死んだ、という言葉が頭に入ってくるまで、妙な間が空いてしまう。理解が及んだと同時に、いつしかハルキの隣を歩んでいた足の動きを、私は露骨に止めた。
 そっか、と愚にもつかない返事をし、そこからまた短い沈黙が落ちる。

「たまに見る。向こうが喋ってるだけの夢」
「……そう」

 話を振ったのは私なのに、曖昧に呟き返したきりなにも訊けなくなる。結局、以降はどちらも無言のまま、再び歩き出したハルキに続くように私も足を動かし始めた。
 隣に並ぶのは不自然な気がする。かといって、縦一列に並ぶのも奇妙だ。距離を取りあぐねた私は、ハルキの斜め後ろを、近づきすぎず離れすぎず進む。そうしながら、ハルキが今日も歩幅を私に合わせてくれていると気づいた。先日もそうだった。
 苦い気分になる。昔は私がハルキに合わせてあげていたのに、今ではハルキのほうが遥かに大きくなった。男女の体格差を考えれば当然だけれど、知らぬ間にすっかり追い抜かれてしまって、面白くない。

 半端な距離からブレザーの背中を見つめ、私はまたも気持ちが揺れた。
 花梨に聞いた話を、果たして鵜呑みにしてもいいのか。ハルキの拒絶も、あの噂が流れたのも、もう七年も前の話だ。噂を広めた人間が誰であったにせよ、またどんな広まり方をしたにせよ、この先、真実が明るみになる日はまず来ない。
 だからこそ私は、自分が正しいと思ったことを、自分で拾って選んでいかなければならない。

 分からないことだらけだからと言い訳して、私はハルキへの謝罪を先延ばしにしているだけ……そうも思えてくる。自分で自分を嫌いになってしまいそうな気持ちを抱えながら、昨晩、ひと晩中考え続けた。
 そもそも、私はなにをこんなにも意地になっているのか。昨晩も陥った堂々巡りの入り口にまたも辿り着き、溜息が零れそうになったところで、前方から声がした。

「……いいのか」

 はっとして、足元に落としていた視線を上げる。
 聞こえた声が斜め前を歩くハルキのものだと、遅れて気づく。そしてそれが、私が他の誰より会いたいと思っている相手の声に、やはり似ていると思ってしまう。

「っ、え?」
「好きな奴がいるんだろ。つきまとうなって言った癖に……言ってることもやってることも、こないだと逆だ」
「……べ、別に」

 ほじくり返してほしくないことをほじくり返されたと気づき、ムッと眉が寄る。
 頭の端を過ぎったばかりのユウの姿が、白靄のように霞んで消える。この頃は、ユウについて考えるたびに胸が痛み、苦しくなり……その繰り返しだ。

 今、私が話している相手はユウではない。無理やりそう意識し、苦い気持ちを心の端に追いやった。
 前方を歩くハルキは、それ以上なにも訊いてこない。妙に察しの良い態度だと思う。相手に振られたと思われているなら、それはそれで癪だ。だが、だからといって本当の話を打ち明けるわけにもいかない。また拒絶されたらと思えば、どうしても身構えてしまう。
 けれど、あれから七年もの月日が経っている。さらに言うなら、七年前のあの否定について、ハルキはすでに私へ謝罪している。

「……私」

 ぽつりと声が零れた。
 ハルキの足が止まる。それに一拍遅れて気づいた私は、危うく彼の広い背中にぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。思ったよりもずっと近くを歩いていたのだと、その頃になって思い至る。
 そういえば、ユウも私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。追いやったばかりの苦い気持ちがすぐさま立ち戻り、私は顔を俯けてしまう。

 気づけば、そこは児童公園の前だった。ユウと何度も顔を合わせた場所。ユウと会った直後にハルキと遭遇したこともある、ちょうどその場所だ。
 俯けていた顔を思いきって上向け、はっとした。いつの間にか、ハルキが私に向き直っていたからだ。話を聞き逃すまいとばかり、彼はじっと私を見ている。
 傘の柄を握る指に、力がこもった。

「私、雨の日に幽霊と会ってるの。別に信じてくれなくてもいいけど、否定は……しないでほしい」

 花梨に伝えたときと同じ言い方になってしまった。場違いにも笑いそうになる。だいたい、こんな話よりも先に切り出すべきことがあるのに。
 真正面のハルキは微かに目を見開き、けれど私が願った通り、否定するような素振りは見せなかった。思慮深そうに、彼は小さくこくりと頷き……そのときだった。

