あの夜から、ペガサスに乗れなくなった

 その小鳥が、突然、何かを察知して、ぴぴっと鳴いた。

その声に、焦燥感が含まれる。

小鳥は緊迫感の余韻を空に残して、木々の中へと潜り込んだ。

エシアとノキルは突然の小鳥の動きが気にかける。

その時、どこからともなく声がした。

「エシア様! エシア様」

ミーアの声だ。

激しい恐れにまみれた声だった。

ミーアは、血相を変えて、空から駆けつけた。

ペガサスは、ミーアを乗せて、決死の表情で王宮の庭へ向かってくる。

そして、ミーアのペガサスは、地上へ着地すると同時に崩れ倒れる。

その拍子に、ミーアは放り出されて、地上へ体を打ちつける。

ミーアのペガサスには、複数の矢が刺さっている。

ノキルはその矢の刺さる部位を見て、目を細める。

全ての矢がペガサスの急所を射抜かれていた。

翼の付け根や、神経の多く通る翼の芯。

ただのゴロツキの仕業ではない事は明らかだった。

ミーアのペガサスは、息も散り散りで意識も危ない。

やっとの思いで翼を広げて、ミーアを守るように覆い隠す。

エシアは駆け寄った。

勢いのまま、両膝を曲げて、地面につける。

横たわるミーアを抱きかかえた。

ミーアのペガサスは、それを見て、僅かに微笑み、目を閉じた。

「ミーア! ミーア、しっかりして!」

エシアの呼び声にミーアは虚ろに目を開く。

ノキルは指笛で救援を呼ぶ。

間もなくして、衛兵が駆けつける。

ノキルは救護班を呼び、王宮の警備を厚くした。

「村が、ジョフィル将軍が」

ミーアの震える唇が言葉を作る。

「ジョフィル将軍に会いに行ったら、黒煙が。物陰から矢が放たれ、避ける事もできず、すみません」

ミーアは報告する責任を終え、気を失った。

「ノキル。至急、小隊を率いて、ジョフィルの居る村へ向かってください。作業中に何か問題が起きたのかもしれません」

エシアは言う。

「しかし、王宮の警備が手薄になります。この矢の射抜きかた。ただのゴロツキではありません。相当の経験を積んだ射手です」

「ええ。私にもわかるわ。だからこそ、ノキルの小隊にお願いしたいの」

ノキルは考えた。

もしこれが陽動だったら、エシアが危ない。

しかし、ジョフィルが太刀打ちできない相手に迎え撃つ事ができるのは、この国では小隊のみ。

村を占拠されれば、村が人質になる。

そうなれば、劣勢になるのは目に見えていた。

ノキルは重い口を開いた。

「わかりました。早速、出発します」

「よろしく頼みます」

ノキルは、衛兵に指示を出し、エシアの護衛を手厚くした。

救護班が到着し、ミーアのペガサスはその場で治療が始まり、ミーアは治療室に運ばれた。

エシアは、治療を受けるペガサスを見た。

ミーアのペガサスは瀕死の状態だった。

命が助かるかもわからない。

全力でミーアを守ってくれたのだろう。

ミーアには、矢が刺さっていなかった。

エシアは、ありがとうと心の中で感謝し、王宮内へ颯爽とした歩みで戻った。

玉座に座り、伝令を待った。

エシアは、平常心の表情を保たせる。

感情をそのまま見せていては士気が下がるからだ。

しかし、村の安否、ジョフィルやノキルの安全を願う気持ちが込み上がる。

目が険しくなるのを自ら感じた。

それを振り払うかのように、奥歯を噛み締め、一つ、うなずいた。

ノキルが向かったから大丈夫だと、自らに言い聞かせて。
 ノキルは馬に乗り、並木道を駆ける。

その後ろを小隊が馬に乗り、続く。

太い幹の木々は、若葉を広げて、並木道に影を作る。

太陽の光が当たる若葉は、薄緑色に透き通っている。

その枝葉は柔らかな風に揺れ、ひらひらと木漏れ日を魅せる。

風は、花の甘い香りを運んでいる。

その香りは、身に付ける鎧の隙間に入り込む。

長きに渡る、鎧に染み付いた戦いの匂いが、仄かに芳しい香りになる。

小鳥は、まるで背伸びをするかのように、気持ち良く、さえずる。

兎は、道で頭を掻いている。

虫の音が、自然の豊かさを教えてくれる。

穏やかな時を動物達は過ごしていた。

その平穏を雷鳴の如く、駆け抜けていく。

兎は木陰に隠れ、ノキル達を見送る。

小鳥は、翼を素早く羽ばたかせて、一つ奥の木へ飛んでいく。

飛行する体を左右に傾けて、若葉と若葉の隙間を器用にすり抜ける。

一本の枝を両足で掴むと、翼をたたみ、とまった。

 目的の村までの距離か半分になる頃、ノキルの鼻がいち早く異変を感知した。

花の甘い香りに焦げた臭いが混ざり始めた。

ノキルは、馬の綱を引き、止まった。

小隊もノキルの後ろで止まる。

地面に伝わる振動。

不規則に微振動している。

その振動は段々と近づいてくる。

ノキル達に迫ってきていた。

ノキルは前方を見る。

小隊は武器を持ち、戦闘態勢になった。

前方から一匹の兎が現れた。

ノキルを見て、立ち止まる。

止まる事のない地鳴り。

くんくんと二回嗅ぎ、鼻を動かす。

再び、兎はノキル達へ向かって走り始めた。

その時、私達は驚愕した。

兎を先頭に、鹿や鼠などのあらゆる動物達が、ノキル達へ走ってきていた。

動物達は、ノキル達を気にせずに走り去っていく。

馬の足と足の間もすり抜ける。

その異様な光景から、馬は不安で背を向けようとする。

ノキル達は、それを何とか静止させる。

鳩、雀などの鳥も枝葉をすり抜けて、飛び去っていく。

ひとしきり、動物達は通り過ぎると、地鳴りも静まった。

動物達の声が全く聞こえない。

今となっては、木漏れ日も、鬱蒼とした林を妖しげに映すだけだった。

砂埃の臭いが立ち込む。

その時だった。

ひりゅりゅと音を鳴らして、並木道に一本の火矢が放たれた。

着弾した周囲を延焼させる。

複数の火矢が放たれ、並木道は瞬く間に燃え広がった。

「皆、走り抜けるぞ」

ノキルは小隊に言う。

「はい!」

小隊は忠誠を示す。

並木道は、もはや炎のトンネルだった。

時折、燃え朽ちる木々の枝が折れて、傷口から炎を吹く。

その炎を浴びながら、先へ向かう。

ノキルは考えていた。

一方から一定の間隔で、火矢を放っている。

間違いなく一人が火を放っている。

しかし、火矢を放つ間隔が短い。

熟練でも、火矢を扱うのは難しい。

やはり、ミーアを攻撃した射手か。

対峙を覚悟した。

どうしてだろうか。

胸騒ぎがする。

そもそも、どうして、並木道に火を放つ?

