高校3年の夏。最後の大会。とはいえ、なんの感慨も湧かない。
 はなから勝てるとは思ってなくて、せめて失点は5くらいに抑えようとか、1点くらいは獲り返したいなとか、弱気な反抗心が湧くばかりだった。

「せんぱい」

 両脇にゴールの設えられたグラウンドを眺めていると、傍らから声をかけられた。

「どうした」
「フラッグってどこにありますか?」
「フラッグ……あぁ、コーナーフラッグか。部室になければ体育倉庫、そこにも無かったらジョエスから借りな」
「あ、分かりました」

 そう言って駆けて行く背の低い坊主頭は、今年度から入った1年生だ。
 ほんの半年前までは俺1人だった男子サッカー部だが、ラストイヤーの春に新入部員が4人も入った。
 全員1年生、全員初心者。いないよりはずっといい。

 弱小どころか大会への参加権すら怪しい俺たちだが、設備の質は並の高校では太刀打ちできないレベルで高い。
 毎年地域リーグの試合会場に選ばれている。言ってみればここは俺たちのホームなわけで、会場設営は俺たちの仕事なのだ。ホームだから有利だなんてことは、まるでない。

 広いグラウンドを、4人が駆け回ってグラウンド作りに勤しんでいる。
 毎年毎年俺ひとりでやっていたことで、今年もうんざりしながら取り掛かったが「ぼくたちでやります!」と1年生の威勢がよかったので、そういうことならばと遠慮なく任せた。
 石灰でラインを引いて、四隅にコーナーフラッグを立てて、コート脇にベンチを置くだけ。大失敗するようなこともないし、したとてすぐに気付ける。任せて問題ないだろう。

「なにお前休んでんだよ」

 再び、傍らから声を掛けられる。今度はさっきの1年生のようなたどたどしい感じではなく、ゆったりと落ち着き払った喋り口調だ。声も段違いに低い。

「いやほら、1年生が全部やってくれてるんで」
「先輩ぶってんじゃねえぞ」
「ホントに先輩ですから」
「浮かれやがって」

 プーマの黒いスポーツウェアを着た顧問は、なにをしにきたのか威厳たっぷりに軽口を叩く。
 3年間俺だけのために顧問をやってくれた、紛れもない恩師。女子サッカー部の監督も兼任しているが、俺たちの試合で指揮を執ったことはない。

「スタメン決めてあんの?」

 いつもこんな調子である。

「はい」
「助っ人は?」
「10人くらい呼んでます」

 助っ人とはすなわち他の部活から補強している人数合わせのことで、毎年野球部やバスケ部や水泳部や、はては吹奏楽部や美術部からも呼んでいる。彼らは今年度も続投だ。

「1年いるよな?」
「そうっすよ。3年目にしてようやく試合中に交代できます!」
「お前交代したいの?」
「まさか」

 そんな風にして、試合前の午前は比較的穏やかに過ぎていった。


 2時間と経たない内に、俺はピッチに立っている。
 ポジションはセンターバック。ミスがそのまま失点に直結する都合、経験者は最後尾に置く必要があるのだ。主戦場のサイドハーフは中学以来やっていない。

 センターバックの相方は、運動神経のいい野球部の同級生。両サイドバックはそれぞれ、バスケ部の同級生と1年生の中で1番走力のある奴を選んだ。
 オフサイドを説明するのは骨が折れるので、たった一言「俺より後ろにはいるな」とだけ言ってある。

 ディフェンスの位置からピッチを望んで、俺は小さく息を吐き出す。味方は初心者だらけ。対する相手はれっきとしたサッカー部。
 見た感じ相手も大したことなさそうだが、経験値が違うことに変わりはない。

 ――1点でも獲れればいい。

 頭の中で何度も念じる。これが覚悟か諦めかは分からない。勝てるとは思っていないし、勝つつもりもない。
 もちろん負けるつもりもないが、負けるだろうとは思っている。だとすればやはり諦めなのだろうか。

