制服姿の藤堂 悠生と並んで歩く叶生を見たとき、息が止まった。
 その後の雨の日にはわざわざ児童公園にまで現れたあれに、叶生は嫌悪を隠そうともせず顔を向け、強い口調でなにか話していた。
 見つかるわけにはいかないと、俺はどちらの日にも姿を隠し、また距離を置いた。雨の日にも姿を現さない俺に、もしかしたら叶生は失望したかもしれない。そう思っても隠れることをやめられなかった。

 児童公園に現れた叶生が、普段よりも息を浅く、そして顔を赤くしていたとき、あれよりも先に異変に気づいて彼女に手を伸ばしたのは俺だ。けれど、姿を見せる勇気はなかった。差し伸べた手に気づかれることさえなく、叶生はあれに腕を取られ、あれと一緒に帰路に就いた。
 部屋で寝込む叶生の傍まで行こうとして、結局、それは実行には移さなかった。
 叶生は女で、自分は男。しかも俺は叶生に思いを寄せている身だ。俺を嫌う叶生を相手に、許されざる一線を踏み越えてしまうようで気が引けた。

 あれは、叶生の部屋の前で叶生と別れた後、しばらく楠本家のリビングのソファに座り込んでいた。叶生の家族の帰りを待っているのだと、早々に察しがついた。
 足を踏み出し、正面に佇む。座る男を見下ろす形で、静かに、その俯いた顔へ視線を合わせて呟いた。

『……お前は知らないのか。俺が今、どこにいるのか』

 独り言のような声になった。事実、独り言以外の何物でもなかった。
 無論、相手はぴくりとも反応を示さない。顔を上げることもなかった。なにも聞こえていないのだから当然だろうが、ときおり柱にかかった時計を眺めては手元に視線を戻すばかりで……静かだ。怖くなってくるほどの沈黙だった。

 その静けさの中で、なんの前触れもなく思い出した。

 相手の仕種を、態度を、今なにを考えているのかを、俺は知っていた。
 見覚えがあるのではなかった。そういう類の記憶ではなく、もっと直接的な――知らず、こめかみに指を添えていた。
 なぜそんな詳細を余すところなく知っているのか、理由に思い至った瞬間、欠けていたピースのすべてがぴたりと嵌まる。

『……あ……』

 誰にも聞こえない自分の声が、静かなリビングに溶けて消える。
 ……どうりで、市立病院の中をくまなく確認しても見つからないわけだ。入院している自分がいる場所は、そもそもそことは完全に異なる場所なのだから。
 この場にこれから誰が帰ってくるのかも、この男がその人になにを伝えるのかも、その後どうするのかも、すべて記憶に残っていた。知っていた。さらには、この男が今日の夜にどんな夢を見るのかも知っている。

 いよいよ、叶生に顔を見られるわけにはいかなくなった。
 それだけを思い、最後に男を――過去の自分を一瞥した後、俺は玄関を通り抜けて叶生の家を出た。


   *


 それから数日が経った……と思う。
 この身になってからの時間の記憶は曖昧だ。あっという間に一日が過ぎる気もすれば、気がふれそうなほどゆっくり過ぎていく気もする。

『お~い。兄ちゃん』

 爺さん幽霊の声が聞こえ、俺は背後を振り返った。
 聞き覚えのある声だ。何度か会っているからそう思ったのではない。もっと直接的な理由がある。既視感などという表し方ではもう済まされないほど、俺は爺さん幽霊について――彼の正体について、明確に思い出せていた。

 追いかけてくる叶生を振りきった直後だったから、気が滅入って仕方なかった。
 道端にうずくまる叶生の姿は見ていられず、頼りになるでもない過去の自分――制服姿の藤堂 悠生に彼女を任せて逃げきった。ああ、確かに同じ光景を見たことがあるな、と逃げながら思った。
 幽霊に会っていると打ち明けてくれた後、その幽霊の名を呼びながら俺の真横を走り抜けていく叶生。嫌になるほどはっきりと覚えていた。
 そんな俺の荒んだ内心など知る由もない爺さん幽霊は、またも一方的に喋り始める。

『最近、あのお嬢さん、あんたのことよーぉ気にしとるよ。ありゃ恋患いっちゅーやつじゃな。隅におけんの兄ちゃん、んん?』
『……違うと思うけど』

 楽しそうな爺さん幽霊とは裏腹に、苦々しく息を乱す俺にはそれしか返せなかった。すると爺さん幽霊は『ほーお』と目を丸くし、その仕種がまた記憶の奥の奥、深い部分を擽った。
 本当の自分さえ、おそらくそろそろ忘れ始めている部分。人は、なにも幽霊にならずとも――生きていても、簡単に記憶を忘れる生き物だ。