退路を断つ為か。

それとも、救援を断つ為か。

こちらが囮で、王宮への攻撃が目的か。

そうだとしても、王宮へ攻撃するには、相当な軍勢が必要だ。

密偵から、そのような情報は無い。

炎に飲まれつつある木の根元に、一人の男性が、もたれかかっていた。

その男性の服装から、あの村の人だとわかる。
ノキルは、馬を止めて、降りる。

燃え盛る並木道が、ぐらぐらと揺らめく。

小隊も止まり、馬に乗ったまま待機する。

ノキルは、村人の前で、片膝を立ててしゃがむ。

「ノキル様」

村人は、ノキルに気がつくと言う。

その声は、息も絶え絶えで、燃え朽ちる枝葉の音に、かき消される。

村人の顔は煤汚れ、細かな擦り傷がある。

胸部から腹部にかけて、真っ直ぐに刀傷がある。

刀傷は深く、血が止めどなく流れている。

その刀傷を見たノキルは息を呑んだ。

この刀傷。

ノキルの目が鋭くなる。

ノキルは見覚えがあった。

この刀傷は間違いなく、本国の英雄。

先の戦いで国を守り、終戦に多大なる文武で貢献した勇者アルス様の刀の切り傷だった。

今となっては、ノキルが本国一の剣士と謳われている。

しかし、そのノキルの文武は、師匠のアルスから教わったものだった。

終戦後、忽然と姿を消してから数年、密偵を遣わすも、消息が掴めなかった。

「ジョフィル様が、まだ、村に」

村人が言う。

ノキルは、はっと、我にかえる。

「皆、この者を王宮へ。私は村へ行く」

ノキルは小隊に言った。

「失礼ながら、ノキル様お一人は危険です。この者を連れて行くのに、一人で十分でございます」

小隊の一人が言う。

「いや、王宮の警備を厚くする。私達の小隊は本国一、戦闘に長けている。だからこそ、エシア様をお守りしなさい」

「はっ!」

小隊は、ノキルに一礼すると、村人を連れて、王宮へ戻っていった。

ノキルは、小隊を見送ると、ひと息ついて、馬に乗る。

呼吸と共に、木々の焼け焦げる臭いが口に入る。

もし、アルス様であれば、陽動ではない。

アルス様が、このような安易な計略はしない。

そうすると、この先に、アルス様が居る。

ノキルは馬を走らせた。

馬は煙を切り、突き進む。

小隊と、アルス様を対峙させる訳にはいかない。

到底かなう相手ではない。

世界中で、アルス様の鎧に傷を付ける事ができる者は、誰一人として居ないだろう。

ノキルは、きゅっと綱を握り、村に急いだ。

ジョフィルを救出するべきか、アルス様と対峙して、村を救うべきか。

ノキルは、決死の覚悟をして、奥歯を噛んだ。

もうすぐ、村だ。

ノキルの乗る馬も、ノキルの緊張感を感じ取っているようだ。

馬は、真剣な眼差しで、駆け抜けていく。

ノキルは、その馬の緊張感を感じ取り、心の中で感謝する。

そして、全身に熱い血を通わせて、奮い立たせた。

村が見えてきた。

村の門が壊れている。

扉のように開閉する門だったが、ほとんど原型を保っていない。

門は地面に倒れて、材木の残骸と化している。

ノキルの馬は、その門の残骸を飛び越えて、村の中へ入った。
 村の家々は倒壊し、無残にも材木の山になっていた。

所々から黒煙が昇り、襲撃を受けてから、まだ間もない事がわかる。

倒壊した家々に沈み始めた夕陽の光が当たる。

影が伸びて、倒壊した姿を際立たせる。

空は、青空から黄昏に変わる途中だった。

夕陽に向かって、色調が段階的に変化している。

村人の多くが、倒壊した家の下敷きになり、意識が無い。

崩れた門の近くに、母子が横たわっている。

母は最後まで子供を守ったのだろう。

子供に覆い被さるように母が倒れている。

ノキルは、奥歯を噛み締める。

ノキルは、その母子を横目に、馬に乗ったまま、村を歩く。

馬の歩く、ひずめの音が、異様に響く。

息のある者を目視で探していく。

しかし、誰一人として、動く者は居ない。

この村で一番賑わう広場に着いた。

広場も材木の山と化していた。

出店も朽ちて、果物などが散乱している。

物を捨てられたように、村人が、ごろごろと倒れている。

ノキルは考えていた。

敵は少人数だ。

大勢である場合、踏み歩かれて、果物などが原型を留めているはずがない。

アルス様、お一人なのか?

