「……あ……」
アンタには関係ない、と伝えるつもりで開いた口は、半端に息を零しただけで動かなくなる。
雨の日にハルキと遭遇したことは前にもあった。それも一度ではない。周囲の視線に気をつけなければとあれほど強く思っていたのに……思わず、私は額に指を這わせる。
傘でわざと視線を遮っているから、額から指を外したところで、私はハルキを直視できずじまいだ。目を合わせないうちにまた走って逃げ去ろうかと一瞬思い、けれどその決断になかなか踏みきれない。
今度も逃げきれるとは限らない。それは、さっきのハルキの声からも想像できた。糾弾じみた問いかけを思い出したら最後、まるで地面に縫いつけられたかのように、私の足はすっかり竦んで動かなくなる。
ぱしゃ、と水分を含んだ足音がした。それは徐々に傍に近づいてきて、それでも私の足は動かない。そうしているうち、傘を持っていないほうの腕を掴まれた。
ハルキの手だと気づき、背筋が粟立つ。
「ちょっと、なに……っ」
「誰と話してたんだって訊いてる。答えろ」
「っ、アンタに関係ないでしょ!」
声を張り上げ、私は掴まれた腕を思いきり振り払おうとした。
しかしハルキは動じない。腕も掴まれたままだ。藻掻いているうちに傘が傾き、ハルキの顔が真正面に覗く。堪らず、私は息を詰めた。
接近も直視もなにもかもを避け続けてきた幼馴染の、責めるような視線が、鋭く私を射抜いている。怖いと思うより先に頭が冷え、私は静かに口を開いた。
「離して。アンタには本当に関係ない」
ここ最近で発した中で最も低い声だと、我ながら思う。
勢いに任せた拒絶をしなくなった私に、ハルキがわずかにたじろいだ素振りを見せる。
「岸田さんが心配してた。お前が、雨の日だけひとりで帰ってるって」
――岸田さん。
過剰に反応してしまった自覚はあった。そう、この男と花梨は同じ塾に通っている。露骨に肩を震わせた私に、ハルキが気づかなかったわけはきっとなかった。
花梨の誘いは、確かに何度か断っている。放課後の誘い、日曜の誘い、どの日も雨が降っていた。雨だからと理由を伝えて断ったことはなかったが、もしかしたら、花梨はそこに雨という共通項を見出していたのか。
訝しそうにはしていなかった。とはいえ、単に私が察し損ねただけなのかもしれない。
……余計なことを。花梨が悪いわけではないのに、それどころかハルキが言ったように心配をかけているのかもしれないのに、そう思ってしまう自分が堪らなく嫌だった。
それでも止まらない。よりによって、どうしてハルキにそんな話を――苛々してしまいそうで、苛立ちの矛先を逸らすためだけに深く息を吸う。それをゆっくりと吐き出し終えてから、私はハルキを見上げた。
「分かった。花梨には私から話す」
「叶生」
「帰る」
「叶生!」
今度こそ腕を振り払い、呼び声を遮った。
それきり、雨に濡れることも忘れて走り出す。前にも、こうして傘を持ったまま雨の中を走って帰った。そう、あのときもハルキを遮るためにそうした。
転びそうになり、なんとか堪え……いつも以上に息が切れる。ハルキが後ろからついてきていないか、自宅前に到着してからようやく振り返った。
いない。良かった。震えながらも安堵を噛み締め、傘を閉じて玄関を開ける。
ドアはバタンと派手な音を立てて閉まり、少し乱暴な仕種になってしまったなと薄く反省する。
良かった、と確かに思ったのに、私は靴を脱ぐことも忘れて深い溜息を落とした。
*
翌日、金曜。
どんよりとした曇り空ながらも、朝の時点で雨は降っていなかった。傘だけは忘れずに家を出て、通学路を進んでいく。
児童公園の前は足早に通過した。雨が降っていない以上、ユウには会えない。お爺さん幽霊のことも見つけられないだろう。それなら、余計な素振りは見せないほうがいい。
誰が見ているか分からない。その感覚は、前日ハルキに声をかけられたせいで、私の中で怖くなってくるほど肥大していた。
午前の授業が終わった頃、ぽつぽつと雨が降り出した。微かな期待が胸を過ぎり、同時に足が竦むような緊張も覚え……けれど、雨は五時限目の授業中にやんでしまった。
今日、花梨は学校を休んだ。風邪をひいて熱を出したという。いわれてみれば、昨日一緒に帰宅したとき、頻繁に鼻をすすっていた。火曜に顔を出した書道部の部活中にも、こまめに鼻をかんでいた。
