ユウの正体に関する手がかり探しに初めて成功した私は、すっかり興奮していた。
「うーん。最初の部分だけ字が潰れちゃってるなぁ」
『……そうか』
ユウの声は、普段よりも掠れている気がした……だが。
「ユウには見えないの?」
『分からない。今、カナオに言われてから見えるようになった……みたいだ』
え、と声が出た。
呆然として聞こえたユウの言葉の内容を、訝しく思いながら噛み砕く。
「元々見えてなかったのに、今は見えてるってこと?」
『いや。さっきまでもぼんやり見えてたけど、見やすくなった感じ……というか。急に』
ぽつぽつと話すユウは、それきり黙り込んでしまった。
そのときになって、私はやっとユウの困惑に気づく。先週からずっと考えていたはずなのに、思いきり失念していた。
ユウが、本当に元の記憶を取り戻したいと思っているのか、ということを。
「……ユウ、大丈夫? 嫌なら無理して思い出さなくても」
『いや、知りたい。ちゃんと』
言葉を遮るように告げられ、私は黙り込む。
強い口調だ。今まで聞いた彼のどの声よりも、ユウ自身の意志に満ちた声だった。
病衣。シーツ。どこかの市立病院。今日拾った情報のすべては、どれもが私に不穏な予感しかもたらさない。
そして、ユウは幽霊になっている。それらが意味するところを考える。可能性はまだひとつに絞れないけれど、同時に、それこそが限りなく正解に近いのではという気がしてしまう。
次から次へと湧き起こる嫌な予感を強引に振り払い、私は再び口を開いた。
「私が見えたものをユウに教えると、ユウにも分かりやすくなるのかな。言葉にすると理解しやすくなるとか? じゃあもっと見てみよっか、病衣とか……シーツみたいに裏地になにか書いてあったりして」
『っ、ま、待て。勝手に触ろうとするな!』
「えっ、でもユウには触れないよ、私」
『知ってる……けどその、あんたの勢いだと身ぐるみ剥がされそうで怖い……』
「なにそれ、失礼だなぁ」
シーツの合わせ目を握り締めるユウの仕種は、確かに怯えているように見える。のっぺらぼうの顔からはなんの表情も読み取れないのに、怯えた視線まで向けられた気がして、私は笑ってしまいそうになる。
話の最後には軽口を叩き合う感じになったが、先刻の嫌な予感は揺らがない。とはいえ、ユウは自分の素性を知りたいと言った。意志の宿った声を思い出し、私は誰にともなく小さく頷く。
協力できることはしてあげたい。思っていた以上に、ユウは人間らしくていい奴だから。
「うーん、他にはなにかないかなぁ、方法……あっ、鏡は?」
『鏡?』
「うん。ユウ、鏡で自分、見たことある?」
『……ない』
そうだよね、と相槌を打ち、私は立ち上がる。
部屋の隅に置いてあるカラーボックスから手鏡を取り出した後、ユウの真正面に座り直す。
「ええと、角度、こんな感じかな……どう? 見える?」
ユウに鏡面を向けながら問いかけると、ユウはしばらく沈黙してから呟いた。
『なにも見えない。後ろの棚は見えるから、透けてるみたいだ』
「あ……そっか。ごめん」
ユウの声は落ち込んでいる感じではなかったけれど、私は反射的に謝罪した。
ユウが幽霊であることを、無遠慮に証明してみせてしまった自分が、急にものすごく嫌な奴に思えてきて……だが。
『なんであんたが謝るんだ。知れて良かったぞ』
続いたユウの声は訝しげだ。どうして私が頭を下げるのか本当に分からずにいるような、そんな口ぶりだった。
うん、と短く返してユウに視線を向けると、ユウは興味津々といった様子で『もう一度見せてくれ』と言う。膝に下ろした手鏡を再び持ち上げ、私は、ユウに見えるよう角度を調整した。試していないが、この鏡を自分の手で持つことは、ユウにはきっとできない。