『お嬢さん、最近は別の男の子とよう一緒におるんじゃよ。知っとるか?』

 ……知っている。心の中で呟いた。
 あれが自分だと、過去の自分なのだと、それを言葉にしてしまったらその瞬間になにかが終わる気がしてならなかった。だから返事はしなかった……だが。

『おーんなじ顔しとるよ、兄ちゃん。あの男の子とよぅ』
『……え?』
『笑い方とか目つきとか、そういうことを言ってるんじゃねえ。まーんま、おんなじ顔しとるって言っとるんじゃ、わしは』

 壁もないのに、爺さん幽霊の声が周囲に反響して聞こえた。
 湿った梅雨の空気の中、彼が、俺がこうなってしまった理由の核心に近い話をしていることにだけは理解が及ぶ。震える喉に指を添え、俺は声を絞り出す。

『……違う。叶生は、俺を』

 うまく声を出せない。
 爺さん幽霊の顔は、いまだ直視できていない。顔を見れば、俺はきっと彼に甘えてしまう。叶生にそうしてきたように、彼にも。
 だから、せめて、この話を終えるまでは。

『嫌ってる。小学生のとき、叶生がせっかく大事な話を打ち明けてくれたのに……傷つけた』

 言葉にすれば、たったそれっぽっち。
 ちっぽけで、だがちっぽけだと認めたら最後、七年もの間積み重ねてきた後悔も燻りも一瞬で消え失せてしまいそうで、それ以上は声に乗せられない。

『ありゃあ。なーんでそんなこと、してしもうたんじゃあ?』

 爺さん幽霊の声がする。
 あんたがそれを訊くのか、と思ったら笑いそうになった。

『隣町の病院に入院してた俺のじいちゃんが死んだ、すぐ後だった。叶生は詳しいこと、知らなかったんだと思う。じいちゃん、ずっと入院してたから』
『……ほぉ』
『俺はじいちゃんが大好きだったから……幽霊が見えるって叶生が言い出したとき、じいちゃんを悪く言われてる気がしたんだ。今思えば、なんでそんなふうに思ったのかも分からない』

 詰まったきり出てこないかと思った声は、一度放てば不思議なほど流暢に続く。
 爺さん幽霊は、静かに俺の話を聞いていた。その沈黙が続きを促しているがゆえのものだと受け取り、俺は再び深く息を吸い込んだ。

『叶生、傷ついた顔、してた』

 彼女の顔はとにかく青褪めていて、気の毒になるほどだった……それでも。

『それでも謝れなくて、夜もほとんど眠れなかった。次に会ったときに謝ろう、ひどいことを言った理由、ちゃんと伝えようって……けど』

 息が詰まる。
 静かな空気の中に、自分の乱れた呼吸が溶けては消える。その音をもう聞きたくなかったがためだけに、声を絞り出す。

『噂になってた。叶生に、幽霊が見えるっていう話』

 爺さん幽霊が息を呑んだらしき音が、微かに耳に届いた。
 クラスで一番よく喋る奴が、大声で「幽霊が見えるって本当!?」と叶生に話しかけていた。それ自体が周囲の視線を集めてやまない、好奇心に満ちた問いかけに、叶生は強張った顔で「見えないよ」と呟き返していた。

 あり得ない。こんな噂、一体、どこから。

 嘘をつく叶生の顔は見ていられなかった。その噂が広まりさえしなければ、つかずに済んだ嘘。無理に貼りつけたような笑みを浮かべた叶生の顔が、目に焼きついて離れない。
 叶生は俺を疑った。
 当たり前だ。叶生がその秘密を打ち明けた相手は、彼女の家族以外では俺が初めてだと言っていたから。

『仕返しのつもり?』

 噂が流れた日の放課後、俺と視線すら合わせたがらない叶生の腕を強引に掴んだとき、そう言われた。
 冷たい視線を前に、俺は固まった。叶生の打ち明け話を聞いたとき、じいちゃんを悪く言われた気がした、そんな自分の内心をすべて見透かされた気分だった。

