『風邪、早く治せよ』

 最後に聞いたハルキの声が、頭から離れない。
 これでは私が悪者だ。小学生の頃の確執をいつまでも根に持って……あのやり取りのせいで傷ついたのは、多分、ハルキだって同じなのに。

 鈍い痛みが胸を伝う。小学四年生――幼い子供だった私は、自分のことだけを考え、あの打ち明け話をハルキに告げた。
 お祖父さんを亡くしたばかりのハルキは、私が切り出した話題に傷ついただろう。意図せずとはいえ、私が傷つけたことに変わりはない。大切な人を喪ったハルキの悲しみを、余計な言葉で、良からぬ方向に刺激した。
 もちろん、私は私で、自分が受けた衝撃をなんとかするだけで精一杯だった。今に至るまで、当時受けたダメージのすべてをハルキのせいにして溜飲を下げ続けている始末なのだから。

 泣き出しそうな声で私を糾弾する小学四年生のハルキの、思い出せず空洞になった顔に、高校生になった今のハルキの顔が重なる。
 そこにユウの姿まで重ねてしまいそうになり、私は頭を強く振ってそれを掻き消した。

『関係なくない』
『心配してる』

 ユウのことを考えまいとすればするほど、ハルキの声が頭を巡る。そのせいで余計に考えが乱れる。
 ……ハルキは私を嫌っていると思っていた。冷ややかな視線を向けられたことも少なくない。けれど、冷静に考えれば、私のほうが遥かにきつい態度を取り続けてきた。そのせいでハルキもそういう態度を取るようになった、ただそれだけの話なのかもしれない。
 そのサイクルを繰り返し、堂々巡り。私たちの七年はそうやって過ぎてしまった。嫌気が差す。私は、小学生の頃からなにも変わっていない。

 口元のほくろという共通点のせいで、ユウとハルキは、私の中ですっかり紐づけされてしまった。ユウのことを考えればハルキを連想するし、ハルキのことを考えればユウを連想してしまう。
 だが、ユウとハルキが同一人物であるはずはない。ハルキは生きている。そして、ユウは幽霊。それぞれがそれぞれ、今この時に存在している。
 以前には、ユウと別れた直後にハルキと鉢合わせた。だから、口元のほくろがふたりにあるのは単なる偶然でしかない。

 今日は水曜。花梨は塾へ向かい、私はひとりで帰宅した。
 寄り道はしなかった。児童公園にも行かなかった。ハルキと鉢合わせもせず、まっすぐ自宅へ帰り……その頃になってから思い出した。
 花梨にも訊かなければならないことがあったのだ。互いの体調不良や欠席のせいで、メッセージのやり取りさえ控えめになっていたけれど。

 結局、花梨にはいまだにハルキの件を訊けずじまいだ。私についてハルキからなにか訊かれても答えないでほしい、と花梨にお願いしたことはある。それなのに、まさか再びふたりの間で私が話題に上るとは。
 花梨にとやかく言いたくなるのは筋違いだ。花梨は花梨で、雨の日にひとりで帰る私を心配してくれている。いや、あるいは訝しく思っているのかもしれない。
 それを花梨に確認できていない私は、もやもやした気分をどうにもできない。しかもあれこれ思い悩んでいるうち、花梨と話をするよりも先に、ハルキに「つきまとわないで」と言い放ってしまった。

 もやもやは、行き場を失ったきり、私の中に堆積したままだ。
 憂鬱な気分に拍車がかかり、溜息が零れた。


   *


 翌日、木曜。
 空を覆っているのは今日も分厚いグレーの雲で、ときおり雨が落ちてはやんでの繰り返しだ。気まぐれな空を横目に、お世辞にも集中しているとは言いがたい態度で、私はすべての授業を受け終えた。

 今日は、私から四組に向かった。下校の準備をしていた花梨は、開きっぱなしの教室の扉から顔を出すと、手を振ってくれた。
 花梨以外に友達がいないわけではない。最近では頻度こそ減っているものの、他のクラスメイトや部活仲間と出かける日もある。ただ、真剣に相談したいことがあるとき、その相手として最初に思い浮かぶのは、私の場合は花梨ひとりだ。