鏡に見入っているらしきユウを眺めながら、私は彼に気づかれないよう息をついた。
年上か年下かも分からないものの、背丈を考えると中学生くらいかなと思う。中学生だったら声変わりしていてもおかしくない。ものすごく齢が離れた背の低いオジサン、という可能性もゼロではないだろうが。
先週、ノートの端に名前を書いてみせたときの様子を思い出す。私が書いた字を、あの日のユウは無意識ながらも難なく読んでいた。その点から考えても、大昔の幽霊などではなさそうだ。
……とそのとき、カーテンの隙間から微かに日差しが覗いた。はっとして、私はカーテンを大きく広げる。
雨脚は、いつの間にか収束に向かっているらしい。風だけは相変わらず強いようで、窓の外に見える近所の木々の枝が横薙ぎに揺れていた。
「雨、やみそうだね。あんなに降ってたのに」
『……そうだな』
ふう、と零されたユウの吐息が、カーテンを広げた部屋の中、静かに溶けて消える。
まだぽつぽつと雨音が聞こえるから、もう少し時間があるかも。頭の中で巡らせていた言葉を、私は一気にまくし立てる。
「もしかしたら、これからいろいろ思い出すこと、あるかもね。私にユウが見えてない間にも」
『そうかな』
「思い出したいんでしょ?」
『……うん。分からないままは、歯がゆい、というか……悔しい』
ぽつりと呟いたユウの声は、思った以上に私の胸を深く刺した。
怖い、ではなく、悔しい。確かに、自分のことが自分で分からない状態というのは、悔しいのかもしれない。
『思い出したい。早く』
静かな呟きは、いつにも増して儚げだ。
シーツに刻まれた病院名、病衣らしき衣服。今にも空気に溶けて消えてしまいそうなユウに、私は思わず手を伸ばした。しかし、なににも振れる感触がないまま、指はユウをすり抜けてぱたりと落ちる。
その姿が、だんだん透けて見えなくなっていく。
『どうした?』
「あ……ううん。透けてきたなって思って」
『うん、もうやみそうだな。また来るよ、場所は覚えたから』
「か、勝手に入ってこないでよ? 嫁入り前の乙女なんだからね、私」
『……乙女……?』
「なにその気の毒そうな言い方」
私の言葉に被せてふふ、と笑い出したユウの姿は、すでにほとんど見えない。
それなのに、ユウはそこにいて、実際に話を続けている。それがただただ不思議だった。声は、いつも以上にどんどんくぐもっていくけれど。
『そろそろ戻る。ああ、でもこの近くには河原もあったな。行ってみようかな』
透けていく姿は信じがたいほど儚いのに、ユウの声は楽しげで、私は焦って大きな声をあげてしまう。
「えっ、川? 雨降ってるんだよ、危なくない?」
『は? 危ないわけないだろ、こんな身体なんだぞ』
応じる声は楽しそうだ。それはそうか、と言われてから思う。
ユウには、川に流される危険も、車に轢かれる危険も伴わない。なにを言っているんだ私は、と恥ずかしくなる。
『ありがとう。カナオの隣にいると、いろんなことを思い出せそうだ』
俯いた私が再び顔を上げたときには、ユウの姿はもうなかった。
ユウがいた場所に指を伸ばす。指が空を切って落ち、震える息が零れた。ユウはまだここにいるのか。それとも、彼自身がさっき言ったように、早々に元の場所か河原へ向かったのだろうか。
……「元の場所」ってどこだ。児童公園の東屋か。それとも。
ユウは、次の雨の日までまたひとりぼっちだ。かわいそうなどと言ったら苦言を呈されそうだが、ひとりでいる間、ユウはどこに行くのか。そして、なにを考えるのか。
思い出せる? それは、本当に思い出してもいいこと?
