『いつだって、あんたのことから思い出してた』
『赤い傘も、ノートの字も、結婚式の雑誌も……あんたが傍にいてくれたから、俺は』

 お前、とは呼ばなかった。
 今の自分の今の気持ちを、そのまま声にしなければ。そればかりに意識を向けていたから、叶生の表情の変化に気づくまで、無駄に時間がかかった。
 焦ったような叶生の顔を見て、どうした、と声をかけた。彼女の視線を追い、そこで初めて気づいた。雨はすっかり弱まっていて、雲の切れ間からは日差しすら覗いて見えた。それが傍の水溜まりに反射し、あまりの眩さに思わず目を細める。

 もしこれで雨がやむなら、次の雨を待てばいい。
 今までの自分だったら、きっと迷いもせずそう考えた……だが。

 記憶が戻ってからも、叶生に対し、俺は「あんた」という呼び方を意識的に続けていた。叶生が嫌う自分とは別人である自分――藤堂 悠生としてではなくユウとして、叶生の傍で笑う自分に酔い痴れられたからだ。
 けれど、今となっては意味が少し変わってきたみたいだ。
 その呼び方は、幽霊になった自分と、その自分に寄り添ってくれた叶生、俺たちが一緒に積み重ねてきた時間を証明してくれるものに他ならない。だから愛おしい。だから、大切だと思える。

 こんな身でありながら、バスには乗れた。叶生の家の階段も上れた。病院内のエレベーターにも乗れた。二階の叶生の部屋、その窓際に外側から身を寄せることだってできた。
 酔っ払いから叶生を助けようとしたときも、それ以前には触れられなかった木やノートに(さわ)れた。酔っ払いを怯えさせ、その場から追い払うことまでできた。

 意外と、なんでもできてしまうのかもしれない。
 前にも同じことを思った。迷いさえしなければ、信じてさえいれば、どんなことも人の身よりずっと容易に叶ってしまうのかも、と。

『このままでいいと思ってた』
『今の俺には優しくしてくれるから』

 祖父にそう伝えながら、自分に言い聞かせている気分でもあった。
 そうではないと、それでは駄目なのだと、心のどこかで叫び続けていた。もしかしたら祖父は、俺の中で大きく育った甘えのすべてを見抜いていたのかもしれない。

 帰ったところでどうしようもない。なにが得られる。なにが残る。どうせ。
 後ろばかり振り返りたがる自分がいて、けれどそういう自分にうんざりしている自分も確かにいて、そのせいで八方塞がりで、前にも後ろにも一歩も進めなくて、またうんざりして……まさに堂々巡りだった。
 そんな自分の背を押してくれたのは、祖父であり、そしてこの人でもある。

『大丈夫だから』

 叶生の声を聞きながら、今なら触れられると思った。この人のおかげで、あるべき場所に帰ろうと決心できたのだから、大丈夫だと。
 伸ばした指の先に、温かな頬の感触が走った。目尻から零れ落ちた涙が生む濡れた感触も、きちんとあった。

『……叶生』

 帰ったら、どうしようか。
 叶生に会って、向き合って、誤解を解いて、伝えたいことを伝えて――それから。

『帰るよ。ありがとう』

 すでに俺が見えなくなった後なのだろう、頬に自分の手を添えて涙を流し続ける叶生にそっと声をかけ、傍を離れる。
 後方を振り返り、足を踏み出す。
 日差しの反射する水溜まりが、目を刺すほどの輝きを湛えるその中心へ、俺は勢い良く足を踏み入れた。