ユウの顔を見る機会もないまま、それから半月以上、延々と晴れの日が続いてしまった。ときおり灰色の空が覗くこともあったが、降れと念じれば念じるほど、なぜか雨の気配は遠ざかる。
 だいたい、どうして私はユウに会いたいと思っているのか。傘まで新調して、これでは浮かれているみたいだ。
 ユウの姿は私にしか見えていないけれど、その事実がまるごと、私がユウに会いたいと思う理由にはならない。確かにそう思うのに、いつの間にか、私はこんなにも強く雨の日を待ち望んでいる。

 ゴールデンウィークが過ぎ、中間試験が迫った五月中旬の日曜、ようやく念願の雨が降り注いだ。前回の雨から、半月どころか三週間近くが経過していた。
 時刻は午前十時。雨は、早朝からずっと降り続いている。勢いも強いし、風もかなりある。学校の近くを流れる川の氾濫が心配になってくるくらいの大雨だ。

「行ってきまーす」

 誰もいないリビングに向かって、私は普段の癖で声をかけた。
 私が高校に進学してから、母は日曜にもパート先のシフトを入れるようになった。日曜は平日よりも時給がアップするから、代わりに他の日に休みを取ることにしたらしい。
 父だって仕事をしているし、生活が苦しいわけでは多分ない。ただ、私が進学する道を選んだときのためにという理由があるみたいだ。頭が下がる。

「うわっ」

 玄関を一歩出た途端、お気に入りの傘が大きく煽られた。壊れるほどではなさそうだと思いつつも、少し不安になる。
 シューズボックスから久しぶりに取り出したレインブーツは、普段の革靴とは違って履き慣れない。それでも、急ぎ足で児童公園を目指した。

 前回の雨の日、公園からの帰り道でハルキと鉢合わせた記憶が蘇る。思わぬ人物と遭遇したばかりだ、周囲の気配には今まで以上にしっかりと気を配らなければ。
 日曜、それもこれほどの悪天候の中だ。今日は大丈夫だと思うが、注意するに越したことはないだろう。ハルキ以外の誰かに見られたとして、まずいことに変わりはない。
 気を引き締め、児童公園の通りへ辿り着く。白い影はすぐに見えた。珍しく、公園の表側に出てくれている。早足で、私は彼の傍まで走り寄った。

「おはよう。朝会うのって初めてだね」
『ああ。傘、大丈夫か。折れるぞ』
「……別にこのくらいなら大丈夫だと思うけど」

 私ではなく傘の心配をするユウへ、ムッとして言い返す。
 とはいっても、さすがに外で過ごす気にはなれない。東屋には屋根があるが、雨脚が強まって横殴りにでもなれば座っていられないだろう。すでにベンチがびしょ濡れという可能性もある。

「ねぇ、ユウってこの公園から離れられる?」
『え……知らない』
「最初に会ったとき、そっちの道路側の電柱辺りにいたじゃない?」

 言いながら、私はすぐ先の電柱へ指を動かしてみせた。四月の雨の夜、私たちが初めて顔を合わせた場所だ。
 指を向けたほうへ向き直ったらしいユウは、これほどの雨の中でもまったく濡れていない。不思議だ。前にも同じことを思った。

「今日はうちに来ない? 風強いし、外に長居なんてしたら風邪ひいちゃいそう」
『……え?』

 小声で伝えると、ユウは怪訝そうな声をあげた。それから、私が風邪をひくという可能性に初めて思い至ったらしく、焦った調子で『分かった』と呟いた。
 女の子の家に行くという意味は、大して深く考えていないようだ。けれど、私も無茶を言っている自覚がある分、その点をわざわざ強調する気にはなれない。
 ユウと出会う前の私なら、絶対にしなかった選択だ。得体の知れない幽霊を、自分の家――しかも自室に招くなんて。

 自宅までの道中、傘を打つ雨音が耳によく刺さった。相合い傘みたいにユウを傘に入れかけたとき、ユウがちっとも雨に濡れていないことに改めて思い至る。白いシーツを通り抜け……否、ユウごと通り抜け、雨は地面へ落ちていく。
 ユウはそもそも濡れない。分かっていたのに、こうやって隣に立ってそれを目の当たりにし、その事実を眼前に突きつけられた思いだった。ユウを入れてあげようと傾けた傘を、私は少し傷ついた気分で元の位置に戻す。
 落ち込みかけた気持ちをごまかし、周りに人がいないか確認してから、彼へ小声で話しかける。