今日はメッセージひとつ届いていないから、寝込んでいるのかもしれない。そんな想像をしてしまったら、自分から送るのもためらわれた。
……ハルキのこと、花梨には週明けに訊いてみよう。もしそれまでにメッセージのやり取りができたら、そのときに尋ねてみてもいい。そっと決意を固め、私はクラスメイトたちに手を振って教室を出た。
廊下を抜け、昇降口を出て、大通りへ歩みを進めていく。駅に通じている大きな道は、車通りが多い分、広々とした歩道がしっかり整備されている。
閉じた傘を片手に、私は足早に帰路を目指す。
雨は降らない。朝と同様、児童公園の前はさっさと通り抜けたほうがいい。そんなことを考えて心持ち歩幅を広げた、そのときだった。
「……おい」
背後から声がかかり、私は思わず足を止めた。
低い声だ。それも、今一番聞きたくない声。無視しようか一瞬悩んだが、それではまた腕を掴まれかねないと思い直す……そう、昨日みたいに。
うんざりしつつ、私は背後を振り返る。
「いい加減にしてよ。昨日からなんなの」
相手の正体には気づいていたから、最初からぞんざいな声を叩きつけてやる。
言いながら、私の背後に佇んでいた男と――ハルキと目が合った。ハルキは昨日と同じく不機嫌そうで、その顔を眺めている私まで機嫌を逆撫でされる。
帰宅のときに鉢合わせたことは、高校に進学してからほとんどなかった。二日連続での偶然という線は限りなく薄い。まさかここ数日、私の帰りに合わせて待ち伏せでもしているのか。一体、なんのために。
ハルキが通う高校は、駅の裏側に広がる新興住宅地の先にある。場所はだいたい知っているし、ハルキが歩いて通学していることも知っている。ただ、ハルキがこの時間に帰宅しているところは初めて見た。
避けようと私から意識したことは特別なかった。鉢合わせる機会がなかったから、それで十分だと思っていた。進学校の生徒とでは一日のスケジュールだって違うかも、と高を括っていた面もある……だが。
私の質問に返事はなく、そのままハルキは隣に並んだ。早く歩けと言いたげに見下ろされ、その仕種が癪に障る。口を利かず、私はハルキを無視して再び歩き始めた。
大通りから小道に入り、住宅街の通りを抜け、児童公園の前を通過する。今日は、公園内や東屋に見向きもしなかった。元々そうする気だったのに、胸がざわざわと騒いで息苦しかった。
どうして私の帰宅時間が分かったのか。今まで私を避けていたのか。それなら、今日そうしなかった理由はなんなのか。
頭を巡る問いかけのどれを尋ねればいいかも分からず、しまいには尋ねるために口を開くことも煩わしくなる。ついてこないで、と言いかけた言葉も、結局は喉の奥で呑み込んだ。
私たちの帰宅ルートは、途中からほぼ同じだ。
足早に歩いているつもりが、ハルキの歩幅は明らかに私のそれに合わせてゆっくりしていて、なおさら癪に障る。苛立ちを持て余しながら足を進めていると、あっという間に自宅前へ到着してしまった。
私の足が、止まることなく玄関を目指していると察したらしい。その動きを止めようとしてか、ハルキが背後から問いかけてきた。
「おい。岸田さんとは話したのか」
「今日は休みだった」
「……そうか」
用件のみの会話が、曇り空のせいで普段より暗く見える景色にすっと溶けて消える。後はなにも語らず、私は玄関のドアを開けた。
別れの挨拶などする気にもなれない。そんな自分こそ、とことん性格の悪い人間に思えてくる。ハルキが勝手に私につきまとっているだけなのに、馬鹿みたいだ。
ハルキの目的が分からない。今日は雨が降っていないのに、私につきまとう理由はなんだ。雨が降りそうだったからか、それとも。
ただいま、と形式的な言葉を母に向け、私はまっすぐ自室へ向かう。
どうしてハルキに余計なことを言ったのか、その件で花梨にメッセージを入れるかどうか、迷った。でも、病人を相手に責めるような文言を送ってしまいそうで気が進まない。ハルキに遭遇した直後だから、なおさら感情的になりそうで怖かった。
結局、「早く良くなるといいね」とだけ打ち込んで送信し、私はスマートフォンから視線を外した。