確かに、剣技に長け、弓技にも長けていた。

ノキルは、アルス様から教授を頂いていた頃の記憶を思い出していた。
 ノキルは、アルス様に教授を受けていた記憶を思い出していた。

剣技の訓練の小休憩のひと時。

ノキルは、くったくたになった体をどさっと地面に下ろして、尻をついた。

両足をだらんと前に伸ばしている。

両腕を背後に伸ばし、地面に手をつく。

背をのけ反り、空を見上げた。

空に鱗雲が広がり、乾いた風がそよかに通り過ぎる。

その風は、むわっとした湿気が充満する鎧の隙間を通り過ぎ、汗に濡れた肌を心地よく冷やす。

ノキルは、兜を取った。

「そう言えば、アルスさんは、どうして、この国に仕えようと思ったのですか? アルスさんなら、皇国に仕えられるのでは」

アルスは、ノキルの隣に座る。

アルスも兜を取った。

短い髪から、汗が、きらきらと飛び散る。

「こちらの国の領地に、故郷があるんです」

アルスは答える。

「ああ、こんなに何度も剣を交えているのに、故郷も知らなかった。どこの生まれです?」

「西方に在る森の奥地の小さな集落です」

「あの森か。国境の上に在る森だから、王族は立ち入ってはいけないって言われています」

「どうしてですか?」

「森の中だと、どこからが隣国の領土になるかがわかりづらいからです」

「森に線を引く事もできませんからね」

「うん。例え間違いでも、王族が隣国の領土に踏み入れたら、国同士の大事になってしまうと、国王様が注意喚起してます」
「森は、領土など関係なく、どんな人でも受け入れてくれるのに」