「公園から離れても問題ないっぽいし、ユウは地縛霊じゃないのかもね」
『地縛霊? そういうの詳しいのか、あんた?』
「いや、全然。適当に言ってみただけ」
『……あっそ』

 溜息がはっきり聞こえ、あからさまだなぁと苦笑してしまう。
 だんだん図太くなってきている。それを素直に喜んでいいのか、私はまだ判断がつけられずにいるけれど。

 ほどなくして自宅へ到着し、まずは傘が折れずに済んだことに安堵した。正直、途中からはかなり心配していた。
 母は夕方まで仕事だ。父は父で、今日は出張で遠方に出かけている。少しそわそわして見えるユウに「どうぞ」と声をかけ、私は彼を二階の自室へ案内した。

「お父さんもお母さんも、今日は仕事で出てるの。普通の声で喋れるから安心してね」
『あ、ああ。分かった』
「ええと、その辺、適当に座っていいよ」

 天候を確認した朝の時点で、今日はユウを招こうと決めていた。だから簡単に掃除をしておいた。
 彼氏でも呼んでいるようなシチュエーションなのに、私の目の前にいるのは朧げな白い幽霊という……複雑な気分だ。そう思っていると、ユウが困惑の滲んだ声をあげた。

『あんた、俺みたいなのを家になんて入れて大丈夫なのか』
「えっ、まぁいいかなって思って。ユウ、別に悪いこととかしなそうだし……」
『悪いこと?』
「ええと、例えば家の中の物、壊すとか。後は……私に取り憑いたりとか……?」

 言いながら、だんだん声が小さくなっていく。
 自分でも驚いた。自分はユウに信頼を寄せすぎではないかと、唐突に思う。ユウ自身に指摘され、冷水を浴びせられた気にさせられる。
 尻すぼみになった言葉を最後に、沈黙が落ちた。しかしそれが気まずさに変わるよりも先、ユウの異変が目に留まる。それまでの話の内容も気まずさも忘れ、私は大きく身を乗り出した。

「……あれ?」

 シーツと思しき白い布の輪郭が、前に会ったときよりくっきり見える。そしてその内側に、淡い色の服が覗いていた。それ以外はどこもかしこも真っ白なのに、不思議と色が判別できる。
 手を伸ばしてユウのシーツを掴もうとしたが、結局、手はなんの手応えもなく通過してしまった。
 ……そうだった。私はユウに触れられない。頭から抜け落ちていた事実を反芻していると、ユウがシーツを手繰り寄せ、怯えた声をあげた。

『っ、な、なんだ急に。なにする気だ』
「え? ええと、ごめん。その布の内側、今日はなんか……服? 見えるからさ」
『服?』

 シーツを握り締めたまま、じりじりと私から距離を取ろうとしていたユウは、訝しげな声をあげて動かなくなった。
 わずかな躊躇を見せた後、朧げな腕の先が、布の合わせ目をゆっくりと左右に開いていく。布の内側の様子は、ぼんやりとながら私にも見えた。

「やっぱり。病院とかで着るやつじゃないかな、それ」
『病院……?』

 輪郭は相変わらずぼんやりしているが、薄い緑と薄い(だいだい)、パステルカラーを基調としたチェック柄の衣服に見えた。
 中学時代に同級生が怪我をしたとき、クラスを代表して大きな病院に面会へ行ったことがあった。その際に相手が着ていたものと、形状が似ている。
 あの服、なんと呼ぶのだったか……そう、確か、病衣。

「入院、してたのかな。それか検査とか?」
『入院……』
「あ、待って。その布、ちょっと見せて……ううん、そうじゃなくて、裏側」

 今度はシーツの裏側に目が留まる。なにか文字が書いてあるように見えた。
 困惑を覗かせつつシーツへ指を戻したユウに、しどろもどろに指示を出す。もどかしい。自分でめくってしまえれば楽なのに、私はユウに触れられない。
 なんとか言葉を重ね、シーツの端を手に取ってもらった。そこを凝視すると、やはり文字が書いてある。薄くなってよく見えないそれを目を凝らして見つめ、やっぱり、と私は声をあげた。

「ねぇ、病院の名前だよ、これ。市立病院って書いてある」