 ひとつ間違いのないことは、これが最後の大会であるということだ。
 この試合が終わって、なにかの間違いで俺が勝たない限り、3年間続けてきたサッカーは終わりを迎える。

 やがてホイッスルが鳴った。
 やっぱり、なんの感慨も湧かない。


 次にホイッスルが鳴ったとき、俺は減速するようにして足を止める。
 現実に引き戻されたような感覚がして、まず先にやることはスコアボードの確認だった。

 0―6。

 大きく息を吐き出して、膝に手をついた。視界いっぱいに広がる砂利のグレーが、滴る汗で濃くなっていく。膝がガタガタと揺れる。肺がしぼむような感覚がして、俺の意思とは関係なくぜえぜえと呼吸が止まらない。肩の辺りが疼く。手で額の汗を拭うが、手もぐっしょりと濡れていた。

 疲労なんて生易しい言葉じゃ表せない試合後の感覚に、いつまでも浸っていることはできなくて、主審の合図に従って整列する。横一列に並んでベンチや審判団に挨拶し、相手チームと順々に手を合わしていき、相手ベンチに挨拶して、自陣ベンチから荷物を引き払う。助っ人たちには礼を言って先に帰し、俺たち部員はすぐ次の試合のスタッフを務める。スタッフとは言っても、副審は一年生から出すので、俺は大会本部のテント内に座るだけだが。

 汗でぐっしょりと濡れたユニフォームを脱いで、紺色の練習着に着替える。150MLのポカリスエットとタオルを持って、大会本部のテントに向かう。中には他校の顧問がいて、「お疲れ様です」と挨拶してからパイプ椅子の一つに腰掛ける。

 試合が終わると、今度はコートを片付けなければならない。だが今回は残っている他校の生徒も一緒に動くので、試合前に比べると相当に楽だ。試合前も俺は見てるだけだったので、楽になるのは俺じゃなくて1年生だが(今回も「ぼくたちでやります!」と頑なだったので俺は見てるだけだ)。

 なにもしないのは申し訳ないが、かと言ってなにかすることがあるわけではない。
 どうしたものかなと思っていると

「お前暇してんの?」

 顧問が声を掛けてきた。この人はいつもこういうときに来る。

「暇っす」
「暇っすじゃねえよ」
「だってほら、1年生が」
「じゃあグラウンド回ってボール落ちてないか見て来て」
「はーい」

 陸上トラックの外に出て、植え込みや物陰に注意しながら歩く。
 本当にボールが落ちていることは稀なので、ほとんど散歩のようなものだ。いまさらこのグラウンドに目新しいものなどないが。

 目新しいものなどない。
 そう、俺はこのグラウンドの隅から隅まで知り尽くしている。大人数でガヤガヤと楽し気な部活の陰で、俺はずっと練習できそうな場所を探していた。こんなにもあちこちを探した生徒は恐らくいないだろう。

 やがてテニスコートの方まで辿り着いて、ひとつひとつのブロックを確認しながら、最後に広場のような砂利の平地を見る。
 3年間――正確には二年と半年の間、俺が一人で練習していた場所だ。さもしい小さな部活ではあるが、俺はその部活に高校生活のほとんどを費やしたわけで、つまりここは高校生活のほとんどが詰まっている。じっくりと砂利を検分すれば、俺の汗や垢の成分が見つかるだろう。

 砂利の平地は相変わらず寂れている。
 矮小な砂利の広場を眺めながら、高校サッカーの終わりについて思いを巡らせることが義務に思えて、しかしそれができないことに気付いた。

 思えば、俺は泣かなかった。試合が終わって、去年までと同様に大差で負けたとき、こみ上げてくるものは何もなかった。
 負けたことに対する悔しさも、サッカーへの名残惜しさもない。あるものと言えば途方もない疲労くらいだった。

 ふと脳裏をよぎるのは中学最後の大会のこと。

 頭も心もぐしゃぐしゃの空っぽみたいになった俺の目の前で、あいつらは確かに泣いていた。叩き付けるように涙を流していた。
 そして、相手チームの前に整列して毅然と頭を下げ、顧問と保護者に誠実な感謝を伝えていた。
 たしかな悔しさを抱きながらも、懸命に抗って選手の矜持を貫いていた。