アンタには関係ない、と伝えるつもりで開いた口は、半端に息を零しただけで動かなくなる。
雨の日にハルキと遭遇したことは前にもあった。それも一度ではない。周囲の視線に気をつけなければとあれほど強く思っていたのに……思わず、私は額に指を這わせる。
傘でわざと視線を遮っているから、額から指を外したところで、私はハルキを直視できずじまいだ。目を合わせないうちにまた走って逃げ去ろうかと一瞬思い、けれどその決断になかなか踏みきれない。
今度も逃げきれるとは限らない。それは、さっきのハルキの声からも想像できた。糾弾じみた問いかけを思い出したら最後、まるで地面に縫いつけられたかのように、私の足はすっかり竦んで動かなくなる。
ぱしゃ、と水分を含んだ足音がした。それは徐々に傍に近づいてきて、それでも私の足は動かない。そうしているうち、傘を持っていないほうの腕を掴まれた。
ハルキの手だと気づき、背筋が粟立つ。
「ちょっと、なに……っ」
「誰と話してたんだって訊いてる。答えろ」
「っ、アンタに関係ないでしょ!」
声を張り上げ、私は掴まれた腕を思いきり振り払おうとした。
しかしハルキは動じない。腕も掴まれたままだ。藻掻いているうちに傘が傾き、ハルキの顔が真正面に覗く。堪らず、私は息を詰めた。
接近も直視もなにもかもを避け続けてきた幼馴染の、責めるような視線が、鋭く私を射抜いている。怖いと思うより先に頭が冷え、私は静かに口を開いた。
「離して。アンタには本当に関係ない」
ここ最近で発した中で最も低い声だと、我ながら思う。
勢いに任せた拒絶をしなくなった私に、ハルキがわずかにたじろいだ素振りを見せる。
「岸田さんが心配してた。お前が、雨の日だけひとりで帰ってるって」
――岸田さん。
過剰に反応してしまった自覚はあった。そう、この男と花梨は同じ塾に通っている。露骨に肩を震わせた私に、ハルキが気づかなかったわけはきっとなかった。
花梨の誘いは、確かに何度か断っている。放課後の誘い、日曜の誘い、どの日も雨が降っていた。雨だからと理由を伝えて断ったことはなかったが、もしかしたら、花梨はそこに雨という共通項を見出していたのか。
訝しそうにはしていなかった。とはいえ、単に私が察し損ねただけなのかもしれない。
……余計なことを。花梨が悪いわけではないのに、それどころかハルキが言ったように心配をかけているのかもしれないのに、そう思ってしまう自分が堪らなく嫌だった。
それでも止まらない。よりによって、どうしてハルキにそんな話を――苛々してしまいそうで、苛立ちの矛先を逸らすためだけに深く息を吸う。それをゆっくりと吐き出し終えてから、私はハルキを見上げた。
「分かった。花梨には私から話す」
「叶生」
「帰る」
「叶生!」
今度こそ腕を振り払い、呼び声を遮った。
それきり、雨に濡れることも忘れて走り出す。前にも、こうして傘を持ったまま雨の中を走って帰った。そう、あのときもハルキを遮るためにそうした。
転びそうになり、なんとか堪え……いつも以上に息が切れる。ハルキが後ろからついてきていないか、自宅前に到着してからようやく振り返った。
いない。良かった。震えながらも安堵を噛み締め、傘を閉じて玄関を開ける。
ドアはバタンと派手な音を立てて閉まり、少し乱暴な仕種になってしまったなと薄く反省する。
良かった、と確かに思ったのに、私は靴を脱ぐことも忘れて深い溜息を落とした。
*
翌日、金曜。
どんよりとした曇り空ながらも、朝の時点で雨は降っていなかった。傘だけは忘れずに家を出て、通学路を進んでいく。
児童公園の前は足早に通過した。雨が降っていない以上、ユウには会えない。お爺さん幽霊のことも見つけられないだろう。それなら、余計な素振りは見せないほうがいい。
誰が見ているか分からない。その感覚は、前日ハルキに声をかけられたせいで、私の中で怖くなってくるほど肥大していた。
午前の授業が終わった頃、ぽつぽつと雨が降り出した。微かな期待が胸を過ぎり、同時に足が竦むような緊張も覚え……けれど、雨は五時限目の授業中にやんでしまった。
今日、花梨は学校を休んだ。風邪をひいて熱を出したという。いわれてみれば、昨日一緒に帰宅したとき、頻繁に鼻をすすっていた。火曜に顔を出した書道部の部活中にも、こまめに鼻をかんでいた。