ユウは病衣を着て、シーツに包まって……そんな格好のまま幽霊になってしまっているのに。
「うーん。最初の部分だけ字が潰れちゃってるなぁ」
『……そうか』
ユウの声は、普段よりも掠れている気がした……だが。
「ユウには見えないの?」
『分からない。今、カナオに言われてから見えるようになった……みたいだ』
え、と声が出た。
呆然として聞こえたユウの言葉の内容を、訝しく思いながら噛み砕く。
「元々見えてなかったのに、今は見えてるってこと?」
『いや。さっきまでもぼんやり見えてたけど、見やすくなった感じ……というか。急に』
ぽつぽつと話すユウは、それきり黙り込んでしまった。
そのときになって、私はやっとユウの困惑に気づく。先週からずっと考えていたはずなのに、思いきり失念していた。
ユウが、本当に元の記憶を取り戻したいと思っているのか、ということを。
「……ユウ、大丈夫? 嫌なら無理して思い出さなくても」
『いや、知りたい。ちゃんと』
言葉を遮るように告げられ、私は黙り込む。
強い口調だ。今まで聞いた彼のどの声よりも、ユウ自身の意志に満ちた声だった。
病衣。シーツ。どこかの市立病院。今日拾った情報のすべては、どれもが私に不穏な予感しかもたらさない。
そして、ユウは幽霊になっている。それらが意味するところを考える。可能性はまだひとつに絞れないけれど、同時に、それこそが限りなく正解に近いのではという気がしてしまう。
次から次へと湧き起こる嫌な予感を強引に振り払い、私は再び口を開いた。
「私が見えたものをユウに教えると、ユウにも分かりやすくなるのかな。言葉にすると理解しやすくなるとか? じゃあもっと見てみよっか、病衣とか……シーツみたいに裏地になにか書いてあったりして」
『っ、ま、待て。勝手に触ろうとするな!』
「えっ、でもユウには触れないよ、私」
『知ってる……けどその、あんたの勢いだと身ぐるみ剥がされそうで怖い……』
「なにそれ、失礼だなぁ」
シーツの合わせ目を握り締めるユウの仕種は、確かに怯えているように見える。のっぺらぼうの顔からはなんの表情も読み取れないのに、怯えた視線まで向けられた気がして、私は笑ってしまいそうになる。
話の最後には軽口を叩き合う感じになったが、先刻の嫌な予感は揺らがない。とはいえ、ユウは自分の素性を知りたいと言った。意志の宿った声を思い出し、私は誰にともなく小さく頷く。
協力できることはしてあげたい。思っていた以上に、ユウは人間らしくていい奴だから。
「うーん、他にはなにかないかなぁ、方法……あっ、鏡は?」
『鏡?』
「うん。ユウ、鏡で自分、見たことある?」
『……ない』
そうだよね、と相槌を打ち、私は立ち上がる。
部屋の隅に置いてあるカラーボックスから手鏡を取り出した後、ユウの真正面に座り直す。
「ええと、角度、こんな感じかな……どう? 見える?」
ユウに鏡面を向けながら問いかけると、ユウはしばらく沈黙してから呟いた。
『なにも見えない。後ろの棚は見えるから、透けてるみたいだ』
「あ……そっか。ごめん」
ユウの声は落ち込んでいる感じではなかったけれど、私は反射的に謝罪した。
ユウが幽霊であることを、無遠慮に証明してみせてしまった自分が、急にものすごく嫌な奴に思えてきて……だが。
『なんであんたが謝るんだ。知れて良かったぞ』
続いたユウの声は訝しげだ。どうして私が頭を下げるのか本当に分からずにいるような、そんな口ぶりだった。
うん、と短く返してユウに視線を向けると、ユウは興味津々といった様子で『もう一度見せてくれ』と言う。膝に下ろした手鏡を再び持ち上げ、私は、ユウに見えるよう角度を調整した。試していないが、この鏡を自分の手で持つことは、ユウにはきっとできない。
