熱は日曜の夜には引いた。けれど、喉の痛みや咳が続いていたから、月曜は学校を休んだ。
 その間、雨はずっと降り続いていた。ユウには一度も会えていない。私から児童公園に向かえる体調ではなかったし、ユウはユウで、私の家を訪ねてはこなかった。最悪――という言い方がふさわしいかどうかは別として――、すでに成仏している可能性だってある。そう思い至ったときには背筋が凍る思いがした。

 せめてお爺さん幽霊に会えれば、と思う。ユウと面識があるお爺さん幽霊なら、ユウが今どこでなにをしているのか知っている可能性が高い。知らないにしても、いろいろと動向を訊けるのに。
 だいたい、ユウに会えない期間がこれほど長引いていること自体がきつい。避けられている――その仮定をそれ以上考え続けると気が滅入りそうで、すぐに思考を放棄したくなる。

 火曜。雨は一応上がり、今日は一日中曇り空という天気予報が流れていた。
 体調は万全とは言えなかった。咳はまだ出るし、頭痛もわずかに残っている。部活には出ず、授業が終わったら帰ろう……などとぼんやり考えながら通学路を歩いていると、ちょうど児童公園の出入り口の前に人影が見えた。

 私が通う学校の制服とは異なる紺とグレーのブレザー、閉じられた黒い傘――ハルキだ。
 できれば、今一番顔を合わせたくない人物だった。それも、よりによってこの児童公園の前では。
 天候が天候だからと持ってきた傘の柄を、私は強く握り締めた。横を素通りしてしまおうかと思いつつも、高熱を出して倒れたところを送ってもらったのに礼のひとつも伝えないのは非常識が過ぎる。結局、出入り口の傍で一度足を止め、私はハルキを見やった。

「……この間は送ってくれてありがとう。でも」

 これ以上、私につきまとわないでほしい。そう続けようとしたのに、開きかけた口は間を置かず固まってしまった。
 お礼くらいは目を見て伝えるべきだという考えが、むしろ仇となった。真正面から見据えたハルキの目元が、赤く腫れて見えたのだ。
 どうしたと尋ねるべきか、それを自分が尋ねてもいいのか、ためらった。突然の躊躇に揺れる私をじっと見つめたハルキは、私が口を動かすよりも先に話を切り出した。

「叶生。あのときは悪かった」
「え……こ、こないだのことなら別にもう」
「違う。昔……雨の日、お前が幽霊見えるって言い出して、俺、怒っただろ。謝ろうと思ってた。ずっと」

 いつになくたどたどしい喋り方だ。そういう話し方はハルキらしくない気がして、けれど小学四年生の頃からハルキを避け続けてきた私に「ハルキらしさ」など分かるわけがない気もする。
 入り乱れる思考をごまかすように、私は喉の奥から無理やり声を絞り出した。

「そんなことあったっけ。覚えてないよ」

 先日、熱を出した日には夢にまで見た光景なのに、私は嘘をついた。
 ハルキの話を聞きたいと思う気持ちと、聞きたくない、謝罪を受け入れたくないと思う気持ちで頭が満たされる。
 ひどい矛盾だ。そのせいで、それ以上はなにひとつ言葉にできなくなる。そんな私とは裏腹に、ハルキは黙る私から視線を外さず続けた。

「噂のことも……俺は誰にも言ってない」

 言葉を選ぶ話し方は変わらなかったけれど、口調ははっきりしていた。なにを言われているのか理解が追いついたと同時に、顔が引きつった。
 次の瞬間には弾かれたようにその場を離れ、私は学校の方向へ足を踏み出した。ハルキはわずかに躊躇を見せた後、意を決した様子で私を追いかけてくる。圧倒的な歩幅の差に、私はすぐにハルキに追いつかれてしまう。
 苛々する。なにもかもが癪に障って仕方なかった。

「叶生。頼む、最後まで聞いてくれ」
「っ、だったら誰があんな噂、流したっていうのさ!」

 足を止め、振り返ってハルキを睨みつける。目は逸らさなかった。どんな顔をしているのか見てやりたかった。
 小学四年生、たった十歳やそこらだった私たち。あれから長い月日が経った。その間、ハルキは一度もこの話題に触れなかった。私が彼を避け続けていたという理由も確かにある、けれどどうして今になって話を蒸し返すのか理解できない。
 真っ向から私に睨みつけられ、ハルキはすっかり固まってしまっていた。その口元に視線が奪われる。

 下唇の右端、ユウと同じ場所にあるほくろ。
 苛立ちが増殖する。なんでユウと同じなんだ。あり得ない。意味が分からない。

「……それは……分からない。でも俺じゃない!」

 一度は口を噤んだハルキは、最後に声を荒らげた。
 周囲を歩く人はそう多くなかったが、視線を感じた。好奇心を孕んだ視線を、あるいは露骨に避けようとする気配を、ちらちらと私たちに向けてくる人たちにまで苛々しそうになる。