アレスは答えた。

「うん。どんな所なのですか?」

ノキルは訊ねる。

「とても自然が豊かな場所です。馬のひずめの音も荷車の車輪の音も無い。動物の楽園です」

「ふーん、行ってみたいな。アレスさんの故郷に」

ノキルの表情に儚さが映る。

「いつか、行ける時が来たら、一緒に行きましょう」

「うん、行きましょう!」

アレスの返信に、ノキルは、表情をぱあっと明るくして答える。

「さて、練習を再開しましょうか」

アレスは立ち上がる。

「はい!」

ノキルも立ち上がる。

「今度は、演舞ではなく、実戦練習を行います。この練習場の敷地内を全て使い、木刀を相手の鎧に当てたら勝ちとします」

「はい!」

ノキルとアレスは兜を被り、木刀を構える。

「始め!」

アレスの掛け声と共に、ノキルは、すかさず、右足を踏み込み、アレスに攻撃する。

アレスは、その攻撃をするりと避ける。

「昨日も同じ戦術でしたよ。周囲に目を配り、ありとあらゆる物を利用するのです」

ノキルは、苦味を奥歯で噛み締めて、再び、アレスに立ち向かう。

ノキルは、右足を踏み込み、アレスの間合いの内側に入る。

そして、木刀を下段に持ち替えて、下から上へ木刀を斬り上げる。

アレスは、速やかにノキルの右側に入り込む。

そして、ノキルの右足に足をかけて、右肩を押して、上体を倒した。

ノキルは体勢を崩して、地面へ転倒する。

転倒する瞬間、視界に地面が迫る恐怖心から目を瞑る。

「目を閉じてはいけません。倒れる事が敗北ではなく、それをチャンスにするのです」

アレスは言う。

ノキルはアレスの言葉を聞いて、木刀を固く握り、転倒したまま、アレスの足首に木刀を斬りかかった。

アレスはさっと片足を上げて、ノキルの攻撃を避ける。

ノキルの木刀の先端が地面についている。

アレスはノキルの木刀と地面の間に木刀を入れ込み、すくい上げるようにふるい上げた。

その力に耐えられず、ノキルの手から木刀が離れた。

木刀が空中で回る。

木刀がノキルの真上に落ちていく。

ノキルは、痛みを避けようと、両腕で顔を覆い、身構える。

それを見た、アレスは、素早く木刀の刃をノキルの木刀に向ける。

そして、ノキルの木刀に、木刀を当てて、弾き飛ばした。

ノキルは、胸を撫で下ろした。

「刀はどんな事があっても、手から離してはいけません。敵に刀が渡ったら、自らの刀で殺されます」

アレスは、ノキルに手を差し伸べる。

ノキルは、そのアレスの手を取る事なく、自力で立ち上がる。

「もう一度、お願いします」

ノキルは、木刀を持ち、真剣な眼差しで対峙した。
「では、いきますよ」

アレスは、そう言う。

ノキルの真剣な眼差しが、兜をすり抜けて、アレスの目を捉える。

アレスは木刀の刃先をノキルに向けた。

アレスは、木刀を一振りして、攻撃をした。

ノキルは、間一髪で、その木刀を受け止める。

アレスとノキルの木刀の刃が交わる。

木刀を持つ、ノキルの両手に、アレスの攻撃の重さが、じーんと伝わる。

アレスは、ノキルが受け止めきれるより早くに、次の攻撃を繰り出す。

その攻撃も、ノキルは全力で受け止めた。

ノキルは、受け止めた勢いを逃すように、一歩、後ずさりする。

アレスは、一歩前進し、その離れた一歩の距離を縮めた。

また一つ、アレスはノキルに攻撃を繰り出す。

ノキルに呼吸を整える間を与えない。

そのアレスの攻撃も、ノキルは歯を食いしばり受け止める。