鏡に見入っているらしきユウを眺めながら、私は彼に気づかれないよう息をついた。
年上か年下かも分からないものの、背丈を考えると中学生くらいかなと思う。中学生だったら声変わりしていてもおかしくない。ものすごく齢が離れた背の低いオジサン、という可能性もゼロではないだろうが。
先週、ノートの端に名前を書いてみせたときの様子を思い出す。私が書いた字を、あの日のユウは無意識ながらも難なく読んでいた。その点から考えても、大昔の幽霊などではなさそうだ。
……とそのとき、カーテンの隙間から微かに日差しが覗いた。はっとして、私はカーテンを大きく広げる。
雨脚は、いつの間にか収束に向かっているらしい。風だけは相変わらず強いようで、窓の外に見える近所の木々の枝が横薙ぎに揺れていた。
「雨、やみそうだね。あんなに降ってたのに」
『……そうだな』
ふう、と零されたユウの吐息が、カーテンを広げた部屋の中、静かに溶けて消える。
まだぽつぽつと雨音が聞こえるから、もう少し時間があるかも。頭の中で巡らせていた言葉を、私は一気にまくし立てる。
「もしかしたら、これからいろいろ思い出すこと、あるかもね。私にユウが見えてない間にも」
『そうかな』
「思い出したいんでしょ?」
『……うん。分からないままは、歯がゆい、というか……悔しい』
ぽつりと呟いたユウの声は、思った以上に私の胸を深く刺した。
怖い、ではなく、悔しい。確かに、自分のことが自分で分からない状態というのは、悔しいのかもしれない。
『思い出したい。早く』
静かな呟きは、いつにも増して儚げだ。
シーツに刻まれた病院名、病衣らしき衣服。今にも空気に溶けて消えてしまいそうなユウに、私は思わず手を伸ばした。しかし、なににも振れる感触がないまま、指はユウをすり抜けてぱたりと落ちる。
その姿が、だんだん透けて見えなくなっていく。
『どうした?』
「あ……ううん。透けてきたなって思って」
『うん、もうやみそうだな。また来るよ、場所は覚えたから』
「か、勝手に入ってこないでよ? 嫁入り前の乙女なんだからね、私」
『……乙女……?』
「なにその気の毒そうな言い方」
私の言葉に被せてふふ、と笑い出したユウの姿は、すでにほとんど見えない。
それなのに、ユウはそこにいて、実際に話を続けている。それがただただ不思議だった。声は、いつも以上にどんどんくぐもっていくけれど。
『そろそろ戻る。ああ、でもこの近くには河原もあったな。行ってみようかな』
透けていく姿は信じがたいほど儚いのに、ユウの声は楽しげで、私は焦って大きな声をあげてしまう。
「えっ、川? 雨降ってるんだよ、危なくない?」
『は? 危ないわけないだろ、こんな身体なんだぞ』
応じる声は楽しそうだ。それはそうか、と言われてから思う。
ユウには、川に流される危険も、車に轢かれる危険も伴わない。なにを言っているんだ私は、と恥ずかしくなる。
『ありがとう。カナオの隣にいると、いろんなことを思い出せそうだ』
俯いた私が再び顔を上げたときには、ユウの姿はもうなかった。
ユウがいた場所に指を伸ばす。指が空を切って落ち、震える息が零れた。ユウはまだここにいるのか。それとも、彼自身がさっき言ったように、早々に元の場所か河原へ向かったのだろうか。
……「元の場所」ってどこだ。児童公園の東屋か。それとも。
ユウは、次の雨の日までまたひとりぼっちだ。かわいそうなどと言ったら苦言を呈されそうだが、ひとりでいる間、ユウはどこに行くのか。そして、なにを考えるのか。
思い出せる? それは、本当に思い出してもいいこと?
ユウは病衣を着て、シーツに包まって……そんな格好のまま幽霊になってしまっているのに。