 ぽつ、と地面に水滴が落ち、あ、と思った。
 雨だ。細く降り注いでくるそれは、私が空を見上げているうちに勢いを増し、梅雨の季節の湿ったアスファルトをより濃い色に染め替えていく。
 私は慌てて傘を差そうとして、しかしハルキはそうしなかった。まだ雨脚が弱いとはいえ、彼のブレザーの肩にはどんどん雨水が染みていく。傘差したら、と口を動かしかけたとき、ハルキはやはり傘には少しも意識を向けず、ぽつりと呟いた。

「叶生。その幽霊って」

 ハルキの言葉は半端に途絶えた。
 なんの前触れもなく、私の視線がハルキの背の側――垣根に沿って伸びる歩道の先、電柱の方向へ向いたからだと思う。
 白いなにかが見えた。否、白い影が。大判の白布に包まれた背中と、膝下から覗くパステルカラーの病衣、それから……裸足。

 見間違えるはずは、なかった。

 それ以上なにか考えるよりも先に、足が動いた。
 立ち尽くすハルキの真横を小走りに通過する。そんな私をハルキは呆然と眺め、けれど彼を気に懸けている余裕は、私にはすでに露ほども残っていない。

「っ、ユウ!! 待って!!」

 なりふり構わず走り寄る私の、周囲に人がいたなら注目の的になっていただろう大声に、白い影は一瞬だけ動きを止めた。たじろぐように身動ぎしたそれが、ふと私を振り返る。
 口元が見えた。それから、その上には鼻があった。以前は見えなかったそれに、私の目は釘づけになる。

「……っ、あ」

 口元を押さえる私が見えたのかもしれない。頭部を隠すかのごとくすっぽりと被っていたシーツを、ユウはさらに目深になるよう指で引っ張って下げた。そのせいで、彼の顔はすぐさま見えなくなる。
 それきり、ユウは私に再び向き直ることなく、消えてしまった。

 ……どうして。雨は、やんでいないのに。
 走っていた足はすっかり固まっていた。目の前で起きた現象に動揺を隠しきれず、私は傘を手に立ち尽くす。

 雨が降っている中でそんな消え方をするなんて、まるでお爺さん幽霊みたいだ。
 お爺さん幽霊みたいという自分の想像そのものが、私の足を余計に竦ませる。お爺さん幽霊とユウは真逆だ。そして、幽霊らしい幽霊はお爺さん幽霊のほう。不意に、ユウが本当の幽霊に近づいた気にさせられ、ぞっとした。
 ユウだって最初から幽霊なのに、その考えはおかしい。確かにそう思うのに、混乱も手伝ってか、私の考えは完全に支離滅裂になってしまっている。

「なんで……?」

 知らず零れた声は、自分さえ不安になってくるくらい弱々しかった。
 傘を差したきりで地面にうずくまったそのとき、傍から水のはねる音がした。それが、走る私に追いついたハルキが立てている足音だと気づいた私は、しゃがみ込んだままで静かに背後を振り返る。
 腕を引かれた。危ない、と独り言のように呟きながら、ハルキは歩道の端まで私を連れていく。避難でもさせられているみたいで、つい、私は場にそぐわない笑みを浮かべてしまいそうになる。

「今のがそうなのか」

 私の腕から手を放したハルキが、やはり独り言のように呟く。

「……え?」
「好きな奴、いるって言ってただろ」

 ハルキの声は低く、ユウの声を彷彿とさせた。
 それこそが私を不安にする。ハルキとユウの相似性を認めたら最後、ユウは二度と私の前に姿を見せてくれないのではないかと、根拠のない不安が心を埋め尽くしていく。
 ハルキを毛嫌いし続けてきた私が、ハルキに心配をかけている。その時点で、ユウは私を見放してしまったのでは。そんなふうに思えてならなかった。

 こくりと頷いた。
 私が好きな人はユウだと、ハルキに伝えるのではなく自分自身に言い聞かせるかのように、私は二度頷いて、そして。

「……そうか」

 ハルキはそれ以上なにも言わなかった。
 涙こそ流してはいないが、無言で地面にうずくまったきりの私を、頭上の傘ごと自分の黒い傘で覆い――ああ、馬鹿だな、とぼんやり思う。

「……行きなよ。遅刻するよ」

 掠れた声で伝えても、ハルキは動じなかった。
 泣きそうになる。いっそ大声をあげて泣けたら気楽なのに、とも思う。
 もう少しだけ、と誰にともなく呟いた私は、ユウが消えたばかりの場所を、瞬きすら忘れて見つめ続けていた。