「雨の日に幽霊が見えるのに、雨の日にだけひとりで帰るなんて絶対おかしいと思ってた。お前、見えてるんだろ。なにか」
「だったらなに?」
「なに……って」

 言いきるような喋り方をしていたのに、私の返事を聞いた途端、ハルキは言い淀んだ。その隙を突き、私はまた真正面から相手へ向き直る。

「どっちにしたってアンタには関係ない」
「関係なくない」
「しつこいよ。なんなの」
「心配してる」

 は、と嘲りが笑みになって零れる。
 とはいえ、真剣な声で食い下がってくるハルキに、内心では気圧されそうになっていた。それを察されないようにと、そればかりに神経を割いて平静を装っていると、ハルキは先刻と変わらない真面目な声で続ける。

「俺だけじゃない。お前のお母さんだって多分そうだし、それに岸田さんも」
「大丈夫だよ。私は」

 わざと途中で遮り、私はあからさまに溜息を落としてみせた。
 場所が場所だ。まだ児童公園の垣根が見える場所で、どんな内容であれ、ハルキと話をしていたくはなかった。この話をユウに聞かれたくない。ハルキと並んで話をしているところを、ユウに見られたくない。

「叶生」

 再び歩き始めた私を追いかけてくる男が、背中越しに私を呼ぶ。
 嫌だ。ユウに誤解されることは、したくない。されたくない。

 ――絶対に。

「私、好きな人いるから、これ以上近寄らないで」

 背後を追いかけてくるハルキを振り返らず、足だけを止め、私は口を開いた。
 毅然と言いきったつもりが、頬の辺りが引きつるように痛み、なぜか瞼に涙まで浮かんできて、ひたすら息苦しかった。
 ユウとハルキの声が似て聞こえたなんて、嘘だ。気のせいだ。口元に覗くほくろ、あの共通点が、私の思考を無駄に掻き乱しているだけ。

 知らず拳を握り締めていた。私が好きな人はユウただひとりだ。それをハルキに知られるわけにはいかなかった。幽霊の存在を、過去に頭から否定しきったハルキは、最悪の場合ユウを糾弾しかねない。
 どの程度の沈黙が続いたのか、私には分からなかった。多分、それほど長い時間ではなかった。

「……分かった」

 背後からハルキの声がした。
 低い声だった。顔を見ていないとなおさらユウの声に似て聞こえるから、私は握り締めた拳を解くことも忘れて振り返る。
 目が合うと同時にハルキは俯いた。私は私で、露骨に視線を逸らした。唇の横の小さなほくろが微かに動くさまを、目を逸らす直前に捉えたせいで、余計に息が詰まった。

 小学四年生のあの件以降、私はハルキの顔をじっと見たことが一度もなかった。今のハルキの顔を直視しても、私の知らない他の誰か、見知らぬ男性――そんな印象しか抱けない。
 当然だ。相手を拒絶し続けたまま、七年もの月日が経過してしまったのだから。

「風邪、早く治せよ」

 互いに視線を合わせようとしないまま、ハルキはその言葉を落とし、私はその言葉を黙って拾った。
 数歩先を歩いていた私を、ハルキは簡単に追い抜き、やがて離れていく。追いつかれたときに縮まった距離は再びどんどん開いていって、取り返しのつかないことをしてしまった気にさせられる。
 昔よりもずっと広くなった制服姿の背中が、なんだか寂しそうに見えた。それが異様に胸につかえ、けれどきっと風邪のせいだと無理やり割りきる。

 緩やかに風がそよぎ、反射的に瞼を下ろす。薄く閉じていただけの瞼に、徐々に力を込めていく。
 強く目を閉じていないと、前に進めそうになかった。目を開けなければ、安心して歩けるわけがないのに。

「……ユウ」

 呟いた声は、風に溶け込むようにあっさり消えた。どれほど呼んだとして、ユウは私の傍には来ない。
 怖くなる。ユウがどこかに行ってしまいそうで。あるいは、すでにどこかに行った後なのではと思ってしまいそうで。
 私の胸の中には、ユウと離れたくないという気持ちしか残っていない。私を置いてどこかに行ってしまわないでと、そればかりで頭が爆発しそうになる。ユウに協力するなどと息巻いていた私は、もうこの世のどこにも存在しない。

 将来の夢のためにと私が購入したブライダル雑誌を眺め、どこか懐かしそうにしていたユウの様子を思い出す。
 あの日、ユウの口の形が判別できるようになった。ユウはあの雑誌を見てなにかを思い出したのだ。例えば、それは恋人の存在なのかも。
 あれ以来、ユウと一度も会えていない。彼にはああいう雑誌を一緒に読むような相手がいて、そのことを思い出したのかもしれない。だから私に会いたいと思えなくなってしまったのかも。

 ……いや、違う。もしそうだとしても、問題は別のところにある。私こそがユウと離れなければならない。現実を、きちんと受け止めなければならない。
 ユウが自分の死を受け入れれば、私の恋はその時点で終わる。それどころか、私に会いたいと彼が思わなくなったならそこで終わりだ。そして今、それは現実のものになりつつある。
 私に選択肢はない。こうなると最初から分かっていたのに、嫌になる。

「……ユウ……」

 声をあげて泣きたい気分になった。
 目を閉じていたいのに、黙ってそうしているとハルキの背中ばかり思い出してしまって、気が滅入りそうになる。ああ、嫌だな、とただそれだけ思った。

 もう嫌だ。
 こんなに苦しい恋の終わりは、二度と味わいたくない。