刃を交える度に、ノキルは後ずさりする。

アレスの猛攻は速度を変えずに繰り返される。

気が付けば、練習場の端まで、ノキルは追い込まれていた。

ノキルの背後には、練習場の敷地内に在る小さな林が在った。

ノキルは、太い幹の木に背を預けた。

次のアレスの攻撃がくる。

ノキルは、アレスの攻撃から逃れるように太い幹を盾にして、木の裏側に身を潜めた。

高鳴る鼓動が、荒い吐息と共鳴して、ノキルの耳の奥で脈打つ。

口呼吸の吐息が兜の内側に充満する。

口の中が乾燥して、喉が貼り付く。

心臓が口から出てしまいそうで、ごくりと唾液を飲み込む。

飲み込んだ唾液で、貼り付いた喉が潤いを取り戻す。

再び、口呼吸で循環して、息を整えていく。
 回り込まれたら終わりだ。

ノキルは、一つ大きく呼吸を取り込み、林の中へ一目散に走った。

林の中は走りづらい。

はらり、はらりと少しずつ、落ち葉が落ちゆく。

木々の太い根が地表面に姿を現して、不規則な凹凸が作られている。

時折、その根に足を取られる。

落ち葉を踏むと、ぱりっとした高音が鳴り、私の居場所を教える。

伸びた小枝が、駆けゆく先々に在る。

しかし、走る速度は緩めない。

腕で顔を守り、走っていく。

体に小枝が当たる度に、ぱきっと折れる音が鳴る。

小鳥達は、ぱたぱたぱたと林から空へ飛んでいく。

ある太い幹の裏に隠れた。

ノキルの高鳴る緊張感に息が詰まる。

ちらりと、林の中を見渡す。

アレスの姿が無い。

耳に集中する。

林の中は静まり返っていた。

アレスの歩く音も聞こえない。

鎧の擦れる音も聞こえない。

ノキルの囃し立てる鼓動だけが、耳を急かす。

アレスを探すべきか、じっと待ち、好機をうかがうべきか。

その時、近くの木の裏側で、ざざっと音がした。

きっと、その木の裏側にアレスが居る。

この距離で、攻撃をしてこないという事は、まだ、見つかっていないはず。

ここからなら、飛びかかれば、奇襲できる間合いだ。

ノキルは、木刀を上段に構えて、足の指で地面を掴み、飛びかかった。
踏み込んだ拍子に、ざさっと、靴と地面の擦れる音が鳴った。

これで勝敗を決めると意気込んで、木刀を振り下ろした。

しかし、そこには、アレスの姿は無かった。

当てる相手のない木刀は、空気を斬る。

振り下ろす勢いを両手で止められず、そのまま、地面を打つ。

地面には、拳くらいの大きさの石が落ちていた。

はっ! と気が付いた時には遅かった。

アレスは、私の真後ろに立っていた。

アレスは、木刀を下段から上段に振り上げる。

ノキルは、身をのけ反り、かろうじて避けた。

アレスの木刀の先端が、ノキルの胸当てを僅かに削る。

ノキルは、木刀を構えて、アレスと対峙した。

「ノキルさん。音で惑わされてはいけません。音は、目で見なくても、耳で捉える事ができます。耳で音を捉えて、音の無い場所に目を向けるのです」

疲労困憊したノキルの腕は、ぷるぷると震えていた。

木刀を構えるのも、やっとだった。

アレスは、ノキルに休む隙を与えず、再び攻撃を始めた。

アレスは、容赦なく、攻撃を繰り返す。

アレスの猛攻に、ノキルは、ひたすら耐え忍ぶ。

アレスの攻撃を木刀で受け止めるだけで、精一杯だった。

私は、骨盤から下に重心を集中させて、足で地面を掴み、踏ん張る。

しかし、踏ん張る靴先で地面を掘りながら、じりじりと後方へ圧されていく。