 それにひきかえ、俺はどうだったか。
 今日、試合が終わって、俺は泣いただろうか。
 悔しさを押し殺して、毅然と、誠実に、胸を張って、振る舞っただろうか。
 そもそも、少しでも悔しいなどと思っただろうか。
 この部活に、部長としての立場に、サッカーに対して、真っ直ぐ向き合っていただろうか。

 どうしてサッカーを止めないのか?
 ようやく答えが出たかもしれない。

 俺にはサッカーを止める覚悟がなかっただけだ。
 好きだから続けているわけでも、確固たるプライドがあるわけでもなくて、ズルズルと引きずられるようにやっていただけだったんだ。

 ――ようやく、終わる。

 深くため息を吐きながら頭の中で呟くと、胸の奥はいくらかスッキリする気がした。多分。

 やっぱり涙は出てこない。


   ○


 更衣室で着替えていると、先輩が声を掛けてきた。

「これから俺ら飲みに行くんだけどさ、よかったら来なよ」

 服の上からでも分かるくらいムキムキの、いかにもアウトドアな風貌。
 3回生と言っていたか、陽気で人当たりがよく、顔立ちは爽やか。まぎれもなくカッコいい人だ。

「あ、いえ……」

 俺は曖昧に笑いながら、断る意思を見せようとした。伝わっているかどうかは分からなかったが、どっちにしろ行くつもりはない。

「来ない?」
「はい」

 はい、と大声で言い切ってから、慌てて「すみません」と付け加えた。

「そっか。じゃあ、またね」

 先輩は優し気に言ってから、仲間たちのところへ戻って行く。
 俺はいたたまれなくなって、何に負い目を感じていたたまれないのかも分からないまま、そそくさと着替えをすませて更衣室を後にした。

 大学生になった俺は、いまでもサッカーを続けている。
 サークル活動もそうだが、地元のサッカースクールでコーチのバイトをしていて、今日はスクールの開催日だった。せっかく続けていたことなので、上手く活かせはしないかと考えていた折、ポストにバイト募集のダイレクトメッセージが届いたのだ。

 軽い気持ちで応募し、案外楽に受かったのだが、その後が大変だった。コーチに同世代はなし。いるのは年が1つ2つ上の上級生ばかりで、しかも驚くほどサッカーが上手い。
 聞けば高校時代は関東大会出場経験があるだとか、クラブチームのユースでレギュラーだったとかいう。高校時代は1人でした、なんてとても言えない。

 アスファルトを眺めながらの帰り道。週に1度、家路を辿るこの時間が特別だった。どちらかと言えばネガティブな意味で、特別。

 働いた後の疲れ、ホッと一息つくような安心感、そして虚ろな寂しさ。
 いろんなものが混ざりあって、唯一無二のものになる。

 角を曲がって自販機の光に目を細めつつ、取り留めのない夜景を目に流す。
 するとそのとき、スマホがヴヴッと鳴った。開いてみると、SNSの通知。送り主はトウキ。中学時代のサッカー部キャプテンだ。

『こんどサッカー部で同窓会やるから来いよ』

 文面を見て初めに感じたのは、懐かしさや嬉しさではなかった。
 抽象的な緊張。心臓がドクンと跳ねるような、刺々しい絶望感。身体中から力が抜けていって、思わず足が止まりかける。通行人が不審な目を向けるので慌てて足を動かす。

 どうして俺を誘うんだ?