 帰り道、先日休んだ書道部でのできごとや連絡について、花梨に教えてもらった。けれど、話を聞きながら、私はどこまでもうわの空だった。
 花梨の話が、彼女の通う塾の話題に切り替わった頃、私たちは児童公園の前を通りかかっていた。どうしたところで、空の動向ばかり気に懸かる。今にも雨が落ちてきそうな雲、黒ずんだその色を見つめ、私は傘の柄を強く握り締めた。

「……叶生? どしたの、ぼーっとして」
「っ、あ……ううん」
「風邪のせいでまだ本調子じゃないんでしょ? 大丈夫?」

 大丈夫だよ、と返しつつも、悪いことをしている気分になる。
 場所が場所だけに、気が滅入って仕方なかった。私の体調が芳しくない理由は、完治に至っていない風邪そのものよりも、むしろ。

「花梨。あのね」
「ん?」

 どこから、そしてどこまでを伝えたらいいのか分からなくなる。
 分からなくなったら、頭より先に口が動いてしまった。

「私、幽霊と会ってるの。雨の日だけ……見えるんだ」

 花梨は露骨に固まった。
 最初こそ私が冗談を言っていると思ったのかもしれないが、私の顔を横目にした彼女はさらに言葉を失い、ええと、と零したきりついに歩みを止めてしまった。

「か、叶生? どうしたの、急に……」
「あの。信じなくてもいいけど、否定はしないで。それから、ハルキにはもう私のこと、話さないで」

 言葉の途中で目が潤んでしまう。ちょうど「ハルキ」という名を出したところで、私は声を詰まらせた。そんな私を花梨は慌てて支え、垣根越しに児童公園の東屋を指差す。

「ね、ちょっと休もう、叶生? それにもう少し詳しく教えてよ。ちょっと……急すぎて、あたし、頭追いついてなくて」
「……ごめん。ハルキ、花梨になにも言ってきてない?」
「聞いてないよ、なにも。別に藤堂くん、特別仲いい人ってわけじゃないし」

 戸惑いの滲んだ顔をしながらも、花梨は私がなんの話題に言及したがっているのか察したのだと思う。
 児童公園の東屋へ、花梨に引っ張られるようにして足を進めた。
 雨の日、曇りの日、何度も座ったベンチを一瞥し、思わず目元を押さえる。今にも降り出しそうというだけで、今日は雨が降っていない。ユウの姿は当然見えなかった。

「……叶生」

 ベンチに腰かけた私の真向かいに、花梨は心配そうな顔のままゆっくり座った。
 どこから話そうか迷い、結局、全部打ち明けた。隠しごとは得意なほうだと自負していたのに、大したことはなかったみたいだ。

 四月、進級して間もない頃に幽霊と出会ったこと。
 その幽霊が記憶を失くしていたこと。
 記憶を取り戻すたび、幽霊の姿が少しずつはっきりしていくこと。
 だんだん姿が見えるようになってきた彼が、病衣を着ていると気づいたこと。
 その病衣が、おそらくは市立病院のものであること。
 部屋に招くほど親しくなったこと。
 この公園で、酔っ払いに絡まれたところを助けてもらったこと。

 彼を、好きになってしまったこと。
 そして、彼に、ハルキと同じ特徴が――唇の横のほくろが見えてしまったこと。

 吐き出すように口にした。ときおり順序がごちゃ交ぜになったり、支離滅裂な話し方になったりと、花梨にとってはひどく聞き取りにくい話だったと思う。
 初めこそ困った顔で私の話を聞いていた花梨は、やがて真剣な表情を覗かせ始めた。私は途中でハンカチを取り出し、目元を押さえながら話し続ける。

「そっかあ。だから叶生、雨の日だけひとりで帰ってたんだね」
「……うん」

 怖くないのかとか、危なくないのかとか、そういうことを花梨は訊かなかった。
 信じなくてもいいという私の自衛は、きっと最初から必要なかった。花梨はこういう人だ。そうだと確かに知っていたのに、改めてそのまっすぐな性格に救われる。
 ひと通り話を終えると、短い沈黙が落ちた。ばつの悪そうな顔で、花梨はぽつぽつと呟くように口を開く。