 誤解だ。張り上げかけた声は、けれど直前で喉の奥に詰まった。
 ……「誤解」ってなんだ。じいちゃんの顔が過ぎり、叶生の話を真っ向から否定したのは、他ならぬ自分だ。
 噂の出処は俺ではないが、叶生を傷つけたことに変わりはない。そう思ったら、反論の前に妙な間が空いてしまった。その間をまるごと、叶生は俺の肯定として受け取ったらしかった。

 噂の出処は、その後も判明していない。俺と叶生の話を盗み聞きしていた奴がいたのかもしれない。俺以外に叶生の秘密を知っているのは彼女の家族だけで、彼らがそんなことをするわけはなかった。
 否定しようにも、叶生は口を利いてくれない。だから俺は叶生から離れた。謝罪したら、まず間違いなく、他人に秘密を漏らした件で謝っていると受け取られるだろう。そう思えば余計に謝れなくなった。
 謝らない俺に、叶生は自分から口を利こうとしなかった。それきり、俺たちは小学時代も中学時代も一度も口を利いていない。

 叶生の打ち明け話を聞いた日より前――叶生を傷つけるより前に戻れたら、どんなにいいだろう。
 何度もそう思った。そして今、なんの因果かこんな状況に陥っている。
 戻る地点こそ違ってしまったが、叶生は、幽霊になって一切の記憶を失った俺を受け入れた。顔も碌に見えていないはずなのに、好意を寄せてくれている様子や仕種を垣間見せることさえある。

『叶生は、今の俺には……優しい』

 声が震える。その理由は、話し続けて疲れたからだけではなかった。
 これ以上の話を爺さん幽霊に伝えていいのかという躊躇と、ほんのわずかな自嘲、そして陶酔……それらが綯い交ぜになり、疲れているのは確かなのに喋り続けてしまう。

『もう、このままでもいいんじゃないかって思う。叶生の傍で、叶生が危ない目に遭ったときに守ることだってできなくはないんだ、だから』
『……駄目だぞ。悠生』

 唐突に低まった声に話を遮られ、はっとした。
 名前で呼ばれた。しかも、叶生に伝えていない、爺さん幽霊に伝わっているはずのないほうの名だ。
 俯けていた顔を上げざるを得なくなる。あえて直視を避けていた爺さん幽霊の顔が、視界にはっきりと映り込む。

『誤解は解くもんだ。お前だって戻るところに戻ったほうがいいに決まってる。お父さんもお母さんも心配しとる……お嬢さんもな』

 薄々勘づいてはいた。だが、実際に自分の目で見て確かめた現実は、頭の中で巡らせていただけの想像とは比較にならないくらいの衝撃を引き連れてくる。
 小学四年生の自分が見た、棺に窮屈そうに収まった祖父……最後に見たその顔と同じ顔をした爺さん幽霊と、音がしそうなほど派手に視線がぶつかる。

『悠生。お前、まだ思い出してねえこと、あるんじゃねえか』
『……え?』
『なんで自分が幽霊になったのか、お前、まだちゃんと分かってねえだろ』

 祖父の顔が、もう二度と向かい合えないと思っていた相手の目が、まっすぐに俺を射抜いている。
 返事の言葉も考えていた詳細も、すべてが一瞬で掻き消えた。そうして真っ白になった頭の中に、ふとひとつの記憶が舞い戻る。

 そう、風邪をひいたのだ。自分は。
 いつひいたのだったか、あれは、朝、叶生が幽霊を追いかけて、あの後、学校に向かいながら、確か、何度も、何度も、咳を――――

『……あ……?』

 知らず声が零れ、ゆっくりと爺さん幽霊へ視線を向け直す。
 そのときには、彼はすでに背を向けていた。曲がった腰、丸い背中の輪郭が次第に靄を帯びていく。声をかけるよりも前、その姿はあっという間に白い球体……まりものようななにかに変わってしまった。

『お嬢さんにはな、ちっとばかり詳しく教えてやろうかと思っとるよ。忘れてたことをどんどん思い出してく幽霊なんざ、幽霊であって幽霊なんかじゃねえなァ。最初からまるっきり違うんよ、わしらとお前は』
『あ……じ、じいちゃん、俺』
『こんな話、してる間にも片っ端からなんもかんも忘れていきそうなんじゃが……せめてお嬢さんにはちゃあんと礼を言っとかんと。お前もお前だ、思い出したんならさっさと戻れ』

 ――帰って、お嬢さんの誤解、早く解いてやれ。

 声をかける暇は、今度こそなかった。
 ふわりと宙に浮いた爺さん幽霊……じいちゃんは、次の瞬間には本物の靄のように、空気に溶けてふっと消え失せてしまった。