 そう尋ねてみたかった。できれば面と向かって。
 トウキはどんな顔をするだろう。キョトンとした顔で「なにが?」と言うか、少し不快そうに「は?」と顔をしかめるか、明るい顔で「お前も仲間だろ!」と言い放つか。

『いつ?』
『こんどの日曜日』
『空いてる。行くよ』
『おっけー!』

 そこでやり取りは終わった。全身の無気力や鼓動の不安定は鎮まらず、原因を探ってみて、あの日のことか、と思い至る。

 ベンチのウォームアップエリアで最後の試合が終わるのを見届けた、あの日のこと。
 記憶が鮮やかになればなるほど心が乱れる気がして、連鎖的に訪れる高校時代の記憶が追い討ちをかけてくる。

 自己陶酔でサッカーを続ける無能で卑屈な自分。

 でも、トウキの誘いを断ろうとは思わなかった。
 俺ではない俺の中の何かが、漠然とした何かに負ける気がして。だったら心を乱す記憶に抗う方がマシだ。

 負けたことは何度もあるが、負けを受け入れたつもりは一度もない。多分。


 送られてきた位置情報に従って辿り着いた居酒屋には、思っていた以上の人数が集まっていた。
 頭の数だけでは何人いるのか分からなかったが、こんなに部員がいたかと怪しく思えるくらいには多い。

「久しぶりだな!」

 隣に座るカナトが笑顔で言う。思っていたよりも親し気な歓迎を受けて、俺の警戒心が解ける。
 陰湿に嵌められるというようなことはなくとも、ある程度のよそよそしさはあるだろうと思っていたが、余計な心配だったらしい。

「いま何してんの?」

 向かいに座るトウキに尋ねられ、俺は一言「大学行ってる」と答えた。

「おーやっぱ大学生か」
「そりゃね」
「どこ?」

 今度はカナトが尋ねた。見栄を張る度胸もないので正直に大学名を明かす。
 すると2人が「おぉ」と歓声を上げ、皮肉だろうかと一瞬眉をひそめたが、とても嫌味な表情には見えない。

「お前中学んときから頭よかったもんなぁー」

 隣のカナトが間延びした声で言ったかと思えば、向かいのトウキが「飲みもんないよな? ビールでいいか?」と尋ねてきて、俺は首を縦に振る。

 2人の、というより全員の気分がいやに高揚していて、もうお酒が回っているのかと思ったが、そういえばこいつらはこういうノリだったと思い直した。
 そのノリの中に、俺は確かにいた。

「おーお前いつの間に!」

新たな声がして、そちらを見るとトウキの隣に座るタイガが目を真ん丸にしている。1年生の秋からゴールマウスを守り続けてきた、俺たちの守護神。

「タイガ。久しぶり」
「めっちゃ久しぶりだなーオイ! まだサッカーやってんの?」
「まぁね」
「サークル?」

 と尋ねるのはカナトだ。

「サークルもそうだけど、バイトでスクールのコーチやってる?」
「え、お前コーチやってんの?」

 トウキが驚いたように大声を出して、俺は面食らいつつ「うん」と頷いた。心のどこかが陰りかける、それよりも先に

「あー俊助(しゅんすけ)本当にサッカー好きだもんなぁ」

 燈貴(とうき)の言葉に、奏斗(かなと)大雅(たいが)もうんうんと首を振る。

「まあ、辞める理由もないしな!」

 3人の顔を見回しながら、俺は笑顔で言った。
 それからビールが運ばれてきて、みんなとジョッキを合わせる。酒を片手に様々な話をした。

 燈貴も奏斗も大学に行っているが、サッカーはもうやっていないらしい。

「マジでやることなくてさー」と燈貴が笑えば、大雅の方は「俺なんか大学辞めていまフリーター。いやー俊助はえらいよ」と投げやりな口調だ。

「えらいか?」

 俺は首を傾げるが、2人よりも先に隣の奏斗が「いやーお前はえらい! サッカーもちゃんと続けてるし、大した奴だ!」と背中を叩いてくる。

 それならば謙遜する必要もあるまいと思って、俺は堂々と言い放ってやった。「まあ俺サッカー好きだからな!」
 誰かが「イナズマイレブンかよー」と言って、その場がドッと湧いた。


 トイレを済ませた後で、洗面台に向かってスマホを開くと、バイト先の先輩からメッセージが入っていた。

『明日時間ある? 終わった後コート空いてるからサッカーしようよ!』

 俺はちょっと間を置いてから

『やりましょう!』