「あのね、叶生。あたし、藤堂くんとはほとんど話してないんだ。塾で」
「……でも、雨の日に私がひとりで帰ってるって、話したでしょ」

 責めたくないからこそ今まで切り出せずにいた話題を、結局、私は責めるような口調で告げてしまう。花梨は見るからにはっとして、彼女にそんな顔をさせた自分自身にこそ嫌気が差した。
 ハンカチを握り締めて俯いた私を見つめ、花梨は気まずそうに続ける。

「ごめん。叶生が藤堂くんと仲悪いって、あたし……知ってたのに」

 言いながら俯いた花梨を、私は逆に視線を上向けて見つめる。すると、花梨は少しずつ、慎重に言葉を選ぶように続きを話し始めた。
 花梨が言うには、ハルキは相当心配そうにしていたらしい。雨の日だけという点が、ハルキの不安を煽ったのかもしれない。冷静に考えれば、ハルキは幽霊に遭遇したときの私の様子を実際に目にしている。
 小学時代の話ではあるが、あの雨の日、楽しそうに歩いていた私は瞬く間に顔を青褪めさせ、ハルキの腕にしがみついた。あのときのことを、ハルキがすっかり忘れたとは思いがたい。
 相手の反応がどうであれ、雨の日に幽霊が見えるという話を、私はハルキにとっくに打ち明けてしまっている。

「何回か前の塾のとき、たまたま……話の流れで叶生の話題になったの。藤堂くん、叶生のこと、すごく心配してるんだよ。特に雨の日は」

 雨の日は、という言葉に肩が震える。
 花梨はやはり言葉を選ぶように、また私の反応を気に懸けるように続けた。

「藤堂くん、叶生がそういうの……見えるんだって、知ってるの?」
「知ってる。昔、教えた。でも」

 大声で拒絶されたこと。噂を広められたこと。そのせいで、話しかけられるどころか顔を見るのも嫌になってしまったこと。
 やはり全部吐き出すように伝え、居た堪れなくなった私は再び顔を伏せた。

 小学時代の噂について、花梨は詳細を知らない。花梨とは小学校が別学区で、一緒になったのは中学校以降だから。
 私とハルキの不仲は知っていただろうが、その理由までは伝えていない。急にこんな話を打ち明けられて、花梨だって困っているのでは……そう思ったら余計に顔を上げられなくなる。
 ところが、花梨はしばらく沈黙した後、眉を寄せて呟いた。

「あのさ。その噂、あたし……覚えがあるんだよね」

 思いもよらない話を切り出され、私は目を見開いた。
 花梨の表情は依然として険しい。沈黙をもって、私は話の続きを促す。

「ええと。あたしはなんていうか、人づてっていうか、また聞きなんだけど。その噂を広げたのって藤堂くんじゃないんじゃないかな」
「……え?」

 思わぬ方向に進んでいく話を前に、私は言葉を失う。

「あ、でも待って。あたしも、その話が本当に叶生の言ってる話と同じか……自信なくて。ちょっと確認させて」
「あ……う、うん」

 ハルキではない。あの噂を流したのが、他の誰かの可能性がある。
 今まで想像さえしなかった可能性を、まさかこのタイミングで、当時の詳細を知らない花梨に切り出されるとは……混乱に鈍る頭を思わず押さえる。

「叶生。大丈夫?」
「う、うん。ちょっと……混乱してて」
「叶生が藤堂くんと仲悪いのって、そういう理由だったんだね。夜にまた連絡するよ、急いで聞いてみるから」
「……うん」

 聞いてみる、と花梨は言った。花梨の知り合いに、当時を知る人がいるということか。
 その先を考えようとして、私は頭を抱えた。思いもよらない親友の証言――まだ確実とは言いがたいのかもしれないが――に、気持ちが追いつかない。
 七年にも及ぶハルキへの負の感情が、そもそも誤解によるものだったなど、すんなり受け入れられるわけがなかった。

「そろそろ帰ろ。……大丈夫?」

 思慮深げな花梨の声に、ふと我に返った。
 うん、と返事をして立ち上がり、テーブルの角に立てかけておいた傘を手に取る。

 ……ユウと会っているときも、私は同じ場所に、同じように傘を置いていた。
 胸の奥がぎりぎりと軋んだから、東屋を出て以降、私は後ろを振り返らなかった。