今日はメッセージひとつ届いていないから、寝込んでいるのかもしれない。そんな想像をしてしまったら、自分から送るのもためらわれた。
……ハルキのこと、花梨には週明けに訊いてみよう。もしそれまでにメッセージのやり取りができたら、そのときに尋ねてみてもいい。そっと決意を固め、私はクラスメイトたちに手を振って教室を出た。
廊下を抜け、昇降口を出て、大通りへ歩みを進めていく。駅に通じている大きな道は、車通りが多い分、広々とした歩道がしっかり整備されている。
閉じた傘を片手に、私は足早に帰路を目指す。
雨は降らない。朝と同様、児童公園の前はさっさと通り抜けたほうがいい。そんなことを考えて心持ち歩幅を広げた、そのときだった。
「……おい」
背後から声がかかり、私は思わず足を止めた。
低い声だ。それも、今一番聞きたくない声。無視しようか一瞬悩んだが、それではまた腕を掴まれかねないと思い直す……そう、昨日みたいに。
うんざりしつつ、私は背後を振り返る。
「いい加減にしてよ。昨日からなんなの」
相手の正体には気づいていたから、最初からぞんざいな声を叩きつけてやる。
言いながら、私の背後に佇んでいた男と――ハルキと目が合った。ハルキは昨日と同じく不機嫌そうで、その顔を眺めている私まで機嫌を逆撫でされる。
帰宅のときに鉢合わせたことは、高校に進学してからほとんどなかった。二日連続での偶然という線は限りなく薄い。まさかここ数日、私の帰りに合わせて待ち伏せでもしているのか。一体、なんのために。
ハルキが通う高校は、駅の裏側に広がる新興住宅地の先にある。場所はだいたい知っているし、ハルキが歩いて通学していることも知っている。ただ、ハルキがこの時間に帰宅しているところは初めて見た。
避けようと私から意識したことは特別なかった。鉢合わせる機会がなかったから、それで十分だと思っていた。進学校の生徒とでは一日のスケジュールだって違うかも、と高を括っていた面もある……だが。
私の質問に返事はなく、そのままハルキは隣に並んだ。早く歩けと言いたげに見下ろされ、その仕種が癪に障る。口を利かず、私はハルキを無視して再び歩き始めた。
大通りから小道に入り、住宅街の通りを抜け、児童公園の前を通過する。今日は、公園内や東屋に見向きもしなかった。元々そうする気だったのに、胸がざわざわと騒いで息苦しかった。
どうして私の帰宅時間が分かったのか。今まで私を避けていたのか。それなら、今日そうしなかった理由はなんなのか。
頭を巡る問いかけのどれを尋ねればいいかも分からず、しまいには尋ねるために口を開くことも煩わしくなる。ついてこないで、と言いかけた言葉も、結局は喉の奥で呑み込んだ。
私たちの帰宅ルートは、途中からほぼ同じだ。
足早に歩いているつもりが、ハルキの歩幅は明らかに私のそれに合わせてゆっくりしていて、なおさら癪に障る。苛立ちを持て余しながら足を進めていると、あっという間に自宅前へ到着してしまった。
私の足が、止まることなく玄関を目指していると察したらしい。その動きを止めようとしてか、ハルキが背後から問いかけてきた。
「おい。岸田さんとは話したのか」
「今日は休みだった」
「……そうか」
用件のみの会話が、曇り空のせいで普段より暗く見える景色にすっと溶けて消える。後はなにも語らず、私は玄関のドアを開けた。
別れの挨拶などする気にもなれない。そんな自分こそ、とことん性格の悪い人間に思えてくる。ハルキが勝手に私につきまとっているだけなのに、馬鹿みたいだ。
ハルキの目的が分からない。今日は雨が降っていないのに、私につきまとう理由はなんだ。雨が降りそうだったからか、それとも。
ただいま、と形式的な言葉を母に向け、私はまっすぐ自室へ向かう。
どうしてハルキに余計なことを言ったのか、その件で花梨にメッセージを入れるかどうか、迷った。でも、病人を相手に責めるような文言を送ってしまいそうで気が進まない。ハルキに遭遇した直後だから、なおさら感情的になりそうで怖かった。
結局、「早く良くなるといいね」とだけ打ち込んで送信し、私はスマートフォンから視線を外した。