞬く間に払拭して、アレスが鮮明に見える。
アレスの木刀の動きに集中する。

一つ一つの斬りつける木刀を確実に受け止め、外へ払い除ける。

それに気がついたアレスは、突然、木刀の先端をノキルに向け、胸を突いた。

鎧に守られて、刺し傷にはならないものの、凄まじい圧痛が走る。

ノキルは、不意な圧痛に悶えながら、林の外へと突き飛ばされた。

空気を吸い込もうとしても、肺が吸ってくれない。

ノキルは、目は丸くして、呼吸ができない事に恐れる。

自然と涙が込み上がる。

しかし、息ができない助けて欲しいと求める甘えの涙だと気がついた。

涙がぼろぼろと溢れ、兜を濡らす。

ノキルは、涙を溢しながら、立ち上がった。

アレスは、そのノキルの涙を構う事なく、攻撃を繰り出す。

段々と足が痺れ、手先が痺れ、胸の上部が痺れてきた。

頭の中が膨張するかのように、ぼわんと虚ろになる。

それと同時に、視界の外側が、じわじわと暗転し始める。

アレスの攻撃を受け止めるので精一杯だった。

呼吸のできない恐れが、私をどんどん追い詰める。

少しでも空気を取り込もうと、細かく呼吸を試みる。

僅かに肺が膨らんだのを胸が感じた。

その瞬間、恐怖が、すうっと消えて無くなった。

涙の水界にアレスの姿が見える。

ノキルは、瞬間的に、目を強く瞑り、涙を追いやった。

水も漏らさぬ態勢で、アレスをはっきりと見る。